②「三・一運動」
「三・一運動」は1919年3月1日、朝鮮のキリスト教、仏教、天道教の各宗教指導者ら33名が中心となって、「独立宣言」を読み上げることによって始まりましたが、運動は暴動となって朝鮮半島全体に広がり、暴徒による日本人惨殺や放火などが相次ぎ、3月14日までの間に日本人死者10人、負傷者15人が出ています。
3月から5月にかけては、デモの回数は1542回、延べ参加人数は205万人に上り、駐在所159、軍・面事務所77、郵便局15、その他諸々27ヵ所が襲撃され、日本の官憲も8名の死者を出しています。
この時の暴動によって逮捕・送検された被疑者は12,668名、このうち3,789名が不起訴により釈放、6,417名が起訴されました。このうち有罪判決を受けたのは3,967名。死刑・無期懲役になった者、懲役15年以上の実刑になった者はいませんでした。3年以上の懲役は80名だったといいます。
今日の中国・香港や、アメリカで起きたデモを想像してみると分かり易いと思いますが、香港やアメリカで起きたデモでは、取り締まる側の警察官の死者は出ていませんでしたが、デモの参加者には多数の死傷者が出ていました。
三・一運動によるデモでは、取り締まる側の日本の官憲も8名の死者を出し、多くの建物も破壊されたことからも、私たちが最近経験したデモとは比較にならないほどの激しいデモが行われたことが想像できます。
1919年に起きた「三・一運動」と比較するのに最もふさわしい例が、同じ韓国で起きた光州事件かもしれません。
光州事件とは、朴正煕大統領暗殺の後、全斗煥らの軍事クーデターに抗議する学生デモが、1980年5月18日に光州市で発生し、デモの鎮圧にあたった戒厳軍の暴行が激しかったことに怒った市民も参加して、デモ参加者は約20万人にまで膨れ上がった事件です。市民軍は武器庫を襲うと、銃撃戦の末に全羅南道道庁を占領しましたが、5月27日に大韓民国政府によって鎮圧されました。
事件の犠牲者は公式発表では官民あわせて死者191人、重軽傷者852人とされていますが、密かに埋められた遺体もあったとされ、死者だけでも2,000人を超えたとの説もあります。どちらの数字も韓国による発表なのであてにはなりませんが、一度韓国で大規模なデモが起こると、官民合わせてどれほどの犠牲者が出るものなのかを知る手がかりになるのではないでしょうか。
デモ参加者20万人で、全羅南道道庁を占領し、約10日ほどで鎮圧された光州事件でも、犠牲者は公式発表では官民あわせて死者191人、重軽傷者852人、一説によると死者だけでも2,000人を超えたとも言われています。
一方デモ回数1,542回、延べ参加人数は205万人に上り、駐在所159、軍・面事務所77、郵便局15、その他諸々27ヵ所が襲撃され、日本の官憲も8名の死者を出し、3ヶ月間もの期間全国に広がっていたのが三・一運動です。それだけ激しいデモが行われれば、デモの取り締まりも激しくならざるをえません。よって三・一運動によって数百名もの朝鮮人が犠牲になったのも、デモの激しさから言っても想像に難くはないものですし、これをもって日本だけが朝鮮人に対し、むやみに投獄、虐殺し、残虐無道な行為をほしいままにしたとは言い難いのではないでしょうか。
しかしもし『朝鮮独立運動之血史』で書かれている三・一独立運動の時の様子をそのまま信じたならば、残虐無道な行為をほしいままにしていたと表現するのは妥当なのかもしれません。
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