「日本が三一独立運動を弾圧し、多くの朝鮮人を虐殺した」という韓国側の主張は全くの嘘である。韓国の歴史歪曲にはきっちりと反論し、貶められた日本の名誉を回復しなければならない。そのためにも三一独立運動の真の姿を知る必要がある。日韓全国民が最低限知っておくべき歴史の真実。
目次
朝鮮は植民地ではなかった
今年3月1日、日本からの独立運動だったと韓国が主張する「三一運動」の100周年記念式典がソウルで行われた。出席した文在寅大統領は、「この運動こそが大韓民国の建国に繋がった。平和な独立運動であったが、デモ参加者のうち7500人が無慈悲に虐殺された」と演説した。
一国の大統領がこのような「嘘」を滔々と述べることに、筆者は戦慄を覚えざるを得ない。
文大統領は1919年4月、三一運動の最中に朝鮮の独立運動家たちが上海で樹立した「大韓民国臨時政府」(臨政)なるものを「大韓民国の根っこ」だ、と主張している。
しかし、李承晩が初代大統領となった臨政は「一部の政客が作ったクラブ」と見なされ、これを承認した国はひとつもない。実態はテロリストの集まりであり、内紛ばかりに明け暮れていたから当然だろう。終戦時には、「臨政」の肩書で海外から帰国することさえ連合国は許していない。
では、その「臨政」を誕生させた「三一運動」とは、はたしてどのようなものだったのだろう。この運動は、植民地であった朝鮮の人々が日本から独立するために立ち上がって繰り広げた平和的運動であり、これを日本が弾圧し彼らを虐殺したというイメージを多くの人が持っているのではないだろうか。だとすれば、「日韓併合時代」は韓国が主張しているように「日本による不法な植民地支配」だったことになる。
しかし「日韓併合」はあくまで国際法や国内法に則って、国同士が正式に締結した条約により実現したものだ。これによって朝鮮の人々は天皇陛下の下で日本人と「一視同仁」とされ、彼らに日本人と同等の権利と義務が生じている。
当然、日本の憲兵や警察は法律に基づいて朝鮮の人々を保護していた。その憲兵・警察が、彼らをむやみに殺害するはずがないのだ。 「三一運動」における「朝鮮人虐殺」は、歴史の歪曲によって出来上がった「幻想」に過ぎない。
だが、これを事実と信じて疑わない韓国人は、日本人に対して永遠に土下座を要求することだろう。それは日韓双方にとって大きな不幸を招くだけである。
両国が未来志向の関係を築くためにも、韓国の歴史歪曲にはきっちりと反論し、貶められた日本の名誉を回復しなければならない。そのための一助として、本稿では「三一運動」の真の姿を明らかにしたいと思う。
「三一独立運動記念式典」で演説する文在寅大統領。
暴徒による破壊、放火、殺人、掠奪、テロ
三一運動とは、第一次大戦後、アメリカ合衆国ウィルソン大統領が打ち出した民族自決思想に刺激された在日朝鮮人留学生が、1919年2月、東京で決起集会を開き、独立要求書を日本政府に提出しようとしたことが発端だった。
しかしそのウィルソンは、第一次大戦後のパリ講和会議で日本が国際連盟の規約に盛り込むよう提案した「人種差別撤廃条項」を議長として拒否した張本人である。もともとウィルソンは人種差別主義者であり、彼が唱えた民族自決も「白人の民族独立」だったのだが、朝鮮人留学生たちは有色人種も対象であると思い込んで独立要求書を出そうとしたのだ。
この動きはすぐに朝鮮半島にも伝わり、同年3月1日、京城(現・ソウル)のパゴダ公園に宗教家33人(天道教代表15人、キリスト教16人、仏教2人)が集まって独立宣言が読み上げられ、非暴力・無抵抗主義を標榜して街頭で「万歳デモ」が行われた。
ところが、欧米宣教師たちに反日思想を植え付けられてきた朝鮮人キリスト教徒たちが破壊活動に走ったことから、様相が一変してしまった。商人や労働者も加わって、デモは瞬く間に全国的暴動に発展し、朝鮮全土で暴徒による破壊、放火、殺人、掠奪が行われるに至ったのだ。
欧米宣教師のなかでも、特にアメリカから来たプロテスタント各派は学校を各地に建て、朝鮮の貴族階級(両班)の子弟に反日意識を刷り込んでいた。有色人種間での反目を利用して、白人支配体制を構築する植民地統治の伝統的手法が布教活動にまで及んでいたのだ。
日本主導による近代化の推進でそれまでの特権を奪われつつあった両班たちのなかには、日本を恨み、旧体制への復帰を夢見て積極的にキリスト教を受け入れる者もあった。軍制改革によって職を失った旧軍人たちも反日意識が強く、このような近代化に反対する反動的不満分子が人々を煽ったために、当初の「朝鮮の独立」という旗印は置き去りにされたまま大暴動となったのが実態である。 主要都市から地方に広がったこの騒動は、農民たちが武装して村役場、警察・憲兵事務所、富裕地主等を襲撃するという凶悪な行為へと発展した。さらに学校も焼き打ちされ、在鮮日本人は「日本に帰れ」と投石をもって脅迫された。まさにテロそのものである。
地方の多くの朝鮮人も、暴徒を恐れて憲兵や警察に保護を求めたが、駐在所や憲兵分遣隊の兵力は10人から多くても20人しかおらず、数が圧倒的に足りない。社会秩序を維持し、暴徒から住民を守るために憲兵隊はやむをえず武器を使用したが、全国的な騒擾の渦中であくまで治安維持や正当防衛として使われたに過ぎない。
三・一独立運動を再現する市民(2019年)
韓国教科書の歴史歪曲
ところが、韓国では事実を徹底的に歪曲しており、暴虐行為を働いたのはすべて日本の憲兵・警察や軍隊だったことになっている。韓国の国定教科書の次の記述をお読みいただきたい。 「万歳デモが拡散すると、日帝は憲兵警察はもちろん軍人まで緊急出動させ、デモ群衆を無差別殺傷した。晴州、砂川、孟山、送安、南原、陜川などの地では日本軍警の銃撃により数十人の死傷者を出し、堤岩里では、全住民を教会に集合させたあと、監禁して火をつけ虐殺した。
また、デモに参加したという理由で無数の人々が投獄され、日本警察に非人道的な刑罰を受け、多くの人々が命を失った。当時、万歳デモに参加した人員は200万余人であり、日本軍警に殺された人は7500余人、負傷者は16000余人、逮捕された人は47000人余であり、壊されたり燃やされたりした民家は720余戸、教会が50カ所、学校が20カ所だった」
また、韓国小学校社会科教科書には次のように書いてある。 「日本は独立万歳を妨害するために、あらゆる悪行を犯した。彼らは太極旗を持って万歳を叫ぶ人々に向かって銃を撃ち、民家や教会、学校に火をつけ、はなはだしくは一村の住民すべてを殺してしまったこともあった。柳寛順(ユグアンスン)をはじめ、数多くの人びとが死んだり投獄されたり、あらゆる拷問で苦しめられた」
さらに、国定中学校国史教科書にもこう書いてある。 「10歳にならない少女と婦女子、そして女学生らが自分の祖国のため情熱を注ぎ、独立を叫んだという単純な罪名で、恥辱的な扱いを受け、体をなぐられた。幼い少女たちも残酷になぐられ、7歳以下の幼い少女ら300余名がすでに殺害されたと知らされた」
上の韓国の教科書の記述に対して、金完燮は『親日派のための弁明2』(扶桑社)のなかでこう反論している。 「学校の教科書では(日本に関連した他の部分も同じだが)事実を概して糊塗し捏造している。まるで平和なデモをしていた朝鮮人たちを、日本軍警が無差別に虐殺したかのように述べている。もし日本軍警がそのように対応したとしたら、万歳デモは初期に鎮圧され、全国に拡散さえしなかっただろう。
当時の日本軍警は、平和的なデモに対してはデモ隊を保護し、殺人と破壊を行う暴徒や鎮圧軍警を攻撃するデモ隊に対してのみ、治安維持と正当防衛の次元で武力を行使したのである。堤岩里事件についても『全住民を教会に集めて虐殺した』という主張はとんでもない」
金完燮が指摘しているように、当時すでに近代的法治国家であった朝鮮で、教科書に書いてあるような蛮行が日本の官憲や軍によって行われるはずがないだろう。
『韓国の高校歴史教科書 高等学校国定国史』(三橋広夫訳 明石書店)
日本人への偏見と侮辱で満たされ捏造本が全てのベースに
では、なぜ教科書には日本の官憲や軍が蛮行を犯したように書いてあるのだろうか。実は、これは一冊の本がベースになっている。朴殷植(パクウンシク)という人物が、上海亡命中の1920年に書いた『朝鮮独立運動之血史』(戦後韓国では『韓国独立運動之血史』と名称変更された)である。
「朝鮮人の民族意識鼓舞」のために書かれたとされているが、全編を通して日本への侮蔑意識が溢れ、日本の官憲や軍隊の蛮行がこれでもかとばかり書き連ねてあり、筆者もこれを読んで、そのあまりの偏見と事実歪曲、数字の誇張に絶句した。
この本のなかで彼は「日本では母子が結婚すると聞いたことがある」と述べ、「日本民族の古来から受け継がれたその野蛮な習慣をわが民族に強制し、倫理を冒したことも稀ではなかった」と記述している。
さらに、「絶海の野蛮民族を教導してやったのが朝鮮である」 「ふんどし一つの裸であることや、淫売の習慣や男女間の風紀の紊乱などを朝鮮人は嘲笑ってきた」 「大きいものでは国家、ちいさいものは個人財産に至るまで、みな狡猾に詐欺と暴力によって奪ったもの」等々日本人への偏見と侮辱で満たされている。
捏造の首謀者・朴殷植の正体
朴殷植
朴殷植は1859年、黄海道黄州に生まれ、儒学に没頭し、1898年にソウルで発行された反日的性格の強い「皇城新聞」創刊に参加して主筆となった。その後、1900年には経学院、漢城師範学校の教師、1905年に「大韓毎日申報」主筆となり、韓国で反日活動を続けたあと、上海に亡命して、臨政の二代目“大統領”となった人物である。
この本はその彼が日本を攻撃するためにありとあらゆる嘘を動員し、悪意をもって著述した一種の「ホラー小説」なのだ。
この本によれば、三一運動に対する日本の弾圧は悪逆非道を極め、水原堤巌里の虐殺から始まり、狩川と花樹里の惨殺、江西の虐殺、大邱の虐殺、密陽の虐殺、陜川の虐殺、天安の惨事、義州の惨殺、江界の惨殺、郭山郡の惨殺、その他全国各地で朝鮮人の虐殺、惨殺が次々に行われたそうだ。たとえば、晋州の虐殺については次のように書いている。 「日本の守備隊は、馬に乗り剣をふるって横行し、デモ隊を乱撃した。人の目を刺し、人の耳をもぎ、人の腕を切り落とし、人の鼻をそぐなどの残虐性を発揮したが、どれだけの人が被害をうけたか数えきれないほどである」
これはまだ軽いほうであり、子供や老人や女性に対する残虐行為など、あまりに酷すぎて引用するのも憚られる記述が延々と続いている。
そして散々書いた揚句に、彼はこう述べている。 「水原堤巌里の虐殺のように、西洋人が視察しておおやけに伝えた事件はその真相を天下にさらした。しかし、そのような西洋人の足跡の及ばない土地でも、村落の湮滅、人命の殺傷など、水原よりひどい例はたくさんあるにちがいないが、その実際をあきらかにすることはできない」
何のことはない。水原堤巌里以外は、全部想像で書いたことを朴殷植が自分で認めているのだ。 しかし、戦後の反日教育を推し進めるうえでこれほど都合の良い本はなく、韓国ではこれが正式な歴史書として取り上げられ、そこに書かれた「野蛮な日本による虐殺物語」を「史実」として学校で教えているのだ。先に引用した教科書にある死者7500余人という数も、この本を根拠にしたものである。
実際は朝鮮総督府の正式記録によると、3カ月間でデモに参加した者延べ人員106万人、死亡者は553人、負傷者は1409人であり、鎮圧過程で憲兵と警察官8人が暴徒により殺害され、158人が負傷したとなっている。後述するように、殺害された警察官のなかにはむごたらしい姿で発見された者も何人もいる。
なお、韓国の国家機関である国史編纂委員会ですらも、2019年2月20日に三一運動の死亡者数を725~934人と発表している。冒頭の文在寅大統領の「平和な独立運動だったが朝鮮人が7500人虐殺された」という言葉は真っ赤なウソなのだ。
水原堤巌里事件の真実
ここで、水原堤巌里事件についても反論しておこう。朴殷植は次のように書いている。 「4月15日午後、日本軍の一中尉の指揮する一隊が、水原郡南方の堤岩里に出現。
村民に対して論示訓戒すると称して、キリスト教徒と天道教徒30余名を教会に集合させた。そして、窓やドアをきつくしめ、兵隊がいっせい射撃を開始した。堂内にいたある婦人が、その抱いていた幼児を窓の外に出し、“私は死んでもよいが、この子の命は助けてください”と言った。日本兵は無残に子供の頭を刺して殺した」
しかし、4月24日付英国紙「モーニング・アドバタイザ」の京城特派員は「殺害されたキリスト教信者12名、天道教信者25名全員が男性」と記述している。婦人も幼児もいなかったのだ(木原悦子『万歳事件を知っていますか』平凡社より)。
朴殷植は、日本憲兵の残虐性を強調したいあまり、余計なエピソードを書いて自滅している。
水原堤巌里事件については、金完燮がその顛末を著書『親日派の為の弁明2』(扶桑社)に詳しく述べているが、要約すれば次のとおりだ。 「三一暴動の主役となったキリスト教(監理教)と天道教の信者が水原地域で大規模なデモを行い、警察署を襲撃し巡査2人を殺して凌辱(遺体から鼻と耳をそぎ落とし陰具を切断)し、小学校を燃やし日本人の家も襲撃した。
付近の日本人や朝鮮人から小学校に火をつけた犯人を捕まえてほしいという要請が殺到し、憲兵隊が被疑者40人を教会に集めて尋問したところ彼等はひどく抵抗した。わずか10人の憲兵隊は正当防衛でやむを得ず発砲し、また警告にもかかわらず被疑者が逃走したことから発砲して死者が出た。 少数部隊が圧倒的な数の暴徒に包囲された状況で彼らが反撃して逃走しようとするならば、発砲は正当な行為であった」
朴殷植が「日本の官憲が耳をもぎ、鼻をそぎ取った」と書いているのは、実際には朝鮮人暴徒が警官に対してやったことだった。いずれにしても、犯人逮捕のために武器を使用することはいまの日本でも認められている。韓国側の「水原堤巌里で日本の官憲が虐殺した」という主張は、自衛隊機へのレーダー照射事件で「自衛隊機が低空飛行で威嚇した」と事実を捻じ曲げて日本を非難しているのと同じ詭弁なのだ。(後編につづく)
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