5、「神様の摂理から見た南北統一」より
1945年当時の韓半島を中心とした摂理について、「神様の摂理から見た南北統一」に従ってまとめてみたいと思います。
「イスラエル民族の失敗は、「メシヤが来ればすぐさまローマ帝国を征服し、さらにはユダヤの国が世界を制覇してしまうだろう』と考えていたことにある。
神様のみ旨は、イスラエル民族を祭物とし、メシヤ自体も人類の僕の立場に立って、人類のために生きるということだった。
旧約時代を蕩減復帰する使命をもった男性と女性、信仰団体、新約時代を蕩減復帰した使命をもった男性と女性、信仰団体が現れて、摂理の一翼を担当する役事が展開されていた。
1945年からの3年間に、キリスト教の最高幹部の数人が反対することにより、全国のキリスト教が反対し得る道が生じた。
キリスト教を中心として、選民たる民族が先生と分かれることにより、国土が南北に分かれる動機となった。
韓国がその責任を果たすことができなければ、み旨は他の国家を探して行く。歴史はある一地点にとどまるものではなく流れていく。」
このように神が2000年の歴史を通じて準備した韓民族とキリスト教が摂理に失敗したため、韓半島は南北に分断され、み旨は他の国家へと流れていくということが書かれています。
つまりこの時点において、韓民族とキリスト教は、摂理に失敗してしまったということが明らかにされています。
それは何故かというと、「イスラエル民族の失敗は、『メシヤが来ればすぐさまローマ帝国を征服し、さらにはユダヤの国が世界を制覇してしまうだろう』と考えていたことにある。」とあるように、韓民族もまた『神は選民、韓民族の為に働かれ、韓民族を中心とした世界が築かれる』と勝手に思い込んでいたことにありました。
しかし、『神様のみ旨は、イスラエル民族を祭物とし、メシヤ自体も人類の僕の立場に立って、人類のために生きるということだった。』とあるように、選民とは祭物となる民族であり、僕であるメシヤと共に僕となって、人類の為に生きるべき民族だということを知らなかったため、韓民族も僕となって世界の為に祭物となることができず、摂理に失敗してしまったのです。
旧統一教会において、または今日の家庭連合において、神の選民韓民族は祭物とならなければいけない、僕であるメシヤと共に祭物となって、人類の為に生きるべきだという話を聞いたことがあるでしょうか。
僕となるべきはいつも選民である韓民族を迫害した、かつてのサタン側エバ国家の日本であって、日本人は韓民族の前に侍らなければいけない、一方韓民族は人類の指導的立場に立つ民族であるというように、思い込まされてきているのではないでしょうか。
特に独生女・韓鶴子総裁をメシヤとして仰ぐ家庭連合においては、全人類は韓鶴子総裁の前に跪き、侍らなければいけないと思い込み、そのような像まで作られていますが、そこには人類の前に僕となって、世界の為、人類の未来の為に、自らを犠牲として尽くしていかなければいけないというような謙遜な姿を見出すことはできません。
しかし摂理的な流れを見ると、韓民族は真のお父様をメシヤとして、再臨主として受け入れなかった段階で、既に選民としての位置は失われてしまっているのです。
「韓国がその責任を果たすことができなければ、み旨は他の国家を探して行く。歴史はある一地点にとどまるものではなく流れていく。」という真のお父様のみ言にもあるように、み旨は一点に留まることなく常に流れており、ユダヤ民族がその使命を果たせなかった時に、キリスト教徒にその使命が受け継がれたように、韓民族から他の人々にみ旨は既に受け継がれてしまっていると考えるべきなのです。
韓国がその摂理的な位置を失っているとすれば、アダム国家としての位置も失ってしまっているであろうし、そうすれば必然的に日本もエバ国家とは言えないでしょうし、今巷で話題となっている日韓トンネルも、その摂理的な意味は既に失われてしまっているのではないでしょうか。
実際真のお父様はその晩年、シベリアとアラスカを結ぶワールド・ピース・キング・ブリッジのことは語られても、日韓トンネルのことは一切語られることは無くなってしまわれました。
原理講論を見ると、「アダムとエバが完成された夫婦として一体となったその位置が、まさに、愛の主体であられる神と、美の対象である人間とが一体化して、創造目的を完成した善の中心となる位置なのである。ここにおいて、はじめて父母なる神は、子女として完成された人間に臨在されて、永遠に安息されるようになるのである。」とあるように、日韓が一体化したその位置こそがまさしく神が臨在し、永遠に安息される、創造目的を完成した善の中心となるため、韓国と日本が一体化するための象徴ともいうべきものが、アダム国家韓国とエバ国家日本を物理的に繋ぐ日韓トンネルだったのです。
しかし神の摂理は一点に留まることなく流れ、韓国は選民国家という位置は既に奪われてしまった故に、必然的に日本もまた韓国の相対という位置ではなくなり、日韓トンネルもその摂理的な意味も失われてしまっていると考えるべきなのではないでしょうか。
摂理は一点に留まることなく、常に流れているのです。そんな摂理の流れにも気づかず、いつまでも昔の摂理にしがみついていたのでは、神の願いには決して答えることはできないことでしょう。
僕の立場に立って人類のために生きるメシヤのように、私たちもまた常に自分を祭物として、謙遜な心で神の願いに応えようとする信仰姿勢こそが重要なのではないでしょうか。
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