(一)日本はサタン側のエバ国
①メシヤに対する思い込み
②歴史を見る観点
(1)原理講論、再臨論から
(2)日本の韓国統治40年
1、日本の韓国統治時代概要
①朝鮮王朝末期の韓国
②日本の朝鮮統治
③朝鮮王朝末期の混乱とキリスト教伝播
④もし日本が韓国を統治しなかったら…ロシアによる統治
⑤世界の植民地統治政策
⑥世界はどのように大東亜戦争を評価しているか
⑦大韓民国臨時政府と李承晩
2、日本はサタン側のエバ国への疑問
①本来の主の国韓国の相対は日本
②1988年、太田会長の御言報告
③久保木会長に語られた真のお父様の御言
④結論
(3)イエス降臨時と再臨時
(4)真のお父様を最初に迫害し拷問を加えたのは日本人
(ニ)主の国韓国の罪
(1)再臨摂理を失敗したのは神が準備された韓国人とキリスト教
1、1945年当時の神の摂理
2、梨花女子大、延世大事件における神の摂理
3、韓お母様の独生女宣言と韓国人幹部たちの腐敗
(一)日本はサタン側のエバ国
私たちは統一教会に入ると、まず第一に教えられたのは日本はもともとサタン側のエバ国家だったが、恩讐をも愛する真のお父様の愛によって許され、神側のエバ国となることができたということです。
そして本来ならば神側のエバ国として、再臨摂理の大前線に立つことなどということは許されるはずもない罪深い日本人が、こうして真のお父様の愛によって許され、主の民韓民族と共に摂理を担うことが許されたわけですから、日本民族としての罪を悔い改め、誰よりも苦難の道を歩み、僕の僕となって摂理に貢献しなければいけない。神の摂理を担う万物と人材を天の前に責任をもって捧げなければいけないと教育されてきました。
全ては堕落の張本人、エバの蕩減であり、主の国韓国と、真のお父様を直接に迫害した罪深い民族としての、民族的蕩減条件を立てなければいけないということを、ことあるごとに徹底的に教育されてきました。
そしてその教育を受けた日本人食口たちは、その教育に疑問を抱くこともなく、ただ素直に、純粋にそのみ言を信じてきました。そして一生懸命に伝道し、自分の家や畑を売り払い、子供たちの教育資金をも摂理の名目で天に捧げてきました。
時にはヤコブの知恵を使えと教育され、霊感商法や訪問販売等で多くの人々を騙したとしても、全ては天のみ旨のためだと自己正当化してきました。たとえ騙されたとしても結果的に天のみ旨に貢献出来たらば、それが条件となって本人または子孫が必ず救われると信じて、非合法的な活動にまで手を染めてきた人もいます。
さらには親をも騙し、お金を借りれるだけ借りては教会に献金してきました。カード時代になってからは可能な限りカードキャッシングを行って献金し、挙句の果ては自己破産にまで追い込まれ、最終的に生活保護を受けざるを得ない貧困にあえぐ食口たちを生み出してきました。
実際統一教会食口の生活保護受給率は、一般人の生活保護世帯の受給率よりもはるかに高いと言われています。
そんな統一教会の実情は国の知るところとなり、今では統一教会員と知れると、生活保護さえも受けることはできないと言われています。
統一原理を知り、真の御父母様と出会い、統一教会員として祝福を受けることにより、誰よりも幸せな人生を送ることができると信じみ旨の道を歩んできたら、誰よりも惨めで、貧しい生活が待っていたのです。
しかしこんな惨めな人生、生きているときだけならばまだいいのですが、もし今まで教わった内容が間違いで、天に積んだはずの功労も実際は積まれていなかったとしたらどうなるのでしょうか?
さらには自らの人生を犠牲にしてまで捧げてきた献金が、天に積まれるどころか、サタンの活動資金になっていたとしたら、それは功労ではなく、逆に罪になってしまうのではないでしょうか?
ここではまず、私たちが統一教会に入ることによってまっさきに教えられてきた、日本はサタン側のエバ国であり、主の国韓国を40年間迫害してきた罪深い国という内容は本当なのかを、日本による朝鮮統治時代の真実を解明することにより、明らかにしていきたいと思います。
そして真のお父様を最初に迫害し、拷問を加えた罪深い日本人という内容も精査し、そこから浮かび上がる真実を明らかにしていきたいと思います。
①メシヤに対する思い込み
ここで私たちがついつい陥りやすい思い込みについて述べたいと思います。
例えば2000年間キリスト教徒たちが陥っていた思い込みの一つが、神は全知全能であり、完全無欠な存在だということがあります。それゆえ神の子としての人間が天使長によって堕落してしまったとしても、神は悲しみなどせず、天国で神として悠然としていると信じられてきました。
また神が全知全能なるがゆえに、神の子であるイエスも全知全能であり、使命に失敗することなどありえないと思い込まれてきましたから、イエスの十字架も最初から神の計画として予定されていたと信じられてきました。それゆえイエスは十字架につくために降臨されたと信じられてきたのであり、十字架につくことによって人類の罪を清算されたと信じられてきました。
これらは神の絶対性と完全無欠性に対する信仰であると同時に、神が悲しまれるとか、イエスは使命に失敗したなどと解釈することは、神とイエスに対する不敬とみなされますので、このように信じるしかありませんでした。
この2000年間のキリスト教徒の思い込みを、真のお父様は原理によって見事打ち砕かれ、人類始祖アダムとエバを失った神は悲しみの神であり、イエスの十字架は摂理に失敗した結果であることを解き明かされたのです。
同じような思い込みは我々統一教会員の中にも数多く見受けられます。
例えばメシヤについて、我々はどのように考えやすいかというと、
1、神が完全無欠の絶対神であるごとく、メシヤも完全無欠の絶対的存在である。
2、メシヤの御言も全て絶対的価値を持つ ⇒ メシヤの御言は無条件全て正しい。
3、メシヤは全ての面においてNO1 ⇒ 宗教、政治、経済、運動、芸術全ての分野でNO1である。
しかしメシヤとは、宗教的指導者としてはNO1であり、人類を原罪から解放できる唯一無二の存在であることは間違いありませんが、政治家として、科学者として、経営者として、芸術家としては、決してNO1などということはありません。NO1である必要もありません。
そこで私たちが意識しなければいけないことは、メシヤである真のお父様の御言にも二面性があるということです。
つまり、
1、神の代身者、メシヤとしての真理の御言 ⇒ 永遠不変の真理としての絶対的御言
2、人間文鮮明としてのお言葉 ⇒ 天才文鮮明氏の知識からくるみ言
というように、絶対的真理の御言と、人間文鮮明としての、一個人の知識から出るみ言の2種類があるということです。
例えば原理講論、統一思想、原理本体論や、8大教材教本等は永遠不変の真理としての御言が基本ですが、集会等で語られたみ言は、絶対的真理ばかりではないということです。
つまり真のお父様のただの知識から出たみ言ということもありますので、間違う場合もありうるということです。
例えば真のお父様が、カラスは白いと言われた場合、メシヤが言われたみ言だからそこには我々には理解できない、何か深い意味があるのだろうと信仰的に捉えがちですが、実際はただの言い間違いだったりすることもあるということです。
特にお父様は、経済家でも、経営者でもありませんので、真のお父様の指示に従った結果、経営がうまくいかなかった企業体は数多くあります。もっともこれはお父様の失態というよりは、各企業体を任された韓国人指導者たちが、自分たちの私利私欲に走り、まともな企業経営などしなかった結果である場合がほとんどです。しかしそんな指導者たちを任命したのもお父様になりますので、お父様のみ言も絶対正しかったとは言えません。
今回扱う日本はサタン側のエバ国だったということにしても、今改めて検証してみると、真のお父様の語られたみ言の中にも間違った内容が多々見受けられます。
劉孝元会長の書かれた原理講論の内容もそうですが、真のお父様のみ言も、上海臨時政府の発表による日帝の悪逆非道さを訴えた報道に大きく影響されていると感じざるを得ません。今とは違い当時はインターネットなどありませんから、多方面の情報を集め、総合的に情報を分析することなどできなかったはずです。
上海臨時政府によって、韓国国内での日本帝国の朝鮮支配の悲惨な様子が伝えられれば、当然その情報を真実と受け取るのは致し方ありません。特に真のお父様も、文潤國ハラボジも、上海臨時政府との繋がりは強かったので、そこから発せられる情報は、基本的に正しいと思っていたはずです。
上海臨時政府第2代大統領朴殷植が1920年に著した『韓国独立運動之血史』を真実と取ってしまうでしょう。関東大震災時に上海臨時政府が機関紙「独立新聞」に「6000人の朝鮮人が虐殺された」とした根拠のない情報を載せたときも、真実と思ってとらえていたはずです。そういった偏った情報であったとしても、その偏った情報しか与えられていない状態でみ言を語れば、当然そのみ言も事実と違ったものになってしまうのは致し方ありません。
今回、日本による朝鮮統治時代を検証していったとき、残念ながらみ言の間違いともいうべき内容を、数多く発見することができました。
しかし最終的結論を言えば、それらすべての間違いをあえて犯してまでも、伝えたかった真実にまでたどり着くことができました。その真実というのは、単なる思い込みにすぎませんし、一つの可能性でしかありませんが、まさしく真のお父様の、真の愛がそこには込められていたと結論付けられるものでした。
ここではその結論に至るまで複雑なパズルを解くように、一つ一つの疑問を解明していきたいと思います。
参考 聖書を見る観点
原理講論 再臨論
(一)聖書を見る観点
聖書を解釈するに当たっては、その観点をどこにおくかということが、最も重要な問題であるといわなければならない。
我々は、イエス以後2000年間も、洗礼ヨハネがその責任を完遂したという先入観をもって聖書を読んできたので、聖書もそのように見えたのであった。ところが、それと反対の立場から聖書を再び詳しく調べてみることによって、洗礼ヨハネは、その責任を完遂できなかったという事実が明らかにされたのである。
我々は、聖書の文字が物語っている、その真の意味を把握するために、従来とは異なる角度で、もう一度、聖書を詳しく調べてみる必要があるのである。
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