6/12(金) 6:01配信
韓国を敵視しだした北朝鮮、その真意を見誤る韓国
(武藤 正敏:元在韓国特命全権大使)
脱北者によるビラ散布を口実に、4日から韓国への誹謗中傷を続けてきた北朝鮮が、批判のボルテージを一段階引き上げた。9日、南北間のすべての通信ラインを断絶し、「対南事業を敵対事業に転換する」と表明したのだ。
【写真】<金与正の恫喝に屈服の韓国、いずれ南北で対日攻勢に>2018年4月27日、第3回南北首脳会談 で「板門店宣言」に署名する金正恩委員長(右)をサポートする金与正氏
韓国統一部によれば、北朝鮮は過去に少なくとも6度、南北間の通信ラインを断絶してきたが、金大中、盧武鉉といった左派政権時代にはなかったことであり、「対敵事業」という用語を公にするのは今回が初めてだという。韓国政府の安保関係者によれば、「北朝鮮は李明博、朴槿恵政権時代にも大統領と韓国軍首脳部を『逆賊』『好戦狂』などと呼び、『もう付き合うことはない』といったことはあるが、面と向かって『敵』といった記憶はない」ということである。
言うなれば、北朝鮮は過去最大級の怒りを以て、韓国に対峙し始めたわけだ。北朝鮮が、韓国文政権を「敵」とすることで、今後は「言葉」ではなく「行動」で挑発する可能性が高まったと言えるだろう。
北朝鮮による、今回の対南非難の意味、今後の見通しについて考察する。
■ 通信ラインの断絶は最初の一歩に過ぎない
9日、朝鮮中央通信は、金与正(キム・ヨジョン)朝鮮労働党中央委員会第一副部長と金英哲(キム・ヨンチョル)朝鮮労働党副委員長が「段階的敵対事業計画を審議した」と明らかにした。これは段階を高めた強硬措置を予告するものである。
金与正第一副部長は、4日の談話で開城工業地区の撤去、南北共同連絡事務所の閉鎖、南北軍事合意の破棄などを予告していた。その第一歩が通信ラインの断絶である。これには、南北共同連絡事務所の通信ラインばかりでなく、青瓦台と朝鮮労働党本部庁舎とのホットライン、軍当局間の東海、西海の通信ライン、国際商船共通網などすべての通信ラインが含まれる。こうした通信ラインは朴槿恵時代には断絶していたが、2018年のピョンチャン冬季オリンピックに参加の意向を示した際に復旧されていた。
ところが韓国政府は、北朝鮮による通信ラインの断絶宣言を受けても、国家安全保障会議の招集さえせず、南北合意破棄への抗議や遺憾の表明などもしなかった。引き続き、北朝鮮向けビラへの批判と散布禁止の方針ばかりを繰り返した。
青瓦台はコメントを求められても、「統一部の発表内容を参考にせよ」と言うだけ。その統一部も「南北間の通信ラインは意思疎通のための基本手段であり、南北間の合意に基づいて維持すべき」との原則論を言うだけであった。南北間に進展がある場合には青瓦台が先頭に立って宣伝してきたのとは対照的な態度である。
■ 韓国政府はビラ散布の団体を告発
金与正氏が談話の中で、脱北者団体による北朝鮮向けビラ散布を激しく非難し、「ビラ散布を禁止する法律を作れ」と恫喝したことを受け、韓国統一部は「対北ビラ散布禁止法案(仮称)」を推進していることを確認したとの追従姿勢をとっている。
北朝鮮の体制を非難するビラを散布する活動を行っているのは、脱北者の朴相学(パク・サンハク)氏が率いる「自由北韓運動連合」と、弟のジョンオ氏率いる「クンセム(大きな泉)」の2団体である。前者は先月31日、金正恩委員長を非難するビラやドル紙幣などを大型風船につるして北朝鮮に飛ばした。後者はコメをペットボトルに入れ北朝鮮に送ろうとしたが、地元住民の反発で失敗した。さらに前者は、朝鮮戦争勃発70年となる25日、100万枚のビラを飛ばすとも予告している。
これに対し、統一部はこの2団体を南北交流法違反で告発し、両団体に対する政府の法人設立許可を取り消すと発表した。南北交流法は、物品を北朝鮮に搬出するには統一部長官の承認が必要と定めているが、これまで統一部はビラの散布を問題視したことはなかった。その方針を突如変えたのだ。脱北者団体はこれに反発、「金正恩委員長の頭上にさらに多くのビラを散布する」と述べている。
与党議員は、北朝鮮がビラ批判から韓国への挑発を強化していることから、「ビラの無断配布への反発だ」「南北首脳間の合意事項が守られていないことへの積み重なった不満のようだ」などと述べ、ビラを散布した脱北者団体を批判している。さらに、「(互いを誹謗しないと合意した)板門店宣言を国会で批准させることを通じ、南北関係発展の新たな転機を作らなければならない」との考えを示す与党議員もいる。つまり、北朝鮮の要求に従ってビラ散布ができないようにし、北の翻意を促そうということだろう。
しかし、北朝鮮は韓国の融和的な姿勢で態度を改めることはなく、韓国政府の毅然とした対応で北朝鮮を動かすべきとの意見もある。朝鮮日報は、京畿大学の南柱洪(ナム・ジュホン)教授のコメントを紹介している。
「2015年北朝鮮による木箱地雷挑発の際、韓国が自走砲で反撃するなど強硬な手段を取ると、北朝鮮の方から先に交渉を持ち掛け、謝罪の意向を伝えてきた」
「北朝鮮の強硬姿勢には譲歩ではなく堂々と対抗していく戦略も必要だ」
ただ、当時は朴槿恵大統領であった。北朝鮮追従の文在寅氏にはとてもできないことだろう。しかし、北朝鮮への弱腰対応をしていく間に北朝鮮は一層の強硬措置を取って来るであろう。北朝鮮への対応で重要なことは、北朝鮮の狙いを看破し、挑発にスキのない対応体制を取ることである。
■ 北朝鮮の次なる手
朝鮮日報は、北朝鮮の次なる一手について次のように報じている。
金正恩委員長は昨年10月、金剛山を訪問し、「南側が建てた施設をすべて撤去すべき」「管理されず、みすぼらしい」と述べた。これを受け、北朝鮮は昨年末、韓国政府に通知文を送り、一定の期間中に撤去しないならば「ある種の措置を取る」と予告した。韓国の現代峨山などが所有する海上ホテルと便宜施設などについて、峨山政策研究院の車斗鉉(チャ・ドゥヒョン)研究委員は「爆破で衝撃を与える可能性も排除できない」との恐ろしい予測を述べている。
また同紙は、開城工業地区に関連しては、施設を取り壊して中国に売ったり賃貸したりする形で韓国の存在感を消そうとするかもしれないとも解説する。
軍事合意の破棄は、今後の軍事的挑発の責任を負わないとの予告とも思われる。北朝鮮は、韓国海軍の哨戒艦天安を撃沈し、延坪島(ヨンピョンド)を先制攻撃したことがある。北朝鮮の警告が、韓国の予想していない行動に結び付く可能性もある。
■ 北朝鮮挑発の背景について韓国専門家の分析
北朝鮮の挑発の背景について、韓国では様々な分析がなされている。
韓国国立外交院の金峻亨(キム・ジュンヒョン)院長は、「(ビラ散布は)影響を及ぼしたが、根本的問題ではない」「(北には)基本的に『自力更生に進む』という考えがあった」「韓国と米国に対する不満がたまり、名分を探していたところ、ビラが起爆剤になった」「北には余裕がない、直ちに経済崩壊や経済危機を迎えるわけではないが、時間が経つほど苦しくなるだろう。・・・コロナ状況まで重なり北朝鮮には打つ手はない」。しかし、「米大統領選挙まではこのように過ごすのではないか」という見方を示している。
また、元安全保障官庁関係者や北朝鮮専門家は、「北朝鮮に対するビラは口実に過ぎず、北朝鮮は経済難など内部の不満を抑えるため、意図的に『南朝鮮たたき』を行っている」と見ている。
尹徳敏(ユン・ドクミン)元外交院長は「ハノイディール」以降、韓国に対し募った不満や不信感が爆発している、との見方を示している。
南成旭(ナム・ソンウク)高麗大学教授は「北朝鮮としては、対北制裁を無効化させることが急務だ。韓国をたたくのは制裁の弱い部分を突き破って出てこいという注文だ」と述べた。
■ 問題の根本は北朝鮮の体制不安定化
こうした見方は、いずれも韓国政府の短絡的な見方とは異なり、いずれも真理を突いているように思う。つまり、ひと言で言えば、「北朝鮮の体制に問題がある」ということである。
韓国与党の一部議員が指摘するように、北朝鮮の強硬な態度は、このビラが主たる要因ではない。ビラが影響を与えているとすれば、北朝鮮にとって体制の引きしめを図らなければいけない時に、ビラをきっかけに金正恩批判が広まるかもしれないという点だろう。体制の揺らぎを恐れなければならないほど、北朝鮮が現在危機的状況にある、あるいは危機的状況に向かっていることを金正恩政権が危惧しているということであろう。
脱北者によれば、このビラの問題を、北朝鮮住民が連日目にする労働新聞がわざわざ報道しているのは珍しいという。これはビラの不当性を国民に知らしめ、「これに惑わされるな」という戒めなのであろう。それだけ、北朝鮮首脳が体制の不安定化を懸念しているということは言える。
ただ、ビラに対する過剰なまでの反応の原因はそれだけではない。
北朝鮮は昨年から、ここ数年来の食料生産の不振によって1000万人が食料不足に陥っていると言われている。それに加え、国連を中心とする国際社会の北朝鮮制裁によって、北朝鮮の外貨は底をついてきている。そこにきての新型コロナ危機である。
北朝鮮は、中国で新型コロナが流行すると、感染防止対策としていち早く中朝国境を閉鎖した。北朝鮮の医療水準では、北朝鮮で新型コロナが蔓延すればこれを抑えることができないことは明白であり、国境封鎖は正しい措置であった。
しかし、国境封鎖と同時に中国との貿易も遮断しなければならなかった。その結果、中国からの輸入は8割以上落ち込んでいるという。そして自力更生をうたった北朝鮮の経済が危機的状況に陥っていると見るべきだろう。
生産材料、消費物資の調達は困難を来していよう。今年金正恩が3週間ほど姿を消したのち最初に訪問して激励したのが化学工場の竣工式であった。なぜこの場所だったかと言えば、北朝鮮で肥料、農薬が入手できなければ、今年の秋の収穫は恐ろしく落ち込む可能性がある。そうなれば北朝鮮の住民の生活は危機に瀕することは必定である。それは政権に対する不満に直結する。だからこそ、化学工場の関係者の士気を高め、国民生活向上のため努力している姿勢を示す必要があったのだ。
如何に国民の不満を抑え込んでいる政権とは言え、未曽有の食料危機が発生すればどうなるか。それは、金正恩氏や与正氏にとって想像すらしたくない事態になるであろう。
■ 北朝鮮への追従姿勢は韓国への挑発を強めるだけ
これが北朝鮮のビラ批判の背景と見るべきだろう。だとすると、韓国が単にビラ散布を禁止したとしても、北朝鮮はそれで満足することがないということになる。
ところが、韓国政府は北朝鮮のビラの散布への批判を受け、それだけに追従する姿勢を示している。北朝鮮が「追加的な強硬措置を取る」と言い出しているのは、ビラが本筋ではなく、北朝鮮に対する制裁を解除するよう努力しろということであろう。
ただし、北朝鮮への制裁は、北朝鮮が核ミサイル開発を強行していることに対する制裁である。
文政権は「金正恩氏の非核化の意思」を国際社会に宣伝し、米朝間の首脳会談を実現させた。
しかし、金正恩氏は直接「非核化は永遠にないだろう」と述べ、先日も「核戦争抑止力強化」を公言。「南朝鮮への警告」として核搭載用のミサイルを10回以上発射した。
それにも拘わらず、文政権は抗議どころか総選挙で圧勝すると、鉄道連結や観光開発といった北朝鮮支援事業を次々と発表した。天安艦撃沈を受けての5・24制裁も「実効性が失われた」として、かつての北朝鮮の挑発に免罪符を与えた。
北朝鮮は韓国のこのような対応を見て、「文政権では何ら対抗措置を取らない」と甘く見て、次々に強硬措置を取り挑発行動を起こし続けるだろうし、それは「国連制裁を解除しろ」という主張が通るまで続くだろう。ただ仮に制裁解除があるとしても、その時期は米国の大統領選挙以降になるのではあるまいか。
■ 必要なのは毅然たる対応
韓国政府は北朝鮮の恫喝にすぐひれ伏すのではなく、こうした北の意図をよくよく分析し、対応措置を取っていく以外にないのだ。その対応措置とは、北朝鮮の核ミサイル開発、挑発行動に対するさらなる制裁措置である。
韓国の与党議員の一人でさえこう述べた。「ビラが来て興奮する前にやるべきことがある」「紙切れ何枚かで体制が揺らぐのであれば、少し反省すべきだ」。こちらの方が、青瓦台よりよほどまともな感覚と言える。
北朝鮮が強硬姿勢を示す背景は、北朝鮮の体制がますます脆弱になっているということである。北朝鮮の脅迫にじたばたするのではなく、北朝鮮が挑発してきた場合これを撃退できる準備をし、北朝鮮には毅然と核ミサイル開発の放棄を求めていくのが正しい道である。
武藤 正敏
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