10、一片丹心の信仰者であるために

10、一片丹心の信仰者であるために

統一教会に入教してきた人たちには、大きく分けて次のような3つのタイプがあります。

1、神を求め、真理を求め、メシヤを求めてきた人。
2、親兄弟、友人から伝道されて、自然と信仰を持つようになった人。
3、街頭や、訪問で伝道され、信仰を持つようになった人。

信仰の道に入った動機が違えば、当然信仰姿勢も違ってきます。
しかし信仰生活を続ける中で、神の心情を知り、真のお父様の神を愛する世界を知る中で、自分の信仰姿勢の足らなさを自覚し、正しい信仰感を持つように訓練されなければいけません。

私たちは生まれながらにして、自然と自己中心的に物事を考えてしまいます。
より高い地位を得るために他人を蹴落としてまでも、権力を手に入れようとする人。
豊かな生活をするために、他人を騙してまでもお金を儲けようとする人。
妻子があるにもかかわらず、若い女性を誘惑し、不倫に走る人。
他人を犠牲にしてまでも、自分の欲望をかなえようとするのが、人間の生まれ持った性ともいえます。

そんな人間の醜い姿を明らかにし、神の子として創造された人間の、美しい本然の生き方を教えるのが統一教会の原理でした。
天使長ルーシェルの誘惑によって、人類始祖アダムとエバが堕落し、偶発的に持つようになった堕落性によって、私たちは神の子が持つべき創造本姓を忘れ、自己中心的な生き方をするようになってしまいました。
その結果人類の歴史は、対立と闘争、悲劇の歴史となってしまいました。

それが統一教会に入教し、真のお父様の生きざまを学ぶにつれ、私たちはそんな堕落人間の生き方を改め、神の子としていかに生きるべきかを学ぶようになりました。
真のお父様は16歳でイエス様からの啓示を受け、神の召命を受けてから、神の悲しみを慰めるための人生を生きてこられました。
人類史上誰も歩んだことのない苦難と試練の道を行き、血と汗と涙を流しながら、ただひたすら神を愛する人生を生きてきました。

そんな真のお父様の心情世界を描いた、一つの詩があります。
たぶん真のお父様の大叔父、文潤國牧師のことを思いながら詠んだ詩です。
お父様の決心

自分の生涯において
たとえ誰に知られなくても
理解されなくてもいい。

たとえ、追われて死んでゆくような立場にあったとしても、
それでも文句を言わない。

ただ一つ神の前に、
自分のかすかな小さな願いがあるとするならば、
こういう願いである。

私は誰が知らずとも
神様が立てた小さな墓を考えている。

きっと神様は、こういう墓碑銘を私のために準備してくれるであろう。

即ち、
「この男は誰にも知られずして生まれ、
 誰にも知れらずして死んでいったけれども、
 しかしすべては私の名のためにすべてを尽くして死んでいった。」
と。

この一つの小さな墓があれば、
自分の生涯はそれで十分だ。
文潤國牧師は、1919年当時、韓国の3.1独立運動の時に、主導的役割を果たした人物です。
3.1独立宣言文に署名をする栄誉を与えられても、その栄誉を同じ教会の教会員に譲ったといいます。
定州地域の抗日運動の責任者であり、上海臨時政府金九先生を支持し、一族の資産を全て金九先生の元に送られたと言います。
しかしそれだけでは足りず、近隣の住民たちから旨い話があると言ってはお金を集め、独立運動を支援していたため、後に詐欺師のレッテルを貼られ、追われるように故郷を後にしたといいます。
しかし李承晩政権となり、李承晩と親交のあった文潤國牧師は入閣を要請され、ヘリコプターで3度も迎えに来られながらもながらも、自分は一介の牧師にすぎないとして、最後まで入閣を断ったと言います。
晩年は故郷に戻ることも許されず、異国の地にて孤独に客死してしまいました。

そんな文潤國牧師の姿は、真のお父様にとって忘れることができず、年をとればとるほどその姿が脳裏に浮かんできたと言います。
何の栄誉も、権力も欲せず、誰からも評価されず、詐欺師の汚名を着せられても弁解することもなく、ただひたすら神の願いを果たすために、自分の生涯を神に捧げる姿に、真のお父様の理想の姿があったのでしょう。

真のお父様の理想とする信仰者の姿、それはすなわち、私たちが目指すべき、理想の信仰者の姿ではないでしょうか?
この詩を何度も朗読し、私たちの生きる道標としたとき、私たちもきっと、神の子として正しい人生を歩むことができることでしょう。
しかし現実の私たちは、何年信仰の道を歩んだとしても、足らない姿のままでいます。
実際の私たちの信仰は、次のようなものに分けられるのではないでしょうか?

1、神を愛し、神を慰め、神の子として親なる神に孝を返したい人。
常に真理に直く、いつでも自分の全てを捨ててでも、神の願いに生きたい人。
2、神の御旨を知り、私たちが神に選ばれし民として果たすべき使命を果たそうと、義務感、使命感を持って歩む人。
3、自分が信仰を持つことにより、また献金等精誠を捧げることによって、自分そして先祖の人たちの救いに繋がると信じ、必死で精誠を捧げようとする人。
4、今目の前にある教会から来る摂理を勝利しないと、自分が今まで捧げてきた精誠も全て無駄になってしまうという恐怖観念で信仰を続ける人。
5、自分の信仰が、唯一無二の真理か否かは関係なく、同じ信仰を持つ者同士、仲良くしていければそれでいいという、サークル的感覚の人。
6、自分が信仰を持つことによって得た、教会内での権力を守りたい、さらにはより高い位置に就きたい人。
または教会内での利権構造の恩恵にあずかり、生活のため教職者生活をやめられない人。

このような動機の中で、3~6のタイプの人は、結局は自己中心的な動機で信仰をしていると結論付けるしかありません。
そのような人は、神の願いはどこにあるのか、自分の信仰は正しいのかという根本命題は二の次であるため、いずれサタンの誘惑に負けてしまうタイプの人です。
真のお父様が艱難の時、70~80%(?)の食口は離れてしまうと言ったのは、このタイプの食口たちでしょう。
逆に残りの20~30%の食口というのは、主に1の動機で信仰を持ち、ただひたすら神を愛し、真のお父様を愛する人であり、そのためにならいつでも自分自身を捨てることのできる人たちです。
よって私たちが目標とすべき信仰者の姿も1のような信仰者です。
もう一つ真のお父様のみ言を見てみたいと思います。
これは櫻井夫人も挙げられていた、7年大患難に関する真のお父様のみ言です。
訓教経(上) 侍りたいお父様  1961年2月12日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第十一巻』

 

◆患難の時を用意された意味

 神様は終わりの日になれば、人類の前に七年の大患難があるだろうと予告されました。この患難時期は六千年の歴史路程において、天の悲しい曲折が聖徒にぶつかる時です。人間の絆がみな壊れていき、信じられない環境にぶつかる時です。自分がどんなに良心的に正しく生きたとしても、その良心で自らの生涯を主張できない時です。み旨を抱き、考えのある者であればあるほど、眺めるあちこちに苦痛を感じる時です。そのような時が、終わりの日の七年大患難の時です。

 その時は、希望が揺れる時であり、私たちが信じている信仰の中心が揺れる時であり、信じて従った指導者が揺れる時です。主義はもちろん、宗教、良心、父母の心情までもすべて揺れる時です。

 では、神様はなぜそのような世の中をつくっておかなければならないのでしょうか。それは真の神様、歴史的に苦労した神様と同参したという価値を与えるためです。神様は六千年間数多くの惨状を見てきましたし、数多くの曲折を受けられたので、終わりの日においては良心とか、主義とか、信仰ということをもって中心を立てることのできない環境にぶつかるようにするのです。そのような患難の中でも「神様を愛する」と言う、そのような難しい場でも「神様と共に生きる」と言い得る真の息子、娘を探すために、そのような時が来るというのです。

 それゆえ皆さんは、教会が揺れるのを見て悲しむことなく、ある主義が動揺するのを見て悲しむことなく、ある主権者が倒れるのを見て悲しむことなく、自らの父母が変わったと悲しむことなく、自らの兄弟が変わり果てたと悲しまないでください。頼り、信じていた世の中のすべてが動揺しても、皆さんの心は平然としていなければなりません。神様は動揺せず、この時間も私を訪ねてこられるということを知らなければなりません。神様が私たちに苦痛を与えるのは、神様との貴い一日、神様が経てきた苦痛の因縁を私たちに結んでくださるための、大きな約束であることを知らなければなりません。そのような場で天を抱き締め、「一緒に行きましょう。共に闘いましょう。共に行動しましょう」と叫んで立つ人を探すために、そのような世の中が必要だというのです。

 ですから皆さん、進む道がふさがったと落胆しないでください。この国が乱れると気落ちしないでください。神様は死んではいません。この世界がどんなに乱れても、気落ちしないでください。神様は死んではいません。神様は必ず訪ねてこられます。すべてが動揺しても、天に対する一片丹心だけは動揺させないでください。天を頼って仰ぐ希望の心だけは変わらないでください。その心を変えようとするために、神様が皆さんをいかなる苦痛の場に追い込んだとしても、その場で父を呼ぶことができる心をもたなければなりません。いかなる場に落ちても、その場で天の心情のひもをつかんで上がろうと努力しなければなりません。地獄に落ちる苦痛を感じる恨があったとしても、父と共に参与する立場に立って父の苦痛を私が思いやって、その父は私の苦痛を察してくれることを信じて、そのような場でも行くという責任と義務を感じていくならば、皆さんは滅びないでしょう。

 今日、数多くのキリスト教徒がいますが、そういう信者が果たして何名になるでしょうか。私たちは父に侍るのに、天上の宝座に座っていらっしゃる父に侍るのではなく、死亡の波打つ中で真の息子、娘を探すために御苦労される父に侍らなければなりません。その父を私の父と知り、その父の事情を私の事情として、その父の心情を私の心情として、その父の願いを私の願いとして訪ねてこられる父の前に雄々しく立って、「あなたの息子を探すことがあなたの願いであることを知って、その息子を探し、あなたの歴史的な曲折を解くことが、あなたの事情であることを知って、失った息子を抱き締めて愛したいのがあなたの心情であることを知りました。どのような塗炭の苦しみと患難と難しさの中にあったとしても、私があなたの願いの実体であり、事情の実体であり、心情の実体です」と自信をもって立たなければなりません。このような者であってこそ父の息子であり、またその父に侍ることができる者になるということを皆さんは知らなければなりません。

先に見た『お父様の決心』とこの『患難の時を用意された意味』のみ言を見ると、ある共通の要素があることに気が付きます。
それはこれまでも何度も書いてきた内容です。
ただただ自分を捨て、『神を愛する』という一点です。
自分を捨て『神を愛する』一片丹心の心情があれば、絶対に道を間違うことはありません。

私はこの道でいいんだ!
今さら信仰を変えることなどできない!
教会の指示、アベルの指示に従っていれば間違いはない!
これらの言葉は、結局はサタンが喜ぶ、自己否定したくないという動機から出てきた言葉でしかありません。
間違いなく艱難の時にふるいにかけられてしまう人たちです。

イエスを迎えたときのユダヤ人達がまさしくこのような心情で自らの信仰を守り、イエスを迫害し、十字架に付けてしまいました。
再臨主が現れたときも、同じような心情のクリスチャンたちが、真のお父様を否定し、迫害し、摂理を失敗してしまいました。
そして今また真のお父様を受入れた人たちが同じような過ちを繰り返そうとしています。

私たちは自分たちの栄耀栄華のためにみ旨の道に来たのではありません。
過去の全てを捨て、神の願いに応えるためにみ旨の道に来たはずです。

それがいつの間にか自らの栄耀栄華を求め、自分と先祖の救いを求め、入教してから今まで捧げてきた精誠を捨てることが出来ずに、今の自分にしがみつくようになりました。
それが果たして神の願いなのでしょうか?

一片丹心の信仰者であるために、今自分がすべきことは何なのか、それは神を愛することであり、神の願いに生きることです。
神の願いは、神の御旨を成就してくれた真のお父様の伝統を相続し、この地上に神の国、地上天国を創建することです。
そのためには真のお父様の勝利圏を相続した後継者と一体化し、真のお父様の偉業を最後まで責任をもって成し遂げることです。

しかしそのためには、生みの苦しみを経験しなければいけません。
今まで築き上げてきた自らの信仰を捨てなければいけないかもしれません。
霊の親、霊の子、親しい知人、友人たちから裏切り者と蔑まれ、大いなる迫害を受けるかもしれません。
教会のなんの基盤もないところに、手作りで一から基盤を作っていかなければいけないかもしれません。
全てを捨てて一から出発する決意ができたとき、初めて真実と出会うことができることでしょう。

しかしそこで出会った人たちは、ただ神のみを愛する、本物の信仰者たちであり、真実に生きる信仰者たちでしょう。
真のお父様の残された伝統を相続し、この地に神の国、地上天国を創建できる、真実の群れです。
捨てたものが大きいほど、得るものも大きいことでしょう。

この『家庭連合の現状と私』が真実と出会う一助となることを祈念してやみません。

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