ガンジーを覚醒させた列車での出来事 「非暴力・不服従」はこうして生まれた

5/24(日) 12:17配信ナショナル ジオグラフィック日本版
ガンジーを覚醒させた列車での出来事 「非暴力・不服従」はこうして生まれた

歴史の中の「逆境を跳ね返した決断」(2):マハトマ・ガンジー

 1915年1月に46歳でインドへ戻ったとき、モーハンダー・スカラムチャンド・ガンジーは、南アフリカでインド人コミュニティーの公民権運動をおこなった功績により、すでに国際的に認知されていた。それまでの21年間、彼は南アフリカで弁護士として活動していたのだ。

 ガンジーは、インドで「偉大なる魂」を意味する敬称「マハトマ」の名で広く知られていた。また、南アフリカと故郷グジャラート州に設立した「アシュラム(修行場)」で暮らす弟子たちにとっては、「バープー(お父さん)」でもあった。ガンジーにとって、インドでの公民権運動とイギリスからのインド独立の闘いに身を投じたことは、自然な成り行きだった。その流れで、彼は、イギリス支配の終結を求めて活動していた政党「インド国民会議派」に加わる。

 まだ南アフリカに住んでいたころ、ガンジーはインド国民会議派のリーダー、ゴーパール・クリシュナ・ゴーカレーから次のような助言を受けていた。インドで何か積極的な役割を担いたいのなら、インドの複雑な政治情勢を少なくとも1年かけてよく理解してからにすべきだ、と。この助言に従ったガンジーは、のちに、この穏健で良識あるゴーカレーのことを、自分の師であり指導者であると語っている。

インディゴ(藍)栽培の小作農
 1916年12月におこなわれたインド国民会議派の会合で、ある人物がガンジーに近づいてきた。ビハール州のヒマラヤ山麓のチャンパランからやって来た小作農のラジクマール・シュクラだった。彼はガンジーに、「チャンパランに来て、インディゴ栽培の小作農たちとイギリス人地主たちとの争議解決に手を貸してほしい」と依頼する。ガンジーは当初、この件を引き受けることに気が進まなかった。チャンパランのことを何も知らないし、インディゴ栽培の知識もなかったからだ(インディゴは染料の工業生産に使用されていた)。しかし、シュクラはガンジーの出席する会合すべてに現れ、繰り返し訴えたので、ついにガンジーはチャンパラン行きを承諾する。

 チャンパランに足を踏み入れるとすぐに、ガンジーは小作農の深刻な状況を悟った。手をこまぬいていては飢饉(ききん)が起きるかもしれない。小作契約により、彼らは土地の一部に食用作物ではなくインディゴを植えることを強制されていた。また、収穫したインディゴを定額で地主に売ることも取り決められていた。地主たちは収穫物の買い取り価格の値上げを拒む一方、地代を小作農が払えないほど高く引き上げようとしていた。小作農たちは地元当局に苦情を申し立てようとしたが、まったく相手にされなかった。ビハール州政府は地主たちの言いなりだったのである。

 これは、金と権力を持つ植民地主義者が地位と影響力を利用して、貧しい弱者から搾取する典型的な例だった。そして、ガンジーは決意を固める。南アフリカでイギリスの植民地支配に対抗すべく編み出した「市民的不服従」という手法を、母国で試すときが来たと。

市民的不服従
 ガンジーは、ロンドンで弁護士として訓練を受けた後、南アフリカのダーバンに住む裕福なインド人イスラム教徒が経営する船会社で働いた。1893年5月、ピーターマリッツバーグで肌の色を理由に1等室への乗車を拒まれ、列車から放り出されたとき、ガンジーはある“覚醒”を経験した。「人として、インド人として、私には権利がないのだと悟った」と、のちに書いている。

 それ以降、ガンジーは社会改革運動に取り組むようになる。そして、迫害に暴力抜きで立ち向かう手段として、「真理の力」を意味する「サティヤーグラハ」という考え方を生み出した。この理性的なスタンスは、ある信念を表していた。それは、虐げられても自分自身が道徳的に正しくいられる人は、目的達成のために自らが苦しみ犠牲になる必要性を受け入れたなら、最後には強い迫害者を負かすことができるというものだった。

 インディゴ栽培の小作農と地主との争議に関わるようになったころにはすでに、ガンジーは自身の抗議手法を、「消極的な抵抗」ではなく「積極的な市民的不服従」へと発展させていた。チャンパランでは、多くの信奉者が彼の下に加わった。その協力を得て開いた会合で、小作農への不当な扱いを示す証拠が集められ、抗議とストライキが組織された。ビハール州のイギリス当局はガンジーを逮捕し、この地域からの退去を命じる。その過程で書かれたニュース記事はすでにインド全土に報道されていたが、彼の知名度の高さから、国際的にも関心が集まり始めていた。

 ガンジーは命令を拒んで裁判にかけられた。ここで中央政府が介入する。イギリス人地主の行状や地方役人との腐敗した関係が、綿密な調査には耐えられないと気づいていたのだろう。ガンジーへの起訴は取り下げられ、彼が委員を務める公式調査で争議の原因が調べられた。これが最終的に法律改正へとつながる。イギリス人地主はインド人小作農にインディゴ栽培を強制できなくなり、地代の値上げにも制限が設けられた。

 これはガンジーと、その流儀サティヤーグラハの勝利だった。ガンジーはサティヤーグラハを、インド各地のさまざまな争議に用いるようになる。イギリス側は対処に困り、あるときは交渉を試み、またあるときは彼を投獄した。しかし道徳的に正しい側に立つことは決してできず、最後には必ずといってよいほど、彼の要求を受け入れる羽目になるのだった。

塩の行進
 ガンジーの最も有名な抗議活動の1つは、1930年3月に始まった。イギリスによる塩税導入に反対するサティヤーグラハだ。この課税は、塩の採取と販売の独占権を事実上イギリスに与えるものだった。実はその数カ月前に、インド国民会議派が独立宣言を出し、イギリスに黙殺されるという出来事があった。ガンジーの政治仲間の多くは、彼の行動に困惑していた。独立というはるかに大きな問題に比べれば、塩税は、不当であるとはいえ重要性はかなり低い。そんなものに執拗に没頭するガンジーのことが理解できなかったのだ。

 ガンジーは抗議の手始めとして、製塩をおこなう小さな村グジャラートの海岸沿いをダーンディー海岸まで、アシュラムの弟子たちとともに、24日間かけて歩いた。その距離390キロ。これは「塩の行進」と呼ばれるようになり、世界中の新聞やニュース映画で大々的に取り上げられた。あるときガンジーは海岸で数千人を前に、塩を含んだ泥を一握りすくい上げて言った。「私はこれで、大英帝国の土台を揺るがそうとしている」。さらに彼は、法律を破るという手段に出た。泥の混じった海水を沸かして塩を作り、塩税を払わなかったのだ。

 数百万人のインド人がガンジーの例に倣い、6万人以上がイギリス当局に逮捕された。ガンジー自身も1年近く収監されたが、1931年の初めに釈放される。インド総督と紛争の解決に向けた交渉に当たらせるためだった。

独立
 この交渉の結果、ガンジーは、インドでの憲法改正の議論にイギリスが同意すれば市民的不服従の運動をやめると約束した。塩の抗議の目的は、独立運動がインドの一般大衆の間で再燃し、国内でも全世界でも再び注目されるようにすることだった。イギリスがインドからの退去に最終的に同意するまでには、さらに16年を要し、この間、ガンジーは市民的不服従の運動をさらに起こした。そして1947年8月15日、インドは大英帝国の自治領となり、単独の国としての地位を獲得する。

 しかしながら、ガンジーにとってこれはほろ苦い勝利だった。彼はヒンドゥー教徒とイスラム教徒との団結を、生涯にわたって奨励していたからだ。英領インドは宗教の境界線に沿ってインドとパキスタンに分割され、この分離は激しい暴力と、100万人にも及ぶ犠牲者をもたらした。

 インドは1950年1月26日に共和国となったが、ガンジーがこれを目にすることはなかった。ヒンドゥー教の過激派に銃撃され、1948年1月30日にこの世を去っていたのだ。しかし、彼が築いた寛容と非暴力の遺産は今もインドに息づいている。

 そしてガンジーの流儀は国境を越え、アメリカのマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの公民権運動、南アフリカのネルソン・マンデラの反アパルトヘイト運動など、迫害に苦しむ人々の闘争に用いられてきた。ガンジーは今も、「インド建国の父」として、また、結果がどうなろうと自分の主義を生涯貫き通す覚悟を持ち、正義とインドの人々の権利のために闘ったからこそ成功した男として、記憶されている。

出典:書籍『逆境だらけの人類史 英雄たちのあっぱれな決断』

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