人物探訪:「ブータン農業の父」、西岡京治
1992(平成4)年3月26日、ブータンで1人の日本人が国葬に付された。30年近くも同国の農業振興に尽くして、「ブータン農業の父」と呼ばれた西岡京治(けいじ)である。葬儀委員長は農業大臣のレキ・ドルジ氏。ブータン西部のパロ盆地を見渡せる丘につくられた葬儀場で、なきがらは荼毘(だび)に付された。
おおぜいのラマ教の坊さんたちによる読経が果てることなく続いた。葬儀には5,000人もの人々が弔問に訪れ、西岡の妻・里子と娘の洋子は、和服に似た民族衣装キラに身を包んで、人々のお悔やみの言葉を受けた。
葬儀の後、里子がパロ農場の西岡の事務室に入ると、国王の伯父で厚生大臣のナムゲル・ウォンチュックからの電報が机の上にあった。大臣が視察先のシェムガン県パンバン村から打った電報だった。ブータン南部の僻村である。
パンバン村の人たちは、あなたのことを尊敬の気持ちをもって覚えており、あなたがふたたび村を訪れてくれることを、心からお待ちしております。
あなたがはじめた開発の仕事はいま、実を結んでいます。村人たちは、「あなたの献身的な働きがなければ、自分たちの進歩はなかっただろう」と言っています。かれらはいつまでもあなたに感謝し続けるでしょう。
同様の気持ちを抱いたブータン各地の人々が5,000人も葬儀に参列したのである。
「この風景は、長野県の伊那谷あたりによく似ているよ」
西岡がブータンに定住を始めたのは1964(昭和39)年5月だった。日本国内ではその年の秋に開かれる東京オリンピックの準備が急ピッチで進められていた頃だ。
当時のブータンは農業国なのに、土地も狭く、高地で気候も厳しいため、食料の自給もできない状況だった。ブータン首相は「日本の専門家に来てもらって、農業の近代化を図りたい」という意向を持っていた。その専門家として推薦されたのが西岡だった。
その頃、西岡は大阪府立園芸高校に務める傍ら、大阪府大・山岳部のOBとしてネパール探検隊にも参加して、植生の調査をした経験もあった。西岡は自らも海外技術協力団(現在の国際協力事業団、JICA)にブータンの農業指導に派遣してくれるよう志願した。
話が持ち上がってから2年の後に、ようやく事業団から派遣決定の通知が届き、妻・里子と2人で出発した。2人はインドのカルカッタに飛び、オンボロ輸送機に乗り換えて、ブータン国境近くの町に着いた。そこからブータン政府の手配した1台のジープに乗り込み、15時間も山道を走って、ようやく西ブータンの中心地パロに到着した。
一夜明け、木の扉窓を開けた里子は思わず声をあげた。「まあ、きれい!」。目の前にはパロ盆地の大パノラマが広がっていた。澄み切った青空のもとに麦畑が続き、民家が散在している。
「どれどれ…」と目をこすりながら起きてきた西岡は言った。「これはすばらしい! しかし、この風景は、長野県の伊那谷あたりによく似ているよ。日本から、5,000キロメートルも離れた国の風景とは、とても思えないね。」
「日本の野菜のタネはすごいや」
西岡はさっそく開発庁農業局の事務所にでかけた。ここにはインド人の局長と技術スタッフがいた。彼らはインド政府から派遣されて、農業の指導をしていた。西岡が挨拶すると、局長はこう釘を刺した。
「ブータンの農業は、インド人のわれわれが、一番よく分かっています。あなたがいきなり、海のかなたの日本の農業技術を持ち込んでも、成功はおぼつきませんよ。ブータンの人たちは、昔ながらの農業を続けていて、その方法をなかなか変えようとしない」
いきなりこう言われて西岡はかちんと来たが、よく聞いてみると、本格的な農業試験場1つ持っていないことが分かった。
西岡はブータン政府に頼んで、200平米ほどの田畑を借りた。そして12、13歳の少年3人を実習生としてつけて貰った。西岡は、まず彼らにダイコンの栽培を教えた。
ダイコンは昼と夜との気温の差が大きいほど、よく育つ。3ヶ月ほど経って、引っこ抜いてみると、30センチほどにも育っていた。少年たちは「わあ、ずっしりと重い」「日本の野菜のタネはすごいや」。
さらにトマトやキャベツなども作り出すと、噂が広がって、知事や国会議員なども試験栽培の田畑を訪れ、「うちの県でも作れようか」「わしの村でも、こうした野菜が作れたら、どんなにいいだろう」と言い出した。
さらに、その1人の勧めで、人の集まるパロ城の入り口に野菜を並べると、「うちの村にも、野菜作りの手ほどきをしてもらえまいか」「タネを分けて貰えると、ありがたいのだが」と大きな反響があった。
「ニシオカに農場の運営をまかせようではないか」
1966(昭和41)年3月、海外技術協力団からの2年間の派遣期間が過ぎようとしていた頃、ブータン開発庁の担当官がやってきた。西岡の任期を延長して貰うよう日本の事業団に申し入れたい、と言う。
「本当ですか。願ってもないことです。ぜひお願いします」と、顔をほころばせた西岡に、担当官はさらに重大な話を持ちかけた。
「国王が、『パロにしかるべき試験農場用の土地を探し、ニシオカに農場の運営をまかせようではないか』と、おっしゃっておられるのです。いかがでしょうか?」
「えっ、国王がですか…」
ブータンに来てから、この日ほど嬉しかったことはなかった。
パロの長老たちも土地探しを手伝ってくれて、7.6ヘクタールの理想的な土地を見つけた。斜面の上段には、カキやモモ、ナシやリンゴの試験果樹園、中段を野菜畑、下段を水田とした。道をつけ、石垣を積み、水路を引くのは、すべて手作業で自分たちで行った。こうしてブータンで最初の本格的な試験農場が開かれ、「パロ農場」と名づけられた。
西岡は夜は宿舎代わりの仮設テントで、実習生たちと夢を語り合った。妻にも、こんな風に語っている。
「ぼくはここを、試験栽培の農場だけではなく、将来は総合農業センターにしていきたい。地方からの実習生の受け入れ、農機具の貸し出し、苗や種の生産のほか、栽培した野菜や果物を販売したり、ジュースやジャムに加工できるようにもしていきたいんだ」。
「種をいただけまいか。庭の畑で育ててみたい」
農場ができると、西岡は近隣の村の長(おさ)たちにも、見学に来るように勧めた。畑には、ダイコンが青あおと葉を広げ、エンドウ豆がかれんな花をつけ、カリフラワーもキャベツも大きくなっている。「いやあ、たいした畑だ…。わしらにも、こうした野菜が造れるようになるんだろうか?」
彼らは種を持ち帰り、西岡や実習生が栽培の技術を指導した。立派な野菜が作れるようになると、西岡はパロ農場や近隣でとれた野菜をトラックに積み込んで、45キロ離れた首都ティンプーに売りに行った。
中央広場に野菜を並べると、トラック1台分の野菜が3時間ほどで売り切れてしまった。首都でも野菜が売れると分かれば、他の村の人々も、野菜作りに関心を示してくれる。またパロ農場の売上は、試験農場の運営に役立てられる。やがてはインドに野菜を輸出したいと、西岡の夢は広がっていった。
パロ農場の活動が2年目に入った1967(昭和42)年4月。国王から「直接会って話をしたいので、ティンプーのタシチョ城に来て欲しい」と招待された。
西岡はパロ農場の様子を写真で国王に紹介した。国王は立派なダイコンに特に興味を示し、「種をいただけまいか。庭の畑で育ててみたい」と西岡に頼んだ。国王自ら畑を耕すのは、我が皇室と同様である。
西岡は国王に農場の優秀な実習生の日本留学を提案し、国王は快諾した。さらにパロ農場に開発庁の予算をつけてくれた。
「この開発プロジェクトは、ニシオカとそのスタッフに推進して貰いたい」
それから5年後の1972(昭和47)年、国王が急病で亡くなった。西岡は肩を落としたが、まだ16歳のジグミ・シンゲ・ウォンチュック皇太子が第4代国王に即位した。新国王も前国王と同様、農業開発に積極的だった。
その秋、西岡はティンプーに呼ばれた。国王が自ら立案した中央ブータン南部のシェムガン県の総合開発計画が提示された。同県は険しい山と谷が亜熱帯性のジャングルに覆われ、住民の多くは焼き畑農業に頼って、暮らしは困難を極めていた。
国王は、同地の人々が焼き畑農業から脱して、定住して米作をすることで、暮らしの安定と向上を図りたいと説明し、西岡を見つめて言った。
「この開発プロジェクトは、パロ農場のニシオカと、そのスタッフに推進して貰いたいが、いかがだろうか?」
西岡は「ご期待にこたえられるよう、全力を尽くします」と応えた。
シェムガン県は、パロから東へ約130キロ行き、そこから南に50キロ下る。しかし、この50キロは車がまったく通れない。西岡らは、テントや食料や道具を担いだり、馬の背に乗せて、狭く険しい道を延々と歩いて、同県に到着した。
しかし、村人たちは「県の役人さえもめったに来ることのない、こんな所に、国がお金を注ぎ込んで水田を開こうなんて、信じられん」「米がとれるようになったら、国が土地をとりあげるつもりではないか」と疑った。
西岡は村人たちとのべ800回も話し合いをし、興味を持った人々を募っては、パロ農場の見学にも行かせた。地道な活動を続けていくうち、62家族が山を下りて、水田作りや道路造りを手伝ってくれるようになった。
また25人の少年たちをパロ農場に送り込んで、1年間研修をさせた。帰ってきた彼らは「おれたちのシェムガンを、農業のすすんだパロのようにするんだ」と意気込んで、西岡たちと一緒に汗を流した。
肝心の農業用水は竹などを利用して、水を引いた。たくさんの吊り橋は、籐だと数年毎に架け替えなければならないので、ワイヤーロープを取り寄せ、地元の人たちで掛け替えた。こうした身の丈にあったやり方で生活環境を整えるのが西岡のやり方だった。
ダショー・ニシオカ
国王は開発の様子を二度にわたって視察し、作業に励むスタッフや村人たちを励まし、学校の庭で宴会を催してねぎらった。
5年の歳月をかけたシェムガンの総合開発は、1980(昭和55)年に一段落した。こうしてパンバン村を中心に開かれた水田は60ヘクタール、畑は16ヘクタールに達した。毎年3万トンの米がとれ、野菜や果物も収穫できるようになった。
村の代表たちが西岡に礼を言いにやってきた。
「3万人もこえるみんなが、たんぼや畑のある土地におちついて住むことができて、まるで夢のようです。学校もできてありがたいことです。」
「村はすっかり生まれ変わりました。ニシオカさんが、はじめに言ってくれていたとおりになった…。」
老人たちはそう言って涙を浮かべ、西岡の手を固く握りしめた。
同年9月、西岡は国王から「ダショー」の称号を授けられた。「最高の人」という意味で、ブータンでもっとも名誉ある称号である。「ニシオカの16年にわたるブータン農業への功労に感謝して、ここにダショーの称号を授与す」と言って、国王は、肩からかけるえんじの布と銀の鞘の剣を授けた。
両国民を結びつけるもの
1992(平成4)年3月21日、西岡は敗血症にかかり逝去した。享年59。パロ農場は教え子たちで十分やっていけるようになっていたので、そろそろ日本に戻って、別の形でブータンのためになる事を考えたい、と思っていた矢先だった。
2011(平成23)年、第5代ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王が国賓として来日し、国会で演説した。その中に次のような一部があった。
ご列席の皆様、我々ブータンに暮らす者は常に日本国民を親愛なる兄弟・姉妹であると考えてまいりました。両国民を結びつけるものは家族、誠実さ。そして名誉を守り個人の希望よりも地域社会や国家の望みを優先し、また自己よりも公益を高く位置づける強い気持ちなどであります。
国王にそう言わせたのは、自らの祖父と父と2代に渡ってブータンに尽くした西岡の一生が脳裏にあったのかも知れない。
文責:伊勢雅臣
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