主の国韓国とエバ国日本の罪
(一)サタン国家日本、罪の呪縛からの解放
私たちは統一教会に入ると、まず第一に教えられたのは日本はもともとサタン側のエバ国家だったが、恩讐をも愛する真のお父様の愛によって許され、神側のエバ国となることができたということです。
そして本来ならば神側のエバ国として、再臨摂理の大前線に立つことなどということは許されるはずもない罪深い日本人が、こうして真のお父様の愛によって許され、主の民韓民族と共に摂理を担うことが許されたわけですから、日本民族としての罪を悔い改め、誰よりも苦難の道を歩み、僕の僕となって摂理に貢献しなければいけない。神の摂理を担う万物と人材を天の前に責任をもって捧げなければいけないと教育されてきました。
全ては堕落の張本人、エバの蕩減であり、主の国韓国と、真のお父様を直接に迫害した罪深い民族としての、民族的蕩減条件を立てなければいけないということを、ことあるごとに徹底的に教育されてきました。
そしてその教育を受けた日本人食口たちは、その教育に疑問を抱くこともなく、ただ素直に、純粋にそのみ言を信じてきました。そして一生懸命に伝道し、自分の家や畑を売り払い、子供たちの教育資金をも摂理の名目で天に捧げてきました。
時にはヤコブの知恵を使えと教育され、霊感商法や訪問販売等で多くの人々を騙したとしても、全ては天のみ旨のためだと自己正当化してきました。たとえ騙されたとしても結果的に天のみ旨に貢献出来たらば、それが条件となって本人または子孫が必ず救われると信じて、非合法的な活動にまで手を染めてきた人もいます。
さらには親をも騙し、お金を借りれるだけ借りては教会に献金してきました。カード時代になってからは可能な限りカードキャッシングを行って献金し、挙句の果ては自己破産にまで追い込まれ、最終的に生活保護を受けざるを得ない貧困にあえぐ食口たちを生み出してきました。
実際統一教会食口の生活保護受給率は、一般人の生活保護世帯の受給率よりもはるかに高いと言われています。
そんな統一教会の実情は国の知るところとなり、今では統一教会員と知れると、生活保護さえも受けることはできないと言われています。
統一原理を知り、真の御父母様と出会い、統一教会員として祝福を受けることにより、誰よりも幸せな人生を送ることができると信じみ旨の道を歩んできたら、誰よりも惨めで、貧しい生活が待っていたのです。
しかしこんな惨めな人生、生きているときだけならばまだいいのですが、もし今まで教わった内容が間違いで、天に積んだはずの功労も実際は積まれていなかったとしたらどうなるのでしょうか?
さらには自らの人生を犠牲にしてまで捧げてきた献金が、天に積まれるどころか、サタンの活動資金になっていたとしたら、それは功労ではなく、逆に罪になってしまうのではないでしょうか?
ここではまず、私たちが統一教会に入ることによってまっさきに教えられてきた、日本はサタン側のエバ国であり、主の国韓国を40年間迫害してきた罪深い国という内容は本当なのかを、日本による朝鮮統治時代の真実を解明することにより、明らかにしていきたいと思います。
そして真のお父様を最初に迫害し、拷問を加えた罪深い日本人という内容も精査し、そこから浮かび上がる真実を明らかにしていきたいと思います。
①メシヤに対する思い込み
ここで私たちがついつい陥りやすい思い込みについて述べたいと思います。
例えば2000年間キリスト教徒たちが陥っていた思い込みの一つが、神は全知全能であり、完全無欠な存在だということがあります。それゆえ神の子としての人間が天使長によって堕落してしまったとしても、神は悲しみなどせず、天国で神として悠然としていると信じられてきました。
また神が全知全能なるがゆえに、神の子であるイエスも全知全能であり、使命に失敗することなどありえないと思い込まれてきましたから、イエスの十字架も最初から神の計画として予定されていたと信じられてきました。それゆえイエスは十字架につくために降臨されたと信じられてきたのであり、十字架につくことによって人類の罪を清算されたと信じられてきました。
これらは神の絶対性と完全無欠性に対する信仰であると同時に、神が悲しまれるとか、イエスは使命に失敗したなどと解釈することは、神とイエスに対する不敬とみなされますので、このように信じるしかありませんでした。
この2000年間のキリスト教徒の思い込みを、真のお父様は原理によって見事打ち砕かれ、人類始祖アダムとエバを失った神は悲しみの神であり、イエスの十字架は摂理に失敗した結果であることを解き明かされたのです。
同じような思い込みは我々統一教会員の中にも数多く見受けられます。
例えばメシヤについて、我々はどのように考えやすいかというと、
1、神が完全無欠の絶対神であるごとく、メシヤも完全無欠の絶対的存在である。
2、メシヤの御言も全て絶対的価値を持つ ⇒ メシヤの御言は無条件全て正しい。
3、メシヤは全ての面においてNO1 ⇒ 宗教、政治、経済、運動、芸術全ての分野でNO1である。
しかしメシヤとは、宗教的指導者としてはNO1であり、人類を原罪から解放できる唯一無二の存在であることは間違いありませんが、政治家として、科学者として、経営者として、芸術家としては、決してNO1などということはありません。NO1である必要もありません。
そこで私たちが意識しなければいけないことは、メシヤである真のお父様の御言にも二面性があるということです。
つまり、
1、神の代身者、メシヤとしての真理の御言 ⇒ 永遠不変の真理としての絶対的御言
2、人間文鮮明としてのお言葉 ⇒ 天才文鮮明氏の知識からくるみ言
というように、絶対的真理の御言と、人間文鮮明としての、一個人の知識から出るみ言の2種類があるということです。
例えば原理講論、統一思想、原理本体論や、8大教材教本等は永遠不変の真理としての御言が基本ですが、集会等で語られたみ言は、絶対的真理ばかりではないということです。つまり真のお父様のただの知識から出たみ言ということもありますので、間違う場合もありうるということです。
例えば真のお父様が、カラスは白いと言われた場合、メシヤが言われたみ言だからそこには我々には理解できない、何か深い意味があるのだろうと信仰的に捉えがちですが、実際はただの言い間違いだったりすることもあるということです。
特にお父様は、経済家でも、経営者でもありませんので、真のお父様の指示に従った結果、経営がうまくいかなかった企業体は数多くあります。もっともこれはお父様の失態というよりは、各企業体を任された韓国人指導者たちが、自分たちの私利私欲に走り、まともな企業経営などしなかった結果である場合がほとんどです。しかしそんな指導者たちを任命したのもお父様になりますので、お父様のみ言も絶対正しかったとは言えません。
今回扱う日本はサタン側のエバ国だったということにしても、今改めて検証してみると、真のお父様の語られたみ言の中にも間違った内容が多々見受けられます。
劉孝元会長の書かれた原理講論の内容もそうですが、真のお父様のみ言も、上海臨時政府の発表による日帝の悪逆非道さを訴えた報道に大きく影響されていると感じざるを得ません。今とは違い当時はインターネットなどありませんから、多方面の情報を集め、総合的に情報を分析することなどできなかったはずです。
上海臨時政府によって、韓国国内での日本帝国の朝鮮支配の悲惨な様子が伝えられれば、当然その情報を真実と受け取るのは致し方ありません。特に真のお父様も、文潤國ハラボジも、上海臨時政府との繋がりは強かったので、そこから発せられる情報は、基本的に正しいと思っていたはずです。
上海臨時政府第2代大統領朴殷植が1920年に著した『韓国独立運動之血史』を真実と取ってしまうでしょう。関東大震災時に上海臨時政府が機関紙「独立新聞」に「6000人の朝鮮人が虐殺された」とした根拠のない情報を載せたときも、真実と思ってとらえていたはずです。そういった偏った情報であったとしても、その偏った情報しか与えられていない状態でみ言を語れば、当然そのみ言も事実と違ったものになってしまうのは致し方ありません。
今回、日本による朝鮮統治時代を検証していったとき、残念ながらみ言の間違いともいうべき内容を、数多く発見することができました。
しかし最終的結論を言えば、それらすべての間違いをあえて犯してまでも、伝えたかった真実にまでたどり着くことができました。その真実というのは、単なる思い込みにすぎませんし、一つの可能性でしかありませんが、まさしく真のお父様の、真の愛がそこには込められていたと結論付けられるものでした。
ここではその結論に至るまで複雑なパズルを解くように、一つ一つの疑問を解明していきたいと思います。
参考 聖書を見る観点
原理講論 再臨論
(一)聖書を見る観点
聖書を解釈するに当たっては、その観点をどこにおくかということが、最も重要な問題であるといわなければならない。
我々は、イエス以後2000年間も、洗礼ヨハネがその責任を完遂したという先入観をもって聖書を読んできたので、聖書もそのように見えたのであった。ところが、それと反対の立場から聖書を再び詳しく調べてみることによって、洗礼ヨハネは、その責任を完遂できなかったという事実が明らかにされたのである。
我々は、聖書の文字が物語っている、その真の意味を把握するために、従来とは異なる角度で、もう一度、聖書を詳しく調べてみる必要があるのである。
②歴史を見る観点
基本的に歴史というものは、勝った者によって、自分の都合の良いように後世に書き残されてしまうものです。
太閤記を見れば、百姓出身の秀吉が、信長に仕え立身出世し、最後には太閤にまで上り詰める、日本人が誇る最高の成功物語となっています。
しかし見方を変えれば秀吉は、日本史上まれにみる大量殺人鬼であり、さらには遠く朝鮮にまで出兵し、何の罪もない朝鮮人たちを一方的に攻め、殺し、今日に至るまで消し去ることのできない、日韓関係の最大の禍根を残した最悪の人間と見ることもできます。
今回ここで日韓関係史を研究していったとき、できるだけ中立的立場で、史実に忠実に検証を行いたいと思いました。
しかしそうするとどうしても何故か中間というよりは、左寄りなものの見方をしてしまうことに気がつきました。
なぜそうなるのかと思い分析してみると、そもそも戦後日本人が受けてきた教育が、自虐史観に基づいた左寄りな教育であったため、中間位置は実際の中間よりも左側に行ってしまうのに気が付きました。
つまり日本の自虐史観では、戦前の日本のものはすべて悪であり、戦後アメリカによってもたらされた民主主義や文化が、すべて正しいということが戦後日本の出発点にあったからです。
戦前の日本人は天皇陛下を中心に、皇国臣民として教育勅語を守り、お国のために生きるように教育されてきました。
しかしこのような単語を並べただけでも、薄汚れた黒塗りの街宣車で、大音量で軍歌を流しながら、自分たちの主張を一方的に喚き散らす右翼のイメージが頭に浮かぶことと思います。
韓国人や中国人に言わせると、安倍晋三首相や、橋下徹元大阪知事らは、バリバリの右翼政治家というレッテルが貼られています。彼らは本当に右翼政治家の範疇に入るのでしょうか?
冷静に左翼、右翼、右翼政治家と呼ばれる人たちの主張を見ると、左翼、右翼に分類される人たちの主張は、最初に結論ありきでその自分が導き出した結論に沿った理屈を後からくっつけてきます。
自分にとって都合のいい結論を肯定するために、都合の良い理屈を捜してくるのですが、それは真実であろうと偽りであろうと関係ありません。自己正当化できればそれでいいのです。
日本による朝鮮統治時代に関しても、慰安婦問題、徴用工問題にしても、すべて問題の根本は一緒です。
日本統治時代、日本人に対して良い印象を持っている人たちの意見は黙殺し、日本人に対して恨みを持ち、憤りを感じている人たちの意見だけを大々的に宣伝します。それは時にはお金を払ってでもそのような証言をしてもらうこともあるのです。こうやって反日的な思想は形成され、そんな反日の教育を受けた人たちが、真実は何も知らずにさらに過激な運動に走っていきます。
一方日本でよく見る右翼活動家たちにも同じような傾向がみられます。
しかし安倍首相、橋下元大阪知事らの主張は違います。
実際のデータを示し、史実に忠実に証明しようと心がけているのです。
それは日本のネトウヨと呼ばれる人たちにも共通しています。反日プロパガンダに反対し、ネット上で自説を主張する人たちの主張を見ると、中立的な立場で、史実に忠実に自説を論証しようと努めているのです。
嘘も百回言えば本当になるというように、反日的な主張はねつ造された根拠によるものであったとしても、いつの間にかそれが定説となり、多くの人たちに真実として信じられるようになってしまいました。
一旦定説になってしまうとそれを覆すのは簡単ではありません。
一つ一つ間違いを訂正し、真実を突きつけるしかありません。
そんな作業を行っているのがネトウヨと呼ばれる、ネット上の右翼的思考の持ち主たちなのです。
彼らは本当に右翼と呼ばれるべき人たちなのでしょうか?
よく街頭で見る右翼活動家の人たちとは全く違います。
機会があれば彼らは、右翼活動家に対しても批判を行うかもしれません。以前何かのテレビ番組で、橋下元知事が実際右翼活動家と、つかみかからんばかりのバトルを展開していたことがありました。
それと同じように、ネトウヨの人たちも右翼活動家に対しても、左翼的立場の人たちに対するのと同じような態度を示すのではないでしょうか?
彼らは右翼でも左翼でもない、史実に忠実な、本当の中立的立場をとる人たちが多いように思えます。しかしそんな人たちをも今はネトウヨと呼んで、右翼のレッテルを貼っています。
今回日本による朝鮮統治時代やその後の日韓の摂理を研究するに際し、ネトウヨの人たちを最初は右翼ととらえ、あまり参考にすべきではないと思っていました。
しかし彼らの記事をよく読むと、実に中立的で、史実に忠実に書かれ、参考となる記事が多かったため、彼らネトウヨの人たちの意見も、大いに参考にさせていただきました。
歴史を見るときは、右とか左とかいう前に、何が真実で、何が偽りなのかを見極めることが重要であり、その真実にたどり着くためには、まずは自分の思い、自分の立場を捨て去ることが重要なのではないでしょうか?
全てを捨て去ることができたとき、まったく新しい何かを発見することができるのかもしれません。
(1)原理講論、再臨論から
私たちは原理講論は永遠不滅の真理であると教わり、神山先生などはまるまる暗記したとも聞きました。
劉孝元先生が3年6ヵ月もの間、毎日16時間の原理講義を行うという精誠を捧げることによって書き上げた原理講論は、完全無欠の真理と思っていました。
しかし1966年に発刊された原理講論は、50年以上経った今、一部の内容は古くなり、今の時代には合わない部分も多くなってきました。
再臨論にあるサタン側の国家日本に関する記述も、下に示すように、明らかに事実とは違う記述が多く見られます。
それは真のお父様自身が抗日運動の闘志であり、上海臨時政府金九先生と連絡を取り合っていたという事実から見て、思想的に朴殷植著『朝鮮独立運動の血史』や上海臨時政府の機関紙「独立新聞」の影響を受けていたためだと思われます。
また劉孝元先生ももともとクリスチャンであったという事実から、やはり抗日運動家であった可能性も高く、真のお父様と情報を共有し、原理講論を書き上げたとみるべきでしょう。
今のようにインターネットが発達し、正確な情報を得ることの可能な時代と違って、自分の身近な情報にしか接することのできない環境にありましたので致し方ないことでもあります。
しかしいつまでも間違った情報をもって、事の真偽を判断することはできません。
たとえ原理講論にあったとしても、間違った内容はただの間違いでしかありません。私たちは正しい知識を学ばなければいけないのです。
特に原理を一般の人たちに述べ伝え、真理の伝道者となるのであったら、明らかに間違っている内容を伝えるなどということはできません。それはただの厚顔無恥で非常識な人間となってしまうからです。間違いを認める勇気を持たなければいけないのです。
原理講論を勉強しないなどという食口は食口ではありません。
原理講論をそのまま丸暗記するのもいいでしょう。
しかし大人の信仰者としては、原理講論の内容を自らが体恤し、自由自在に語り、生活の中で実践できる者とならなければいけません。
そのような段階になったら、原理を学び感じた疑問には、自らが明確な回答を持たなければいけません。
今回ここで取り上げるサタン側国家日本に対する考察は、そんな大人の信仰者になるための一つのきっかけを与えてくれるかもしれません。
原理講論 再臨論
(三)東方のその国は、すなわち韓国である
韓国民族も、「40日サタン分立基台」を立てるためには、サタン側のある国家で、40数に該当する年数の苦役を受けなければならないのであり、これが日本帝国に属国とされ、迫害を受けた40年期間であった。
1905年に、日本の伊藤博文と当時の韓国学部大臣であった親日派李完用らによって、韓国の外交権一切を日本帝国の外務省に一任する条約が成立した。そうして、日本は韓国にその統監(のちの総督)をおき、必要な地域ごとに理事官をおいて、一切の内政に干渉することによって、日本は事実上韓国から政治、外交、経済などすべての主要部門の権利を剥奪したのであるが、これがすなわち乙巳保護条約であった。
西暦1910年、日本が強制的に韓国を合併した後には、韓国民族の自由を完全に剥奪し、数多くの愛国者を投獄、虐殺し、甚だしくは、皇宮に侵入して王妃を虐殺するなど、残虐無道な行為をほしいままにし、1919年3月1日韓国独立運動のときには、全国至る所で多数の良民を殺戮した。
さらに、1923年に発生した日本の関東大震災のときには、根も葉もない謀略をもって東京に居住していた無辜の韓国人たちを数知れず虐殺したのであった。
一方、数多くの韓国人たちは日本の圧政に耐えることができず、肥沃な故国の山河を日本人に明け渡し、自由を求めて荒漠たる満州の広野に移民し、臥薪嘗胆の試練を経て、祖国の解放に尽力したのであった。日本軍は、このような韓国民族の多くの村落を探索しては、老人から幼児に至るまで全住民を一つの建物の中に監禁して放火し、皆殺しにした。日本はこのような圧政を帝国が滅亡する日まで続けたのであった。このように、三・一独立運動で、あるいは満州広野で倒れた民衆は主としてキリスト教信徒たちであったのであり、さらに帝国末期にはキリスト教信徒に神社参拝を強要し、これに応じない数多くの信徒を投獄、または虐殺した。それだけではなく、8・15解放直前の日本帝国主義の韓国キリスト教弾圧政策は、実に極悪非道なものであった。しかし、日本の天皇が第二次大戦において敗戦を宣言することによって韓国民族は、ついにその軛から解放されたのである。
このように韓国民族は、1905年の乙巳保護条約以後1945年解放されるときまで40年間、第一、第二イスラエル選民が、エジプトやローマ帝国で受けたそれに劣らない迫害を受けたのである。そして、この独立運動が主に国内外のキリスト教信徒たちを中心として起こったので、迫害を受けたのが主としてキリスト教信徒たちであったことはいうまでもない。
原理講論
「西暦1910年、日本が強制的に韓国を合併した後には、韓国民族の自由を完全に剥奪し、数多くの愛国者を投獄、虐殺し、甚だしくは、皇宮に侵入して王妃を虐殺するなど、残虐無道な行為をほしいままにし」
⇒1895年10月8日に起こった「閔妃暗殺事件(乙未事変(いつびじへん))」のことを指すと思われる。
閔妃暗殺事件は、日本陸軍軍人三浦梧楼らの計画に基づいて、王宮に乱入した日本軍守備隊らによって王妃閔妃が暗殺された事件。
しかしこの事件は、王妃閔妃の政敵であった高宗の父興宣大院君(こうせんだいいんくん)が三浦公使と共謀して起こしたクーデターとの説も多く、複数の学説が存在している。
この事件は、日本による朝鮮統治期間以前の事件であり、日本人単独による蛮行でもなく、当時の李氏朝鮮内の政治闘争の一環でもあるのに、原理講論には全ては日本による残虐無道な行為のごとくに書いてある。
原理講論
「さらに、1923年に発生した日本の関東大震災のときには、根も葉もない謀略をもって東京に居住していた無辜の韓国人たちを数知れず虐殺したのであった。」
⇒関東大震災時に、数千人の朝鮮人を虐殺したというのは、今では常識的な内容となっています。
しかしこのことに関しても、史実を時系列に従い忠実に検証してみると、全く違ったものが見えてきました。
つまり関東大震災時、①在日朝鮮人たちによる暴動や火事場泥棒が多発しており、②そのことに注意喚起する新聞記事によって③自警団が結成され、④その結果多数の朝鮮人の虐殺が起こったというのです。⑤そのことに対して政府は、それ以上虐殺が起きないよう報道の規制措置を取ったとのことです。
しかもこの在日朝鮮人たちによる暴動も、その背後には当時の共産党による共産革命のためのテロ行為があった可能性があり、そこには共産党と根元が同じ在日朝鮮統一民主戦線の朝鮮人が関与していた可能性もあるというのです。
しかし左傾化した日本では不都合な真実は隠され、歪曲され、無実の朝鮮人に対する日本人による一方的な虐殺と定着し、原理講論にも同じような主張が真理のごとく記載されているのです。
原理講論
「日本軍は、このような韓国民族の多くの村落を探索しては、老人から幼児に至るまで全住民を一つの建物の中に監禁して放火し、皆殺しにした。日本はこのような圧政を帝国が滅亡する日まで続けたのであった。」
⇒1919年4月15日の堤岩里事件のことを指すと思われる。
3・1運動が全国規模で拡大し、華城地域では暴動の様相を見せ、警察の駐在所が破壊され、日本人警官2人が殺害されたり、面事務所、郵便局、駅、金融組合、日本人小学校、日本人家屋が襲撃、破壊もしくは放火されるなどの被害が出た。
デモの首謀者逮捕の目的で、成人男性22人を堤岩里教会に集め、取り調べの過程で反抗、逃亡があったので全員を射殺。証拠隠滅のために教会および付近の家屋に火を放った。総犠牲者は23人(近隣での殺害を含めると29人)。
この事件が日本統治下での朝鮮人弾圧の最大の悲劇。
原理講論には、同様の事件が統治期間中継続的に、各地で続いたかのごとくに書いてあるが、実際は3・1運動を機に朝鮮総督府による統治体制が、武断的なものから文治的なものへと方針転換される契機となり、日本敗戦に至るまで大規模な運動は起こらなかったといいます。
原理講論
「さらに帝国末期にはキリスト教信徒に神社参拝を強要し、これに応じない数多くの信徒を投獄、または虐殺した。それだけではなく、8・15解放直前の日本帝国主義の韓国キリスト教弾圧政策は、実に極悪非道なものであった。」
⇒日韓併合下ではキリスト教徒が抗日運動を担うようになり、1919年に発生した三・一運動ではキリスト教徒が主要な役割を果たした。
1937年皇国臣民ノ誓詞が発せられ、総督府は公然とキリスト教会への神社参拝を強要した。
このような事実は確認できるが、8・15解放直前の日本帝国主義の韓国キリスト教弾圧政策は確認できない。
原理講論にある日本による迫害の多くは、その根拠があいまいなところが多く、その思想は朴殷植著『朝鮮独立運動の血史』に近いところが多いことを考えると、帝国末期の実に極悪非道な韓国キリスト教弾圧政策も、その信憑性はかなり低いのかもしれない。
≪参考≫
乙巳保護条約(第二次日韓協約)(Wikipedia)
乙未事変(いつびじへん)(Wikipedia)
関東大震災と朝鮮人虐殺事件の問題点
関東大震災における朝鮮人虐殺事件について全体像を把握するために知っておくべき3つのポイント。
1、「被害者の数の問題」
2、「当時何が起きたのかの時系列
3、予備知識としてこの問題における朝鮮総連と日本共産党の問題。
1:客観性の無い情報が事実のように飛び交う
「6000人の朝鮮人が虐殺された」とする情報は、近年日本では殆どこの数字が取り上げられることはない。
この数字は、元々「上海臨時政府(大韓民国臨時政府)」が震災当時に機関紙の「独立新聞」に掲載した数字で、何の裏付けも取られておらず、日本の公式記録では「自警団に殺された朝鮮人の数は231人」となっている。
2:特定の情報が隠されている
当時の新聞記事を時系列を追って見てみると
①朝鮮人による暴動や火事場泥棒が多発していた。
以下は震災当時の初報記事
以下は暴徒の鎮圧と「その後の風説報道」を否定する政府発表を報じる記事
以下は震災「1ヵ月後」に、風説によって発生した朝鮮人襲撃を防ぐ報道規制が解かれたあとの記事
②いくつかのメディアが「また朝鮮人による暴動が起きる」と煽った。
③「また同じ事が起きてはたまらない」と自警団が結成された。
④その結果朝鮮人殺害事件が発生した。
⑤政府は「風説による襲撃をさせないために」1ヶ月間詳細報道の規制措置を行った。
要するに、当時の記事から「暴動に参加したかどうかわからない」朝鮮人が数百名殺されたのは事実ですが、その前段階として朝鮮人移住者による治安の悪化、震災後の火事場泥棒や暴動があったのも同じく事実というわけです。
勿論、自警団による朝鮮人殺害事件は犯罪であり日本政府としても当時これを問題としていましたが、だからといってその前の段階で何が起きていたのかを隠すのもそれはそれで問題なのです。
3:朝鮮総連と共産党
当時の共産党というのは「武力闘争」による国家転覆と共産国家の建国を目指すテロ組織でした。
そして、朝鮮人の中にもこの活動に参加している人々が多数おり、彼らが「独立闘争」と呼んでいるものも、そのかなりの数が実は「共産革命のためのテロ行為」であり、震災後の混乱に乗じて多数の共産主義者がテロ行為を行っていたというわけです。
そして更に重要なのは、現在朝鮮総連と呼ばれている組織は、元を辿ると日本共産党と根元が同じであり、朝鮮戦争当時には在日朝鮮統一民主戦線(民戦)という下部組織をつくり、共産党とともに北朝鮮の側に立って在日米軍基地などへの武力闘争という名のテロ行為を繰り返していたのです。
つまり日本共産党は、当時共産党が行っていた震災に乗じたテロ行為も隠しており、更には朝鮮総連と根元が同じである事、朝鮮総連とともにテロ行為をしていた過去がある事も隠しているのです。
しかも、関東大震災における朝鮮人殺害事件には、共産党によるテロ行為も深く関わっているにも関わらず、その事を隠してこのようなプロパガンダを行っているという事自体本来は大問題です。
「堤岩里3・1運動殉国記念館」のHP
3月1日に始まり、全国規模で広がった独立運動は、華城地域では暴動の様相を見せ、警察の駐在所が襲撃、破壊され、日本人警官2人が殺害されたり、面事務所、郵便局、駅、金融組合、日本人小学校、日本人家屋が襲撃、破壊もしくは放火されるなどの被害が出た。また、頻繁にデモや演説が行なわれ、山では篝火がたかれ、日本人住民が避難するまでになっていた。
取り締まりの過程で、朝鮮人にも相当数の犠牲者が出ていた。
首謀者は、主にその地域のキリスト教徒、天道教徒であり、他の村では首謀者が逮捕されていたが、堤岩里ではまだ逮捕されていなかった。
そこに治安維持目的で派遣された有田中尉の歩兵部隊が、デモの首謀者逮捕の目的で、住民のうち成人男性(15歳もしくは20歳以上)22人を堤岩里教会に集め、取り調べの過程で反抗、逃亡があったので全員を射殺(うち1人は逃亡)、教会の外で犠牲者の夫人も2人殺害、証拠隠滅のために教会および付近の家屋に火を放った。総犠牲者は23人(それ以外に近隣の古洲里村で6人殺害。これを含めると29人)。
≪参考≫
三・一運動 (Wikipedia)
三・一運動は、1919年3月1日に日本統治時代の朝鮮で起こった日本からの朝鮮独立運動。独立万歳運動や万歳事件とも。
中心となったのは天道教やキリスト教、そして仏教の指導者たちである。彼等は会合を重ねて大衆化・一元化・非暴力の三原則を取り決めた。
3月1日午後、京城(ソウル)中心部のパゴダ公園に宗教指導者らが集い、「独立宣言」を読み上げることを計画した。
運動の広がり
発端となった民族代表33人は逮捕されたものの、本来独立宣言を読み上げるはずであったパゴダ公園には数千人規模の学生が集まり、その後市内をデモ行進した。道々「独立万歳」と叫ぶデモには、次々に市民が参加し、数万人規模となったという。以降、運動は朝鮮半島全体に広がり、数ヶ月に渡って示威行動が展開された。これに対し朝鮮総督府は、警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たった。
被害
襲撃による日本側の被害を挙げると、人的なものは官憲の死者8名、負傷者158名であり、物的なものは駐在所159、軍・面事務所77、郵便局15、その他諸々27であったといわれる。
日本の対応
日本側は憲兵や巡査、軍隊を増強し、一層の鎮圧強化を行った。
こうした中、いくつかの悲劇が発生した。最も有名なのは堤岩里事件である。この事件は4月15日に堤岩里の住民30余名を教会堂に集めて一斉射撃の後放火焼殺され、他にも日本側が放火し15村落317戸が延焼し、39人が亡くなったというのが全貌である。
運動の終息
朝鮮総督府当局による武力による鎮圧(弾圧)の結果、運動は次第に終息していった。
逮捕・送検された被疑者12,668名。このうち有罪判決を受けたのは3,967名。死刑・無期懲役になった者、懲役15年以上の実刑になった者はいない。3年以上の懲役は80名。
影響と意義
三・一運動は、憲兵警察制度を廃止し、集会や言論、出版に一定の自由を認めるなど、朝鮮総督府による統治体制が武断的なものから文治的なものへと方針転換される契機となった。朝鮮人による国外での独立運動が活発化する契機となったことや、国内での合法的民族運動を展開する道が開けることになった。
三・一運動を招いた反省から、武断的な統治を文化統治へ大きく改めた結果、以降は日本統治に対する抵抗といえる抵抗がまったくみられなくなった。
犠牲者
・朴殷植著『朝鮮独立運動の血史』
3月~5月に集会参加者延べ約202万、死傷者が7509名、負傷者が15961名としている。
・日本警察の集計
3~4月11日、参加人数約49万、死者357名、負傷者802名。
三・一運動期間中、6月30日までに逮捕され起訴された総数は26865人、第一審判決で最高15年から最低3月未満までの受刑者が22275名であった。
日本人の憲兵6名と警察官2名が虐殺され、多くの建物が放火されたにもかかわらず、死刑を一人も求刑せず、15年以上の実刑もなく、3年以上の懲役はわずか80人に過ぎなかった。
・朝鮮総督府資料から、参加人数約106万名、死者553名、負傷者1409名
・(朝鮮日報日本語版) 三・一節:国史編さん委が初の公式集計「運動参加者103万人・死者934人」
2019.2.21(木) 11:02配信 朝鮮日報日本語版
韓国の国史編さん委員会は20日、1919年3月1日に起きた日本からの独立運動である三・一運動の当時、80~103万人がデモに参加し、725~934人が死亡したとする集計を明らかにした。日帝(日本帝国主義)による既存資料に基づくデモ参加者数58万人、死者553人を最大で1.7倍上回る数値だ。
(2)日本の韓国統治40年
原理講論には「40年間、第一、第二イスラエル選民が、エジプトやローマ帝国で受けたそれに劣らない迫害を受けたのである。」とありましたが、原理講論にあった内容のほとんどは、事実とはかけ離れた、根拠のあいまいな情報を基に書かれたものであったことがわかりました。
それでは日本による朝鮮統治時代40年間は、実際どのような統治がなされたのかを見ていくことにいたします。
1、日本の韓国統治時代概要
①朝鮮王朝末期の韓国
日本にいて朝鮮末期の状況を調べるとき、最も客観的な資料というものは、日本人や韓国人による資料ではなく、全く利害関係のない外国人による資料が最も信頼できるものと思われます。
そんな前提条件のもと、ここではよくネットでも取り上げられているイザベラ・バードの『朝鮮紀行』とシャルル・ダレの『朝鮮事情』を参考に李朝末期の朝鮮の様子を見てみたいと思います。
・李朝末期のソウル
「路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家家から出た固体および液体の汚物を受ける穴かみぞで挟められている。
悪臭ふんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子どもたち、疥癬持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げ回ったり、ひなたでまばたきしたりしている。」
「冬にはぬかるみ、ならしてない場合はでこぼこの地面と、突き出た岩の上をわだちが通っている。道と言っても獣や人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路に過ぎない」
・文化的建造物
「ソウルには芸術品はまったくなく、古代の遺跡もわずかで、公園もなければ、まれな例外を除けば見るべきイベントも劇場もなく、旧跡も図書館も文献もなく、宗教におよそ無関心であったため寺院もなく、迷信が影響力をもつため墓地もない」
・両班制度について
「両班は公認の吸血鬼であり、ソウルには『盗む側』と『盗まれる側』の二つの身分しかない」
「朝鮮の災いのもとのひとつにこの両班つまり貴族という特権階級の存在があるからである。
両班はみずからの生活のために働いてはならないものの、身内に生活を支えてもらうのは恥とはならず、妻がこっそりよその縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。
両班は自分ではなにも持たない。自分のキセルですらである。(中略)慣例上、この階級に属する者は旅行をするとき、おおぜいのお供をかき集めれるだけかき集めて引き連れて行くことになっている。本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの住民を脅して買っている鶏や卵を奪い、金を払わない。」
・朝鮮の官僚
「日本の発展に興味を持つ者も少数はいたものの、多くの者は搾取や不正利得ができなくなるという私利私欲のために改革に反対していたとし、堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したが、それは困難きわまりなかった」
・非特権階級(民衆)
「年貢という重い負担をかけられているおびただしい数の民衆が、代価を払いもせずにその労働力を利用するばかりか、借金という名目の無慈悲な取り立てを行う両班から過酷な圧迫を受けているのは疑いない。商人なり農民なりがある程度の穴あき銭を貯めたという評判がたてば、両班か官吏が借金を求めにくる。これは実質的に徴税であり、もしも断ろうものなら、その男は偽の負債をでっちあげられて投獄され、本人または身内の者が要求額を支払うまで毎朝鞭で打たれる。」
≪参考≫
イザベラ・バードの『朝鮮紀行』より
ソウルの町並みと悪臭
バードは本書の中で、1894年の訪問時のソウルに関して、道は牛がすれ違えないほど細く迷路のようであり、家から出た汚物によって悪臭が酷く、北京を見るまで「ソウルこそこの世で一番不潔な町」だとし、「紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世で一番ひどいにおいだ」「都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい」と記している。また、人工の道や橋も少なく、「あっても夏には土埃が厚くて、冬にはぬかるみ、ならしてない場合はでこぼこの地面と、突き出た岩の上をわだちが通っている。道と言っても獣や人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路に過ぎない」と記している。
また、ソウルには芸術品はまったくなく、古代の遺跡もわずかで、公園もなければ、まれな例外を除けば見るべきイベントも劇場もなく、旧跡も図書館も文献もなく、宗教におよそ無関心であったため寺院もなく、迷信が影響力をもつため墓地もない、と驚き、孔子廟と碑を除くと公認の寺院がひとつもなく、城内に僧侶が入ると死刑に処せられかねないため、清や日本ならどんなみすぼらしい町にでもある堂々とした宗教建築物の与える迫力がソウルにはないとしている。
両班制度について
両班は究極に無能であり、その従者たちは金を払わず住民を脅して鶏や卵を奪っているとしている。両班は公認の吸血鬼であり、ソウルには「盗む側」と「盗まれる側」の二つの身分しかないと述べている。朝鮮の官僚については、日本の発展に興味を持つ者も少数はいたものの、多くの者は搾取や不正利得ができなくなるという私利私欲のために改革に反対していたとし、堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したが、それは困難きわまりなかったと述べている。
【前編】イザベラ・バード「朝鮮紀行」まとめ
路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家家から出た固体および液体の汚物を受ける穴かみぞで挟められている。
悪臭ふんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子どもたち、疥癬持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げ回ったり、ひなたでまばたきしたりしている。
朝鮮の災いのもとのひとつにこの両班つまり貴族という特権階級の存在があるからである。
両班はみずからの生活のために働いてはならないものの、身内に生活を支えてもらうのは恥とはならず、妻がこっそりよその縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。
両班は自分ではなにも持たない。自分のキセルですらである。(中略)慣例上、この階級に属する者は旅行をするとき、おおぜいのお供をかき集めれるだけかき集めて引き連れて行くことになっている。本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの住民を脅して買っている鶏や卵を奪い、金を払わない。
(中略)非特権階級であり、年貢という重い負担をかけられているおびただしい数の民衆が、代価を払いもせずにその労働力を利用するばかりか、借金という名目の無慈悲な取り立てを行う両班から過酷な圧迫を受けているのは疑いない。商人なり農民なりがある程度の穴あき銭を貯めたという評判がたてば、両班か官吏が借金を求めにくる。これは実質的に徴税であり、もしも断ろうものなら、その男は偽の負債をでっちあげられて投獄され、本人または身内の者が要求額を支払うまで毎朝鞭で打たれる。(後略)
シャルル・ダレ 『朝鮮事情』
「序論」(『朝鮮事情』)では、以下のように当時の李氏朝鮮の様子を細かく伝えている。
ソウルは、人口が多い大都市であるが、見るべき建築物はなく、空気も流れることのない曲がりくねった路地ばかりで、足元にはゴミが散乱しているとし、道路を作る技術がほとんどないため、利用しにくい道は商取引の障害になっているとしている。
また役人の地位は売買されており、その地位を購入した人は、その費用を取り戻そうと特権を濫用して体裁かまうことなく行動するという。
女性の地位については極度に低く、男性の奴隷や労働力となっているだけとし、また学問については、書物はすべて中国のもので、学ぶ言葉は朝鮮語でなく漢語で、歴史に関しても朝鮮史でなく、中国史ばかり研究しており、科学技術については数世紀の間、まったく進歩していないと伝える。
朝鮮人の衣服については、白衣が一般的であるが、多くの場合、汚れて色変わりしており、富裕な者でも不潔なことが多く、これは朝鮮人の特徴であるとしている。
朝鮮は1871年、72年には酷い飢饉におそわれ、朝鮮人の中には娘を米一升で売る者もあらわれたほどであったが、朝鮮政府は己の利得のみのために、鎖国と固守し、中国や日本からの食料買い入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置する道を選んだと伝えている。
②日本の朝鮮統治
日本統治時代の朝鮮は、慰安婦問題、徴用工問題等、日本によって世界の歴史に類を見ない悪逆非道な仕打ちを受けた期間として、今日においても韓国、北朝鮮によって、全世界にその悲劇が訴え続けられています。
しかしほとんどの場合、植民地として欧米諸国の支配下に置かれた国々は、原住民は大量虐殺され、欧米に奴隷として売られ、劣悪な環境で人間扱いされずに搾取されるため、人口は減少し、平均寿命は短くなります。
また教育や環境整備を行い、生活に自由とゆとりを与えた場合、抵抗運動が起こり、独立の機運が高まるため、決して現地に資本投資を行ったり、教育を施すようなことはあり得ません。
このような一般的植民地政策と、日本による朝鮮統治政策を比較したとき、明らかな違いを発見することができます。
韓国の国定歴史教科書によると1777年、総人口は1,804万人であったのが、日韓併合時の1910年には1,313万人となりました。それが1942年には2,553万人となり、併合時の倍近くになりました。
また平均寿命も1910年には24歳だったものが、1942年以降45~56歳へと急速に伸びています。
このことは、李朝518年の統治がいかにひどいものであったかを如実に証明していると同時に、日本統治時代の朝鮮は、生活環境が充実し、食料も十分に供給され、衛生、健康面も急激に向上したことを表しています。
では実際、日本統治時代の朝鮮はどのような時代であったのか、資料と写真を見ながら検証してみたいと思います。
★日本統治時代の朝鮮(Wikipedia)より
1910年、大日本帝国は大韓帝国との間に結ばれた日韓併合条約の締結によって大韓帝国を併合し朝鮮総督府の統治下に置いた。日本の同盟国のイギリスやアメリカ、フランスやドイツ、中華民国などの世界の主要国はこれを認めた。
日本による統治期間は、1919年の三・一独立運動までの武断統治期、それ以降日中戦争に至るまでの文化統治期、および日中戦争、太平洋戦争から終戦に至るまでの戦時体制期に大きく分けられる。
併合当初の10年間は所得税の免税措置を行い、インフラ整備、近代教育制度や近代工業の導入など朝鮮半島の開発に力を入れ、開発工事や運営の主な労働力を朝鮮人に求めることで雇用を創出した。
30数年間で朝鮮半島につぎ込んだ日本国民の税金は現在の価値で63兆円にもなり、民間の投資額まで入れると80兆円をはるかに超えるといわれている。
一方で憲兵警察制度や、内地と同様の言論・結社の自由の厳しい制限など武断統治により、朝鮮王朝末期から続いていた抗日運動を抑えようとした。1919年には三・一独立運動が起こったが、日本の憲兵警察により鎮圧された。
三・一独立運動以後、朝鮮総督府は従来の統治政策を修正し、内地と同様に言論や結社の自由が与えられたため、朝鮮人による様々な民族運動が繰り広げられた。満州国と接する北部国境地帯では、共産主義国家であるソビエト連邦の支援を受けた朝鮮独立を掲げる共産ゲリラと朝鮮総督府との散発的な戦闘も発生している。
1929年にカーネギー財団から朝鮮半島に派遣されたアメリカ人記者らは、「日本は併合以来19年間にして、数百年間停頓状態にあった朝鮮と、近代文明国との間に渡り橋を架けてやった。…朝鮮人の苦しみもあるかも知れぬが、日本は莫大な利益をもたらしている」「李氏朝鮮時代よりも日本統治によって朝鮮人民は救われている」との評価をしている。
社会政策
朝鮮総督府により、これまで存在しなかった高等教育や義務教育制度や戸籍制度などの近代的な社会制度の整備がおこなわれた。公立学校では朝鮮語は必須科目であった。
身分解放
統監府は1909年に戸籍制度を導入し、白丁などの賤民にも姓を名乗らせて戸籍には身分を記載することなく登録させた。これにより、白丁の子弟も学校に通えるようになった。身分解放に反発する両班は激しい抗議デモを繰り広げた。
教育制度
李氏朝鮮では一般人のための教育機関は皆無で、大多数の朝鮮人は読み書きができない状況だった。
朝鮮では1906年の時点でも小学校が全国で40校未満であり、両班の子弟は書堂と呼ばれる私塾で漢籍の教育を受けていた。
併合後、朝鮮語は公教育で必須科目として教授された。
1924年に京城帝国大学が、日本で6番目の帝国大学として設立された。各種学校は1940年代には1000校を超えていた。
1938年には「国語を解する朝鮮人」の割合が前年度の8%弱から13%強にまで伸び、1943年末で22%にまで伸びた。
創氏
創氏とは、すべての朝鮮人に新たに氏を創設させ、家族を基礎とする日本内地の家制度に近いものに変更しようとしたものである。
創氏改名後は、朝鮮人はすべて先祖伝来の「姓名」に加え、新しく作った「氏名」が増え、2つの名を持つことになったのであり、姓名自体が抹消・変更されたのではない。
改名は任意とされていたため、創氏と同時に改名した者の割合は9.6%であった。
宗教政策
キリスト教は李朝はアヘンと同じようなものと警戒し、カトリックへの弾圧は断続的に行われた。
朝鮮におけるキリスト信者の成長率は世界のキリスト教宣教史上類まれなものであり、1895年に公称1590人の信徒が1910年には22万6791名に達した。
1920年に入ってキリスト教会が三・一独立運動の主要な組織者であったとして、キリスト教会への苛烈な弾圧を加えるようになった。
造林事業
1910年当時、特に南部の海抜の低い低地帯では若い木と禿げ山が大部だった。
造林事業は1911年には約4千町、1152万本だったが1922年までの累計は約36万町、10億本に至ったと報告されている。
経済
朝鮮は日本本土防衛の為の重要な要と政府は捉え、富国強兵政策に従い多額の国家予算を朝鮮半島に投じた。
これまで朝鮮半島にほとんど存在しなかった鉄道、道路、上水道、下水道、電気インフラ、病院、学校、工場など、最新鋭のインフラの整備を行い、近代教育制度や近代医療制度の整備を進め、朝鮮半島を近代化していった。
鉄道路線は幹線ばかりでなく生活用の支線も多くが敷設され地方経済を活性化させた。
朝鮮総督府からの補助金による1,527件の農業用ダムと410件の水路の建設、5億9千万本以上の植林や砂防ダム建設などの水利事業も行われた。
右の写真は水豊ダム。
ダムによって形成された水豊湖は琵琶湖のほぼ半分に相当する。
1944年3月に竣工した水豊水力発電所の発電規模は60万 kW 。当時の世界最大級。
ちなみに1940年当時の日本国内の水力発電規模は280万 kWだった。
1920から30年代の朝鮮半島の経済成長率は年間約4%で、同じ期間の欧州(1%台)や日本・アメリカ(3%)に比べて、より高い成長をしている。
平均寿命
衛生面では、生活面における衛生指導や集団予防接種が行われ、当時朝鮮半島で流行していたコレラ、天然痘、ペストなどの伝染病による乳児死亡率が減少し、平均寿命は24歳から56歳まで伸びた。
また農地の開発や農業技術の指導により食糧生産量も激増したことで、人口は併合時(1910年)の調査では13,128,780人、1944年の調査では25,120,174人となり、平均寿命も併合時(1910年)24歳だったものが、1942年には45歳まで伸びた。
食糧生産は年々増加し、併合前の1909年には746万石であった収穫高は、1918年には1529万石と2倍以上に、更に1942年には2489万石なった、
資本主義の萌芽
韓国や北朝鮮では、現在も朝鮮の資本主義の萌芽を李氏朝鮮時代に求め、「芽生えた朝鮮の資本主義は成長する前に日韓併合による植民地化によって1945年まで大きく抑制されていた」という説が通説となっている。
これに対し、ハーバード大学教授で朝鮮史が専門のカーター・J・エッカートは、李氏朝鮮時代の経済規模は同時代の日本や中国と比べて小さく、当時の商人と後の時代の資本家とのつながりがほとんど無いため、資本主義の萌芽が李氏朝鮮時代には存在せず、日韓併合による日本の政策によって生まれ、特に戦後の韓国の資本主義や工業化は、日本の朝鮮半島での近代化政策を模したものであると発表している。
朝鮮人の独立運動
1919年には三・一独立運動が起こって大規模な暴動にまで発展し、朝鮮中を巻き込んだ。この独立運動は約一年間続き、暴動と総督府側による取締りによって多くの死傷者がでた(運動家に殺害された者も多い)。事件直後に行われた調査結果を記した資料によれば、8,437人が逮捕された。しかし逮捕者への刑罰は主犯でも最高で懲役3年以下という軽いものであった。死者数は553人、負傷数は1,409人である。
当時上海に亡命中の朴殷植は『韓国独立運動之血史』に46,948人が逮捕され、7,509人が死亡し、15,961人が負傷したと記している。
女学生・柳寛順は三・一独立運動を扇動した罪で投獄・拷問され16才で殺された。
こうした中、いくつかの悲劇が発生した。最も有名な「堤岩里事件」は、4月15日に小学校焼き討ちと警察官2名の殺害の容疑で堤岩里の成人男性住民30余名を教会堂に集めたところ、取調べ中に容疑者1名が逃げようとし憲兵に斬殺され、それを見た他の容疑者が暴徒化した為に全員が射殺され、放火などにより15村落317戸が延焼し、39人が死亡した事件である。
朝鮮半島の人口推移
西暦 | 朝鮮半島居住の朝鮮人 |
1753年 | 730万人 |
1850年 | 750万人 |
1864年 | 802万人 |
1885年 | 897万人 |
1891年 | 788万人 |
1904年 | 710万人 |
1907年 | 1167万人 |
1910年 | 1313万人 |
1942年 | 2553万人 |
日韓併合とともに朝鮮人の人口は、驚異的に増加した。たとえば、韓国の教師用国定歴史(国史)教科書によると、1777年、総人口は1,804万人であったが、100年後の1844年には1,689万人で6.79%減少した。
さらに日韓併合時の1910年には、1,313万人となった。それが、32年後の1942年の人口は2,553万人で、併合時の倍近くになった。
このことは、李朝518年の統治がいかにひどいものであったかを如実に証明している。
――崔基鎬著 『歴史再検証 日韓併合の真実』より
≪参考≫
★日本統治時代の朝鮮(Wikipedia)より
李氏朝鮮(Wikipedia)
③朝鮮王朝末期の混乱とキリスト教伝播
韓国のキリスト教史を見たとき、歴史を通し日本の関与が大きかったことがわかります。
まず1593年の文禄・慶長の役の時に、キリシタン大名であった小西行長とともに、イエズス会司祭が朝鮮に渡り、小西行長は朝鮮人養女を得て洗礼を施し、歴史上初の朝鮮人キリスト教徒となりました。
朝鮮王朝末期には、カトリック弾圧の激しかった朝鮮において、1876年日本が日朝修好条規を締結したのをきっかけとし、アメリカ、フランス、ロシアなどとも通商条約を結ぶことになり、キリスト教布教も活発に行われるようになりました。
1903年から1908年には韓国キリスト教のリバイバル(信仰復興)が起こり、平城は東洋のエルサレムと呼ばれるほどに急激にキリスト教が普及しました。
1910年の日韓併合の後、朝鮮総督府は日本組合基督教会に莫大な資金援助を行い、朝鮮植民地伝道を繰り広げました。
この後真のお父様が1920年に誕生されましたので、再臨のメシヤを迎えるために、その環境整備としてカトリックを弾圧していた朝鮮王朝が方針を転換し、キリスト教が受け入れられ、朝鮮半島に急激にリバイバルが起こったと言えるでしょう。
その方針転換のきっかけが日本との日朝修好条規であり、朝鮮総督府による日本組合基督教会への莫大な資金援助がメシヤ降臨を後押しをしたと言えるでしょう。
韓国のキリスト教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
★朝鮮への初めてのキリスト教
朝鮮に初めてキリスト教の宣教師が足を踏み入れたのは、1593年に文禄・慶長の役に参加していたキリシタン大名小西行長の求めに応じて朝鮮に渡ったイエズス会司祭グレゴリオ・デ・セスペデスが最初である。この戦役において小西はジュリアおたあと呼ばれる朝鮮人養女を得ており、彼女は養父にならって受洗し、歴史上初の朝鮮人キリスト教徒(受洗者)と考えられている。
★朝鮮王朝末期のカトリック弾圧
1801年、王朝を守るためとの理由でカトリックの弾圧を強化した(辛酉教獄)。
この弾圧でカトリック信者、巻き込まれた者もあわせて数万人が犠牲になったと言われている。
カトリックへの弾圧は1815年、1827年、1838年など、断続的に行われた。
・主なカトリックへの弾圧
1801年、辛酉教獄(しんゆうきょうごく):清国人宣教師周文謨・進士黄嗣永ほか300名あまりを処刑
1839年、己亥教獄(きがいきょうごく):フランス人宣教師ローラン=マリ=ジョゼフ・アンベールほか200名あまりを処刑
1846年、丙午教獄(へいごきょうごく):金大建ほか20名あまりを処刑
1866年、丙寅教獄(へいいんきょうごく):大院君政権は、迫り来る西洋列強に対しては強硬な鎖国・攘夷策を取りカトリックへの弾圧を強化し、1872年までの間に8千人あまりの信徒を殺害した。
≪参考≫
★朝鮮王朝末期の混乱とキリスト教伝播
・1875年日本軍艦を攻撃した事件(江華島事件)が発生、翌1876年に日朝修好条規(江華島条約)を締結して日本側に謝罪。
それ以降閔氏政権は開国政策に切り替え、アメリカ(米朝修好通商条約)、フランス、ロシアなどとも通商条約を結んだ。
朝鮮の開国によって欧米諸国との外交関係が樹立されると、プロテスタント諸派が朝鮮に宣教師を派遣した。
・1882年に大院君は閔妃暗殺を狙い、クーデターに動いた(壬午事変)。
この軍乱で日本も標的とされ日本公使館が焼き討ちにされ日本人が多数殺害された。
事変後には済物浦条約が締結され、日本に謝罪を行うとともに日本人保護のために日本軍の朝鮮駐留が認められた。
清によって復権した閔氏政権は、親日開明政策から開明に消極的な親清政策へ大きく転換する事になる。
・1884年に定住した宣教師によるプロテスタントの朝鮮布教は、メソジスト派と長老派の宣教師によって始められた。
・1884年12月、清国軍と朝鮮人によって日本公使館は焼き払われ日本人数十人が殺害された(甲申政変)。
事件後には守旧派によって開化派への処刑が徹底的に行われ、開化勢力は消滅し、清国の影響力が増大した。
・1885年にはイギリス軍によって巨文島が占領された(ポート・ハミルトン事件)。
・1885年に長老派は少年向けの培材学堂、
・1886年にメソジスト派は少女向けの梨花学堂を創設して教育に力を注いだ。
・1887年スコットランドの長老派から満州へ派遣されたジョン・ロスにより新約聖書全巻が翻訳・出版され、朝鮮に持ち込まれた。
・1894年には東学党の乱(甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう))が勃発すると閔氏勢力は清に援軍を求めた。
一方日本も条約と居留民保護、列強の支持を盾に介入し、乱は官軍と農民の和議という形で終結するが、淮軍と日本は朝鮮に駐屯し続けた。日本は閔氏勢力を追放し、大院君に政権を担当させて日本の意に沿った内政改革を進めさせた。
・1894年日清戦争が勃発し日本軍が勝利すると、朝鮮は清への服属関係を廃棄し独立国となった。
しかしその後、朝鮮は宗主国をロシアに変える動きを見せ、閔妃はロシアに近づき、親露政策を取る事になる。
・1895年10月に閔妃が惨殺される(乙未事変)。
・1897年、朝鮮は大韓帝国と国号を改称し、元号を光武とした。
・1904年になると、日露戦争が勃発し、日本が勝利する。
・1905年には第二次日韓協約が締結された。日本は朝鮮(大韓帝国)の外交権を接収し、内政・財政に関しても強い影響力を得て朝鮮の保護国化を推し進めていく。
・1906年、日本は韓国統監府を置き、伊藤博文を初代統監とした。
・1903年から1908年には韓国キリスト教のリバイバル(信仰復興)が起こった。
・1907年、R・A・ハーディーら宣教師の聖書研究会によって、信仰復興は広まった。
・1910年8月22日に韓国併合ニ関スル条約が締結、ここに大韓帝国は日本の一部となり、朝鮮半島の国家は完全に消滅した。
・1910年の日韓併合の後、朝鮮総督府は日本組合基督教会の指導者海老名弾正に朝鮮宣教を命じ渡瀬常吉を派遣。朝鮮総督府より莫大な資金援助を受けて朝鮮植民地伝道を繰り広げる。
④もし日本が韓国を統治しなかったら…ロシアによる統治
李氏朝鮮末期、朝鮮王朝は大院君と閔氏政権による主導権争いが続き、暗殺、内乱、武力闘争、クーデターを繰り返していました。同時にそれは親日開国政策と親清守旧政策との駆け引きでもありました。
しかしそんな逼迫した状況の中でも朝鮮の官僚制度は腐敗堕落し、日本の発展に興味を持つ者も少数はいたものの、多くの者は搾取や不正利得ができなくなるという私利私欲のために改革に反対していました。
1894年日清戦争が勃発し日本軍が勝利すると、朝鮮は清への服属関係を廃棄し独立国となりました。
しかしその後、朝鮮は宗主国をロシアに変える動きを見せ、親露政策を取る事になりました。
1904年になると日露戦争が勃発し、日本が勝利することによって、ロシアの南下政策に楔を打つことができました。
このような経緯を経て、1905年に第二次日韓協約が締結され、日本は朝鮮の外交権を接収し、内政・財政に関しても強い影響力を得て朝鮮の保護国化を推し進めていくようになりました。
このような経緯をもって日本は朝鮮を統治することになりましたが、もし日本が朝鮮を統治していなかったら、朝鮮は間違いなくロシアを宗主国として、ロシアの支配を受けるようになっていました。
もしロシアが朝鮮を支配するようになったら、朝鮮はどのようになっていたでしょうか?
当時の欧米は植民地にしたアジア人を全く人間扱いしませんでした。文字通り奴隷と同じ扱いです。
ですから一番考えられることは、ロシアも朝鮮に自国の税金を投資し、インフラを整備することなどありえず、朝鮮の農産物や鉱産物を搾取できるだけ搾取し、過酷な植民地政策をしていた可能性が高いでしょう。
しかし現実的には1917年にロシア革命が勃発し、ロシアは共産化され、ソビエト連邦が発足しましたので、必然的に朝鮮も共産化されてしまったでしょう。
無神論を奉じるソビエト政権が成立すると、キリスト教徒たちは、共産主義勢力に抵抗する者や、ロシアに残って共産主義勢力に一定程度妥協する者、亡命する者、地下活動に移る者などに分かれたといいます。
つまり1903年から1908年に起こった韓国キリスト教のリバイバルも消え失せ、キリスト教徒たちは迫害の中に身をさらすようになっていたことでしょう。
果たしてこのような環境の中で真のお父様は韓半島に誕生することができたでしょうか?
誕生することができたとしても、キリスト教徒と出会い、イエスの啓示を受け、再臨主としての道を歩むことはできたのでしょうか?
ソビエト政権下では2,300万人が虐殺されたといいます。
真のお父様の親族は虐殺されることなく、真のお父様をこの世に誕生させることはできたでしょうか?
いろいろな可能性を考えてみても、朝鮮がロシアを宗主国としていたら、真のお父様が韓半島に生まれていたかどうか、またはメシヤとしての道を歩むことができたかどうか、非常に疑わしいと言わざるを得ません。
それはロシアではなく、清または中華人民共和国であったとしても、同じような可能性が高いことでしょう。
結論を言えば、再臨の主、メシヤを韓半島に誕生させるためには、日本が朝鮮を統治するのが、最もふさわしい政治状況だったと言えます。
逆に日本でなければ、人類の真の父母様をこの地上に誕生させることが難しかったかもしれません。
⑤世界の植民地統治政策
欧米列強のアジア侵略はいかにして行われたか
15世紀の大航海時代で世界に進出した西欧列強は、やがてアジア全域を植民地化した。
彼ら白人帝国主義国はいかなる侵略行為を行ったのか-。
1 掠奪と搾取
350年にわたりインドネシアの香辛料など独占的に収奪したオランダは、19世紀に入ると、強制的栽培制度を導入し耕地の5分の1(実際は半分)にわたって、コーヒー・砂糖・藍などのヨーロッパ市場向け作物を強制栽培させた。これによる巨額な収益は国家予算の3分の1を占めた。
インドシナ半島東部を支配したフランスは、土地を収奪しフランス人らに無償で与えたため、農地を奪われた農民は小作人からさらに債務奴隷へと没落した。
茶の輸入により輸入超過になったイギリスは、中国へ流出した多額の銀を取り戻すためにインドにけし栽培を強制し、大量のアヘンを中国に密輸して暴利を得た。財政悪化を招いた清はアヘンの密輸を取り締まったため、イギリスはこれを口実に戦争を仕掛け、香港を租借した。これが悪名高いアヘン戦争である。
2 貧困と飢餓
土地の集約的耕作と輸出用換金作物の大規模栽培は、無料に近い土地で低廉な労働力を使い、莫大な収益をあげるものがほとんどであった。そして、マレーのゴム、インドの綿花というように、特定の一次商品を宗主国に輸出し、完成消費財を輸入するという経済構造に変質した。
その結果、水田の減少や失業者の増加により、飢饉に際して多くの犠牲者を出す地域が現れた。ジャワでは人口33万の町が12万に減少したり、インドではイギリスの支配ののち飢饉が増加し、1877年の南インドの飢饉では5百万人が死亡し、1943年での犠牲者はベンガル地方だけで340万にも達した。
3 複合民族化
大規模農業の急速な開発によって、大量の労働者を必要とした列強宗主国は、大量の移民政策をとった。インドネシアでは、中国人苦人(クーリー)が1860年の20万人から1930年の123万人と6倍に増加。マレー半島では、鉱山労働者に中国人、ゴム園労働者にインド・タミール人が大量に移入された。
植民統治では、上部に白人支配層が、次に華僑やインド人などの外来アジア人が、最も人口の多い現地民が最下層の地位におかれるという階層社会を造った。
4 弾圧と虐殺
列強は植民地支配への反乱については、きびしい弾圧と虐殺でのぞんだ。
イギリスは、1857年に起こったセポイの反乱に徹底的な弾圧を加えた。イギリスは、みせしめのため捕虜の集団銃撃や焼き殺しなど、珂責ない弾圧と虐殺を行った。
フランスのベトナム支配では、1940年のメコン河流域の住民蜂起では、6000人のベトナム人が逮捕され、サイゴンの監獄は満員となり多くの囚人が死亡した。
米西戦争に勝ったアメリカは、フィリピンに戦争を仕掛けて全域を制圧した。また1906年、アメリカ式の土地制度などに反発したイスラム系住民の反乱の時は、米軍は彼らの砦を包囲し、戦闘員から女子供を含めて6百人全員を皆殺しにしてしまった。
列強に侵略にあえぐアジア
清(中国)
1662 年以降、中国を支配した満州族の清は、東インド会社が経営するインドとの貿易を開いていたが、イギリスとのアヘン戦争やアロー戦争の敗北を契機に列強に不平等条約を締結させられ、外国の圧力を受けた。特に日清戦争の敗北後は、ロシア・イギリス・フランス・ドイツなどによって鉄道の敷設権や要地の租借権を奪われ、半ば植民地の状態となった。
インド
1600年にイギリスがインドに進出して乗インド会社を設立し、度重なる征服戦争を繰り返して全土を征服した。イギリスは、セポイの反乱の武力鎮圧後、1877年にムガル帝国を滅ぼして英領インド帝国を樹立。以後は直接統治を行い、苛酷な植民地経営を行った。
ミャンマー(旧ビルマ)
17世紀以降、イギリスの東インド会社と貿易を行っていたが、イギリスが三度にわたるミャンマー(ビルマ)戦争でこれを征服し、1886年に全土をインド帝国に併合し、植民地化した。
インドネシア
17紀よりポルトガル・オランダ・イギリスなどが進出し、1818年にオランダがマタラム王国を滅ぼして植民地にし、19世紀末までにスマトラ.ボルネオを支配し、1904年にオランダ領東インドをつくって植民地体制を確立した。
マレーシア
15 世紀にマラッカ王国がにポルトガルに支配され、17世紀にはオランダの支配を受けた。18世紀後半に入るとイギリスが進出し、イギリスは、ペナン・シンガポール・マラッカを海峡植民地として直接統治し、さらに北ボルネオ・マライ半島への支配を強化して1895年にマライ連邦を結成した。
インドシナ三国
ベトナムは19世紀の阮朝がフランスの軍事介入を受け、1885年フランスの保護国となった。
カンボジアはベトナムがフランスの植民地にされると1863年にフランスの保護国とされた。
ラオスも1893年にフランスの保護国となった。
フランスは、このインドシナ3国を併合して仏領インドシナ連邦(仏印)を形成した。
フィリピン
16世紀にマゼラン率いるスペイン遠征隊が侵入。武力でルソン島を平定したスペインは1571年に植民地とし、皇太子フィリップにちなみここをフィリピンと命名した。1898年には米西戦卑でスペインに勝ったアメリカがフィリピンの植民統治を行い、徹底した英語とキリスト教の普及を押し付けた。
⑥世界はどのように大東亜戦争を評価しているか
日本は第二次世界大戦に敗北することにより、第二次世界大戦は日本の侵略戦争であり、戦前の日本の政策はすべて悪だったという自国を否定するような自虐史観を植え付けられました。
しかし近年になり、公開されたハルノート等により、日本はアメリカの策略により太平洋戦争に引き込まれたのであり、日本の植民地政策は正しいものだったという情報も流されるようになりました。
一体どちらの情報が正しいのか?
私たち日本人は今日に至るまで、ほとんど日本は加害者という教育を受けてきました。そこで「ここでは自存自衛と大東亜の解放を掲げて戦われた日本の戦争は、アジアの諸国民や各国の識者からどのように受け止められているのだろうか」ということを、多くの記事の中からまとめられたものをご紹介いたします。
太平洋戦争とはいったい何だったのか 1946年(昭和21年)5月3日、東京。
元アメリカ大統領ハーバート・フーヴァーと連合国軍最高司令官マッカーサーは「太平洋戦争とはいったい何だったのか」を3日間にも渡って話し合った。
そのとき、日本人なら誰も思いもしないようなことをフーヴァーは口にした…
「太平洋戦争は、日本が始めた戦争じゃない。あのアメリカの『狂人・ルーズベルト』が、日米戦争を起こさせた。気が狂っていると言っても精神異常なんかじゃない、ほんとうに戦争をやりたくてしょうがなかった…その欲望の結果が日米戦争になったんだ」
■タ イ
◎ククリット・プラモード 元首相
「日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジア諸国民が、アメリカやイギリスと対等に話ができるのは、一体だれのおかげであるのか。それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあったためである。12月8日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決意された日である。さらに8月15日は、われわれの大切なお母さんが、病の床に伏した日である。われわれはこの2つの日を忘れてはならない。」
■マレーシア
◎ラジャー・ダト・ノンチック 元上院議員
「私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。敗れて逃げてゆく英軍を見たときに、今まで感じたことのない興奮を覚えました。しかも、マレーシアを占領した日本軍は、日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展のために、それぞれの民族の国語を普及させ、青少年の教育をおこなってくれたのです。」
■インドネシア
◎サンバス 元復員軍人省長官
「特にインドネシアが感謝することは、戦争が終わってから日本軍人約1000人が帰国せず、インドネシア国軍とともにオランダと戦い、独立に貢献してくれたことである。日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲章を贈っているが、それだけですむものではない。」
■インド
◎グラバイ・デサイ インド弁護士会々長
「インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお蔭で30年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド4億の国民は深くこれを銘記している。」
(1946年の軍事裁判に出廷した藤原岩市氏らに)
■スリランカ
◎l・R・ジャヤワルダナ 大統領
「往時、アジア諸民族の中で、日本のみが強力かつ自由であって、アジア諸民族は日本を守護者かつ友邦として、仰ぎ見た。…当時、アジア共栄のスローガンは、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が解放されることを希望して、日本に協力した者がいたのである。」 (1951年、サンフランシスコ対日講和会議演説)
⑦大韓民国臨時政府
日本による朝鮮統治時代を研究すると、抗日運動の拠点としての大韓民国臨時政府の存在の大きさに改めて気づかされます。
大韓民国臨時政府というと、真のお父様の日本留学時代、抗日運動の中心人物として、上海にある大韓民国臨時政府と連絡を取り合っていたということは有名な話です。
同じように真のお父様の祖父の弟、文潤國牧師が、文家の財産をすべて独立運動に捧げ、それでも足りないと儲け話があると言いながら、村人たちからお金を集めては抗日運動に送金していたというのも、同じ上海臨時政府にでした。
文潤國牧師は結局、自分がそのお金を抗日運動に献金したとは言わなかったために、村人たちから詐欺師呼ばわりされ、その村に残ることもできなくなり、一人故郷を追われ、見知らぬ街で誰にも見取られることもなく客死したと言います。
このように真のお父様の生涯路程にも度々登場する大韓民国上海臨時政府ですが、抗日運動の拠点だったということもあり、今日に至るまで抗日運動家たちに信じられている捏造された間違った情報も、ここから発せられていたのです。
例えば私たちが主の路程等で教わった、日帝36年時代の日本人による韓国人迫害の様子は、大韓民国臨時政府の第2代大統領朴殷植氏が著した『韓国独立運動之血史』にある迫害の様子に酷似しています。
『韓国独立運動之血史』では日本による朝鮮迫害をどのように表現しているのか見てみたいと思います。
・1919年に起こった韓国独立運動(三・一運動)について
「平和的なデモをしていた朝鮮人たちを、日本軍警察が無差別に虐殺し、日本の軍警察は、馬に乗り剣をふるって横行し、デモ隊を乱撃した。また人の目を刺し、人の耳をもぎ、人の腕を切り落とし、人の鼻をそぐなどの残虐性をはっきした、一般市民も、少女とか、女性の性器を切リ、股裂きをした」
「日本は独立を妨害するために、あらゆる悪行を犯した。日本は独立を叫ぶ人々に向かって銃を撃ち、民家、教会、学校に火をつけた」
「10歳にならない少女と婦女子らが恥辱的な扱いを受け、身体を殴られ、幼い少女たちも残酷に殴られ、7歳以下の幼い少女ら300余命が殺害された」
実に残忍で惨たらしい迫害の様子ですが、教会のセミナーでも似たような迫害の様子を聞きました。
このような生々しい迫害の様子は、ネットや本を探しても、なかなか見つけることはできません。見つけることができるとすれば吉田清治氏の書いた著作物のみです。
この吉田清治氏の済州島での慰安婦狩り等の証言は、朝日新聞によって16回にわたり連載され、反日思想の根拠となってしまいましたが、朝日新聞は2014年8月5日に吉田証言を虚偽と判断し、すべての記事を取り消しました。
しかし教会内では自虐史観に縛られ、『韓国独立運動之血史』にあるような韓国人への迫害が行われたと今でも信じられていることでしょう。
大韓民国臨時政府が流した、もう一つの間違った情報が関東大震災時における、朝鮮人虐殺事件です。
関東大震災時日本人自警団によって6000人もの朝鮮人が虐殺されたと信じられてきましたが、その情報は上海臨時政府が震災当時に機関紙の「独立新聞」に掲載した数字でした。しかしこの数字は、実際に震災現場で確認した数字ではなく、何の裏付けもない伝聞によってはじき出された数字だったのです。
日本の公式記録では「自警団に殺された朝鮮人の数は231人」となっていますし、多く見積もったとしても数百人と言われています。
そればかりではなく朝鮮人を虐殺したということも単純な虐殺事件ではありませんでした。
共産党と根元が同じ在日朝鮮統一民主戦線の朝鮮人が関与し、各地で在日朝鮮人たちによる暴動や火事場泥棒が多発し、そのことに注意喚起する新聞記事によって自警団が結成され、多数の朝鮮人の虐殺が行われたというのです。
もちろんどんな理由があったとしても虐殺など許されるわけではありませんが、理由もなく朝鮮人虐殺事件が起こったわけではなかったということです。
大韓民国臨時政府の初代大統領は李承晩でした。
そして第二代大統領が『韓国独立運動之血史』を著した朴殷植でした。
そしてその体制は金九によって引き継がれました。
大韓民国初代大統領李承晩の詳細に関しては後から詳細を述べたいと思いますが、これら大韓民国臨時政府の指導者たちを見ると、大韓民国臨時政府とはいかなる機関だったかということが想像できます。
李承晩大統領は、今日に至るまで韓国の反日思想の基礎を作り上げた独裁者であり、後の大量殺戮者でした。
朴殷植は、反日の思想的根拠を捏造によって作り上げた張本人です。
そして主の路程にも登場する金九は、今でも独立運動の英雄として、多くの韓国人の尊敬を受けていますが、実際の人物像は少し違っていたみたいです。
金九は元々日本人を殺した殺人犯であり、数多くの暗殺を指揮したテロリストでした。
真のお父様とも関わりのあった金九についてもう少し詳しく見ていきたいと思います。
金九の起こした殺人事件、1896年鴟河浦事件
食事を注文した時に女給が自分より先に食膳を与えるのを見て憤慨し、閔妃殺害にはなんら関係がない日本人の土田譲亮を日帝・日本人への懲罰として殺害した。
殺害後金品を奪って逃走、捕縛され、強盗殺人犯として死刑判決を受けた。特赦により減刑されたが後に脱獄。
金九の証言(『白凡逸志』日本語版 平凡社(1973年)79ページ)
倭奴(ウェノム)の頭から足の先まであちこちを切りつけた。二月の寒い明けがたのことで、氷が張っていた地面に、血が泉の湧くように流れた。わたしは手でその血を掬って飲み、またその倭(ウェ)の血をわたしの顔に塗り付け…
1921年、ソ連の政治資金が臨時政府に上納されていないという理由で、青年たちに韓国人の共産主義者たちの暗殺を指示。
1922年11月、金九が刺客を放ち、韓国人共産主義者金立が上海で狙撃殺害される。
1932年、韓人愛国団の李奉昌が昭和天皇暗殺を狙った桜田門事件、尹奉吉による上海天長節爆弾事件などのテロを指令。
1947年12月、韓民党の党首・張徳秀を暗殺した疑いで米軍の法廷に召喚される。
このようにいくつかの暗殺を指揮しただけでなく、国時先生の真とのお父様の秘史「救国への奇跡」を見ると、真のお父様をも暗殺しようとしたということが述べられています。
救国への奇跡-大東亜戦争の陰で-国時先生米国講演より
「1946年5月27日の、お父様が急に、お米を買いに行ったその帰り道に啓示を受けて、急に北に行ったということは、蒋介石の手先の金九の一味が、お父様の命に狙いをつけていたということです。」
金九先生というと、今でも韓国で最も英雄視される人物ですが、否定的な評価も現れてきました。
韓国の右翼論客の池萬元氏は「金九は現代版に解釈すればウサマ・ビンラディンのような人間。国を経営できる人間ではない。実力が足りないながらも李承晩に嫉妬した人間」と評論しています。
ジャーナリストの金完燮氏も「偏狭な儒教思想に凝り固まった無知蒙昧な人物」「金九については生まれつきの殺人鬼だと思わずにはいられない」と評論しています。
このような事実を知るまでは、上海臨時政府は大叔父文潤國牧師が詐欺をしてまでお金を作り支援を行っていた独立運動の拠点であり、真のお父様も上海臨時政府と連絡を取りながら日本で抗日運動を展開していたということを学んでいましたので、摂理的にも重要な独立運動組織であると思っていたのですが、一人一人の中心的な指導者たちを見ると残念ながら別の側面も見えてきました。
安重根は韓国側から見ると独立運動の英雄ですが、日本側から見ると伊藤博文元総理を暗殺したテロリストです。
上海臨時政府も韓国側から見ると、独立運動の拠点として大きな役割を果たした機関ですが、日本側から見たらただのテロ組織です。
立場が変われば評価も変わります。
しかしその組織を構成している中心人物たちを見ると、上海臨時政府はとても評価できるものではありません。
大量殺戮者であり、事実を捏造し情報を操作する人たちであり、元々人殺しでありました。
自分達の思想を正当化し、都合の悪い事実は抹消し、反対する者たちを力ずくで消し去る人たちです。
そんな人たちによって作られた反日思想が今も韓国を席巻しています。
だからこそ今正しい歴史教育が必要なのです。
大韓民国臨時政府(Wikipedia)
大韓民国臨時政府は、1919年(大正8年)の日本統治時代の朝鮮で起こった三・一運動後、海外で朝鮮の独立運動を進めていた活動家李承晩・呂運亨・金九らによって、中華民国の上海市で結成された朝鮮(韓国)のテロ組織である。
日中戦争勃発後は所在地を上海から重慶に移した。たえまない党派間の対立と連合を続けていたため、蒋介石や中国国民党が党派間の融和ために指導を行っていた。
第二次世界大戦の終戦後、アメリカや他の連合国諸国は大韓民国臨時政府がポーランド亡命政府のように第二次世界大戦で貢献をしていないことから、何かしらの地位を与えることを故意に控えるなど、国際的な承認が得られることはなかった。
1919年9月に統合された臨時政府は国務総理に李東輝を選出し、1920年に李東輝が臨時政府を去ると李東寧・申圭植・盧伯麟が国務総理代理を引き受けた。国務総理代理体制は1922年9月、李承晩の大統領制に改編され、1925年には朴殷植を大統領に選出した。1926年末に構成された金九内閣は1927年、集団指導体制である国務委員制に改編した。
朴殷植(Wikipedia)
朴 殷植は、朝鮮の歴史家、作家、民族主義運動家、政治家。
大韓民国臨時政府の第2代大統領(1925年3月 – 7月)を務めた。
朴の漢文の素養と宋明理学への深い造詣を下地とした、高い文章表現力によって支えられていると韓国では評価され、韓国歴史学で多く参照、引用される。その主著『韓国独立運動之血史』は朝鮮人の民族意識鼓舞の目的で1919年から1920年にかけて、亡命先の上海で、文献や伝聞、新聞資料等の資料から作成したもので、そのため数値や事実関係の検証が徹底しておらず、多数の誤りが(韓国人の歴史家によって)指摘されている。内容について、民族主義を鼓舞するための記述であって考証を意識した記述ではないとの指摘もある。
『朝鮮独立運動の血史』より
「日本では母子が性交する」
「日本は国や個人財産に至るまで、みな狡猾と暴力によって奪った」
「日本はその野蛮な習慣を我が民族に強制し、倫理を冒涜した」
・1919年に起こった韓国独立運動(三一運動)について
「平和的なデモをしていた朝鮮人たちを、日本軍警察が無差別に虐殺し、日本の軍警察は、馬に乗り剣をふるって横行し、デモ隊を乱撃した。また人の目を刺し、人の耳をもぎ、人の腕を切り落とし、人の鼻をそぐなどの残虐性をはっきした、一般市民も、少女とか、女性の性器を切リ、股裂きをした」
「日本は独立を妨害するために、あらゆる悪行を犯した。日本は独立を叫ぶ人々に向かって銃を撃ち、民家、教会、学校に火をつけた」
「10歳にならない少女と婦女子らが恥辱的な扱いを受け、身体を殴られ、幼い少女たちも残酷に殴られ、7歳以下の幼い少女ら300余命が殺害された」
・『朝鮮独立運動の血史』では、3月~5月に集会参加者延べ約202万、死傷者が7509名、負傷者が15961名としている。
・日本警察の集計
3~4月11日であるが参加人数約49万、死者357名、負傷者802名となっている。
三・一運動期間中、6月30日までに逮捕され起訴された総数は26865人、第一審判決で最高15年から最低3月未満までの受刑者が22275名であった。
日本人の憲兵6名と警察官2名が虐殺され、多くの建物が放火されたにもかかわらず、死刑を一人も求刑せず、15年以上の実刑もなく、3年以上の懲役はわずか80人に過ぎなかった。
・(朝鮮日報日本語版) 三・一節:国史編さん委が初の公式集計「運動参加者103万人・死者934人」
2019.2.21(木) 11:02配信 朝鮮日報日本語版
・韓国の国史編さん委員会は20日、1919年3月1日に起きた日本からの独立運動である三・一運動の当時、80~103万人がデモに参加し、725~934人が死亡したとする集計を明らかにした。日帝(日本帝国主義)による既存資料に基づくデモ参加者数58万人、死者553人を最大で1.7倍上回る数値だ。
金九(Wikipedia)
金九は、朝鮮の民族主義者、韓国の政治家、韓国独立党党首。韓人愛国団を率い大韓民国臨時政府主席を務めた。
1919年以来、上海で臨時政府に参加し、大韓民国臨時政府の警察本部長、内務大臣、大統領代理、国務領(大統領)などを務めた。1924年、満州の朴喜光と通じ親日派暗殺、主要公館破壊などを指揮し、韓人愛国団を組織して李奉昌の桜田門事件、尹奉吉の上海天長節爆弾事件を指示した。1940年から1947年まで大韓民国臨時政府の主席であったが、李承晩と対立して1949年6月26日に暗殺された。
1896年鴟河浦事件。食事を注文した時に女給が自分より先に食膳を与えるのを見て憤慨し、閔妃殺害にはなんら関係がない日本人の土田譲亮を日帝・日本人への懲罰として殺害した。金九は後に土田のことを日本陸軍中尉と記しているが、被害者の土田は長崎県出身の商人であった。殺害後金品を奪って逃走、捕縛され、強盗殺人犯として死刑判決を受けた。後に特赦により減刑され、さらにのち、脱獄する。
資料
倭奴(ウェノム)の頭から足の先まであちこちを切りつけた。二月の寒い明けがたのことで、氷が張っていた地面に、血が泉の湧くように流れた。わたしは手でその血を掬って飲み、またその倭(ウェ)の血をわたしの顔に塗り付け…
—金九、『白凡逸志』日本語版 平凡社(1973年)79ページ
1921年、ソ連の政治資金が臨時政府に上納されていないという理由で、青年たちに韓国人の共産主義者たちの暗殺を指示。
1922年11月、金九が刺客として放った呉冕稙と盧鍾均により韓国人の共産主義者・金立が上海で狙撃殺害される。
1932年、韓人愛国団の李奉昌が昭和天皇暗殺を狙った桜田門事件、尹奉吉による上海天長節爆弾事件などのテロを指令する。
1947年12月、韓民党の党首・張徳秀を暗殺した疑いで米軍の法廷に召喚される。
評価
肯定的評価
抗日独立活動が長期に渡ったことや右翼でありながら反共よりも統一志向に基づく活動をつづけたことに加えて、独立後早くに暗殺されたことも関係してか、南北朝鮮・左右両翼から比較的尊敬されている人物として稀有な存在となっている。
否定的評価
韓国の右翼論客であり軍事評論家の池萬元社会発展システム研究所長は「金九は現代版に解釈すればウサマ・ビンラディンのような人間。国を経営できる人間ではない。実力が足りないながらも李承晩に嫉妬した人間」と評論している。
2004年7月27日、ジャーナリストの金完燮も「偏狭な儒教思想に凝り固まった無知蒙昧な人物」「金九については生まれつきの殺人鬼だと思わずにはいられない」と評論して、ソウル高等検察庁に起訴された。
⑧李承晩大統領
李承晩博士は、大韓民国臨時政府と、大韓民国の初代大統領です。
李承晩大統領は1919年4月10日、上海で結成された「大韓民国臨時政府」の初代大統領に就任。独立建国運動の中心人物となりました。
また1948年8月15日には、アメリカ合衆国後援の下、大韓民国政府樹立を宣言し、初代大統領に就任しました。
李承晩大統領は日本統治時代から独立運動の中心人物だっただけに日本を激しく嫌い、アメリカ滞在中には『日本=野蛮国論』に影響を与え、アメリカが東アジアに政治介入する政策の根拠となりました。
独島(竹島)問題の発端となった李承晩ラインをはじめとして、今日まで日本と韓国間に横たわる問題の多くが、李承晩時代に端を発しています。
李承晩大統領は失脚の瞬間まで独裁的に振る舞い、韓国国内は政治的対立で揺れ続けました。
李承晩大統領時代に朝鮮戦争が勃発し、共産主義者の粛清のため保導連盟事件をおこしました。
また済州島四・三事件、国民防衛軍事件のような失政から国民の目をそらすべく、反日政策をいたずらに煽ることにつながったとも指摘されています。
★保導連盟事件
1948年12月1日、国家保安法を制定。
1949年6月5日、要監視対象者の教化と統制をおこなう思想保護観察団体「国民保導連盟」を組織。
この組織には転向した党員が登録されたほか、抵抗を続ける党員の家族や単なる同調者に対しても登録すれば共産主義者として処罰しないとして加盟が勧められました。保導連盟に登録すると食料配給がスムーズに行われたため、食料目当てに登録した人々も多かったといわれ、民間団体が左翼取り締まりの成績を上げるために無関係な人物を登録することもあったともいいます。
1950年6月25日朝鮮戦争が勃発、27日に李承晩大統領は保導連盟員や南朝鮮労働党関係者を処刑するよう命令。
韓国軍、警察は釜山にまで後退する一方、保導連盟に登録していた人民を危険分子と見なして大虐殺を行う。
・被害者は公式に確認されているもので4934人。
・「朝鮮戦争前後民間人虐殺真相糾明と名誉回復のための汎国民委員会」:虐殺された人数 60万人~120万人
・1960年4月、全国血虐殺者遺族会が遺族の申告をもとに作成した報告書:虐殺された人数 114万人。
・韓国政府の「真実・和解のための過去史整理委員会(ko)」:子供を含む少なくとも10万人以上の人々を殺害、遺棄。
★済州島四・三事件(Wikipedia)
済州島四・三事件は、1948年4月3日から1954年9月21日までの期間に、アメリカ陸軍支配下にある済州島で起こった島民の蜂起に伴う一連の島民虐殺事件を指す。島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された。また、済州島の村々の70%が焼き尽くされた
★国民防衛軍事件(Wikipedia)
国民防衛軍事件は、朝鮮戦争中の1951年1月に、韓国の国民防衛軍司令部の幹部らが、国民防衛軍に供給された軍事物資や兵糧米などを横領した事件。横領により9万名余りの韓国軍兵士が餓死したとされる。
李承晩初代大統領(Wikipedia)
李承晩自身は李氏朝鮮の王族の分家出身であることを誇りにしていた。
1919年4月10日、上海で結成された「大韓民国臨時政府」の初代大総理に就任。
朝鮮独立から2ヵ月後の1945年10月に李承晩は在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁直接統治下の朝鮮半島に戻り、独立建国運動の中心人物となった。
1948年8月15日に、アメリカ合衆国の後援の下、朝鮮半島南部のみを実効支配する大韓民国政府樹立を宣言した。李は議会多数の支持を得て初代大統領に就任した。李政権は地主・資本家および大日本帝国統治下の朝鮮人官僚を勢力基盤としていた。
李承晩は失脚の瞬間まで独裁的に振る舞った。韓国国内は政治的対立で揺れ続けた。対立は多くの場合、「体制派と反体制派」「与党と野党」の論争というよりもむしろ「李と議会政治家たち」の軋轢であった。
李は25歳年下のフランチェスカ夫人との間に実子がいなかったため、遠縁にあたる側近で副大統領候補でもあった李起鵬の長男・李康石(イ・ガンソク)を子に迎えた。康石は1957年にソウル大学校に入学をするが、その入学が特恵措置によるものであったことから騒動となった。しかし承晩の独裁下では批判が出来ようもなく、案の定「独裁者の息子」はたびたび問題を起こし、朝鮮日報社『韓国現代史119事件』ではこう記されている。
「1957年8月、9月は李承晩政権の絶頂期。李康石は街の無法者となり、警察官を殴ったり、派出所の器物を壊して歩いても、誰も告発したり、処罰するものはいなかった。」
対日政策
朝鮮の独立運動に併合前後から関わっていた経歴から、李承晩は日本を激しく嫌った。アメリカ滞在中には併合以前の李朝を「東洋の理想国家」であったと積極的に言論活動を展開し、これがハースト系新聞によって宣伝された『日本=野蛮国論』の一部となり、アメリカが東アジアに政治介入する政策の根拠となった。
また、李承晩は朝鮮が日本統治下にあった時期の殆どを海外で過ごしていたため、日本や日本人というものをステレオタイプとして抽象的にしか理解できず、反日政策をいたずらに煽ることにつながったとも指摘されている。加えて権威主義政権として基盤の脆弱であったことや、保導連盟事件、済州島四・三事件、国民防衛軍事件の様な失政から国民の目をそらすべく、今日でも李承晩の民族主義的政策による影響は根強く残っており、日本と韓国間に横たわる問題の多くが、李承晩時代に端を発している。
保導連盟事件(Wikipedia)
保導連盟事件とは、朝鮮戦争の最中である1950年6月25日、韓国国軍、韓国警察、李承晩大統領支持者らが共産主義からの転向者やその家族を再教育するためとして設立されていた統制組織である「国民保導連盟」の加盟者や収監中の政治犯や民間人などを大量虐殺した事件。韓国では保導協会員虐殺事件とも呼ばれる。
・被害者は公式に確認されているもので4934人。
・「朝鮮戦争前後民間人虐殺真相糾明と名誉回復のための汎国民委員会」:虐殺された人数 60万人~120万人
・1960年4月、全国血虐殺者遺族会が遺族の申告をもとに作成した報告書:虐殺された人数 114万人。
・韓国政府の「真実・和解のための過去史整理委員会(ko)」:子供を含む少なくとも10万人以上の人々を殺害、遺棄。
国民保導連盟による共産主義者への弾圧
李承晩率いる大韓民国政府は、ストライキや武装闘争を挑む南朝鮮労働党(南労党)を中心とする共産勢力に対して弾圧を行い、1948年12月1日、国家保安法を制定。1949年6月5日、要監視対象者の教化と統制をおこなう思想保護観察団体「国民保導連盟」を組織し、翌年にかけて末端組織を全国に拡大した。
この組織には、転向した党員が登録されたほか、抵抗を続ける党員の家族や単なる同調者に対しても登録すれば共産主義者として処罰しないとして加盟が勧められた。保導連盟に登録すると食料配給がスムーズに行われたため、食料目当てに登録した人々も多かったといわれ、警察や体制に協力する民間団体が左翼取り締まりの成績を上げるために無関係な人物を登録することもあったともいう。
朝鮮戦争から処刑へ
1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発。朝鮮人民軍が南進しソウルに迫った。6月27日、李承晩大統領は保導連盟員や南朝鮮労働党関係者を処刑するよう命令を発し、同日中にソウルを脱出した。韓国軍、警察は釜山にまで後退する一方、保導連盟に登録していた人民を危険分子と見なして大田刑務所などで大虐殺を行った。
済州島四・三事件(Wikipedia)
済州島四・三事件は、1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮の済州島で起こった島民の蜂起に伴い、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島の李承晩支持者などが1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す。
南朝鮮当局側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察による大粛清をおこない、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された。また、済州島の村々の70%が焼き尽くされた
国民防衛軍事件(Wikipedia)
国民防衛軍事件は、朝鮮戦争中の1951年1月に、韓国の国民防衛軍司令部の幹部らが、国民防衛軍に供給された軍事物資や兵糧米などを横領した事件。横領により9万名余りの韓国軍兵士が餓死したとされる。
まとめ
①朝鮮王朝末期の混乱とキリスト教の迫害
・朝鮮は清を宗主国として鎖国政策を取っていたが、西洋の列強諸国による解放圧力。
・李氏朝鮮最後の王高宗の実父大院君と王妃閔妃との熾烈な政権闘争。
・キリスト教が弾圧され、数多くのキリスト教徒が処刑されていた。
・1876年に日朝修好条規が締結、以降閔氏政権は開国政策に切り替え、米、仏、露とも通商条約を結ぶ。
・プロテスタント諸派が朝鮮に宣教師を派遣。
・朝鮮は宗主国をロシアに変える動きを見せ、閔妃はロシアに近づき、親露政策を取る。
・1903年から1908年には韓国キリスト教のリバイバル(信仰復興)が起こった。
・1904年日露戦争が勃発し、日本が勝利し、1905年に第二次日韓協約が締結。
・1910年日韓併合の後、日本組合基督教会は朝鮮総督府より莫大な資金援助を受けて朝鮮植民地伝道を繰り広げる。
☆日本の朝鮮進出の結果
・キリスト教を迫害していた朝鮮が解放され、韓国キリスト教のリバイバル(信仰復興)が起こった。
・宗主国清国からの独立、南下政策を取っていたロシアを駆逐。
1917年にロシア革命が勃発しロシアは共産化、ソビエト連邦が発足、必然的に朝鮮も共産化されていた。
⇒1920年1月6日、文鮮明先生がメシヤとして韓半島に誕生することができただろうか?
②腐敗した朝鮮王朝と日本の朝鮮統治
・李朝末期のソウル…この世で一番不潔な町、都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい。
・両班制度…両班は公認の吸血鬼であり、ソウルには『盗む側』と『盗まれる側』の二つの身分しかない。
・朝鮮の官僚…多くの者は搾取や不正利得ができなくなるという私利私欲のために改革に反対。
・1871、72年の飢饉…朝鮮政府は利得のために鎖国を固守し、食料買い入れよりも、国民の半数が死んでいくのを放置。
☆日本の朝鮮統治
・30数年間で朝鮮半島につぎ込んだ日本国民の税金は現在の価値で63兆円、民間まで入れると80兆円をはるかに超える。
・社会政策…高等教育や義務教育制度や戸籍制度などの近代的な社会制度の整備が行われた。
・身分解放…1909年に戸籍制度を導入し、白丁など賤民にも姓を名乗らせて戸籍には身分を記載することなく登録させた。
・教育制度…1906年時点で小学校が全国で40校未満、両班の子弟は書堂と呼ばれる私塾で教育。1940年代には各種学校は1000校を超えた。
・宗教政策…李朝はカトリックへの弾圧は断続的に行われた。1895年に公称1590人の信徒が1910年には22万6791名に。
・造林事業…1911年には約4千町、1152万本だったが1922年までの累計は約36万町、10億本に至った。
・経済…鉄道、道路、上水道、下水道、電気インフラ、病院、学校、工場など、最新鋭のインフラの整備を行い、近代教育制度や近代医療制度の整備を進めた。1,527件の農業用ダムと410件の水路の建設、砂防ダム建設など水利事業も行われた。
・平均寿命…衛生指導や集団予防接種が行われ、コレラ、天然痘、ペストなどによる乳児死亡率が減少し、平均寿命は24歳から56歳まで伸びた。また農地の開発や農業技術の指導により食糧生産量も激増し、人口は併合時(1910年)13,128,780人、1944年25,120,174人となり、平均寿命も併合時(1910年)24歳だったものが、1942年には45歳まで伸びた。
食糧生産は併合前の1909年には746万石、1918年には1529万石と2倍以上に、更に1942年には2489万石なった。
・資本主義の萌芽…資本主義の萌芽が李氏朝鮮時代には存在せず、日韓併合による日本の政策によって生まれ、特に戦後の韓国の資本主義や工業化は、日本の朝鮮半島での近代化政策を模したものである。(ハーバード大学教授、朝鮮史専門カーター・J・エッカート)
☆日本の朝鮮統治の結果
・両班制度と腐敗した官僚により、李氏朝鮮時代の520年間は文化的、経済的に停滞し、王朝末期には漢陽はこの世で一番不潔な町と言われるようになり、一般民衆は疲弊し、自力では改革のできるような状況にはなかった。
・日本政府は30数年間で朝鮮半島に現在の価値で63兆円の税金、民間まで入れると80兆円をはるかに超える資金を投入し、朝鮮の近代化に寄与。
・衛生指導や集団予防接種、医療制度の整備、農地開発、農業技術指導、教育改革、身分制度の撤廃等により、民衆の生活は劇的に向上し、人口は併合時(1910年)13,128,780人だったのが、1944年には25,120,174人となり、平均寿命も併合時(1910年)24歳だったものが、1942年には45歳まで伸びた。
③朝鮮王朝末期から大韓民国建国後までの朝鮮民族の受難
☆朝鮮王朝末期のカトリック弾圧
・1801年、辛酉教獄(しんゆう):清国人宣教師ほか300名あまりを処刑。数万人が犠牲になった。
・1839年、己亥教獄(きがい):フランス人宣教師ほか200名あまりを処刑。
・1846年、丙午教獄(へいご):金大建ほか20名あまりを処刑。
・1866年、丙寅教獄(へいいん):大院君政権はカトリックへの弾圧を強化し、1872年までに8000人あまりの信徒を殺害。
☆三・一独立運動
・『朝鮮独立運動の血史』…集会参加者延べ約202万、死傷者が7509名、負傷者が15961名。
・日本警察の集計…参加人数約49万、死者357名、負傷者802名。
・三・一節:国史編さん委が初の公式集計…運動参加者103万人・死者934人(2019.2.21 朝鮮日報日本語版)
・三・一運動期間中、逮捕され起訴された総数は26865人、第一審判決で最高15年から最低3月未満までの受刑者が22275名。
日本人の憲兵6名と警察官2名が虐殺され、多くの建物が放火されたにもかかわらず、死刑を1人も求刑せず、15年以上の実刑もなく、3年以上の懲役はわずか80人に過ぎなかった。
☆李承晩大統領独裁政権時の受難
★保導連盟事件
朝鮮戦争時、韓国軍、警察は釜山にまで後退する一方、保導連盟に登録していた人民を危険分子と見なして大虐殺を行う。
・被害者は公式に確認されているもので4934人。
・「朝鮮戦争前後民間人虐殺真相糾明と名誉回復のための汎国民委員会」:虐殺された人数 60万人~120万人。
・1960年4月、全国血虐殺者遺族会が遺族の申告をもとに作成した報告書:虐殺された人数 114万人。
・韓国政府の「真実・和解のための過去史整理委員会」:子供を含む少なくとも10万人以上の人々を殺害、遺棄。
★済州島四・三事件
島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された。また、済州島の村々の70%が焼き尽くされた。
★国民防衛軍事件
国民防衛軍司令部の幹部らが、供給された軍事物資や兵糧米などを横領し、9万名余りの韓国軍兵士が餓死したとされる。
私たちは統一教会に入教することにより、日本は韓国に対し許されざる罪を犯したと教えられ、その蕩減として経済に対して責任を持たなければいけないと教育され、一方的にその言葉を信じてきました。
しかし日本による朝鮮統治時代の真実を調べると、日本が朝鮮を統治しなかったら、朝鮮半島にキリスト教は根付かず、ロシアの共産化とともに朝鮮半島も共産化され、真のお父様をメシヤとして朝鮮半島にお迎えすることは難しかっただろうことがわかります。もし迎えることができたとしてもメシヤとして成長し、使命を完遂することも難しかったのではないでしょうか?
それだけでなく、520年間の統治により腐敗した朝鮮王国を開放し、身分制度を破棄し、短期間のうちに近代化を果たした日本による当時時代は、暗黒の時代というよりは希望の時代でした。
その証拠が、朝鮮半島各地に建設された近代的建造物であり、人口は約2倍に増え、平均寿命も約2倍に伸びました。
日本による統治時代の負の歴史として今でも問題視される従軍慰安婦問題、強制徴用工問題は、捏造された事実に基づき今でも賠償を請求されていますが、朝鮮、韓国の本当の負の歴史は、朝鮮王朝末期および、李承晩時代にありました。
朝鮮王朝末期には、キリスト教の弾圧が行われ、数十万人もの命が失われました。
大韓民国が建国されてからも李承晩大統領は一説によると、共産主義者として100万人以上もの無垢の国民を殺害し、近年までその事実は隠蔽されたままでした。
一方韓国人が国を挙げて攻撃し、謝罪を要求し続ける日本による統治時代は、三・一運動期間中、日本警察の集計で死者は357名、今年発表された国史編さん委の公式集計では死者934人とされています。
キリスト教徒の弾圧や、李承晩大統領による虐殺に比べると、極端に少ない人数と言わざるを得ません。
参考までに第二次大戦以降、韓国で起こった朝鮮動乱、事件・事故による犠牲者数を挙げてみます。
・朝鮮動乱では、韓国軍は約20万人、アメリカ軍は約14万人、国連軍全体では36万人の死傷者を出したといわれ、民間人の犠牲者の数は100万人とも200万人とも言われている。
また中国軍は10万から150万人(多くの推計では約40万人)、北朝鮮軍は29万人の犠牲を出したといわれている。
・1983年9月1日のソ連による大韓航空機撃墜事件での犠牲者は269人
・1987年11月28日の北朝鮮による大韓航空機爆破事件での犠牲者は115人。
・1995年6月29日の三豊百貨店崩壊事故での死者は502人。
・北朝鮮による拉致被害者の数は、公式認定された数だけでも486人。
こうした客観的資料を比べると、日本は罪深いと言われ続けてきた内容は、確かに否定することはできない部分もありますが、日本以上に罪深い存在は他にもあった事実がわかります。
再臨主を迎える選民韓国人を迫害し、キリスト教徒を迫害したのは同じ朝鮮人であり、李承晩大統領であり、北朝鮮でした。
一方日本は、再臨主を誕生させるために韓国を保護し、キリスト教の土台を作り、再臨主を共産主義から守り育成し、韓国の近代化に寄与しました。
見方を変えると、全く違ったものが見えてきます。
日本の罪について否定できない部分はありますが、罪の程度も正しく評価されるべきであると同時に、再臨主を迎えるために日本が積んだ功績も正しく評価されるべきです。
2、日本はサタン側のエバ国への疑問
原理講論の第二次世界大戦の項目を見ると、神側の連合国、サタン側の枢軸国を次のように書いています。
神側の連合国(米、英、仏):民主主義、アベル型人生観、キリスト教支持
サタン側の枢軸国(独、日、伊):全体主義、カイン型人生観、反キリスト教的立場
そしてサタン側枢軸国を形成している日本を「大戦当時の日本の軍閥は、韓国の各教会に神道の神棚を強制的に設置させ、キリスト教信徒たちを強制的に引っ張りだして日本の神社に参拝させ、これに応じない信徒たちを投獄、殺傷した。」と表記されています。つまりこれらが日本がサタン側に区分された原理的根拠となります。
またみ言を通じ、主の国韓国は建国以来、900回以上も他国から侵略され続けても、一度たりとも他国を侵略することはなく、最後の侵略とも言える、日帝36年の時代には、日本によって歴史上最も過酷な迫害を受けてきたと教わりました。
この1905年の第二次日韓協約(乙巳保護条約)から40年間、主の国韓国を迫害したことが、日本がサタン側のエバ国となった最も大きな要因と言えるでしょう。
しかし日本による朝鮮統治時代を、歴史的資料に従い、できるだけ中立の立場で詳細を見てみると、キリスト教国家である欧米列強による植民地支配とは全く違った統治の様子がわかりました。
キリスト教国家であり、神側国家である欧米列強による植民地支配は、迫害と搾取による統治で、植民地とされたアジアやアフリカ人は虐殺され、奴隷として売られ、欧米人と同じ人間として扱われることはありませんでした。
欧米人と同等に扱われ、人としての権利が与えられたのは、日本によって欧米から解放され、第二次世界大戦が終了してから後のことでした。
また日本による朝鮮の統治は原理講論にもあるように、大東亜共栄圏構想の一環として、皇民化政策を行うことによって、神社参拝を強制したり、創氏改名などの政策も行っていました。それは朝鮮人、台湾人を大日本帝国の忠実な臣民として戦時動員体制に組み込むために実施されたものでした。
しかし一方では、今のお金に換算すると80兆円もの多額な税金や民間からの資金を投入し、道路や鉄道、生活用インフラを整備し、ダムの建設、植林、農地の開拓等国土を整備して農産物を増産し、学校を建設し、身分制度を廃止することで、結果として512年間の李氏朝鮮時代、減ることがあっても増えることのなかった人口が、一気に二倍に増えたという事実からも、朝鮮人の生活が豊かになったことを表しています。
さらには日本が朝鮮半島に進出し、統治しなかったら、李氏朝鮮時代に迫害されていたキリスト教は朝鮮に根付かなかった可能性も高かったばかりか、ロシアによって統治されていた可能性が高かったことでしょう。もしロシアによって統治されていたら、ロシア革命によってロシアが共産化されると同時に韓半島も共産化され、キリスト教が根付くどころか排除され、再臨主を迎えることさえもできなかった可能性が高かったと言えます。
石原慎太郎氏と朴正煕大統領(当時)の対話を見ると次のようにあります。
朴氏:「しかしあのとき、われわれは自分たちで選択したんだ。日本が侵略したんじゃない。私たちの先祖が選択した。もし清国を選んでいたら、清はすぐ滅びて、もっと大きな混乱が朝鮮半島に起こったろう。もしロシアを選んでいたら、ロシアはそのあと倒れて半島全体が共産主義国家になっていた。そしたら北も南も完全に共産化された半島になっていた。日本を選んだということは、ベストとはいわないけど、仕方なしに選ばざるを得なかったならば、セコンド・ベストとして私は評価もしている」(拍手)。
「石原さん、大事なのは教育だ。このことに限ってみても、日本人は非常に冷静に、本国でやってるのと同じ教育をこの朝鮮でもやった。これは多とすべきだ。私がそのいい例ですよ」
「私は貧農の息子で、学校に行きたいなと思っても行けなかった。日本人がやってきて義務教育の制度を敷いて子供を学校に送らない親は処罰するといった。日本人にしかられるからというんで学校に行けた。その後、師範学校、軍官学校に進み、そこの日本人教官が、お前よくできるな。日本の市谷の士官学校に推薦するから行けといって入学。首席で卒業し、言葉も完璧でなかったかもしれないが、生徒を代表して答辞を読んだ。私はこのことを非常に多とする。相対的に白人がやった植民地支配に比べて日本は教育ひとつとってみても、かなり公平な、水準の高い政策をやったと思う」・・・
師観のブログ 「無知から知への解放(朴正煕元大統領のお話)」より
真のお父様が日本はサタン側のエバ国家だったと言われれば、それに対して反論はできません。
摂理的に見たときそれは間違いのない事実だったのでしょう。
しかしそれは一方では神の摂理だった、日本がサタン側のエバ国家となることによって初めてなされる神のみ旨があったと考えることはできないでしょうか?
それゆえ摂理的にはサタン側に属していたとしても、神のみ旨を妨害し、摂理を失敗せようとするのではなく、メシヤを迎える基台を作り、主を迎える韓国の基盤を整備し、将来韓国がアダム国家として摂理の中心として立った時にはその相対として、神側のエバ国として立つため、あえてサタン側のエバ国家という過程を踏ませたと捉えることはできないでしょうか?
ここではこのような大胆な仮説のもとに、統一教会では語られることのなかった、活字として残ってはいないみ言を中心に推察を進めていきたいと思います。
①本来の主の国韓国の相対は日本
韓国は40数サタン分立の民族的な基台を立てることによって再臨主を迎えることができ、神側のアダム国家となることができました。
実は原理講論にあるこの内容も、厳密にいうと間違いだとよく指摘される部分です。
真のお父様が誕生されたのが1920年、原理講論には1905年から40年間、サタン分立の民族的な基台を立てたとありますので、真のお父様が誕生された1920年には、まだ40数サタン分立の民族的な基台を立てることはできていませんでした。
そこを無理に解釈するならば、40数サタン分立の民族的な基台を立てることができたのち、1945年当時のキリスト教を中心とした、洗礼ヨハネ使命者たちとの摂理が展開したと解釈すればいいのでしょうか?
とにかく韓国に再臨主を迎え、韓国が神側のアダム国家として立ち、その相対にはイギリスがエバ国家となるように摂理は進んでいました。
ところが1945年当時の摂理で、真のお父様を迎えるべきであった洗礼ヨハネ使命者やキリスト教徒たちがお父様を受け入れず、キリスト教会がお父様を迫害することによって摂理に失敗し、イギリスをエバ国家に立てることができなくなりました。
その結果サタンが最も愛した怨讐の国日本をエバ国家に選ばれたということです。
天聖教 ②日本をエバ国家に選んだ理由 (P1881~P1882,1989.2.10)
「韓国という国を生かそうとするなら、アダム国家の前にエバ国家がなければならないのです。キリスト教が反対したので、イギリスをエバ国家に立てることができないのです。ですから、サタンが最も愛した怨讐の国を立てるしかありません。サタンがキリスト教文化圏をすべて自分の側にしたので、天の側がそれを取ろうとするとすべて反対するのです。それで仕方なく日本をエバ国家に選ぶのです。」
韓国が人類が待ち望んだメシヤ降臨の主の国であり、アダム国家とするならば、当然その相対としてのエバ国家は、あらゆる面から見てアダムの相対的な位置にならなければいけないと考えられます。
そうすると、エバ国がイギリスであった場合、何から何まで相対関係が成立するのは難しいと感じてしまいます。
その具体例をいろいろな角度から考えてみたいと思います。
1、言語学的観点から
日本語の単語の多くは、中国語がその語源となっているものが多く、中国 ⇒ 韓国 ⇒ 日本 へと人が流れてくるに従い、言葉も同じ経路を伝わって流れてきたと考えられております。
例えば日本語の音読漢字は、そのまま韓国でも、中国でも、今でも通用するものが多いのです。
しかし、中国語は、韓国語、日本語というよりは語順から言っても英語に近いのに対して、韓国語と日本語は語順も同じで、文法的にも近いものがあります。
ですから日本人にとってもっとも習いやすい外国語は韓国語であり、韓国人にとってもっとも習いやすい外国語は日本語なのです。
2、民族的観点から
日本人のルーツを調べると、いろいろなルーツを見出すことができるのですが、その中でも有力な説の一つが、韓半島から来た渡来人であるというものがあります。
もともと日本にいた原日本人は、韓半島からの渡来人に追いやられ、今では北海道のアイヌ民族や、沖縄方面のみに見られるとも言います。
実際、彫が深く、毛深く、がっちりしたタイプの人達がそれに相当し、今の本州や日本列島全体に住んでいる人の多くは、韓半島から流れてきた渡来人であったとする説が有力なのです。
3、文化的観点から
日本人のルーツを示す例の一つとして挙げられるのが、天皇家のルーツです。
天皇家のルーツは、文先生のみ言でも、近海金氏と言われております。
また他にも百済が新羅に敗れたとき、百済の王族が日本に逃げ延びて、日本の天皇家となったというような話もあります。
そのため天皇家で行われる宮中行事の多くは、百済式だとも言われます。
それだけでなく、高松塚古墳をはじめとして、日本にある古墳の中に描かれている絵を見ても、韓半島から文化が伝わってきたことを示すような、多くの壁画が残されています。
最近では、日本固有の古墳形式と思われていた前方後円墳が、韓国でも多く発見されてきています。
4、歴史的観点から
日本の歴史を見たときに、日本人のルーツも、日本語のルーツも、文化的影響も全て韓半島を抜きには考えられません。
日本の書物の中でも最も古い書物の一つと言われている万葉集も、韓国語で解釈すると違った解釈ができるとも言います。
その当時の日本では、当たり前のように韓国語が語られていたというような話もあり、歴史的にも日本と韓国は深い関係を保ったまま、今日まで歴史が流れてきています。
5、地理的観点から
文先生のみ言に、韓半島は男性性器を象徴し、日本列島は女性性器を象徴しているというものがあります。
実際地理的に見て、韓半島のすぐ隣に日本があるわけですし、韓国の相対的に位置している国は日本と見ることができます。
以上のような観点から見たときに、もしエバ国が日本ではなく、イギリスだったらと考えると、言語的にも、民族的にも、文化的にも、歴史的にも、地理的にも、韓国の相対というのは、違和感を感じざるを得ません。
6、日韓トンネル
1981年11月、韓国のソウルで開催された、第10回「科学の統一に関する国際会議」において真のお父様は、人類一家族理想実現のために全世界を高速道路で結び、経済や文化交流を促進するとした「国際ハイウェイプロジェクト」を提唱しました。そしてその「国際ハイウェイ」の最初の起点となるものとして、「日韓トンネル」の建設を提案しました。
また真のお父様はみ言の中で、韓半島は男性性器を、日本列島は女性性器を象徴していると語られています。
男性性器を象徴する韓半島と、女性性器を象徴する日本を結びつける日韓トンネルが完成し、そこを車が往来するということは、それはあたかも精子が交流するかのごとき印象を受けます。つまり日韓トンネルの完成は、男女の結婚、つまりアダム国家韓国とエバ国家日本の結婚を意味するのです。
原理講論61Pを見ると、「アダムとエバが完成された夫婦として一体となったその位置が、まさに、愛の主体であられる神と、美の対象である人間とが一体化して、創造目的を完成した善の中心となる位置なのである。ここにおいて、はじめて父母なる神は、子女として完成された人間に臨在されて、永遠に安息されるようになるのである。」
とあるように、日韓が一体化したその位置が、まさしく神が臨在し、永遠に安息される、創造目的を完成した善の中心となるのです。
神が臨在し、永遠に安息される、創造目的を完成した善の中心が日韓トンネルだとすれば、アダム国家韓国の相対として立つのは日本以外にはあり得ません。
つまり神の摂理として、本来予定された創造本然の中心位置が日本と韓国であり、日韓トンネルであったとするならば、日本は神側のエバ国として元々予定されていた国であったと考えるしかないのです。
②1988年、太田会長の御言報告
日本がサタン国家となってしまったことに関して、初めて納得できたみ言が、1988年に受けたみ言の報告ででした。
その年、文鮮明先生のみ言を直接受けてきたという、当時カープの責任者だった太田洪量会長が、最新のみ言として、それまで語られたことのない内容のみ言を受けてきたということで報告してくださったのでした。
そのみ言とは、神様は人類の恩讐関係、つまり対立と闘争の姿を見たとき、その対立の中でも最も乗り越えることの困難な対立は、国家と国家の対立であると思われたというのです。
例えば100年戦争を戦ったイギリスとフランスの対立、歴史的なユダヤとアラブの対立など、どの国の対立を見ても、歴史的な恩讐を超えて、一つとなることのできる国家と国家というものを見出すことができなかったと言うのです。
しかしもし国家と国家の恩讐を超え、一つとなることのできる国があるとしたら、それは韓国と日本以外にはないと思われたのだそうです。
その結論として神様は、日本をサタンの手に委ね、日本をして40年間韓国を統治せしめたというのです。
つまり歴史的な恩讐を超え、国と国が一つとなる道を切り開くためには、韓国と日本をして、歴史的に最も恩讐関係になる必要があったため、日本をサタンの手に委ね、歴史上最大の迫害を行い、どの国の恩讐関係よりも、最も悲惨な恩讐関係を作らせたというのです。
例えば恩讐関係と言っても、ちょっと喧嘩しただけの恩讐関係の人が、先祖3代にわたっていがみ合い、憎み合っていた人たちに対して、「いつまでも恩讐関係でいるのはよくない。もうこの辺で恨みを忘れ仲直りしなさい。」などと言っても全く説得力もなく、先祖3代に渡る恩讐を解消しようなどとは決して思わないでしょう。
しかし、何十代にもわたっていがみ合い、時には殺しあうほどの恩讐関係の人、しかも自分の妻と子供まで殺されてしまったというような人が、神様の愛に出合い、「恨みは恨みしか生み出さない、愛をもって恩讐関係を清算しよう」と決意し、全ての恨みを許したとします。
そんな人が3代に渡って恩讐関係だった人に、「私も苦しかったが許してやったんだから、何とかあなたも許してやりなさい」と言ったとき、3代に渡って恩讐関係だった人も許さざるを得ない立場に立つのです。
そんな感じで、極と極の恩讐関係が、その恩讐を超えて一つになることができたら、その中間にある恩讐関係は、自動的に無くなるというのです。
そこで神様は、日本をサタンの手に委ね、40年間韓国を統治し、迫害することで、歴史上最大の国家間の恩讐関係を作ったというのです。
真のお父様は、そんな神様の意図と願いを知り、それまで摂理的サタン国家だった日本をして、神側のエバ国家として立てたというのです。
この時の真のお父様のみ言は、後にみ言として、活字になったものを読むことはできません。
(会議の中で語られたようなことを言っていたため活字にはなっていないためか?)
疑問に思われた場合は、直接太田会長にご質問いただけると感謝です。
③日本はサタン側のエバ国の結論
統一教会に入教すると、日本人はまず最初に、日本は元々サタン側のエバ国で、再臨主を迎えた主の国韓国を40年間迫害した。
再臨主、メシヤである真のお父様を最初に迫害し、拷問を加えたのも日本人だった。
それゆえ日本人は歴史上最も罪深い民族だということを徹底的に教育され、自虐史観を植え付けられます。
さらにそんな罪深い日本人を真のお父様は真の愛で許され、さらには祝福まで与えてくださった。
エバ国日本が経済的に栄え、世界第二位の経済大国になれたのも、真のお父様のおかげだ。
そんな真のお父様の愛に応えるためにも、摂理に貢献できる人材を天の前に捧げなければいけない。
そのためにはまずは人材復帰の前に象徴献祭として万物を捧げなければいけない。
世界第二位の経済大国になれたのは、日本が万物を捧げ、み旨を推し進めるために神が祝福してくれた結果なのだからと教わり、日本の蕩減のためなりふり構わず献金路程に明け暮れてきました。
そこで献金のノルマを果たすため、ヤコブの知恵を用いなさいとも教わります。
ヤコブは兄エサウから、パンとレンズマメで長子の嗣業を奪い、母リベカの協助のもとエサウと偽り、父イサクから祝福を奪いました。
つまり神のみ旨を達成するためには、イサクを騙すという小さな悪は容認される。
み旨成就という大義があれば、たとえ人を騙そうが、何をしようが、全ての行為は善であるという概念を教わりました。
同時にアベルカインの教育が徹底的になされ、アベルの言うことは神の声であり絶対である。
アベルは神の代身であり、真の御父母様の代身である。
アベルを通さないと神は絶対に働けないと教育されてきました。
それゆえ自分自身で考えることはカインの考えであり、サタンが働いてしまうと教育されます。
つまり自分で考え、自分で行動するという自立の精神が否定され、アベルに従属することこそが信仰の道を全うする唯一の道であると洗脳されます。
その結果日本人は自分で考えることをやめ、アベルの言うことだけを絶対的に信じ、ただの操り人形となり、言われるままに献金こそがみ旨であり、献金し続けることで救われると信じ込んでしまっています。
逆に言えば、今までどんなに献金してきたとしても、今の摂理、今の天の願いに応えられないことは罪であり、地獄に落ちてしまうと思い込み、恐怖観念に囚われ、献金の無間地獄に陥ってしまっています。
しかし今回エバ国日本の罪について改めて考察したとき、40年にわたる日本による朝鮮統治時代は、欧米列強による植民地支配と違い、腐敗し発展の止まった李氏朝鮮時代に終止符を打ち、近代化への道筋を作り、韓半島の発展に大きく寄与していたという事実がわかりました。
同時に朝鮮へのキリスト教の伝播に寄与し、清やロシアからの占領を阻止し、韓半島の共産化を食い止めることによって、韓半島に再臨主、真のお父様を迎える基盤を造成することに大きく貢献していたという事実もわかりました。
つまり日本による朝鮮統治がなかったら、真のお父様を韓半島に迎えることはできなかった可能性が高かったということです。
そんな事実を裏付けるようなみ言も、真のお父様によって語られていたという報告も太田会長によってなされていました。
つまり神様は、人類の恩讐関係を乗り越えるために、日本をサタンの手に委ね、日本をして40年間韓国を統治せしめたと語られていたと言います。
つまりは日本がサタン側のエバ国家となってしまったのも、全ては神の摂理であり、み旨成就のために通過せざるを得ない一つの路程であったというのです。
その事実を知っておられたがゆえに真のお父様も、サタン国家日本を神側のエバ国家にしたのであり、恩讐国家日本を愛するという真の愛を実践することもできたのでしょう。
神様の摂理を多少理解できた今、私たちが洗脳され必死に行ってきたエバ国の使命としての献金は、天に功労を積むことができているかどうかを少し考えてみたいと思います。
統一教会で言うみ旨とは何でしょうか?
以前、サタンの最後の発悪ともいえる共産主義が全世界を席巻しようとしていた時、世界的に勝共運動を展開し、世界中の政治家、宗教者、科学者、言論人に対し影響力を持とうと、各界の有名人たちを集め、各種会議を主催し、啓蒙活動を行ってきました。
同時に主要国にワシントンタイムズ、世界日報をはじめとした各種メディアを持ち、保守陣営の最後の砦とも言うべき言論機関を創設することで、地道に草の根的な啓蒙活動も行ってきました。
そのような世界的な活動を展開し、維持するためには、膨大な資金が必要となり、そのために日本からの献金は必要不可欠なものとなっていました。
実際そのような運動の成果として、共産主義の本陣であったソ連は崩壊し、国際共産主義による世界征服を防ぐことに成功しました。
我々日本人の献金が巡り巡って実を結び、サタン勢力から世界を守ることができたのです。
しかしその後、統一教会の活動で、神のみ旨と言える活動は何があったでしょうか?
共産主義が崩壊した後の1990年代以降、教会の摂理はほとんど箱モノの建設と解怨献金に変わってしまいました。
その時々で、これが最後の戦いというような煽り文句で、いくつもの箱モノを作ってきましたが、今となっては何があったのかもよく思い出せません。
天正宮のように教会の象徴的建物もありますが、麗水のホテル「ジ・オーシャンホテル」やラスベガスの「ピースパレス」等次々と箱モノ建設のためと称して献金路程を強いてきました。
その時はこの献金こそは勝利しなければいけないと一大決心をし献金をしたとしても、結局それら箱モノは作ったはいいものの維持できず、買いたたかれて安値で人の手に渡ってしまったものも多いとも聞きます。
箱モノ自体に価値があるのではなく、箱モノを作ることによって多くの幹部たちの懐を潤してくれるため、次々と献金で箱モノを作ってきたのではないかと考えてしまいます。
実際名のある幹部たちの不正蓄財は、それぞれが億単位の金額に上るともいいます。
また肥大化した組織を維持するためにも相当なお金がかかるため、教団の人件費を賄うためにも当然献金は必要となります。
さらには教会が分裂し、お互いがお互いを訴えては裁判となり、その訴訟費用もばかになりません。
汝矣島裁判のように、工事遅延の損賠賠償として、数百億円もの賠償金が発生したケースもありました。
去年聞いた噂では、その賠償金も支払っていなかったため、利子が利子を呼び、1000億円以上になっているということです。
これらもすべて献金で支払うしかありません。
そして今主流となっている先祖解怨も、神の摂理とどのような関係があるのかよくわかりません。
もちろん先祖供養は大切ですし、先祖に救われてほしいと願うのは、誰もの願いです。
先祖供養ももちろん大きな意味では世界の平和のためにも寄与することでしょう。
しかしこれはあくまでも、個人のレベルでの救いですし、家庭のレベル、氏族のレベルでの救いでしかありません。
天宙復帰を目指し、家を捨て、学校を中退し、献身者としての道を歩んだあの頃とは時代が変わってしまいました。
教団自体が自分を犠牲にし、神のみ旨のため、世界のために犠牲の道を歩んだ時代は当の昔に過ぎ去りました。
公の目的のために献金が使われれば、それはもちろん精誠条件となります。
しかし今の教会のように、自分の救いのための解怨献金、教団維持のための定例献金、箱モノを作るための特別献金等は、結局は自分のための献金でしかありません。
教団が神のみ旨を行っていない限り、それは神のみ前に精誠条件とはなりません。
自分が所属する趣味のサークルや、勉強会の会費、学校の授業料と同じ意味しか持ちません。
逆にその所属する集団が犯罪集団だったら、お金を出すことで犯罪に加担したことになり、罪になってしまいます。
教会に献金すれば無条件精誠条件を積むことができるなどと信じていてもいいのでしょうか?
今一度献金について、教会のあり方について、自分の頭で考えてみてもいい時なのではないでしょうか?
★ヤコブの知恵
また私たちが洗脳され、目標達成のために自己正当化するための理論「ヤコブの知恵」について考えてみます。
ヤコブはパンとレンズ豆でエサウから長子の嗣業を譲り受けました。
しかし母リベカの協助のもと、自らをエサウをと偽り、イサクからの祝福を奪いました。
教会ではこれをヤコブの知恵と称し、神のみ旨を成就するためには、たとえ相手を騙そうとも、それが条件となり神のみ旨を推し進めることができる。結果的に本人は自覚していなかったとしても条件を立てることができ、神のみ前に復帰されることが許されるようになるというように、自己正当化してきました。
果たして本当にそうなのでしょうか?
ヤコブはエサウに対し、常日頃から僕の僕のように誠心誠意仕えていたのなら、ヤコブが長子の嗣業が欲しいと言ったとき、エサウは自分は欲しいものはもう既にすべて持っているとし、すんなりと長子の嗣業を譲ってくれたかもしれません。
またイサクの祝福も、ヤコブは常日頃エサウに仕え、イサクに仕えていたなら、エサウから私はもう既に欲しいものはすべて持っているからと言ってイサクの祝福も譲ってくれていたかもしれません。
つまりはヤコブは、僕の僕の路程を誠心誠意歩んでいたならば、知恵など用いなくてもイサクとエサウから認められる存在となっていたかもしれません。
それが神がヤコブに与えた、最高の勝利の路程であり、そんな路程を私たちも歩まなければいけないのではないでしょうか?
つまりヤコブの知恵などというものは、本来僕の僕として勝利できた路程に失敗し、もうこれ以上失敗できない状況に置かれたときに、やむをえず行った最終手段だったのではないでしょうか?
これはあくまでも最終手段であり、諸刃の剣のようなもので、人を傷つけると同時に下手をしたら自分をも傷つけるものだといえます。
実際エサウを騙したヤコブはエサウの怨みを買い、殺されそうになり、21年間もの間カナンの地には戻ってくることもできませんでした。
結論としていえることは、ヤコブの知恵と言って自分たちの行動を自己正当化するような行為は本来行うべきではなく、原理的にはあくまでも僕の僕となって仕えることで復帰することこそ、私たちがカイン世界で歩むべき本来の道であると言えます。
いわえる「ヤコブの知恵」に対する金オンピル先生の見解(2002年10月27日新宿教会)
「メシヤのためであるなら、あるいは大義があれば、何をやっても許される」という誤った考えを持っている食口はいないでしょうか?
「国のためであれば、個人を苦しめることもありうる」とか、あるいは、「み旨のためであれば、サタンの物は奪って来ても許される」と、考えている人はいないでしょうか?
「3倍以上、返してあげなければいけない」という真のお父様のみ言を、よく考えてみてください。
うそはうそであり、どろぼうはどろぼうです。ただそれが、戦争などの状況下にあっては、一時的に許される、同情されうる、ということは、ありうるかもしれません。でも、「間違ったことは間違ったことである」と、はっきり知らなければなりません。
聖書の中にも、うそをついて奪って来た例があります。「サタンがうそをついて奪って行ったので、『蕩減復帰』の原則により、神側もうそをついて奪って来ても、罪にならない」と考えて、行動を正当化する人が、もし、いたとしましょう。
しかし、それは、うそはうそなのです。ヤコブの時も、うそをつかなかったとするならば、21年の苦役路程はなかったかもしれないのです。
戦時下で生命が懸かっている時に、人のいない家からお米を持って来ることは、状況的に考えて許されるとしても、それがそのまま善であるとは言えません。それ自体が善なる行為であると言うことはできないのです。それを私たちは、真のお父様のこのみ言と行動を通して、はっきりと理解しておく必要があります。
「あなたがやったことは赦され、同情されるかもしれない。しかし、善ではない」ということです。
ですから、後でこれを3倍以上、返すことによって償うこととなるのです。このような出来事を通して、私たちは本当に真のお父様の伝統を学んでいかなければならないということを感ずるのです。
★アベルカイン
次にアベルカインについて考えてみたいと思います。
教会ではアベルは神の代身であり、真の御父母様の代身である。ゆえにアベルのみ言は絶対だとして、アベルに対して従順屈服を強要されます。
しかし果たしてアベルカインの原則とはそういうものなのでしょうか?
結論を言えば間違っています。
アベルとカインは一方的な主従関係ではなく、元々兄弟関係です。
カインが兄で、アベルが弟です。
ですから本来は、アベルよりもカインの方が神に愛され、実力的にも上なのです。
しかし堕落の結果、神がより愛されるカインがサタンに奪され、神から遠い存在に堕ちてしまった結果、カインはアベルを通してしか神の前に帰ることができなくなったのです。
それゆえ教会では、組織の上にくるものがアベルであり、カインが下にくるのです。
神はアベルを通じてしか働くことができないため、カインはアベルのみ言に従うしかなくなるのです。
しかしアベルに従うということは、アベルの言うことを無批判的に一方的に受け入れ、ただ言われるままに従順に従わなければいけないということではありません。
カインはカインの責任分担として、自分の意見をアベルに提言する必要があります。
言うべきことはすべて言い、アベルとともに意見を闘わし、最終的な判断をアベルに委ねるというのが本来のアベルカインの原則です。
一旦アベルが判断を下したら、カインもその判断には従わなければいけません。
このように最終的にはアベルの判断にカインは従わなければいけませんが、カインの責任分担としてカインも意見を言わなければいけないというところがいつの間にか消えてしまい、統一教会はカインはアベルに絶対従順屈服、絶対服従という組織になってしまいました。
そのため教会組織の上部に位置する幹部たちは、真のお父様のみ言と言いながら、実際は自分たちの意のままに指示を出し、日本人食口たちはその指示を言われるままに受け入れ、献金路程を歩んできました。
疑問があったとしても質問することも許されず、ただただノルマを果たすために、一般教会員から献金をむしり取るのが恒常化してしまいました。
一般社会ならば監査が入り、組織が正常な運営をしているかどうかをチェックするシステムが存在します。
しかし教会組織では、カインの立場の者がアベルの立場の者をチェックするシステムもないため、不正し放題の組織となってしまいました。
韓国人食口たちは信仰を持った時から、自分たちは神の選民であるという、絶対肯定で信仰をスタートしました。
その上韓国人の国民性として、自己否定が苦手で、自分を正当化するために平気で嘘をつく性質を持っています。
もともと自己否定が苦手で、自分の堕落性と闘おうとしない上に、選民であるという絶対肯定の信仰を持ったわけですから、あとは推して知るべし、あたかも自分たちは両班であるかの如くに振舞ってしまいます。
両班思想も韓国人の根底に根付いていますので、たとえ日本人食口たちが献金でどれほど苦しもうが、両班には関係のないこと、罪深き奴婢のごとき日本人は、苦労して当たりまえと考えるのが自然の成り行きです。
韓国に住み、日本の現状を知らない食口たちならまだ理解はできます。
しかし韓国在住の韓国人幹部以上に、日本に責任を持ってきた、日本の食口の現状を実際に自分の目で見て知っている日本の総会長たちの方が、より大きな私財を築いたという話は、信じがたいものがあります。
あれだけみ言を語り、一見親身になって日本人食口たちを指導していた責任者たちは、原理を理解していたのでしょうか?
統一教会がなぜ堕落してしまったのかを考えると、このアベルカインという問題が大きく作用していたと考えざるを得ません。
(3)真のお父様を最初に迫害し拷問を加えたのは日本人
真のお父様は、生涯6度の監獄生活を経験されました。
もちろんそのすべてが、無実の罪で投獄されたものであり、文先生を良く思わなかった人たちによって受けた迫害でした。
①1944年10月:京畿道警察部、共産主義者の疑いをかけられ、日本の警察による拷問。
原因者:抗日闘争時の共産主義者の友人が文先生の名前を出し、共産主義者の疑いをかけられ逮捕。
執行者:日本の警察。
結果 :拷問を受けながらも、友人の名前を吐かずに解放
②1945年10月:定州において約1週間収監され、過酷な牢獄生活。
③1946年 8月11日:北朝鮮平城の大同保安署、キリスト教指導者の反感と李承晩のスパイの容疑で拘束。
迫害者:共産党の宗教弾圧。キリスト教指導者の反感。
執行者:北朝鮮の共産党員、ソ連の調査官。
結果 :文先生はほとんど死んだような状態で門の外に放り出されて釈放。奇跡的に生き返る。
文先生を受入れなかった許孝彬集団は、1950年に韓国戦争が起きた時、共産党によりすべて虐殺。
④1948年 2月22日:キリスト教既成教団の嫉視と共産党当局の宗教抹殺政策により内務署拘束。
5年刑の宣告で平城刑務所に収監。興南特別労務者収容所にて強制労働。
迫害者:既成教会の牧師たちによる告発。
執行者:北朝鮮の共産党。
結果 :文先生は2年8ヵ月の間、興南肥料工場で強制労働。
国連軍の興南爆撃により、2日の違いで死を免れ解放。
⑤1955年 7月 4日:異端的信仰を理由にソウル中部警察署に拘束、西大門刑務所に収監・・・梨花女子大学事件。
迫害者:梨花女子大総長金活蘭、副総長朴マリヤ、李起鵬長官、大統領夫人フランチェスカ、米国宣教師たち、李承晩主権下の五大長官、崔ソンモ、韓国既成教会と政府等の国家的な反対。
執行者:韓国警察
結果 :文先生は無罪釈放
迫害の中心人物であった朴マリヤ、李起鵬夫婦は、長男の手によって次男とともに射殺。
李博士、金活蘭も哀れな末路。
⑥1984年 7月20日:脱税容疑でアメリカ、コネチカット州ダンベリー連邦刑務所に収監。
迫害者:政府権力の濫用と宗教的迫害
執行者:アメリカ政府
結果 :『宗教の自由』の名にかけて、アメリカのキリスト教会が統一教会と一体化。
①の最初の獄中生活では、文先生は日本留学時代、一緒に抗日運動をしていた共産主義者の学生によって名前を出され、共産主義者の疑いをかけられて、筆舌に尽くすような拷問を受けられました。
これはいわば、イスカりオテのユダのような立場に立つのが、日本留学時代の同志であった、共産主義者の韓国人留学生であったと思われます。その同志によって共産主義者の疑いをかけられた文先生は、日本人によって拷問にかけられたわけですから、日本人はイエスに槍を刺したローマ兵のような立場に立ちます。
よって1回目の獄中生活において、より罪深い立場に立つのは、文先生と共に日本に留学していた、共産主義を信じる韓国人留学生であったということがわかります。
②の牢獄生活は、韓国が主権を取り戻した後でありましたので、文先生に過酷な牢獄生活を強いたのは韓国人だったと思われます。
③と④の北韓での獄中生活は、既存教会の指導者たちによる嫉視と、共産党当局による宗教弾圧によるものでした。よって文先生を直接に迫害したものは、北朝鮮のキリスト教指導者たちであり、北韓の共産党、すなわち文先生と同族の韓民族によるものでした。
しかもこの時の迫害は、③の時は、あまりにもひどい拷問によって、生死の境を彷徨うほどの拷問でありましたし、④の時は、あと2日解放が遅れたら、共産党によって文先生の命も奪われていたであろうギリギリのところでの解放でした。
⑤の西大門刑務所での獄中生活は、梨花女子大総長金活蘭、副総長朴マリヤ、夫の李起鵬長官、大統領夫人フランチェスカ、米国宣教師たち、李承晩主権下の五大長官、崔ソンモらによる、韓国既成教会と政府による国家的な迫害でした。
彼らは全て神が用意した洗礼ヨハネ的な立場に立つ人物であると同時に、イエス当時の律法学者、パリサイ人らに相当するような人物たちでした。つまり神が用意した韓国人の摂理的重要人物たちであり、次の摂理のために用意されたアメリカ人宣教師たちでありました。
⑥のアメリカコネチカット州ダンべりーでの獄中生活は、アメリカ政府が文先生を直接に迫害したものでした。
こうして分析的にみてみると、6度にわたる牢獄生活は、神が6000年かけて用意した摂理的中心人物たち、つまり神の選民として立てられた韓民族、キリスト教徒、それにアメリカによる迫害の結果であったことがわかります。
確かに真のお父様を最初に迫害し、拷問まで加えたのは日本人でしたが、それは共産主義が世界に拡大するのを食い止めるためという、摂理的にはより神側の動機によるものでした。同時にそれは、日本留学時代に共に抗日運動をしていた韓国人留学生による密告でしたので、真のお父様を日本に売り渡したのは、イスカりオテのユダのような立場に立つ韓国人留学生だったということです。
真のお父様の路程も、日本留学時代、そして韓国に帰国して第一のお母様と結婚し家庭を持つまでは、真理探究時代と位置付けられます。具体的な伝道活動は行わず、教会に通い奉仕活動を行いながら聖書の探求に没頭していました。そんな中で『神様と私たちは父と子の関係である。それゆえ、神様は人類の苦痛をご覧になって、あのように悲しんでいらっしゃるのだと悟り、宇宙のあらゆる秘密が解かれた』と語られています。
1946年5月27日、啓示を受け北朝鮮に向かってからが本格的伝道路程が始まりますので、つまりそこからがメシヤとしての公式路程と見ることができます。そうすると3回目からの牢獄生活が、メシヤに対する迫害と判断することができます。
つまりメシヤとして、再臨主としての真のお父様を迫害し、拷問を加え、死の寸前にまで追いやった人々というのは、神が2000年間かけて準備した選民である韓民族であり、キリスト教徒達であったということです。
2000年前イエスを十字架に着けた罪で2000年間、その罪の蕩減を受けなければいけなかったのがまさしく神が準備した選民、ユダヤ人達であったように、韓民族とキリスト教たちは全く同じ過ちを犯してしまっていたのです。
こうしてみると、2000年間待ち望んだメシヤ、再臨主である真のお父様を直接迫害した罪深き人たちというのは、日本人ではなく韓民族であり、キリスト教徒達であったということがわかります。
この事実から見ても、真のお父様を最初に迫害したエバ国日本の罪は、全く無いとは言いませんが、韓民族やキリスト教徒たちの罪に比べると、比較の対象にもならないほどであると結論付けられるのではないでしょうか?