文鮮明自叙伝教訓から学ぶ人生哲学

文鮮明自叙伝教訓から学ぶ人生哲学

<自然・真の愛・人生>

・真理

「神様と私たちは父と子の関係である。それゆえ、神様は人類の苦痛をご覧になって、あのように悲しんでいらっしゃるのだ」 (P88)

・自然

「私が森を愛したのも、その中に世界のすべての平和に通じるものが宿っていたからです。森の中の生命は争いません。もちろん互いに食ったり食われたりですが、それは空腹で仕方なくそうしているのであって、憎しみからではありません。鳥は鳥どうし、獣は獣どうし、木は木どうし、互いに憎むことはありません。憎しみがなくなれば平和がやって来ます。同じ種どうしで互いに憎しみ合うのは人間だけです。国が違うといっては憎み、宗教が違うといっては憎み、考えが違うといってはまた憎むのです。」 (P15)

「心ががらんと開け、自然を全身で受け入れれば、自然と私は別々のものではなくなります。自然が私の中に入ってきて、私と完全に一つになるのです。自然と私の間の境界がなくなる瞬間、奥妙な喜びに包まれます。自然が私になり、私が自然になるのです。
ある人は無我の状態だとも言いますが、私を完全に開放したところに自然が入ってきてとどまるのですから、事実は無我を超えた状態です。」 (P50~51)

「ちっぽけな砂粒一つにも世の中の道理が入っており、空気中に浮かぶ埃一つにも広大無辺な宇宙の調和が入っています。私たちの周りに存在するすべてのものは、想像もできないほどの複合的な力が結びついて生まれているのです。また、その力は密接に連関して相互につながっています。大宇宙のあらゆる存在物は、一つとして神の心情の外で生まれたものはありません。木の葉一枚揺れることにも宇宙の息遣いが宿っています。」 (P51)

「自然はあらゆる要素が一つのハーモニーをなして、偉大で美しい音を作り出します。誰一人として排除したり無視したりせず、どんな人でも受け入れて調和をもたらします。自然は、私が困難にぶつかるたびに私を慰めてくれたし、絶望して倒れるたびに私を奮い立たせました。大都市に生きる最近の子供たちは自然と親しむ機会すらありませんが、感性を教え育むことは知識を養うことより重要です。自然を感じる心がなく、感性が乾いた子供であるならば、誰が教育したところで何が変わるでしょうか。せいぜい世間に広まった知識を積み上げて個人主義者になるだけです。そんな教育では、物質を崇拝する唯物論者ばかりを作り出すことになってしまいます。」 (P52)

「自然との交感を楽しめる人であってこそ正しい人格が身に付くと言えます。道端に咲いたタンポポ一本が天下の黄金よりも貴いのです。自然を愛し、人を愛することのできる心を備えておくべきです。自然も、人も愛せない人は、神を愛することはできません。神が創造された万物は神ご自身を表す象徴的な存在であり、人は神に似た実体的な存在です。万物を愛することのできる人だけが神を愛することができます。」 (P52)

「波が荒々しく、風が激しく吹きつける中でも、魚は水の中でぐっすり眠っています。波に体を預けて眠るのです。それで、私も魚に学びました。いくら荒々しい波が押し寄せてきても恐れないことです。波に体を預けたまま、私も船と一体になって波に乗ることにしました。すると、どんな波に直面しても、私の心は動揺しませんでした。海は私の人生の素晴らしい師です。」 (P176)

「自然は神様が下さったものです。神様は自然を通して私たちに語りかけます、一瞬の快楽とわずかなお金のために自然を破壊するのは罪悪です。私たちが破壊した自然は、巡り巡って、害となって私たちに返ってきて、子孫を苦しめることになります。私たちは自然に帰り、自然が話す声を聞かなければなりません。心の門を開き、自然の声に耳を傾けるとき、自然の中から伝わる神様のみ言を聞くことができる」 (P185)

「自然を大切にして愛することは、神様を愛することと同じです。神様がつくられたすべての存在を愛の対象として感じなければなりません。博物館にある一つの作品がいくら立派だとしても、生きている神様の作品には及びません。道端に咲く一輪のたんぽぽが新羅の金の冠より貴いのです。」 (P316)

・真の愛

「日本の植民地統治時代と北朝鮮の共産政権、大韓民国の李承晩政権、そしてアメリカで、生涯に六回も主権と国境を越えて、無実の罪で牢屋暮らしの苦しみを経て、肉が削られ血が流れる痛みを味わいました。しかし今、私の心の中には小さな傷一つ残っていません。真の愛の前にあっては、傷など何でもないのです。真の愛の前にあっては、怨讐さえも跡形もなく溶けてなくなるのです。」 (P5)

「真なる愛は、与え、また与えても、なお与えたい心です。真なる愛は、愛を与えたということさえも忘れ、さらにまた与える愛です。私は生涯、そのような愛に酔って生きてきました。愛以外には、他のどのようなものも望んだことはなく、貧しい隣人たちと愛を分かち合うことにすべてを捧げてきました。愛の道が難しくて涙があふれ、膝をへし折られても、人類に向かう愛に捧げたその心は幸福でした。」 (P5~6)

「真の愛を土台として明確な自我意識を持ち、自分自身を自らコントロールできてこそ、本当の意味での自由をつかむことができる。」 (P185)

「真の愛とは、自分の命までも捨てることができるものです。そこにはいかなる計算もありません。」 (P219)

「父母はいくらつらくても愛の道を行きます。愛の前に自分の命を投げ出していくのか父母の心であり、真の愛です。」 (P219)

「家庭とは、言葉にしただけで自然と口元から笑みがこぼれる存在です。家庭には、心から私のためにしてくれる真の愛が満ちあふれているからです。真の愛は、愛を与え、そして愛を与えたことさえ忘れてしまうものです。父母が子供のために生きる愛、祖父母が孫に与える愛が真の愛です。国のために命を捧げることもまた、真の愛です。」 (P220~221)

・愛

「私は誰とでも気持ちがすっと通じます。お婆さんが来ればお婆さんと友達になり、子供たちが来れば子供たちとふざけたりして遊びます。相手が誰であっても、愛する心で接すればすべて通じるのです。」 (P76)

「この世で最も力強いのが愛であり、一番恐ろしいのは精神統一です。心を落ち着かせ静めていくと、心の奥深い所に心が安らぐ場があります。その場所まで私の心が入っていかなければなりません。心がそこに入って眠って目覚める時には、精神がとても鋭敏になります。まさにその時、雑多な考えを排除して精神を集中すればすべてのことに通じます。疑問に思ったら、今すぐにでもやってみたらよいでしょう。この世のすべての生命は、自分たちを最も愛してくれる所に帰属しようとします。ですから、真に愛さないのに所有し、支配することは偽りなので、いつかは吐き出すようになっているのです。」 (P50)

「私に取り柄があったとすれば、神を切に求める心、神に向かう切ない愛がそれだったと言えます。いつ、いかなる場所でも最も大切なものは愛です。神は、愛の心を持って生き、苦難にぶつかっても愛の刀で苦悩を断ち切れる人を求めて、私を呼ばれたのです。私は何も自慢できるものがない田舎の少年でした。この年になっても、私はただひたすら神の愛だけに命を捧げて生きる愚直な男です。」 (P67)

「愛が自分のためのものではないように、幸福と平和も自分のためのものではありません。相手のいない愛がないように、相手のいない理想と幸福、平和もありません。これらすべては、人との関係から始まるものです。一人で愛してできることは何もなく、一人で立派な理想を夢見て成し遂げられるものは何もありません。一人では、幸福になることも、平和を語ることもできません。必ず相手がいなければならないということは、私よりもその相手がより大切だという意味です。」 (P235)

「真実な心で愛を分かち合えば、越えられない壁はなく、成就できない夢はありません。」 (P275)

・神の道

「神の道を行く人は、常に全力で事に当たり、心を尽くして、その目的地に向かって行かなければなりません。この道には執念が必要です。」 (P66)

「神様が十五歳の私に現れたのは、人類始祖の犯した罪の根が何であるかを伝え、罪と堕落のない平和世界を築こうとされたためでした。人類が犯した罪を贖罪し、太古の平和世界を復元するように、というのが、私が神様から授かった厳重なみ言でした。神が願う平和世界は死んでから行く天国ではありません。神の願いは、私たちが生きるこの世の中が、太古に創造されたその場所のように、完全に平和で幸福な世界になることです。神は人類に苦痛を与えたくて、アダムとエバを誕生させたわけではないのです。」 (P89)

「神の道を行くと決めた以上、すべての歩みは神の支配下にあります。祈りを通して時を知れば従わざるを得ません」 (P90)

「神のみ言は厳しいものです。み言を受けたら、従順に順応しなければなりません。」 (P96)

「神の仕事をする者には、私的な母子の因縁よりは、たった一人であっても暖かく着せ、もっとおなかいっぱい食べさせることのほうが重要だったからです。」(P114)

・信条

「曾祖父は、酒もたばこも口にせず、そのお金でよその人にご飯を一杯でも多く食べさせようとし、そうすることに生き甲斐を感じる人でした。『八道江山(全国)の人に食事を振る舞えば、八道江山から祝福が集まる』・・・これが亡くなる際に残した言葉です。」 (21P)

「小手先の企みで真理を曲げることはできない。真というものは、そんな企みに屈するものではない。小手先の企みで何をしようと、数年も経たずにぼろが出るものだ。」 (P36)

「知恵のある人は、どんなに困難でも、未来への希望を抱いて黙々と歩いていきますが、愚かな人は、目の前の幸福のために未来を無駄に投げ捨ててしまいます。」 (P66)

「『宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ』―――これは、その頃の私の座右の銘です。先に身心を鍛練してこそ、次には国を救い、世の中を救う力も持てる、という意味です。私は、食欲はもちろん、一切の感性と欲望に振り回されないで、体と心を自分の意思どおりにコントロールできるところまで、祈りと瞑想、運動と修錬によって自分を鍛錬しました。そこで、ご飯を一食食べる時も『ご飯よ、私が取り組む仕事の肥やしになってほしい』と念じて食べ、そういう心がけでボクシングもし、サッカーもし、護身術も習いました。」 (P70)

「私たちはあらゆることに精いっぱいの誠を尽くすべきです。それも一日、二日ではなく、常にそうすべきです。刀は一度使っただけで磨かないと、切れ味が悪くなってしまいます。誠も同じです。毎日刀を研ぐという心で、絶え間なく継続すべきです。どんなことでも誠を尽くせば、我知らず神秘の境地に入っていくようになります。」 (P71~72)

「助け合うこともまた、天が結んでくれる因縁です。・・・突然私の前に助けを乞う人が現れたら、『天がこの人を助けるようにと私に送られたのだ』と考えて、心を込めて仕えます。天が『十助けなさい』と言うのに、五しか助けないのでは駄目です。『十を与えよ』と言われたら、百を与えるのが正しいのです。人を助けるときは惜しみなく、財布をはたいてでも助けるという姿勢が大切です。」 (P74)

「陰徳を受けたときは、必ず、もっと大きくして返すのが人の道です。しかしその人に直接会えないこともあるでしょう。恩恵を施してくれた人に直接会えなかったとしても、大事なのはその人を思う心です。ですから、その人に会えなくても、受けた恵みを今度は他の人に施そうという一途な心で生きるのがよいのです。」 (P77)

「私は労働者の中の労働者であり、労働者の友達でした。汗のにおいと小便のにおいが漂う彼らと肩を並べて、私もまた作業現場に行って、汗を流して働きました。彼らは私の兄弟だったのであり、それゆえに、ひどいにおいも気になりませんでした。真っ黒なシラミが列をなして這っている汚い毛布も、彼と一緒に使いました。何層にも垢がこびりついた手も、ためらわずに握りしめました。垢まみれの彼らが流す汗には粘っこい情けがあり、私はその情けが面白くて好きでした。」 (P82)

「私はいつも空腹でしたが、いくらおなかが空いても、自分のために食べることはしませんでした。ご飯を食べる時には、はっきりした理由がなければならないと考えました。それで食事のたびに、おなかが空いた理由を自らに問いただしてみました。『本当に血と汗を流して働いたのか。私のために働いたのか、それとも公的なことのために働いたのか』と尋ねてみました。ご飯を前にするごとに、『おまえを食べて、きのうよりもっと輝いて、公的なことに取り組もう』と言うと、ご飯が私を見て、笑いながら喜んだのです。そんなときは、ご飯を食べる時間がとても神秘的で楽しい時間でした。そうでなければ、どんなにおなかが空いても食事をしなかったので、一日に二食食べる日もそれほど多くはありませんでした。
元から食べる量が少なくて一日二食で我慢したのではありません。若い盛りでしたから、私も食べ始めればきりがありませんでした。・・・食欲旺盛だったのに、昼食を抜いて一日に二食しか食べない習慣を三十歳過ぎまでかたくなに続けました。」 (P83~84)

「ボムネッコルに土壁の家を建てて教会を始めた当初、私の話を聞いてくれる人はたったの三人だけでした。それでも、三人に話をするとは考えず、たとえ目に見えなくても数千、数万、いや人類全体が私の前にいると考えて話をしました。全世界に向けて爆発するような大音声で、昼夜を分かたず私が悟った原理のみ言を伝えました。」 (P127)

「『誠を投入せよ! 眠けの中でも投入せよ! へとへとになるまで投入せよ! おなかが空いても投入せよ!』と何度も何度も自分に言い聞かせ、ありとあらゆる反対とデマの中にあって、種を蒔く心情で祈りました。そして、その種は大きく育って必ず穫り入れられるだろうし、韓国で穫り入れが難しければ、間違いなく世界で穫り入れられるだろうと考えました。」 (P148)

「一般に奇跡といわれるものは世の人々を惑わすのです。奇跡にすがりつくのは正しい信仰とは言えません。人間の罪は、必ず贖罪を通して復帰しなければならないのです。霊的な能力に期待しては絶対に駄目です。」 (P150)

「信徒の数は次第に増えましたが、数十人だろうと数百人だろうと、私は一人だと思って向き合いました。どんなお婆さんでも、どんな青年でも、その人一人だけを相手とするように、精いっぱいの真心を込めて話を聞きました。『韓国で私の話を一番よく聞いてくれる人は文先生だ』という言葉を、信徒全員から聞きました。」 (150P)

「私は本当に人の話を聞くのが好きです。誰であろうと自分の話をし始めると、時の経つのも忘れて聞くようになります。十時間二十時間と拒まずに聞きます。話そうとする人の心は緊迫していて、自分を救ってくれる太い綱を探し求めるのです。そうであるならば、私たちは真心を込めて聞かなければなりません。それがその人の生命を愛する道であるし、私が負った命の負債を返す道でもあります。生命を尊く思って、敬い仰ぐことが一番大切です。嘘偽りなく心を尽くして人の話を聞いてあげるように、私自身の真実の心の内も真摯に話してあげました。そして、涙を流してお祈りしました」 (P150~151)

「私は生涯を祈りと説教で生きてきました。しかし、今でも人々の前に立つ時は恐ろしさを感じます。人の前で公的な話をするということは、数多くの生命を生かしもすれば殺しもすることだからです。私の言葉を聞く人を生命の道に導かなければならないということは、本当に重大な問題です。生死の分岐点に立って、いずれが生の道であり死の道であるかをはっきりと判定し、心の底から訴えなければならないのです。」 (P152)

「私は公の席に出る前には、必ず十時間以上お祈りをして真心を捧げます。そうやって根を深くするのです。・・・言葉が舌足らずでも真実の心さえあればよいのです。」 (P152)

「研究もたくさんしました。一つの地域に一隻ずつ船を出し、海水の温度を測り、日ごとにマグロがどのくらい捕れるかを調査して、図表を作成し、統計を出しました。専門家が作った統計を手に入れて書いたのではなく、信徒たちが直接海に入り、潜水して作成しました。その地域の有名な大学教授が研究した結果は参考にするだけで、私が直接その地で暮らしながら、一つ一つ確認しました。ですから、私たちが作った資料ほど正確なものはありませんでした。
そうやって苦労して作った資料でしたが、独占せずにすべての情報を水産業界に公開しました。それが終わると、今度は他の海を開拓しました。」 (P173)

「私は『アラスカ精神』という言葉を好んで使います。早朝に起きて海に出て行き、その日に釣るべき責任量を釣ることができなければ、その量を満たすところまで魚を釣ってから帰ってくるのが『アラスカ精神』です。」 (P306)

・良心

「自分の最も親しい先生は自分の良心です。最も親しい友人よりも貴く、父母よりも貴いものが自分の良心です。ですから、一生を生きていきながら、最も親しい先生であるこの『良心』に、『私は今、正しく生きているか?』といつも尋ねなければなりません。良心が自分の主人だという事実を悟り、心を磨き、生涯親しく過ごしてみれば、誰もが良心の声を聞くことができます。良心が涙をぽろぽろ流して泣く声を聞いたら、その時にしていることはすぐ止めなければなりません。良心を苦しめることは、自らを滅ぼすことだからです。良心を悲しませることは、結局、自らを悲しみに陥れることです。」 (P234)

・習慣

「食欲はもちろん、一切の感性と欲望に振り回されないで、体と心を自分の意思どおりにコントロールできるところまで、祈りと瞑想、運動と修練によって自分を鍛錬しました。」

「日々新たに悟るすべての内容を几帳面に日記帳に書き留めることにしました。悟りの多い日は一日で一冊の日記帳を使い切ることもありました。」 (P88)

「心を明るくし、清めようとすれば、世の中の喧騒を離れて、私と私の心、この二つだけが対面する時間が必ず必要です。とても孤独な時間ではありますが、心と親しくなる瞬間こそ、私自身が心の主人になる祈りの場であり、瞑想の時間です。周囲の騒々しさを避けて、心を静めていけば、心の中の最も深い所が見えてきます。心が落ち着くその深い場所まで降りていくためには、多くの時間と労力を注がなければなりません。一日でできることではありません。」 (P234~235)

「体は健全な精神が宿る器です。体を鍛錬することを怠ってはいけません。」 (P328)

・志

「初め志を立てるときは自ら進んで高い目標を掲げ、私欲などというものは毛の先ほども許してはならない」 (P34)

「勉強して未来に備えることよりもっと大切なことは、志を立てることです。無条件に勉強に追い立てられる前に、将来自分が何をしたいのかを決め、自分がどれくらい役に立つ人間にならなければならないかを自ら悟らなければなりません。最近の青少年は大部分、志を立てないまま勉強にばかり没頭しています。」 (P329)

「志を立てるときは、心を広く持ち、必ず全世界を見渡してみてください。」 (P331)

「職業は、全面的に自分の素質と趣味に沿って決定しなければなりません。・・・
志を立てるということは、自分が生きていく人生の意味を決めることです。・・・
もし、皆さんの心に抱いた志が明確でなければ、世界の頂点に立つまでのつらい訓練に耐えることができません。志があってこそ、自分を守っていく力が湧き、特別な人生を生きていくことができるのです。」 (P330)

・グローバルリーダー

「指導者の心が正しく立たなければ、国と民族は行き場を失って彷徨うことになるでしょう。悪しき指導者は自らの腹黒い野心を満たすために宗教と民族主義を利用します。宗教と民族主義の本質は悪いものではありませんが、それらは世界共同体に貢献してこそ価値があるのです。私の民族、私の宗教だけを絶対視して、他の民族と他の宗教を無視して非難するとすれば、その価値を失ってしまいます。自分の宗教を押し立てて人を踏みにじり、人の宗教を大したことないと見下して、憎悪の火を燃やして紛争を起こすとすれば、そうした行為は既に善ではないからです。私の民族だけ私の国だけが正しいと主張することも同様です。
お互いを認め合い助け合って生きる―――これが宇宙の真理です。」 (P18)

「何であっても、まずリーダーが先にやれば、付いてくるようになっています。」 (P174)

「グローバルリーダーは、地球上のあらゆる問題を自分の問題と考え、それを解決しようとする開拓者の精神を持たなければなりません。・・・未来に何が待っているかよく分からなくても、世界がすべて自分の国であり、全世界の人類がすべて自分の兄弟だという意識があってこそ、グローバルリーダーになることができるのです。」 (P334)

「私は、皆さんの国から本当の意味のグローバルリーダーが出てくることを願います。国連を導いていく政治リーダーが出てくることを願い、紛争地域の争いを防いでくれる外交リーダーが出てくることを願います。道端を徘徊して死んでいく貧しい人たちの世話をするマザー・テレサのような救いのリーダーが出てくることを願います。また、私のように、人々が顧みることのない土地と海を開拓し、新しい世界を広げていく平和のリーダーが出てくることを願います。夢を持って志を立てることがそのスタートです。冒険心と開拓精神を持って、人が夢見ることのできないような夢を持ち、意味のある志を立てて、人類のためのグローバルリーダーとなることを切に願うものです。」 (P335)

・人生

「真の人生は、個人の私的な欲心を捨てて、公益のために生きる人生です。」 (P234)

「自分の命が尽きて体が地の中に埋められる瞬間、生涯の富と栄華は一度に泡となって消えてしまいます。」 (P236)

「人が生まれて死ぬことは、自分の意思によるものではありません。人は、自分の運命に対して何も選択することができません。生まれても自分が生まれようとして生まれたのではなく、生きていても自分の思いどおりに生きることができるわけでもなく、死ぬとしても自分が死のうと思って死ぬのではありません。このように人生において何の権限もないのに、自分は優れていると誇れるものがあるでしょうか。自分自身が生まれたいと思っても生まれることもできず、自分だけの何かを最後まで持つこともできず、死の道を避けることもできない人生ですから、誇ってみても侘びしいだけです。」 (P236~237)

「人よりも高い位置に上がったとしても、一瞬の栄華に過ぎず、人よりもたくさんの財物を集めたとしても、死の門の前では一切合切捨てて行かなければなりません。お金や名誉や学識、そのすべてが時と共に流れていってしまい、歳月が過ぎればすべてなくなってしまいます。いくら立派で偉大な人だとしても、命が尽きた瞬間に終わってしまう哀れな命にすぎません。」 (P237)

「自分とは何か、自分がなぜ生きなければならないのかを、いくら考えても分からないのが人間です。したがって、自分が生まれた動機と目的が自分によるものではないように、自分が生きるべき目的も、やはり自分のためではないことを悟らなければなりません。
ですから、人生いかに生きるべきか、ということに対する答えは簡単です。愛によって生まれたのですから、愛の道を求めて生きなければなりません。父母の果てしなく深い愛を受けて生まれた命なので、生涯その愛を返して生きなければならないのです。それこそが、私たちが人生において自らの意思で選択できる唯一の価値です。私たちに与えられた七年(私たちがこの世に生まれて八十年を生きても、本当に自分自身のために使える時間はわずか七年だけ)という時間の中に、どれほど多くの愛を満たしたか、ここに人生の勝敗がかかっています。」 (P237)

「死を語らないまま生を語ることはできません。生の意味を知るためにも、私たちは死とは何かを正確に知らなければなりません。どのような生が本当に価値あるものなのかということは、今すぐにでも死ぬかもしれない窮地に追い込まれ、一日でも長く生きようと天にすがりついて泣き喚く、そのような人こそが知り得るものです。それほど貴い一日一日を、私たちはどのように生きればよいのでしょうか。誰もが渡っていかなければならない死の境界を越える前に、必ず成し遂げておくべきことは何でしょうか。
最も大切な事は、罪を犯さず、影のない人生を生きることです。何が罪なのかという問題は、宗教的に、また哲学的に多くの論争の種になりますが、はっきりしていることは良心が躊躇することをしてはならないという事実です。良心に引っ掛かる事をすれば、必ず心に影が残るのです。
その次に大切なことは、人よりもっと多くの仕事をすることです。人に与えられた人生が六十年であれ七十年であれ、時間が限られていることに変わりはありません。その時間をどのように使うかによって、普通の人の二倍にも三倍にもなる豊かな人生を生きることができます。時間を必要度に応じて細かく刻み、一瞬でも無駄に使わずに一生懸命働けば、その人生は本当に貴いものになります。人が一本の木を植える時、自分は二本、三本の木を植えるのだ、という勤勉で誠実な姿勢を持って生きるべきです。自分のためにそのように生きよと言うのではありません。自分よりも人のために、自分の家庭よりも隣人のために、自分の国よりも世界のために生きなければなりません。世の中の大概の罪は、『個人』を優先する時に生じます。個人の欲心、個人の欲望が隣人に被害を与え、社会を滅ぼすのです。」 (P238~239)

「世の中のあらゆるものは通り過ぎていってしまいます。愛する父母、愛する夫と妻、愛する子供も通り過ぎていってしまい、人生の最後に残るのは死だけです。人が死ねば墓だけが残ります。その墓の中に何を入れれば価値のある人生を生きたと言えるのでしょうか。生涯かけて集めた財産や社会的な地位は、すでに通り過ぎてしまった後です。死の川を渡っていけば、そのようなものは何の意味もありません。愛の中に生まれ、愛の人生を生きたのですから、生を終える墓の中に残るものも愛だけです。愛によって生まれた命が、愛を分かち合って生き、愛の中に帰っていくのが私たちの人生なので、私たちは皆、愛の墓を残して旅立つ人生を生きなければなりません。」 (P239)

「私たちは全員、偉大な人間として創造されました。何の意味もなく皆さんがこの世界に出てきたのではありません。神様は、自分のすべての愛を注いで私たちをつくりあげられたのです。ですから、私たちはどれほど偉大な存在でしょうか。神様がいらっしゃるので、私たちは何でもすることができるのです。」 (P327)

・為に生きる人生

「お互いが為に生きながら、共に生きることがまさに宇宙の原理です。この原理を離れれば必ず滅亡するようになります。今のように民族どうし、宗教どうしが相互に罵り合って、争うことが続くとすれば、人類に未来はありません。」 (P19)

「ダンベリー刑務所でも、『為に生きる』という私の原則は何も変わりません。朝早く起き、汚れた場所をきれいに掃除しました。・・・与えられた仕事は他の人よりずっと多くやって、周りの人の世話をしました。余った時間には私自身の説教集を読みました。」 (P195)

「世の中に自分だけのために誕生したものは何もありません。あらゆる被造物はお互いのために誕生しました。私はあなたのためにいて、あなたは私のためにいるのです。」 (P340)

「自分だけのために生きる利己的な人生ほど愚かな人生はありません。利己的な人生は、自分のために生きているように見えますが、究極的には自分を破壊する人生です。個人は家庭のために、家庭は民族のために、民族は世界のために、世界は神のために生きなければなりません。」 (P340)

「『為に生きる』人生を生きるということは、時として個人の犠牲を前提とします。」 (P342)

「この世の中に、自分だけのために存在するものは一つもありません。神様は、この世界をそのように創造されていないのです。男性は女性のために存在し、女性は男性のために存在します。自然は人間のためにあり、人間はまた自然のためにいるのです。この世界のあらゆる被造物は相手のために存在し、作用します。ですから、相手のために生きなければならないというのが天の道理です。」 (P342~343)

「幸福は必ず相対的な関係においてのみ成立します。・・・私がある相対のために存在しているという事実を悟ることは、人生の尺度を変えるような一大事です。私の人生が私だけのものではなく、誰かのためのものであるとすれば、今までの生き方とは全く違う道を行かなければなりません。」 (P343)

「幸福は、人のために生きる人生の中にあります。自分のために歌を歌ってみても全然幸福ではないように、自分のためのことには喜びがありません。いくら小さくて、取るに足りないことでも、相手のために、人のためにするとき、幸福を感じるのです。幸福は『為に生きる』人生を生きる時にこそ発見できるのです。」 (P343)

・苦難

「人間が人格完成しようと思えば、三十歳になるまでは苦労してみなければならないと考えます。三十歳になるまでに、人生のどん底を這いずり回るような絶望の坩堝(るつぼ)に一度ぐらいははまってみるべきでしょう。絶望の奈落の底で新しいものを探し出せというのです。・・・絶望の淵から驚きの声を上げて抜け出してこそ、新しい歴史を創造する人に生まれ変わることができるのです。
一箇所だけ、一方向だけ見ていても大事は成せません。上を見て、下を見て、東西南北を全て見なければなりません。・・・一度しかない人生であり、その間に成功できるか否かは、自分の目で物事を正しく見られるかどうかにかかっています。それには豊富な経験が物を言います。また、厳しい環境にあっては、余裕のある人間味と柔軟な自主性が必ず必要です。」 (P85)

「人格者は、一度上がって急降下する人生にも慣れていなければなりません。大抵の人は一度上がると、下がるのを恐れて、その地位を守ろうと汲々としますが、淀んだ水は腐るようになっています。上に上がったとしても、下に下りていって、時を待った後にさらに高い頂に向かって上がっていくことができてこそ、大勢の人から仰がれる偉大な人物、偉大な指導者になれるのです。三十歳になる前の若い時代に、こういったことをすべて経験しておくべきです。
ですから、私は今も青年たちに、世の中のあらゆることを経験してみなさいと勧めています。百科事典を最初から最後まで隈無く目を通すように、世の中のすべてのことを直接、間接に経験したとき、初めて自らの拠って立つ価値観が定まります。価値観とは何でしょうか。それは自らの明確な主体性です。『全国を見渡してみても、私を負かす者はなく、私にかなう者はない』という自信を得た後に、最も自信のあるものを一つ選んで、一気に勝負をつけるのです。そうやって人生を生きれば必ず成功するし、成功せざるを得ません。東京で乞食の生活をしながら、私は以上のような結論に達しました。
私自身も、東京で労働者と寝食を共にしながら、また乞食と食うや食わずの悲哀を分かち合いながら、苦労の王様、苦労の哲学者になってみて、初めて人類を救おうとする神の御旨を知ることができました。それゆえ、三十歳までに苦労の王様になることです。苦労の王様、苦労の哲学者になること、それが天国の栄光に至る道です。」 (P85~86)

「やるせない監獄暮らしだったとはいえ、私には私なりに意味のある鍛錬期間でした。この世の中に意味のない試練はありません。」 (P101)

「監獄にいる間、罪を自白せよと数限りなく殴られました。しかし、血を吐いて倒れ、息が絶えそうになる瞬間にも、気を失わずに耐え忍びました。腰が折れたかと思うほどの激しい苦痛が襲うと、『天のお父様、私をちょっと助けてください』という祈りが自然と出てきます。そうすると再び気を取り直して、『お父様、心配なさらないでください。文鮮明はまだ死にません。こんなふうにみすぼらしく死んだりしません』と言って、堂々と振る舞いました。そうです。私はまだ死ぬ時ではありませんでした。私の前には完遂しなければならないことが山のようにあったし、私にはそれらをやり遂げる使命がありました。拷問ごときに屈服して同情を買う程度のいくじなしの私ではありません。」 (P102)

「拷問を受けて倒れるたびに、『私が受ける鞭は民族のために受けるのだ。私が流す涙は民族の痛みを代表して流すのだ。』という思いで耐え忍びました。極度の苦痛で気を失いそうになると、間違いなく神様の声が聞こえました。神様は息が絶えるか絶えないかという瞬間に現れます。」 (P103~104)

「空腹がもたらす苦痛は、実際に味わってみなければ分かるものではありません。空腹が極まったときは、ご飯粒一つでもどれだけ貴いかしれません。今も興南のことを思うだけで気持ちがさっと引き締まります。ご飯粒一つがそこまで人間の全神経を刺激できるということが信じられませんでした。おなかが空けば涙が出るほどご飯が恋しくなり、母親よりもっと恋しくなります。おなかがいっぱいの時は世界の方が大きいのですが、おなかが減ればご飯粒一つが地球よりもっと大きいのです。ご飯粒一つの価値とは、そのように驚くべきものです。
興南監獄では、配給された握り飯の半分を同僚達に与え、残りの半分だけを食べました。約三週間そうやって実践した後、初めて握り飯一つを全部食べました。二人分のご飯を食べたと考えれば、空腹に耐えることがとても楽になります。」(109P)

「監獄では三十六人が一部屋の監房に生活しましたが、非常に狭い部屋の中の隅に置かれた便器の横が私の居場所でした。夏になれば水があふれて湿っぽくなり、冬になれば氷が凍って、誰もが嫌がる場所です。便器といっても蓋のない小さな入れ物があるばかりで、その臭気は筆舌に尽くしがたいものがありました。」 (111P)

「『窮状が大変な幸運だ』と言います。・・・麦で作った餅一つが、王様の素晴らしいご馳走にも引けを取らないほど美味しく感じられました。ただ、私はどんなに空腹でもいつも先に箸を置くようにしました。そうすれば、他の人が気分良く一口でも二口でも多く食べることができるからです。」 (P119)

「『監獄で消える私ではない。ここで死ぬことはできない。これは解放の世界に向けて飛躍するための踏み台にすぎない』と考えて、監獄生活に打ち勝ちました。
悪は滅び善が栄えるのが世の道理であり、天の法です。泥まみれになっても、純粋で真実の心を失わなければ絶対に滅びません。」 (P141)

「心が弱くなるたびに、『私はこんな監獄で死んでしまう男ではない。必ずもう一度立つ。きっと立って見せる』と言って、歯を食いしばりました。『すべての痛みを自分の中に隠したまま抱えていくのだ。教会のありとあらゆる重荷を私が背負っていくのだ』と心に誓いました。」 (P142)

「監獄に行くのは悪いことばかりではないと私は思います。涙の谷間で泣く人を悔い改めに導くには、まず私が涙を流さなければなりません。私がそれ以上の悲しみを持たなければ、その人の心を開かせ、み言を受け入れさせることはできないでしょう。天の摂理は本当に奥妙です。」 (P196)

「私は、汗を流し、血を流すとき、残らずすべて流すのがよいと考える人です。心の中の残りかすまで、ありったけのものをすべて流して送り出してこそ、未練が残らずきれいに整理されます。苦難も同じです。苦難に最後まで打ち勝ち、きれいに精算してこそ、苦難が終わるのです。何であっても、完全に清算すればまた戻ってくるものです。」 (P271)

・労働

「労働は苦痛ではなく創造です。一生の間働いて暮らしても楽しいのは、労働が神様の世界に連結されているからです。人がする労働というのは、実際には、神様が創造しておいたものを使って、いろいろなものを作り出すことにすぎません。私が趣味として神様の記念品を作るのだと考えれば、実際、労働は何でもないことです。」 (P185)

・お金

「私は家から送金されたお金を皆、貧しい人々に分け与えました。・・・
自分ではお金の心配はしませんでした。どんな所でも働いて仕事をすれば、ご飯は食べることができたからです。お金を稼いで苦学生の学費を助けるのも私の楽しみでした。そうやって、人を助けたりご飯を食べさせたりすれば、体の奥からふつふつと力が湧いてきました。」 (P81)

「商売をして集めたお金は神聖なお金です。しかし、商売で得たお金を神聖なものにするには、それに携わる者が嘘をつかず、暴利を貪らないという条件が必要です。商売をするときは、常に正直でなければならず、三割以上の利益を取ってはなりません。そうやって、大事に稼いだお金は、当然貴い目的の為に使うべきです。目的が明確で、志のあることのために使わなければならないのです。」 (P159)

「堂々と商売をして稼いだお金を宣教費用に投じてこそ、何の活動をしても胸を張っていることができるのです。」 (P159)

「よその人が米のご飯を食べているとき、麦のご飯を食べながら一銭、二銭と節約して集めたお金を、私達よりもっと貧しい人たちに施しました。・・・どんなときでも、自分たちのためには一銭も使わないように努力しました。」 (P162)

「人類のために、貧困で死んでいく隣人のために使われないお金は、一枚の紙切れにすぎません。一生懸命に働いて稼いだお金は、世界を愛し、世界のために働くところに使われてこそ、相応しいのです。」 (P336)

「私は、生涯に手にしたものをすべて差し出し、身軽にこの世を旅立つでしょう。天の国に行けば金銀財宝があふれるほど散らばっているのに、地上から何を持っていくのでしょう。私たちが暮らしている世界より、もっと良い世界に行くと考えれば、地上のものに執着する理由がありません。」 (P338)

<結婚・祝福・家庭>

・結婚

「結婚してから、私は妻と約束をしました。いくら憤懣やるかたないことがあっても、信徒たちに『先生夫婦が喧嘩をした』と思わせないようにしよう。これから子供を何人生んでも、父母が喧嘩したところを見せないようにしよう。子供たちは神様だからね。子供たちはとても小さな愛の神様だ。だから子供たちが『お母さん!』と呼ぶときは、無条件に笑って『どうしたの?』と答えなければいけない」 (P207)

「私は結婚する夫婦に必ず次のことを誓わせます。
第一に、夫婦がお互いに信頼し愛すること、
第二に、お互いの心を傷つけないこと、
第三に、二世や三世の子供たちに純潔を守るよう教育すること、
第四に、真の理想家庭を築くためにすべての家族が互いに激励し協助すること。」 (P213)

「結婚とは、ただ単なる男女の出会いではありません。それは神の創造の偉業を受け継いでいく貴重な儀式です。結婚は、男性と女性が一つになり、生命を創造して真の愛を求めていく道です。結婚を通して新しい歴史が生まれます。結婚した家庭を中心に社会が形成ざれ、国家が建設され、神の願う平和世界が築かれていきます。つまり、この世の中で神の国・天国が広がる起点となるところが家庭なのです。」 (P213)

「私は結婚した夫婦に、『無条件に子供をたくさん生みなさい』と言っています。子供をたくさん生んで育てることは神の祝福です。神が下さった貴い命を、自分の物差しで測ってむやみに堕胎するようなことはあってはならないことです。この世に生を享けたあらゆる命にそれぞれ神の御旨があるからです。命はすべて貴いのですから、しっかりと受け入れて守ってやらなければなりません。」 (P214)

「結婚は、私のためではなく相手のためにするものです。結婚するとき、立派な人やきれいな人ばかりを追い求めるのは間違った考えです。人間は、人のために生きなければなりません。結婚するときも、その原則を忘れてはいけません。いくら愚かな人でも、美人よりもっと愛そうという心で結婚しなければなりません。福の中で最も貴い福は神の愛です。結婚は、その福を受けて実践することです。その貴い御旨を理解して、真の愛の中で結婚生活をし、真の家庭を築かなければなりません。」 (P228~229)

「結婚は二人がするものですが、実際には二つの家系が因縁を結ぶことであり、さらには、二つの氏族、二つの国が融和することです。異なる相手の文化を受け入れ、歴史の中で生じた怨恨を克服して一つになっていきます。韓国人が日本人と結婚すれば、韓国と日本が融和するのであり、白人と黒人が結婚すれば、白人種と黒人種が融和するのです。また、彼らが生む子供たちは、二つの民族の血を同時に受け継いだ融和の人間であり、白人と黒人を超える新しい人種の出発点になります。このようにして数世代が経てば、国家や人種間の分裂や反目がなくなり、全人類が一つの家族となって、平和な世界を作ることができるのです。」 (P229)

「結婚は犠牲の上に成り立ちます。男性は女性のために生き、女性は男性のために生きなければなりません。私の利己心がすべて消えるときまで、絶えず相手のために生きなければなりません。そのように犠牲になる心が愛です。女性と男性が出会って、楽しくて良いものが愛ではなく、命を捧げることが愛です。そのような覚悟をした後に結婚しなければならないのです。」 (P230)

・交叉祝福

「理想的な平和世界を成し遂げようとするとき、交叉祝福より早い道はありません。・・・平和世界が少しでも早く訪れるよう、国境を越えてお互いに恩讐と思っている国の人どうしで結婚しなければなりません。結婚する前は『あの国の人は見るのも嫌だ!』と言いますが、その国の人が夫になり妻になれば、半分はもうその国の人になって、あらゆる憎しみが、雪が溶けるように消えていきます。そのように二代、三代とそれを維持していけば、憎しみは完全に、根こそぎなくなります。」 (P227)

「交叉祝福は、国家を超えた結婚ばかりを言うのではありません。宗派が異なる人たちを結婚させることも、国境を崩すことと同じくらい重要なことです。実際、国境を越えることよりもさらに難しいのが異なる宗派間の結婚です。しかし、紛争を抱えた宗派どうしも、結婚をすれば、宗派を超えて融和するようになります。交叉祝福で結婚すれば、お互いにそれまで生きてきた文化が違うと門に固く鍵をかけるようなことはしません。・・・交叉祝福を通して完全に新しい血統が生まれています。」 (P227~228)

・家庭

「自分たちが純潔を守れないのに、子供たちにそれを守れと教育することはできません。
大人たちの不倫と性道徳の乱れは、家庭を破壊し、子供たちを駄目にしてしまいます。不倫と乱れた私生活は、子供たちの心に致命的なダメージを与えます。現代社会の人々が物質的な豊かさほどには幸福を享受し得ていないのは、本を正せば家庭が崩壊しているからです。家庭を救うためには、まず大人たちが襟を正してきちんと生きることです。子供を純潔に育てるのはその次の問題です。」 (P215)

「母親とは、家庭を守る砦のような存在です。母親の犠牲と奉仕があってこそ健全な家庭、平和な家庭が正しく立つことができます。世の中がいくら変わろうともその基本は変わりません。美しい子供はそういう家庭から育ってきます。・・・子供は家庭で親の姿を見て学ぶのであって、子供の教育にはそれが一番大事です。父母が正しい手本を見せなければなりません。真の家庭から真の子女が出てくるのです。真理は常に最も単純です。」 (P215~216)

「家庭は、神が創造した最高の組織です。また、人類が互いに愛し、平和に暮らすことを学ぶ愛の学校であり、世の中に平和の王宮を建てるための訓練道場です。為に生きる夫と為に生きる妻として、そして永遠の愛の道を行くための夫婦として、その責任を学ぶところです。家庭は世界平和のためのベースキャンプなので、息子・娘が『お父さんとお母さんが喧嘩する姿を、生涯一度も見たことがない』と言うようにならなければなりません。」 (P217~218)

「父母は、子供たちにとって第二の神様です。『神様が好きか? お父さんとお母さんが好きか?』と尋ねて、『お父さんとお母さんが好きです』と答えたら、それはすなわち『神様も好きだ』という意味です。教育の最も大事な部分を担っているのが家庭です。幸福も平和も、家庭の外にはありません。家庭こそが天国です。いくら莫大なお金と名誉を持ち、世界をすべて手に入れたとしても、健全な家庭を築くことができなければ、その人は不幸です。家庭は天国の出発点だからです。夫婦が真実の愛で結ばれ、理想的な家庭が築かれたら、宇宙と直接連結されます。」 (P218)

「家庭は愛の包みだと言うこともできます。天国に行ってその包みをほどいてみれば、その中から良いお父さんとお母さんが飛び出してきます。美しい子供たちが飛び出してきます。慈愛に満ちたお祖父さんとお祖母さんが飛び出してきます。一人一人が愛の包みに包まれているところが家庭です。家庭は神の理想が実現する空間であり、神がなさることの完成した姿を見ることのできる場所です。神の御旨は、愛が実現する世界をつくることであり、家庭は神の愛が満ちあふれた所です。」 (P220)

「私は、三代が一緒に暮らす家庭を勧めています。・・・父母は現在を、子供は未来を象徴します。祖父母は過去の歴史を代表します。したがって、祖父母と父母と子供が一緒に暮らしてこそ、子供は過去と現在の両方の運勢をすべて譲り受けることができるのです。祖父母を愛し、尊敬することは、過去の歴史を受け継いで、過去の世界を学ぶことです。子供は父母から現在を生きる貴い知恵を学び、父母は子供を愛して未来に備えるのです。」 (P222)

「『家和して万事成る』という言葉を覚えておくべきです。家庭が平和であれば、すべてのことがうまくいくという意味です。平和な家庭は天国の基礎であり、家庭の原動力は愛です。家庭を愛するように宇宙を愛すれば、どこへ行っても歓迎されるようになります。神様は、宇宙全体の父母として愛の真ん中にいらっしゃるのです。したがって、愛にあふれた家庭は、神様にまで一瀉千里で通じるようになります。家庭が愛によって完成してこそ宇宙が完成するのです。」 (P223)

「世界平和とは、その言葉どおりに雄大なものではありません。家庭が平和であってこそ社会が平和になり、国家間の葛藤が消え、それがあってこそ世界平和への道が開かれます。ですから、完全な家庭こそが重要であり、家庭の責任はそのくらい大きいのです。」 (P229)

「家庭は、あふれるほど愛を与え、また与えるところです。家庭は、家族を包む囲いであって、愛を閉じ込める所ではありません。かえって家庭の愛は、外にあふれ出て、絶えず流れていかなければなりません。いくら愛があふれ出ても、家庭の愛は渇くことがありません。神様から受けたものだからです。神様から与えられた愛は、いくら掘り出しても底が見えない愛、いや掘れば掘るほどもっと澄んだ泉があふれ出てくる、そのような愛です。その愛を受けて育った人は、誰でも真の人生を生きることができるのです。」 (P233~234)

・真の家庭

「真の家庭は、夫と妻、父母と子女、兄妹姉妹がお互いに為に生きて愛する所です。さらには、夫は妻を神様のように愛し、妻は夫を神様のように尊敬する所です。夫は父の代身であり兄の代身なので、血のつながった父を捨てることができず、また兄を捨てることができないように、夫を捨てることはできないのです。妻もやはり同じです。ですから、『離婚』という言葉はあり得ません。このようにお互いを絶対的な存在として暮らす所が、真実の愛にあふれた真の家庭です。」 (P232)

「家庭というのは、人類愛を学び教える学校です。父母の温かい愛を受けて育った子供は、外に出ていけば、家で学んだとおりに、困っている人を愛の心で助けるでしょう。また、兄妹姉妹の間で情け深い愛を分かち合って育った子供は、社会に出て隣人と厚い情を分かち合って生きていくでしょう。愛で養育された人は、世の中のどんな人でも家族のように思うものです。自分の家族のように思って人に仕え、人に自分のものを分けてあげる愛の心は、真の家庭から始まります。」 (P233)

「真の家庭は、真の社会、真の国家、真の世界の始まりであり、平和世界、神の国の出発点です。父母は、息子・娘のために骨が溶けてなくなるほど働きます。しかし、単純に自分の子供にばかり食べさせようと働くのではありません。あふれるほど愛を受けた人は、人のために、神様のために働くことができます。」 (P233)

・父母の愛

「愛の本質とは何でしょうか。愛の本質とは、人に何かをしてもらおうとする思いを捨てて、人のために、全体のために先に与えて、為に生きることです。与えても、与えたという事実そのものを忘れてしまい、絶えず与えるのが愛です。それは、喜んで与える愛です。母親が子供を胸に抱いてお乳を与える時に感じる喜びの心情がまさにそれです。」 (P219~220)

「父母は、愛する子供のために骨身を削って苦労しながらも、疲れを知りません。それくらい子供を愛するからです。本当の愛は神様から始まり、また愛は父母から来るのです。ですから、父母が『おまえたちが互いに喜ぶのは、父母の恩徳によるものだ』と言えば、子供たちは『お父さんとお母さんが私をこのように育て、このような伴侶と出会わせてくれなければ、大変なことになるところでした』と答えなければならないのです。」 (P220)

「愛の土台となるのは、お互いがお互いのためにすべてのものを捧げる犠牲の心です。父母の愛が真の愛であるのは、持っているものをすべて与えても、もっと与えたいと思う愛だからです。子供を愛する父母は、与えたことを覚えていません。・・・自分が持っているものをすべて与えても、『これ以上与えることができなくて本当に済まない』と言うのが父母です。」 (P231)

「子供のために命を捨て、さらには命を捨てたことさえ忘れるのが父母の真の愛です。いくら道が遠く険しくても、父母は喜んでその道を行きます。父母の愛は、世の中で最も偉大な愛です。」 (P231)

「父母の愛を受けられずに育った人の心の中には、他のどんなものでも満たすことのできない孤独と寂しさが隠れています。家庭は父母の真の愛を受けて愛を学ぶ所です。幼少期に愛されなかった子供たちは、生涯愛に飢え、情緒的な苦痛を受けるだけでなく、家庭や社会のために当然すべきことがあるという高い道徳的な義務を学ぶ機会を失ってしまいます。その意味で、真の愛は、家庭以外の他の場所では決して学ぶことができない価値だといえます。」 (P232)

「お互いに異なる人種と文化的背景を持つ夫婦だとしても、神様の愛を受けて家庭を持ったのなら、彼らの間に生まれた子供たちの間で文化的葛藤というものはあり得ません。その子供たちは、父母を愛する心で母の国と父の国の文化と伝統をすべて愛して大切にするのです。したがって、多文化家庭の葛藤の解決は、どのような知識を教えるかではなく、その父母が真の愛で子供を愛するかどうかにかかっています。父母の愛は、子供の肉と骨の中に露のように入り込んで、母の国と父の国を一つのものとして受け入れさせ、子供が立派な世界人として育つようにする肥料となります。」 (P232~233)

・祖父母

「お祖父さんは神様の代身の立場です。・・・お祖父さんは、長きにわたって自ら経験して悟った生きた知恵を、孫に伝達する良い師です。
世の中で最も年を取ったお祖父さんはまさしく神様の立場です。ですから、お祖父さんの愛を受け、またお祖父さんのために生きる人生は、神の愛を悟って、神のために生きる人生ということができます。このような伝統を守ってこそ、神の国の秘密倉庫の扉を開けて、愛の宝を受け取ることができるのです。年を取った人を無視することは、その国の国民性を捨てることであり、民族の根を無視することと同じです。」 (P222~223)

・女性

「女性はまず孝の心を持つ真の娘として育ち、結婚して貞節と献身で夫を支える妻となり、子供を正しく育てて社会のために奉仕する指導者となるように導く。」 (P210)

・子供

「子供たちが道に迷うのは一時のことで、いつかは過ぎ去ります。子供たちが何をしても、絶えず抱き締めるような気持ちで愛してあげながら、あとは待ちましょう。子供たちは必ず両親の愛の懐の中に戻ってきます。」 (P212)

「思春期になると、心と体の細胞はすべての門を開こうとし、愛を喜んで迎え入れたくなります。愛には幸福感が伴いますが、だからといって、『しめた!』とばかりに無条件にその門に駆け込むと、大変なことになってしまいます。まだ門を開いてはならないのです。門を開くには時を待たなければなりません。時が来て初めて愛の門を開くことができます。時を知り、愛と性を正しく用いることを知るべきです。父母は、思春期の子供たちにこのようなことを正確に教えなければなりません。愛は神に似ていく過程であって、世の中で蔓延しているような自分勝手に楽しむものではありません。」 (P217)

「私は若者たちに、純潔な青少年期を経て神の祝福を受ける結婚をした後に、子供を最小限三人以上は生んで育てなさいと教えています。子供は神様が下さる祝福です。子供を生み育てることは、天の国の市民を育てることです。ですから、若い時期に性的に乱れた生活をしながら自分勝手に堕胎するのは大きな罪です。」 (P228)

・芸術

「私は文学や芸術を特別なものだとは考えません。何であっても私と心が通じて親しくなれるなら、文学であり、芸術なのです。便所で便が落ちる音が美しく楽しく聞こえれば、それもまた音楽と異なるところはありません。同様に、便器の横で横になっている私に跳ねた液便も、私の考えに従えば素晴らしい芸術作品になることがあります。」 (P112)

「人々はよく政治や経済が世の中を動かすと考えますが、そうともいえません。文化や芸術も世の中を動かす力を持っているのです。人々の心の最も深いところに影響を与えるのは、理性よりも感性です。受け入れる心が変われば世の中が変わり、制度が変わります。」 (P168)

「心が美しければ踊りが美しくなる。心が美しければ歌が美しくなる。心が美しければ顔が美しくなる・・・真の美しさは内側から滲み出るものです。」 (P168)

「芸術は神様の創造の偉業に似ています。芸術家が自らの作品のために渾身の力を注ぐように、神様も自ら創造された人間とこの世界のためにすべての心を注がれたのです。」 (P301)

・伝統

「重要なのは端正な姿形ではありません。その中に宿った意味です。不足であれば不足なりに、そこに伝統があり、光があり、価値があるのです。伝統を尊重することを知らない民族は滅びてしまいます。」 (P151)

「私たちが死ぬ前に、必ず子孫に残しておかなければならないものが二つあります。一つは伝統であり、もう一つは教育です。伝統のない民族は滅んでしまいます。伝統とは、民族を結ぶ魂であり、魂の抜けた民族は生き残ることができません。もう一つ、重要なものが教育です。子孫に教育をしなければ、その民族は滅びます。教育は学問・芸術など新しい文物を吸収することを通して、世の中で生きていく力を得るものです。人は教育を通して生きる知恵を学びます。・・・教育は世の中の仕組みを理解する英明さをもたらしてくれます。数千年間続いた私たちの伝統を子孫に伝える一方、新しい文物を教育することは、民族の未来を切り開くことにつながります。受け継いだ伝統と新しい文物は生活の中で適切に融合され、独創的な文化として再生します。伝統と教育は、どちらがより重要で、どちらがより重要ではないと言うことはできません。二つを融合させる知恵も教育から得られるのです。」 (P164)

<学校・平和・宗教>

・学校・教育

「学校は、真理を教える聖所のような所です。
学校で教えるべき最も重要な真理は何でしょうか。
一つ目は、神様を知って、その存在を現実の世界に顕現させることです。
二つ目は人間存在の根源を知り、自分の責任を果たし、世界の運命に責任を持つことです。そして、
三つ目は人類の存在目的を悟り、理想的な世界を建設することです。」 (P294)

「教育は、人類が共に豊かに暮らす平和の世界をつくるための手段でなければなりません。今まで私たちを支配してきた教育の理念と方法を、人類共通の目標のためのものに変えなければなりません。」 (P294)

「私が建てた学校には、どこでも三つの標語が掲げられています。
一つ目が『昼十二時のように影のない人生を生きなさい(正午定着)』です。影のない人生とは、すなわち良心に引っ掛かることがない人生です。地上での人生を終えて霊界に入っていけば、生涯、自分が生きてきた人生が、録画テープが回るように展開します。天国に行くか地獄に行くかは自分の人生によって決定するのです。ですから、一点の影もないきれいな人生を生きなければなりません。
二つ目は、『汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流して生きなさい』です。人間が流す血と汗と涙は偽りではありません。すべて真実です。しかし、自分のために流す血と汗と涙は無意味です。血と汗と涙は人の為に流さなければなりません。
最後の三つ目は、『 One Family Under God !(神の下の人類一家族)』です。神様は唯一のお方であり、人類は兄弟姉妹です。言語と人種と文化の違いはあっても、すべて同じなのが人間です。」 (P340~341)

・平準化

「裕福な人は少し低い所に下りて行き、貧しい人は少し上げてあげ、すべての人が等しく豊かに暮らす世界をつくらなければならないのです。」 (P326)

「平準化とは、高いものは少し低いところに引き下げ、低いものは少し高く引き上げ、互いの高低を合わせることです。そのためには、より多く持っている人、より多く知っている人の犠牲が必要です。世界平和の建設は、一過性の善意や寄付ではできません。絶えず自己を犠牲にし、自分が持っているものを惜しみなく与える真実の愛こそが平和世界をつくっていくことができるのです。」 (P346)

・天運

「人間は、天運がどのように動くのか知ることができないのです。天運とは、世界を動かす力であり、宇宙が回って行く原理です。私たちは知ることができなくても、世の中を創造された方が摂理する天運というものが明らかにあります。
宇宙は宇宙なりの秩序にきちんと合うように動きます。この世の中のあらゆる存在物は、存在する以前からある原則を持っています。赤ん坊がこの世に生まれれば、誰が教えなくても、目を開けて呼吸をします。無理やりそのようにさせるのではなく、おのずとそのようになるのです。『おのずとなること』が宇宙の秘密を解く重要な鍵です。
自然には、おのずとなるものがとてもたくさんあります。しかし、実際には『おのずと』という言葉は合いません。おのずとなるように見える自然現象の中にも、私たちが知ることができない宇宙の方向性があるのです。宇宙の運、天運とはそのようなものです。宇宙のことが前もって分からないだけで、宇宙が循環する過程で大きな運が到来する時期が明らかにあります。春が去れば夏が来る宇宙の原理を知れば、私たちの国に到来する未来もあらかじめ見通すことができるのです。
知恵深い人は宇宙の法度に拍子を合わせます。歴史に末永く残る人たちは、すべて宇宙の法度に拍子を合わせた人達です。」 (P282~283)

「未来を見る目がなければ、天運が自分の目の前に来ていても、見ることができません。それで、天運を見ることのできる慧眼が必要なのです。」 (P283~284)

「自分の口に入るものを先に取る人はすべて落第です。ご飯を一匙食べるときも、人のことを先に考えなければなりません。私たちが朝鮮半島に訪れてくる天運を迎えようとすれば、私よりもっと大切な人がいることを心の奥深くに刻まなければなりません。」 (P290)

・韓民族

「迫害を受ける人は神様と一番近いのです。涙を流す心を持つことが大切です。普段は涙を流したことがなかった人も、国を失えば涙を流して泣きます。神様にすがって慟哭します。苦痛に満ちてつらいことですが、涙を流して泣くことのできる心は福となります。涙に濡れた心に神様が来られるからです。韓民族の心の中に涙が多かったので、朝鮮半島が天運を受ける地になることができたのです。」 (P287~288)

・南北統一

「三八度線で南北が分断された地点に到着した時、私は片方の足を韓国に、もう片方の足を北朝鮮にかけて祈祷を捧げました。
『今はこのように強く押されて南下していくとしても、必ずもう一度北上していきます。自由世界の力を集めて必ず北朝鮮を解放し、南北を統一します』」 (P120)

「朝鮮半島に平和世界を構築することは意外に簡単です。韓国が完全に北朝鮮のために生きるとき、北朝鮮は戦争を仕掛けることなく、朝鮮半島には自然に平和が訪れてきます。親不孝な子供を感動させられる力は、拳でもなく、権力でもなく、心から湧き上がる愛の力です。北朝鮮に米をあげたり、肥料を送ったりすることよりも、愛を与えることのほうが大切です。愛する心で、誠を尽くして、北朝鮮を思って為に生きるときにこそ、北朝鮮も心を開くという事実を忘れてはいけません。」 (P280)

・日本人

「神が願われるのは日本的なものではありません。神は日本的なものを必要とされません。日本を超えたもの、日本を超えた人を必要とされます。日本の限界を超えて世界に向かう日本人であってこそ、神が用いることができるのです」 (P169)

・平和

「私はその希望の紐をつかんで放さず、生涯、平和を夢見て生きてきました。私の願いは、世の中を幾重にも囲んできた塀と垣根をきれいさっぱり壊して、一つになる世の中を作ることです。宗教の塀を壊し、人種の垣根を取っ払い、富む者と貧しい者の格差を埋めた後、太古に神様が作られた平和な世の中を復元するのです。飢えた人もなく涙を流す人もない世の中ということです。」 (P19)

「もちろん、人間は平和を好みますが、一方では、争いを好むこともあります。・・・結局、戦争を起こす根本原因は、宗教や人種ではなく、人の心性です。すべてのことが人の問題です。現代人は、すべての紛争の原因を科学や経済の視点から捉えることを好みますが、本当の根本的な問題は人間自体にあるのです。」 (P247)

「世の中に蔓延した利己主義は、その個人を滅ぼすだけでなく、他の人と民族の発展までも阻害してしまいます。人間の心の中にある貪欲さが平和世界に進む道において、最も大きな障害物になるのです。個人の貪欲さが民族の貪欲さに拡大し、貪欲さに染まった心が、人と人、民族と民族の間に分裂と紛争を引き起こします。」 (P248)

「このような紛争をなくそうとすれば、世の中に流布する誤った価値観と思想を変える一大革命が起きなければなりません。私たちの社会の糸束のように絡まった複雑な諸問題は、そのような革命が起きれば、あっという間に解決されます。人と人が、民族と民族が、まず愛で相手に配慮し、協力すれば、現代社会の諸問題はことごとく解決するでしょう。」 (P248)

「平和とは・・・思想が違い、人種が違い、言葉が違う人たちを一つに連結することです。そのような世界を慕い、願う心です。平和は具体的な行動であって、漠然とした夢ではありません。」 (P249)

「神のみ旨は平和の実現にあります。国家と人種、宗教によって引き裂かれ、互いにけなし合い、争って血を流す世界は、神の願うものではありません。神の名を掲げて血を流し、互いに争う私たちは、神を苦しめてばかりいるのです。ずたずたに引き裂かれた世界はすべて、人々が自分の富と栄達のためにつくったものにすぎず、神のみ意にかなうものではありません。」 (P250)

「私の目標は、きのうもきょうも、神を中心に一つの世界を作ることです。その国には神の主権だけがあります。全世界は一つの国土、一つの国民、一つの文化でまとまります。一つになった世界に分裂と争いがあるはずがなく、その時、初めて本当の意味での平和世界が開かれるのです。」 (P251)

・宗教

「真の宗教は、自分の教団を犠牲にしてでも国を救おうとし、国を犠牲にしてでも世界を救おうとするものです。いかなる場合であっても教会が優先にはなり得ません。」」 (P132)

「ヨーロッパの人々が集まって祈りを捧げるバチカンで、私も汗をぽたぽた流して祈祷しました。数多くの教派と教団に分裂した宗教が、何としてでも一日でも早く統一されるようにお祈りしました。神様がつくられた一つの世界を、人間がそれぞれの立場で自分たちに有利なようにあちこち分けてしまったものを、必ず一つにしなければならないという思いが、より確固たるものとなったのです。」 (P171)

「ニューヨーク・マンハッタンの北側にあるベリータウンに、『統一神学大学院(UTS)』を設立しました。教授陣には、ユダヤ教、キリスト教、仏教など、あらゆる宗教の垣根を越えて、各界から優れた人材を迎え入れました。彼らが教壇に立って自分の信じる宗教を教えれば、学生たちは鋭い質問を投げかけます。授業は、毎回白熱した議論の応酬の場となりました。あらゆる宗教が寄り集まって討議することで、間違った偏見はなくなり、学生たちはお互いを理解し始めました。」 (P186)

「神は宗派主義者でも教派主義者でもありません。教理の枝葉末節にとらわれる神ではないのです。神の父母としての心情、そして大いなる愛の心には、民族と人種の区分がありません。国家や文化伝統の壁もありません。神はきょうも、万民を同じ息子・娘として抱くために努力しておられます。」 (P197)

「人間も世界平和も、家庭を通して初めて完成するものです。そして、すべての人間を善なる人間にし、理想的な平和世界をつくっていくことが宗教の目的です。」 (P214)

「たくさんの宗教の教えの中で、約七割は同じことを言っていました。残りの三割だけが、各宗教の特徴を表す言葉でした。これは、全世界の宗教の七割は同一の教えを伝えていることを意味します。・・・宇宙の根本を求め、創造主の御旨を推し量ろうとする点では、全て同じです。」 (P244)

「実に教えの七割も同じ宗教どうしが、互いに話が通じないというのは本当に残念なことです。互いに通じることを話し、手を結べばよいのに、お互いに異なるところばかりを指摘して批判しています。世の中のすべての宗教は平和と愛を語ります。ところが、まさにその平和と愛をめぐって争いを起こしているのです。」 (P244)

「人を善にするもの、争いを好む人間の悪の本性をなくしてくれるもの、それが宗教です。世界のあらゆる宗教は、すべて平和な世界を理想としています。すべて天の国を願い、ユートピアを夢見て、極楽世界を念願しています。呼び名はそれぞれ違いますが、人間が夢見て願う世界はすべて同じです。この世界には数多くの宗教があり、その何倍も多い宗派がありますが、それらが願うことは一つです。それらが目指す目的地は天国であり、平和の世界です。人種と宗教の対立によってずたずたに引き裂かれた心を、きれいに治癒する温かい愛の国なのです。」 (P247~248)

「最近の宗教は、自分の教派だけが一番と考え、他の宗教は無視して排斥します。他の宗教や教派に対して壁を積み上げることは正しくないことです。宗教とは、平和の理想世界を求めていく巨大な川と同じです。川は広々とした平和世界に至るまで、ずっと流れていきながら、たくさんの支流と出会います。本流に合流した支流は、その時からは支流ではなくて本流です。そのように一つになるのです。
本流の川は、流れ込んでくる支流を追い出さず、すべて受け入れます。そのたくさんの支流をすべて抱きかかえ、同じ流れとなって海に向かいます。世の中の人たちは、この簡単な原理を知りません。本流の川を求めて流れ込む支流が、この世の中の数多くある宗教と宗派です。泉が湧いて流れ始めた根本はそれぞれ異なりますが、求めていく所は同じです。平和に満ちた理想世界を求めていくのです。
宗教の間に立ちふさがる壁を崩さなければ、絶対にこの地上に平和は訪れてきません。」 (P249~250)

「宗教の目的は何でしょうか。それは神様の理想世界を成し遂げることです。より多くの人を宗教の世界に伝道しようと努力する理由は、より多くの人を神様の民にするためです。すべての人が神様の民になれば、世の中はもはや戦争と混乱のない平和世界になります。究極的に宗教が行く道は平和です。」 (P291)

「神様は愛と平和の世界を願ってこの世をつくられました。自分の宗教だけが唯一の救いであると言い張って混乱を引き起こすのは、神様が願われることではありません。神様は、この世界のすべての人が平和と和解、共生のために一生懸命に働くことを願われます。教会に行くがゆえに家の中に混乱が起きるとすれば、私は躊躇なく『家庭を先に守りなさい』と言います。なぜかというと、宗教は神様の完全な世界に入っていくための手段であって、それ自体が目標ではないからです。」 (P291~292)

「人類は、分かれた意見を一つにまとめ、衝突する文明の一致点を探し出すでしょう。今後、人類を導いていく思想は、これまでのすべての宗教と全ての思想を皆一つに合わせたものでなければなりません。」 (P292)

「私は、全世界の多様な宗教者に対して、三つのお願いをします。
一つ目は、他の宗教の伝統を尊重し、宗教間の紛争や衝突を防ぐよう努力すること、
二つ目は、すべての宗教共同体は互いに協力し合い、世界に奉仕すること、
三つ目は、世界平和のための使命を完遂するために、あらゆる宗教指導者が参画する組織を発展させることです。」 (P293)

「右の目は左の目のために存在し、左の目は右の目のために存在しています。また、二つの目は、人間全体のために存在しています。私たちの体の手足がすべてそうです。自分のために存在するものは一つもありません。宗教も、自分の宗教のために存在するのではなく、愛と平和のために存在します。世界平和が成し遂げられれば、もはや宗教は必要ありません。宗教にとっての最終的な目標は、愛と平和に満ちた世の中を現実世界に成就することです。それが神様の御旨です。」 (P293)

「教育者は、自分一人が裕福に暮らす方法ではなく、私たちの時代のあらゆる社会的な諸問題を解決することのできる知恵を教えなければなりません。各宗教に属する宗教学者の役割はもっと重要です。宗教学者が教えるべきことは、自分の宗教の複雑な理論や優越性ではなく、人類を愛し、平和世界を成し遂げる知恵です。彼らが先頭に立ち、人類は兄妹姉妹であり、世界は一つの家庭だという平和の原理を子孫に教えていかなければ、決して人類の幸福な未来を期待することはできません。」 (P295)

「知恵の中の知恵は、神様の心情と理想を知ることです。・・・全世界の宗教は、人類の行くべき目的地を正確に知り、今すぐに大小の利益争いを止めなければなりません。・・・お互いに知恵を集め、力を合わせて理想世界の建設に勤しまなければならないのです。」 (P295)

「世の中に蔓延する不義と罪悪に立ち向かい、真の愛を実践する人たちが、まさに宗教者です。世界情勢に対する分析力を備えた政治指導者の知識と統治能力が、霊的な眼識を備えた超宗教指導者の知恵と一つになるとき、世界は初めて真なる平和の道を見いだすことができるのです。きょうも私は、世の中のすべての人が宗教と理念、人種の壁を超え、『平和を愛する世界人』として生まれ変わるように祈っています。」 (P347)

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