7、一度摂理に失敗した中心人物を、再び中心人物に立てることはできない

7、一度摂理に失敗した中心人物を、再び中心人物に立てることはできない。

 

神の復帰歴史を見ると、一度摂理に失敗した中心人物は、基本的には二度と再び摂理の中心に立つことはできません。
復帰摂理を妨害しようとするサタンが中心人物に侵入するためです。
そのため復帰摂理の進展に伴い、神は摂理に失敗した中心人物に代わり、新しい中心人物を立てて摂理を進めてこられました。

例) アダム ⇒ ノア ⇒ アブラハム( ⇒ イサク ⇒ ヤコブ) ⇒ モーセ( ⇒ ヨシュア)

 

神の摂理を担う中心宗教も、与えられた責任分担を果たせず堕落してしまった場合、まずは内的刷新運動が起こります。
それでも悔い改めない場合は外的粛清がなされます。
そして遂には古い中心宗教は分裂し、カイン的宗教とアベル的宗教とに分かれます。
アベル的宗教は古い中心宗教の中から異端の姿をもって現れ、新しい摂理を出発します。

例) イスラエル民族(ユダヤ教) ⇒ キリスト教(ローマカトリック) ⇒ プロテスタント

 

新しい中心が現れたとき、それまでの中心宗教は自らの利権を守るため、必ず新しい中心を迫害するようになります。
しかし新しい中心宗教をどんなに迫害しても、神が離れた中心宗教は衰退の道を行くか、サタンの手先となるしかありません。
一方新しい中心宗教は、どんなに迫害されても神の祝福を受け発展し、新しい時代を切り開いていきます。

 

 

※資料(一)7-1 原理講論より

復帰基台摂理時代2
第二節 ノアの家庭を中心とする復帰摂理

『ノアの家庭を中心とした摂理は、み旨成就に対する神の予定の在り方と、人間の責任分担の遂行いかんで神がどのような態度をとられるか、ということを私たちに見せてくださったのである。ノアの家庭は、神が1600年間もかかって求めてこられたのであり、また、ノアが箱舟をつくるまで120年も導いてこられたのであり、それだけでなく40日の洪水により、全人類を犠牲にしてまで立てた家庭であることを、我々はよく知っている。しかし、ハムの小さな過ちによってサタンが侵入するようになると、神は復帰摂理の対象であったその家庭全部を惜しみなく捨てられ、その結果、ノアの家庭を中心とする摂理は、失敗に帰してしまったのである。
また、ノアの家庭を中心とする摂理は、人間に対する神の予定がどのようなものであるかを我々に見せてくださった。神はノアを信仰の祖に立てようと、長い期間を通じて苦労して探し求めてこられたにもかかわらず、その家庭が、いったん、責任分担を全うできなくなったときには、それを惜しみなく捨て、その代わりとしてアブラハムを選ばれたという事実を、我々は忘れてはならないのである。』

 

 

※資料(一)7-2 アメリカに対する神の希望 1973年10月21日

歴史上のすべての聖人、預言者、義人はまず第一に完全なる自己否定をし、神に自分を捧げました。神が彼らを呼び集められた時、彼らは自分の家や財産、家族、また国までも捨てました。
神はどのような使命が下されてもついていくことのできる、完全なる疲れを知らない信仰者を要求しているのです。

イエスの時代の人々はメシヤの到来を切望していました。しかし彼らはイスラエルとして、神の選民として、彼らの国家的栄光のみを考えていました。彼らはイエス・キリストの世界的な使命を理解しませんでした。メシヤを選民に送るのは神の目的でありました。そしてメシヤは選民と一つになるのでした。そして彼らは信仰をもつ戦士となり、世界の救いのため戦い、成就するのです。

メシヤのための基台は家庭的闘士であるヤコブ、そして民族的な闘士であるモーセを通して築かれました。最後にメシヤはイスラエルという国家に来ました。彼はその国の闘士であり、世界全体の闘士となるべきでした。神の目的は一つの教会や、一つの国家の救いではないのです。より多くのためにより少なきを犠牲にするのが神のやり方であります。もし、今日のクリスチャンが自分たちのみの救い、自分だけの天国そして自分たちだけの安寧を考えていたら、彼らは神の目的に沿って生きていないのです。もし私たちが自分だけの家族の救いのみに関心を寄せるなら、私たちは神の祝福を受ける価値はありません。もし人々が自分の同胞、すなわち自分の国の利益だけに焦点を合わせるなら、彼らは完全に神の意志に反して進んでいるのであります。

私たちはすべて世界救済のため我々自身を捧げなくてはならないのです。

神は、私たちが自己中心的に生きるのを喜ばれないのです。神の教会の目的は全世界を救うことであります。教会は神の手段です。イスラエル選民がイエス時代に忘れたのは正にこの事実でした。

イエスの十字架と復活ののち、キリスト教は小アジア中に広がりました。ローマはその中心ともいうべき所でした。
信仰をもった軍隊に打ち勝つ敵はないのです。ローマ帝国はついに亡びましたが、イエスはローマを征服したではありませんか。世界救済の神の摂理の中心にローマ・カトリックはなったではありませんか。

しかし、中世になって教会は大きく破滅の道をたどっていったのです。キリスト教はその精神において分裂してきたのです。中世教会の教会制度はその力、権力、その繁栄のみに携わり、教会は政治的に経済的に莫大な力をほしいままにしました。教会制度はこの力を保ち、乱用し、神の目的を忘れてしまったのです。彼らは自分の地位に執拗にぶらさがり、いかなる反対者も容赦なく迫害したのです。これらの人々のキリスト教精神は完全に死んだものとなってしまったのです。

しかし、神は前に進まなければならなかったのです。教会は改革される必要があり、したがって宗教改革がこれに続いたのです。マルチン・ルターは新しいプロテスタント改革を始めました。この不満の花火は直ちにヨーロッパ中に広がり、教会の権力に対して反乱の嵐が巻き起こったのです。全地域の義なる人々は、古い教義や習慣から解放されようと意を決しました。彼らは明らかに、教会ではなく神に礼拝したかったのです。

イギリスでは、貴族教会の耐え難い腐敗に対する反乱がありました。それはイギリス教会を浄化するための叫びでした。清教徒運動も始まりました。これらの新しい求道者は、そうした新しい運動に、あらゆる手段をもって抑圧してきた既成教会の教会指導者たちを、恐れさせました。真実に礼拝の自由を求める者は、逃げ出してしまうか投獄されるかのいずれかでありました。しかし彼らは屈することを知らなかったのです。ある者はオランダに逃げ、彼らが自由に礼拝することのできる新世界、新天地、新しい土地を求めたのです。

彼らの生活は神のみ意を中心としていました。神が彼らの唯一の慰めであり、彼らの唯一の希望であり、彼らの唯一の安全でありました。神が彼らにとって第一の仲間であったのです。彼らは決して神への信頼を失わず未来の展望を失わなかったのです。アメリカに来ることの目的は神を中心とした国をつくり、神が住むことのできる、そして本当に親交を分かち合い神と共に親交を喜ぶことのできる天地をつくり上げることにあったのでした。なぜなら神は最終的な永遠の世界救済のため、神の闘士として仕える一国を必要とされているからです。

彼らが最初に建てたのは教会でした。彼らが最初につくった道は教会への道でした。初期のアメリカが美しいアメリカとして私の目に浮かびます。というのは神はあらゆる所におられたからです。学校に教会に、台所に、通りに、どんな集会場にも、マーケットにも神はおられたのです。

1776年に独立運動を指導した人々を見てみましょう。これらの自由の闘士は英国本国の目から見たなら裏切り者でした。しかし神は、神の手段として神の遣わす人としてこれらの裏切り者を使われました。そして、彼らを通して地上に最高の国をつくろうとされたのです。

しかし、ジョージ・ワシントンは戦う何ものももたなかったのです。一方、イギリス軍はすべてをもっていました。力、権力、伝統、そして装備、彼らは軍の力を誇っておりました。アメリカの大陸軍は弾薬をもたず、わずかの兵隊しかおりませんでした。

イギリス軍は国王のために戦ったのです。彼らにとってイギリス君主は絶対でした。アメリカ軍も彼らの王のために戦ったのです。神は彼らの唯一の王でした。そして神のみが絶対なのでした。

神はアメリカを神の基台、アメリカを神の闘士として望んだのです。そしてアメリカは、神の目的を追い求めながら、犠牲の精神をもち出発させられたのです。アメリカは神の目的のために同じ犠牲の精神で歴史を完成しなければならないのであります。

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