2-6.再臨のメシヤ 文鮮明師

目 次

再臨のメシヤ 文鮮明師

 

1、歴史的な大混乱時代と真のお父様の誕生

★第一次世界大戦三年後

西洋社会が没落し、西洋思想が傾く道に向かうならば、神様は必ずその反対の東洋を起点として、傾くことのない、新しい朝に向かうことのできる道を模索するのです。
そのような立場から見るとき、東洋において神様は、第一次大戦を中心としてそのような準備を始めました。
大概大きい事件が起きたのち、3年以内にすべてのことが現れるようになるのです。1917年から3年後の1920年を中心として、レバレンド・ムーンという人が出てきたというのです。

★民族の試練と三・一独立運動

その時韓国は、日本の占領下にありました。ですから、日本を通して生まれたことと同じになったのです。韓国は40年間、日本の統治下にありました。ですから、結局先生は日本治下から出てきました。韓国から今後アダムが現れるということを中心として、日本が韓国にあらゆる圧迫を加えたのです。

先生が生まれるその時、1919年に三・一運動が起きて、日本に対して反旗を翻し、新しく闘争が始まったのです。1920年に先生は生まれました。
そのような試練の過程で、先生一家が独立万歳事件を中心として、試練を経験したその基盤の上で、先生が生まれるようになりました。
独立運動が最盛期だった1919年に、先生は母の腹中にいました。独立しない地で、そのまま生まれることはできなかったので、先生の生命を中心として、三・一運動があったのです。その時から10ヵ月後の1920年に、先生が生まれたのです。
摂理史で見る時、条件的に国の基盤を中心として、日本から独立するために天は摂理をしたのです。

★お父様の種子

私は種子がちょっと違います。大韓民国の種子とちょっと違うと思うのです。私はそのように考えます。私の先祖がちょっと違うのです。ちょっと残念でしょう。

2、神様の召命とみ旨の道出発 1935.4.17

 

★イエス様との霊的出会いとみ旨の道出発(1935.4.17 朝、定州の猫頭山)yjimage (14)

先生は数えの16歳の復活節の朝、長時間の涙ながらの祈祷の果てに、イエス・キリストが現れて、多くの啓示と教示を下さいました。イエス様は、「苦痛を受けている人類のゆえに、神様が悲しんでいらっしゃる」「地上での神様の役事に対する、特別な役割をしてほしい」と先生に要求されました。

3-1、京畿道警察部での受難(1944.10.~1945.2.)

 

★韓国人留学生会地下活動

早稲田大学の政経科に通っている友達がいましたが、その友達は共産主義を勉強していて、その友達と激論を繰り広げたことがありました。日本の帝国主義を打倒するために、闘争するところにおいて、共同目標のもと、共同戦線を広げていきました。その時は彼らが友達の中の友達であり、なくてはならない同志の中の同志でした。

大韓民国が日帝の下で呻吟している時、先生も日帝時代に地下工作をした人なのです。私はその時、留学生を管理していた責任者だったのです。「何か問題があれば、全部私に罪を押しつけなさい」と言いました。

★京畿道警察部に連行

その年の十月、新婚の家に突然日本の警察がやってきて、「早稲田大学の経済学部に通っていた誰それを知っているか」と尋ねるなり、答えも待たずに私を京畿道警察部に連行しました。共産主義者として引っ張られていった友人の口から、私の名前が出たことが理由でした。(自叙伝92P)

★日警の苛酷な拷問

先生は学生の時にも、監獄の出入りを当たり前のようにした人です。また日帝の拷問台の前で、図太く振る舞った人です。彼らの拷問はとてもひどいものでした。
日本人が悪いことをしたということを、すべてよく知っているのです。日本の高等刑事や特課刑事たちにむち打たれて、水を飲まされ、ありとあらゆることをされた人です。

★命を懸けた黙秘権

先生は血を吐いて、生死の境を何度も行き来しました。しかし監獄では、共に仕事をした同志たちに対する責任と義理のために、命を懸けて「私一人で戦った」と言いました。殺すと威嚇されても口を割らなかったのです。話さないといえば話さないのです。百余名の命が私一人にかかり、生死の問題がかかっているので、舌を切るならば切ったのであって、話すことができますか。話さないのです。

3-2、解放直後の定州郭山支署収監事件(1945.10、一週間ほど)

先生は40年間に、6回も監獄に出たり入ったりしました。監獄で5年以上暮らしたのです。悪口を言われることにおいても、天下に、歴史始まって以来、私以上に悪口を言われた人がいないのです。涙を、血と汗をどんなに流したか、皆さんは知らなければならないのです。
北側に行って、監獄に入って出てくるのが3度です。3度まで監獄暮らしをしましたが、その時は、お金のために引っ掛かって入ったのです。貨幣問題のために引っ掛かったのです。それはお金に対する未練を、全部切るためなのです。一切を否定させるための神様の作戦でした。

3-3、平壌大同保安署の受難と腹中教(1946.8.11~11.21)

 

★大同保安署に拘束(1946.8.11)

1946年6月、共産党は、北韓全域において新しい宗教団体に対する弾圧を始め、許孝彬氏の集団が摘発されました。
そして1946年8月11日、その神霊集団の許孝彬氏ゆえに、私が引っ張られて入ったのです。
先生はその集団に人を送り、許夫人に、「先生の集団が何であるか、祈祷して調べてみなさい」と言いました。
しかし、その時、許夫人は、一つの大きな兆候を期待し、一人の若い男などには期待もしませんでした。
しかし神様は、準備したその女性に責任を負わなければならないために、先生を監獄に入れるようにしました。

★腹中教徒釈放のための獄中措置

監獄に入ると、その婦人と相対になって、全体に責任をもっていた黄元信という人がいました。
それで私は「このようにして、許孝彬氏に早く出るように言いなさい」と言ったのです。出なければ、全部この監獄で倒れるというのです。しかし、信徒たちはいくら勧告しても聞こうとはしませんでした。
その人が釈放されたのちに、許夫人の夫が先生の部屋に来たので同じ話をしましたが彼は、「自分は妻に従うつもりだ」と言い、先生の話を受け入れようとしませんでした。
最後に、先生自身が一通の手紙を書きました。それは9月18日の朝でした。彼女は、その手紙を読んでから破いてしまおうとしたのですが、その時、彼女は共産党の監視員に見つかってしまいました。それで先生は拷問を受けました。

★釈放(1946.11.21)と腹中教の結末

その時、先生は韓国にいる米軍のスパイとして告発されて、ソ連の調査官によって尋問を受けましたが、無罪だということが判明し、11月21日に釈放されました。その時先生は、血をあまりにたくさん流していたので、ほとんど死んでいました。それで先生に従っていた人々は、先生が死んでいくと考えました。先生が再び生き返ったことは、一つの奇跡でした。

許孝彬集団の失敗のゆえに、1950年に韓国戦争が起きた時、彼らはすべて虐殺されました。
許孝彬氏以下、すべての監獄にいた人々を、順川だったか、そこから共産党たちが後退する時、連れていって全部虐殺してしまったのです。

★地獄からの再出発(文鮮明師の路程より)

許孝彬への手紙の事件で、文先生が李承晩のスパイだと確信を得た共産党は、自白させるためにあらゆる方法手段の拷問を行った。その結果 、共産党は文先生に対し、半殺しのようにしてしまったため、ついに11月21日、門の外に放り出して釈放したのであった。そこを出た途端、先生は多くの血を吐かれた。しかし霊界からの援助で起き上がられた。
そのころ、大同保安署の回りをエリコ城のように7回まわれば先生に会えるという啓示を受けた弟子たちが、祈りながら回っていると、先生が放り出されてきた。その時の先生は、口も利けず、血を吐き、全身を殴られたため思うように動けず、とても生きた人間の姿ではなかった。
弟子たちは先生を教会まで連れて帰り、いろいろ治療を施し、漢方薬を飲ませ、手を尽くしたが、ついに先生は意識を失ってしまわれた。そのような姿を見ながら弟子たちは、「これでは先生は死んでしまう。もうおしまいだ」と叫びながら泣いていた。
しばらくして、奇跡的に先生は意識を回復されたのである。
ところが先生は、少し起き上がれるようになると、説教を始められた。弟子たちが「まだ休んでいて下さい」と泣いてお願いしてもその言葉を聞く先生ではなかった。
前に置かれた洗面 器に血やたんなどを吐きながら祈られ、吐いた血をかき集めた手を振りかざし、説教される先生の前で、弟子たちはただ泣くばかりであった。そればかりか、新しく人々が伝道されてくると、内臓もまだ弱っている中で、彼らのために蕩(とう)減(げん)断食を繰り返されたのである。

 

3-4、興南監獄の受難 (1948.2.22~1950.10.14)

★ 平壌での三ヵ月受難と興南移送(1948.2.22~5.20)

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・「平壌内務署」拘束(1948.2.22、日曜日午前10時)

その当時、北韓政府の政策は、すべての宗教を抹殺することでした。また、既成教会の牧師たちは、彼らの教会の多くの信徒たちが先生の所に来たために、先生を告発しました。それで先生は、(北韓で)三度目の投獄をされました。その日が、1948年2月22日でした。

★ 興南肥料工場での強制労働

 

・興南徳里特別労務者収容所に投獄(1948.6.21~1950.10.14)

1948年6月21日、この日は先生が収容所に入っていった日なのです。
先生は北韓の共産党の監獄に入っていき、2年8ヵ月の間、重労働をしました。肥料工場の仕事でした。
金日成はソ連の経験を見本にして、すべての囚人を三年の間、困難な労働に動員し、彼らを死ぬまでそのままにしておきました。

★ 韓国動乱勃発と興南監獄出監(1950.10.14)

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メシヤが生まれる場所は祖国なのです。韓国動乱は、神様の摂理から見るとき、祖国の主権回復に血を流すための世界的な動員であったという結論が出るのです。イエス様の顕現とともに、韓国動乱は、神様の聖殿を取り戻すための神聖な戦争なのです。

・国連軍の興南上陸と劇的な出獄(1950.10.14、深夜2時ごろ)

国連軍は、ここ興南を北韓地域の中で一番先に奪還しました。それは、神様が急いで救わなければならない一人の息子が、そこにいるためでした。
10月12日、刑期が7年以上である囚人、およそ70名ほどを、山の中で全部殺してしまいました。
その当時、先生の刑期は5年であったために、その次の次の日が私が引っ張られていく番でした。
13日、マッカーサー元帥の国連軍が興南に上陸し、10月14日、共産軍が退いて、すぐ私たちは監獄から抜け出てきました。それは、全く神様の恩寵でした。
その日の夜、総攻撃があって、夜中の2時ごろから逃げました。

 

3-5、西大門刑務所の受難 七・四事件、1955.7.4~10.4

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・キリスト教二世の集結地である梨花女子大と延世大

先生が大統領に会う前に訪ねていったのが、梨花女子大の総長、金活蘭でした。
延世大学と梨花女子大学は、一つは長老派の協助を受け、もう一つはメソジスト教団の協助を受けていました。
当時、梨花女子大は副総長の朴マリヤを中心として、李承晩大統領の夫人と連結していました。それゆえその時政府と完全に一つとなることができるようになっていたのです。
その時、金活蘭と白南柱の二人が一つとなって、統一教会を完全に迎えていたなら、先生が一気にキリスト教文化圏であるアメリカに渡っていくのです。李承晩を通し、国を中心としていくらでもできるというのです。

 

・キリスト教政府と米国の一体化

延世大学と梨花女子大学の男子、女子学生たちをすべてコントロールするようになれば、李承晩側は自然に巻き込まれていくのです。そのようになれば、「この宗教理想によって世界を制覇できる」と主張して出れば、米国まで逆襲し、世界へと伸びていくことができる道が完全に準備されていたのです。

★ 梨花女子大、延世大退職退学事件(1955.3~7)

 

・梨花女子大、延世大事件の主導勢力

延世大事件、梨花女子大事件は、キリスト教と自由党が、主導したのです。
金活蘭と朴マリヤが主導となって、景武台(大統領官邸)に行って偽りの証言をし、五つの部署の長官を動かして、統一教会をなくしてしまい、私を完全に埋葬してしまおうとしました。
延世大、梨花女子大事件が起こらなければ、その時、景武台と連結され、キリスト教全体が連結されたのです。

 

・米国宣教師らが背後で操る

韓国において、梨花女子大学、延世大学が統一教会を除去するように、宣教師らが背後で糸を引いたのです。
朴マリヤを中心として金活蘭が、大統領夫人のフランチェスカを中心として米国の宣教師たちと、ひそひそと謀議したのです。宣教師が後ろで操って、金活蘭を動かしてきたのです。
当時、学長級の教授らが五名復帰されていたので、完全に宣教師たちを圧倒することができたのです。そうすれば米国とキリスト教が一つとなって統一教会と完全に一つとなることができたのです。金活蘭と完全に一つにならなければなりませんでした。金活蘭が宣教師を完全に屈服させ、李博士と一つとなっていたならば、今ごろは完全に統一教会の天国になっていたのです。

 

・一方的な退職退学処分(梨花女子大教授5名、学生14名、延世大教授1名、学生2名)

梨花女子大は、宣教師を背景として米国の援助を受けている立場にあったので、当時大変な危機を感じたのです。そうして、緊急措置として、学校を取るのか、統一教会と文先生を取るのか、二者択一を迫ったのです。
五大科長たちを全部追放し、統一教会の主謀者となった学生たちを何の相談もなく、一方的に退学処分にしたのです。その時、5人の教授と学生14人が退学になり、歴史にない事件が起きたのです。

★ 梨花女子大、延世大事件の結果と影響

 

・再出発基盤の瓦解

1955年度までに最初の摂理から10年がたっていましたが、遅くはなかったのです。
ところがその時、退学事件が起きたことにより、先生は監獄に行くことになり、神の摂理に一大問題が生じました。
梨花女子大、延世大事件によって統一教会の文なにがしが、完全に排除されるようになったのでした。
イエス様の時代にユダヤ教が反対したのと同じようになったのです。四千年の間、天が準備したすべてのことを失ってしまいました。
1955年の時の梨花女子大学事件は、挙国的であったというのです。国家と既成教会が一つになって、李承晩主権下の五大長官が、統一教会をなくすために総動員されたのです。

 

・事件の主導者たちの結末

その時、朴マリヤと李起鵬を中心として、大韓民国大統領の李博士、フランチェスカ、金活蘭が国を滅ぼす元祖となったのです。李起鵬と朴マリヤは、どうなりましたか。息子によって天罰を受けたとしても、それほどの天罰が、どこにありますか。統一教会の文先生に反対した人の中で、良くなった人がいますか。
李博士も朴マリヤも、一家は、全部死んだのです。天に反対した者たちの行く末は、悲惨なものです。李博士の末路が哀れでしょう。
金活蘭がどうなりましたか。雷に打たれるようになったのです。どうして天国に行けるでしょうか。

※ウィキペディアより
1960年に、不正選挙を通じて副大統領に当選したが、四月革命で失脚し、景武台(現青瓦台)に身を避けたが、長男の李康石(陸軍将校で、李承晩の養子だった)の手によって、朴瑪利亜夫人や次男(李康旭)とともに射殺された(長男も自決した)。

 

★ ソウル中部警察署(治安局特殊情報課)連行

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・七・四事件(1955.7.4午後5時、奨忠洞教会)

1954年に統一教会という看板を掲げて出発するようになりました。
その時、韓国は国家的な反対をしました。それで1955年7月4日に監獄に入っていったのです。
彼らは一つになって「レバレンド・ムーンを捕まえて殺せ」と言ったのです。
私一人が苦痛を受け迫害を受けることはかまわないのですが、神様が数千年間準備した国と民主世界のすべての基台が崩壊してしまったのです。

・事件をけしかけた最終的背後勢力

西大門刑務所事件の時、李博士が五大長官と一つになり、朴マリヤと梨花女子大とフランチェスカの威信を立てるため、あらゆることをしたのです。文教部と、文公部(公報部)、内務部、法務部、外務部の五大長官が一つとなって、権力で文総裁を捕まえようとしたのです。

・拷問の取り調べ

私は西大門刑務所に入っていきながら、大韓民国に対して「滅びろ」とは思いませんでした。「既成教会よ、滅びろ」とは思いませんでした。「彼らが分かっていない罪をお許しください。かわいそうな大韓民国が罪を犯したことを蕩減するように、私にすべてを負わせてください。私を非難して、福を受けることができるならどれほど良いでしょうか」と、そのような気持ちをもっていました。
「神様、私が愛する民族を私以上に愛してください。神様、世界を私以上に愛してください。私のために同情する必要はありません。もし私が死んでも気の小さい男としては死にません」。そのように考えたのです。

★ 崔氏一家の不信と離婚の督促

 

・崔氏一家の告訴

聖進の母親の名前は崔先吉です。それから叔父に崔ソンモという人がいます。韓国が貧しい国家の復興期であった当時、崔ソンモは韓国の第一人者でした。崔ソンモさえ一つになっていれば、統一教会は迫害を受けることもなく、世界的な宗教になったはずです。梨花女子大事件も起こりはしないし、延世大事件も起こらなかったのです。
1955年の事件は、崔ソンモが起こしたのです。崔氏が先生を監獄に投げ込んだのです。内務部長官と手を組んで、統一教会をなくしてしまおうとしたのです。

★ 西大門刑務所出監(1955.10.4)

 

・無罪の言い渡しと釈放

7.4事件を中心として先生が刑務所に入ったので、世間ではみな「文なにがしの時代は過ぎ去った」と、そのように思ったのです。その時、文なにがしをひっ捕らえて、踏みつけて片づけてしまおうと、既成教会と政府が一つになってありとあらゆることをしたのです。しかし公判廷で無罪釈放となることにより、新しい統一教会の歴史は始まったのです。
あらゆる調査をしても何も出てこないので、10月4日に無罪釈放となりました。

・獄中生活の克服と勝利

先生が歩んでくる道において、神様は協助してはいけないようになっていたのです。協助してしまえば、もうキリスト教を再び救うことができないというのです。私はそれを知っていたのです。だから神様は私を打ってでもキリスト教を保護してきたし、私に苦労をさせながらでも韓国のキリスト教を育ててきたというのです。

 

3-6、ダンベリー収監

★ 文先生に対する裁判

アメリカでは、宗教団体の財産は最高責任者の名義で管理されるのが普通で、このことはアメリカの憲法によって保証されている。そのため、統一教会も、その資金を文鮮明先生の名義で銀行に預金していた。
ところが、1981年10月に、1973年から75年の3年間、文先生名義の銀行預金の利息について納税申告を怠っていたという脱税容疑で、ニューヨーク州連邦地方裁判所に起訴されたのである。
また、その預金を担当していたアメリカの伝道責任者の神山威氏も起訴された。教会側は裁判長による裁判を希望したが、裁判所はそれを一方的に拒否して、選ばれた一般の陪審員による陪審裁判を強制したのである。しかも検察官が指定した通訳の不手際によって誤解を招き、神山氏は偽証罪に問われることになってしまった。
文先生が有罪ならば、アメリカの多くの宗教団体が脱税で罪に問われなければならないのに、なぜ文先生が起訴されたのか。それは文先生をなき者にし、アメリカから追い出したいとする人々がいたからであった。1982年7月16日に第一審の連邦地方裁で、懲役10か月、罰金2万5000ドルの有罪判決が下された。

★ 荒野40年路程の最後の3年路程の出発

1983年になると、文先生は、1945年8月15日から1985年8月15日までの期間が荒野40年路程の期間であり、この荒野路程を終結させるべきことを訴えられた。モーセ路程において荒野40年の中で多くの不信と反逆があったけれども、カナンを目の前にして、モーセとイスラエル民族が一体化していくならばカナン復帰をなすことができた。

★ ダンベリー収監

1984年5月14日、アメリカの連邦最高裁は文先生の上告申請を却下した。
収監される前日の7月19日、文先生は声明を発表された。yjimage (44)

「私はいかなる罪も犯していないにもかかわらず、政府権力の濫用と宗教的迫害の犠牲にされています。全米の何千名もの牧師たちが、私に対する政府の迫害に反対し、『宗教の自由』の名にかけて、私とともに一週間入獄するという宣誓をしています。
統一運動は数億ドルのお金をアメリカのために投資してきました。皆様が私の仕事の範囲を理解されれば、どうして合衆国政府からおよそ2万5000ドルを脱税するために、私がアメリカに来たと本気で信じられるでしょうか。まさしくその始めから、この裁判は脱税問題ではなく、政府による宗教の内部活動への侵害でした。

7月20日の午後11時、文先生と神山威氏は、コネチカット州にあるダンベリー連邦刑務所に収監された。

★ 荒野40年路程終結のための摂理

文先生は、第一次の摂理の失敗以後、それを蕩減復帰するための路程を歩んでこられた。すなわちキリスト教とアメリカを中心とする民主世界の失敗を蕩減復帰しようとしてこられた。
そのためにまず、全米の30万の牧師たちに原理のビデオテープと文先生の説教集などを配布された。そして原理の研修ゼミに参加するよう呼びかけた。その結果 、4万名の人々がゼミに参加し、7000名以上の牧師たちが日本と韓国の統一教会を訪問するに至った。

先生を中心としたご家庭と、祝福家庭の二世と、一世と、教会員とが一つとなり、統一教会とキリスト教会とアメリカを中心とする民主世界が一体化した荒野路程終結のための条件が立てられた。そして、8月15日を超えた16日に一勝日が宣布されたのである。

文先生は、1985年8月20日に釈放された。その日の夜、「神と自由のバンケット」が開催され、全米から60以上の教派から2000名の牧師と聖職者が参加した。そこで文先生は「神のみ旨」と題して講演された。そこにおいて先生とキリスト教の代表者が一つになる場面 は、まさに荒野路程を終結させるにふさわしい情景であった。

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