私たちは原理講論は永遠不滅の真理であると教わり、神山先生などはまるまる暗記したとも聞きました。
劉孝元先生が3年6ヵ月もの間、毎日16時間の原理講義を行うという精誠を捧げることによって書き上げた原理講論は、完全無欠の真理と思っていました。
しかし1966年に発刊された原理講論は、50年以上経った今、一部の内容は古くなり、今の時代には合わない部分も多くなってきました。
再臨論にあるサタン側の国家日本に関する記述も、下に示すように、明らかに事実とは違う記述が多く見られます。
それは真のお父様自身が抗日運動の闘志であり、上海臨時政府金九先生と連絡を取り合っていたという事実から見て、思想的に朴殷植著『朝鮮独立運動の血史』や上海臨時政府の機関紙「独立新聞」の影響を受けていたためだと思われます。
また劉孝元先生ももともとクリスチャンであったという事実から、やはり抗日運動家であった可能性も高く、真のお父様と情報を共有し、原理講論を書き上げたとみるべきでしょう。
今のようにインターネットが発達し、正確な情報を得ることの可能な時代と違って、自分の身近な情報にしか接することのできない環境にありましたので致し方ないことでもあります。
しかしいつまでも間違った情報をもって、事の真偽を判断することはできません。
たとえ原理講論にあったとしても、間違った内容はただの間違いでしかありません。私たちは正しい知識を学ばなければいけないのです。
特に原理を一般の人たちに述べ伝え、真理の伝道者となるのであったら、明らかに間違っている内容を伝えるなどということはできません。それはただの厚顔無恥で非常識な人間でしかありません。間違いを認める勇気を持たなければいけないのです。
原理講論を勉強しないなどという食口は食口ではありません。
原理講論をそのまま丸暗記するのもいいでしょう。
しかし大人の信仰者としては、原理講論の内容を自らが体恤し、自由自在に語り、生活の中で実践できる者とならなければいけません。
そのような段階になったら、原理を学び感じた疑問には、自らが明確な回答を持たなければいけません。
今回ここで取り上げるサタン側国家日本に対する考察は、そんな大人の信仰者になるための一つのきっかけを与えてくれるかもしれません。
(三)東方のその国は、すなわち韓国である
韓国民族も、「40日サタン分立基台」を立てるためには、サタン側のある国家で、40数に該当する年数の苦役を受けなければならないのであり、これが日本帝国に属国とされ、迫害を受けた40年期間であった。
1905年に、日本の伊藤博文と当時の韓国学部大臣であった親日派李完用らによって、韓国の外交権一切を日本帝国の外務省に一任する条約が成立した。そうして、日本は韓国にその統監(のちの総督)をおき、必要な地域ごとに理事官をおいて、一切の内政に干渉することによって、日本は事実上韓国から政治、外交、経済などすべての主要部門の権利を剥奪したのであるが、これがすなわち乙巳保護条約であった。
西暦1910年、日本が強制的に韓国を合併した後には、韓国民族の自由を完全に剥奪し、数多くの愛国者を投獄、虐殺し、甚だしくは、皇宮に侵入して王妃を虐殺するなど、残虐無道な行為をほしいままにし、1919年3月1日韓国独立運動のときには、全国至る所で多数の良民を殺戮した。
さらに、1923年に発生した日本の関東大震災のときには、根も葉もない謀略をもって東京に居住していた無辜の韓国人たちを数知れず虐殺したのであった。
一方、数多くの韓国人たちは日本の圧政に耐えることができず、肥沃な故国の山河を日本人に明け渡し、自由を求めて荒漠たる満州の広野に移民し、臥薪嘗胆の試練を経て、祖国の解放に尽力したのであった。日本軍は、このような韓国民族の多くの村落を探索しては、老人から幼児に至るまで全住民を一つの建物の中に監禁して放火し、皆殺しにした。日本はこのような圧政を帝国が滅亡する日まで続けたのであった。このように、三・一独立運動で、あるいは満州広野で倒れた民衆は主としてキリスト教信徒たちであったのであり、さらに帝国末期にはキリスト教信徒に神社参拝を強要し、これに応じない数多くの信徒を投獄、または虐殺した。それだけではなく、8・15解放直前の日本帝国主義の韓国キリスト教弾圧政策は、実に極悪非道なものであった。しかし、日本の天皇が第二次大戦において敗戦を宣言することによって韓国民族は、ついにその軛から解放されたのである。
このように韓国民族は、1905年の乙巳保護条約以後1945年解放されるときまで40年間、第一、第二イスラエル選民が、エジプトやローマ帝国で受けたそれに劣らない迫害を受けたのである。そして、この独立運動が主に国内外のキリスト教信徒たちを中心として起こったので、迫害を受けたのが主としてキリスト教信徒たちであったことはいうまでもない。
原理講論
「西暦1910年、日本が強制的に韓国を合併した後には、韓国民族の自由を完全に剥奪し、数多くの愛国者を投獄、虐殺し、甚だしくは、皇宮に侵入して王妃を虐殺するなど、残虐無道な行為をほしいままにし」
⇒1895年10月8日に起こった「閔妃暗殺事件(乙未事変)」のことを指すと思われる。
閔妃暗殺事件は、日本陸軍軍人三浦梧楼らの計画に基づいて、王宮に乱入した日本軍守備隊らによって王妃閔妃が暗殺された事件。
しかしこの事件は、王妃閔妃の政敵であった高宗の父興宣大院君が三浦公使と共謀して起こしたクーデターとの説も多く、複数の学説が存在している。
この事件は、日本による朝鮮統治期間以前の事件であり、日本人単独による蛮行でもなく、当時の李氏朝鮮内の政治闘争の一環でもあるのに、原理講論には全ては日本による残虐無道な行為のごとくに書いてある。
原理講論
「さらに、1923年に発生した日本の関東大震災のときには、根も葉もない謀略をもって東京に居住していた無辜の韓国人たちを数知れず虐殺したのであった。」
⇒関東大震災時に、数千人の朝鮮人を虐殺したというのは、今では常識的な内容となっています。
しかしこのことに関しても、史実を時系列に従い忠実に検証してみると、全く違ったものが見えてきました。
つまり関東大震災時、①在日朝鮮人たちによる暴動や火事場泥棒が多発しており、②そのことに注意喚起する新聞記事によって③自警団が結成され、④その結果多数の朝鮮人の虐殺が起こったというのです。⑤そのことに対して政府は、それ以上虐殺が起きないよう報道の規制措置を取ったとのことです。
しかもこの在日朝鮮人たちによる暴動も、その背後には当時の共産党による共産革命のためのテロ行為があった可能性があり、そこには共産党と根元が同じ在日朝鮮統一民主戦線の朝鮮人が関与していた可能性もあるというのです。
しかし左傾化した日本では不都合な真実は隠され、歪曲され、無実の朝鮮人に対する日本人による一方的な虐殺と定着し、原理講論にも同じような主張が真理のごとく記載されているのです。
原理講論
「日本軍は、このような韓国民族の多くの村落を探索しては、老人から幼児に至るまで全住民を一つの建物の中に監禁して放火し、皆殺しにした。日本はこのような圧政を帝国が滅亡する日まで続けたのであった。」
⇒1919年4月15日の堤岩里事件のことを指すと思われる。
3・1運動が全国規模で拡大し、華城地域では暴動の様相を見せ、警察の駐在所が破壊され、日本人警官2人が殺害されたり、面事務所、郵便局、駅、金融組合、日本人小学校、日本人家屋が襲撃、破壊もしくは放火されるなどの被害が出た。
デモの首謀者逮捕の目的で、成人男性22人を堤岩里教会に集め、取り調べの過程で反抗、逃亡があったので全員を射殺。証拠隠滅のために教会および付近の家屋に火を放った。総犠牲者は23人(近隣での殺害を含めると29人)。
この事件が日本統治下での朝鮮人弾圧の最大の悲劇。
原理講論には、同様の事件が統治期間中継続的に、各地で続いたかのごとくに書いてあるが、実際は3・1運動を機に朝鮮総督府による統治体制が、武断的なものから文治的なものへと方針転換される契機となり、日本敗戦に至るまで大規模な運動は起こらなかったといいます。
原理講論
「さらに帝国末期にはキリスト教信徒に神社参拝を強要し、これに応じない数多くの信徒を投獄、または虐殺した。それだけではなく、8・15解放直前の日本帝国主義の韓国キリスト教弾圧政策は、実に極悪非道なものであった。」
⇒日韓併合下ではキリスト教徒が抗日運動を担うようになり、1919年に発生した三・一運動ではキリスト教徒が主要な役割を果たした。
1937年皇国臣民ノ誓詞が発せられ、総督府は公然とキリスト教会への神社参拝を強要した。
このような事実は確認できるが、8・15解放直前の日本帝国主義の韓国キリスト教弾圧政策は確認できない。
原理講論にある日本による迫害の多くは、その根拠があいまいなところが多く、その思想は朴殷植著『朝鮮独立運動の血史』に近いところが多いことを考えると、帝国末期の実に極悪非道な韓国キリスト教弾圧政策も、その信憑性はかなり低いのかもしれない。
乙巳保護条約(第二次日韓協約)(Wikipedia)
第二次日韓協約は、日露戦争終結後の1905年(明治38年)11月17日に大日本帝国と大韓帝国が締結した協約。これにより大韓帝国の外交権はほぼ大日本帝国に接収されることとなり、事実上保護国となった。
第1条:日本国政府は、東京にある外務省により今後韓国の外国に対する関係および事務を監理指揮するものとし、日本国の外交代表者および領事は、外国における韓国の臣民および利益を保護するものとする。
第2条:日本国政府は、韓国と他国との間に現存する条約の実行を全うする任務に当たり、韓国政府は、今後日本国政府の仲介によらずして国際的性質を有する何らの条約もしくは約束をしないことを約する。
第3条:日本国政府は、その代表者として韓国皇帝陛下の下に統監を置く。統監は、外交に関する事項を管理するため京城に駐在し親しく韓国皇帝陛下に内謁する権利を有する。日本国政府は韓国の各開港場およびその他日本国政府の必要と認める地に理事官を置く権利を有する。理事官は、統監の指揮の下で、従来在韓国日本領事に属した一切の職権を執行し、ならびに本協約の条款を完全に実行するために必要とすべき一切の事務を掌理するものとする。
第4条:日本国と韓国との間に現存する条約および約束は本協約の条款に抵触しないかぎり全てその効力を継続するものとする。
第5条:日本国政府は韓国皇室の安寧と尊厳を維持することを保証する。
乙未事変(いつびじへん)(Wikipedia)
乙未事変は、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃が1895年10月8日、三浦梧楼らの計画に基づいて王宮に乱入した日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らに暗殺された事件。
実際の暗殺の首謀者や実行者は誰であったかについては複数の学説が存在している。
・裁判で興宣大院君(高宗の父)の首謀とする判決が出たことや、朝鮮人実行犯の証言等から、事件の首謀者を大院君とする見解は根強い。
・堀幸雄は、「玄洋社、関東自由党、熊本神風連の子弟ら50人が安達謙蔵を部隊長に王宮に乱入し閔妃を殺害したのである。」と書いている。
・在朝鮮日本公使館一等書記官であった杉村濬は、回顧録『明治廿七八年在韓苦心録』(1904年)で自らが「計画者の中心」であると述べ、閔妃を中心とする親露派を排除するため大院君や訓練隊を利用したクーデターであったと告白している。
・金弘集政権は事件後、大院君に責任があるとしている。
・兪吉濬によれば、これは大院君にすべての責任を負わせて、政権が責任を免れようとしていたものとしている。
・兪吉浚はアメリカ人牧師モールスに送った手紙に、「大院君が日本公使館に頻繁に出入りして、閔妃殺害を日本に要請したのは大きな間違いだ」と書いていた記録が残っている。
・『日本と韓国』の著者、終戦時全羅南道の知事八木信雄は「訓練隊の幹部が閔妃勢力との決闘を決意し、閔妃の政敵である大院君の力を借りて事を進めようとし、共にクーデターを決行しようという密約を結んだ」と述べている。
・内田定槌による報告「今回の事変は全く大院君及三浦公使の計画に基きたるもの」と両者の計画であったとしている。
・三浦は事件直後に「(大院君は)唯自分の言ひなり次第になった訳で、約束も何もない」と答えた。
・19世紀末の『朝鮮旅行記』では、ロシア参謀本部のカルネイェフ中佐が「1895年11月26日に実行された王妃暗殺では、間違いなく大院君がかなりの役割を演じていた」と発言していたことが記述されている。
・韓国の独立運動家にして大韓民国臨時政府第2代大統領だった朴恩植も閔妃暗殺犯を興宣大院君だと指摘した。
関東大震災における朝鮮人虐殺事件について全体像を把握するために知っておくべき3つのポイント。
1、「被害者の数の問題」
2、「当時何が起きたのかの時系列
3、予備知識としてこの問題における朝鮮総連と日本共産党の問題。
1:客観性の無い情報が事実のように飛び交う
「6000人の朝鮮人が虐殺された」とする情報は、近年日本では殆どこの数字が取り上げられることはない。
この数字は、元々「上海臨時政府(大韓民国臨時政府)」が震災当時に機関紙の「独立新聞」に掲載した数字で、何の裏付けも取られておらず、日本の公式記録では「自警団に殺された朝鮮人の数は231人」となっている。
2:特定の情報が隠されている
当時の新聞記事を時系列を追って見てみると
①朝鮮人による暴動や火事場泥棒が多発していた。
以下は震災当時の初報記事
以下は暴徒の鎮圧と「その後の風説報道」を否定する政府発表を報じる記事
以下は震災「1ヵ月後」に、風説によって発生した朝鮮人襲撃を防ぐ報道規制が解かれたあとの記事
②いくつかのメディアが「また朝鮮人による暴動が起きる」と煽った。
③「また同じ事が起きてはたまらない」と自警団が結成された。
④その結果朝鮮人殺害事件が発生した。
⑤政府は「風説による襲撃をさせないために」1ヶ月間詳細報道の規制措置を行った。
要するに、当時の記事から「暴動に参加したかどうかわからない」朝鮮人が数百名殺されたのは事実ですが、その前段階として朝鮮人移住者による治安の悪化、震災後の火事場泥棒や暴動があったのも同じく事実というわけです。
勿論、自警団による朝鮮人殺害事件は犯罪であり日本政府としても当時これを問題としていましたが、だからといってその前の段階で何が起きていたのかを隠すのもそれはそれで問題なのです。
3:朝鮮総連と共産党
当時の共産党というのは「武力闘争」による国家転覆と共産国家の建国を目指すテロ組織でした。
そして、朝鮮人の中にもこの活動に参加している人々が多数おり、彼らが「独立闘争」と呼んでいるものも、そのかなりの数が実は「共産革命のためのテロ行為」であり、震災後の混乱に乗じて多数の共産主義者がテロ行為を行っていたというわけです。
そして更に重要なのは、現在朝鮮総連と呼ばれている組織は、元を辿ると日本共産党と根元が同じであり、朝鮮戦争当時には在日朝鮮統一民主戦線(民戦)という下部組織をつくり、共産党とともに北朝鮮の側に立って在日米軍基地などへの武力闘争という名のテロ行為を繰り返していたのです。
つまり日本共産党は、当時共産党が行っていた震災に乗じたテロ行為も隠しており、更には朝鮮総連と根元が同じである事、朝鮮総連とともにテロ行為をしていた過去がある事も隠しているのです。
しかも、関東大震災における朝鮮人殺害事件には、共産党によるテロ行為も深く関わっているにも関わらず、その事を隠してこのようなプロパガンダを行っているという事自体本来は大問題です。
「堤岩里3・1運動殉国記念館」のHP
3月1日に始まり、全国規模で広がった独立運動は、華城地域では暴動の様相を見せ、警察の駐在所が襲撃、破壊され、日本人警官2人が殺害されたり、面事務所、郵便局、駅、金融組合、日本人小学校、日本人家屋が襲撃、破壊もしくは放火されるなどの被害が出た。また、頻繁にデモや演説が行なわれ、山では篝火がたかれ、日本人住民が避難するまでになっていた。
取り締まりの過程で、朝鮮人にも相当数の犠牲者が出ていた。
首謀者は、主にその地域のキリスト教徒、天道教徒であり、他の村では首謀者が逮捕されていたが、堤岩里ではまだ逮捕されていなかった。
そこに治安維持目的で派遣された有田中尉の歩兵部隊が、デモの首謀者逮捕の目的で、住民のうち成人男性(15歳もしくは20歳以上)22人を堤岩里教会に集め、取り調べの過程で反抗、逃亡があったので全員を射殺(うち1人は逃亡)、教会の外で犠牲者の夫人も2人殺害、証拠隠滅のために教会および付近の家屋に火を放った。総犠牲者は23人(それ以外に近隣の古洲里村で6人殺害。これを含めると29人)。
三・一運動(Wikipedia)
三・一運動は、1919年3月1日に日本統治時代の朝鮮で起こった日本からの朝鮮独立運動。独立万歳運動や万歳事件とも。
中心となったのは天道教やキリスト教、そして仏教の指導者たちである。彼等は会合を重ねて大衆化・一元化・非暴力の三原則を取り決めた。
3月1日午後、京城(ソウル)中心部のパゴダ公園に宗教指導者らが集い、「独立宣言」を読み上げることを計画した。
運動の広がり
発端となった民族代表33人は逮捕されたものの、本来独立宣言を読み上げるはずであったパゴダ公園には数千人規模の学生が集まり、その後市内をデモ行進した。道々「独立万歳」と叫ぶデモには、次々に市民が参加し、数万人規模となったという。以降、運動は朝鮮半島全体に広がり、数ヶ月に渡って示威行動が展開された。これに対し朝鮮総督府は、警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たった。
被害
襲撃による日本側の被害を挙げると、人的なものは官憲の死者8名、負傷者158名であり、物的なものは駐在所159、軍・面事務所77、郵便局15、その他諸々27であったといわれる。
日本の対応
日本側は憲兵や巡査、軍隊を増強し、一層の鎮圧強化を行った。
こうした中、いくつかの悲劇が発生した。最も有名なのは堤岩里事件である。この事件は4月15日に堤岩里の住民30余名を教会堂に集めて一斉射撃の後放火焼殺され、他にも日本側が放火し15村落317戸が延焼し、39人が亡くなったというのが全貌である。
運動の終息
朝鮮総督府当局による武力による鎮圧(弾圧)の結果、運動は次第に終息していった。
逮捕・送検された被疑者12,668名。このうち有罪判決を受けたのは3,967名。死刑・無期懲役になった者、懲役15年以上の実刑になった者はいない。3年以上の懲役は80名。
影響と意義
三・一運動は、憲兵警察制度を廃止し、集会や言論、出版に一定の自由を認めるなど、朝鮮総督府による統治体制が武断的なものから文治的なものへと方針転換される契機となった。朝鮮人による国外での独立運動が活発化する契機となったことや、国内での合法的民族運動を展開する道が開けることになった。
三・一運動を招いた反省から、武断的な統治を文化統治へ大きく改めた結果、以降は日本統治に対する抵抗といえる抵抗がまったくみられなくなった。
犠牲者
・朴殷植著『朝鮮独立運動の血史』
3月~5月に集会参加者延べ約202万、死傷者が7509名、負傷者が15961名としている。
・日本警察の集計
3~4月11日、参加人数約49万、死者357名、負傷者802名。
三・一運動期間中、6月30日までに逮捕され起訴された総数は26865人、第一審判決で最高15年から最低3月未満までの受刑者が22275名であった。
日本人の憲兵6名と警察官2名が虐殺され、多くの建物が放火されたにもかかわらず、死刑を一人も求刑せず、15年以上の実刑もなく、3年以上の懲役はわずか80人に過ぎなかった。
・朝鮮総督府資料から、参加人数約106万名、死者553名、負傷者1409名
・(朝鮮日報日本語版) 三・一節:国史編さん委が初の公式集計「運動参加者103万人・死者934人」
2019.2.21(木) 11:02配信 朝鮮日報日本語版
韓国の国史編さん委員会は20日、1919年3月1日に起きた日本からの独立運動である三・一運動の当時、80~103万人がデモに参加し、725~934人が死亡したとする集計を明らかにした。日帝(日本帝国主義)による既存資料に基づくデモ参加者数58万人、死者553人を最大で1.7倍上回る数値だ。
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