・1945年9月2日、ミゾリー号での降伏文書の調印式に臨んだ父、加瀬俊一氏に、加瀬英明さんがミゾリー号の甲板をどのような思いで踏んだのかと尋ねたら、「日本は戦闘には負けたけれど、数世紀にわたって白人、キリスト教徒によって虐げられてきた、奴隷のように扱われてきたアジアの有色人種を解放した。戦闘には負けたけれども、我々は戦争に勝ったのだという誇りを胸に秘めてミゾリー号の甲板に立った。」と言っていた。
・鳩山由紀夫内閣の時インドネシアの国防相が、日本がインドネシアを解放し、独立させてくれた感謝のために、インドネシアの大変な英雄、日本で言えば西郷隆盛のようなスティルマン将軍の銅像を防衛省に送ってきた。
・日本が戦争に敗れると、インドネシアをもう一度植民地にしようとオランダ軍にイギリス軍が加わってインドネシアを占領しようとした。
・それに対しインドネシア独立軍が立ち上がった。
・4年に渡ってオランダ軍とイギリス軍を迎撃し、最後に独立軍が勝利し、国際社会も独立を認めざるを得なかった。
・インドネシアが独立の英雄スティルマン将軍の銅像を送ったのは日本にだけ。
・インドネシアの独立戦争では、インドネシアに駐留していた日本人将兵の内2000人がインドネシアの独立戦争に身を投じ、アジア解放の大義のために戦い続け、1000人が戦死されている。
詳細は動画をご覧ください。
≪参考≫
英雄像が伝える日本とインドネシアの絆 「日本は侵略をしていない」 石井孝明
東京・市ケ谷の防衛省構内に、インドネシア独立戦争の英雄で、初代軍司令官であるスディルマン将軍(1916~50)の像が設置されている。同国の独立記念日である17日、日本人有志によって献花式が行われ、ユスロン・イザ・マヘンドラ駐日インドネシア大使らも出席した。ジャーナリストの石井孝明氏が、両国をつなぐ絆についてリポートした。
「みなさんが、わが国の英雄を称えていただいたことは、本当にうれしい。両国には深い絆があります」。ユスロン大使は、流暢な日本語でこうあいさつした。同大使は、筑波大学に留学し、国際政治経済学の博士号を習得した経歴を持つ。
インドネシアは、350年にわたってオランダの圧政を受けていた。日本軍が1942年に侵攻してオランダ軍を追い出し、日本が敗戦した2日後の45年8月17日、独立を宣言した。スカルノ初代大統領は独立宣言文に「170805」と日付を入れた。「05」とは、戦前の日本で使用していた皇紀2605年の意味だ。スカルノ氏らは、独立を支援してくれた日本を評価していたのだ。
ところが、オランダ軍が再び植民地にしようと戻ってきた。
これに立ち向かったのが、日本軍政下で結成された郷土防衛義勇軍で、スディルマン将軍はリーダーとして4年にも及んだ独立戦争を戦った。そして、何と2000人以上もの元日本将兵が現地に残り、「インドネシアの独立のために」と戦い、約1000人が尊い命を捧げた。残念ながら、こうした事実は、日本ではあまり知られていない。
スディルマン将軍は、オランダが49年12月にインドネシア独立を認めたのを見届け、翌年1月、34歳の若さで結核で亡くなった。同将軍の像は2011年1月、インドネシア国防省から日本に贈呈された。
今回の献花式の実行委員長である国際政治学者の藤井厳喜氏は、日本が大東亜戦争で「民族解放の理念」を掲げたことを強調し、「インドネシアが主導し、民族自決を訴え、欧米列強の植民地支配からの独立を宣言した55年のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)と理念がつながる」とあいさつした。
同会議の60周年式典は今年4月にインドネシアで行われ、安倍晋三首相も出席し、「平和と繁栄を目指す諸国の先頭に立ちたい」と演説した。
献花式の呼びかけ人である評論家の加瀬英明氏は「この場所の意味を考えてほしい」と語りかけた。防衛省のある市ケ谷台は、戦時中には参謀本部と陸軍省があり、戦後は「日本がアジアを侵略した」と断罪した東京裁判が行われた。
加瀬氏は「アジア諸国と日本の関係、特にインドネシアとの関係は決して侵略ではなかった。両国の絆を確認し、歴史の正確な事実を示すことは、東京裁判の欺瞞(ぎまん)を示す意味がある」と続けた。
独立への貢献と戦後の経済協力から、インドネシアには親日的な人々が大半だ。「日本は悪い」と決めつけるメディアや有識者の偏見もあり、両国の絆は戦後70年にわたって黙殺されてきた。市ケ谷台に立つスディルマン将軍の像は、日本が戦った戦争の知られざる真実を伝えている。
この記事へのコメントはありません。