5/13(水) 6:00配信文春オンライン
「返してほしければ、お前が『下』であることを示せ」なぜ韓国人は借りたお金を返さないのか
他人から金を借りた人間が貸してくれた相手に居丈高に振る舞い、返済を求められると「返す必要はない」と開き直る……そんなあべこべな状況が韓国では常態化しているという。「確かに金は借りたけれども、すでに『情』で支払っているから、この上金まで支払うのは公正ではない」というのがその言い分だ。
「情」とは何か? それは著者の言葉を借りるなら、ウリ(=自分の親しい間柄の人間)に対してかける「ウザい」までの優しさ、親愛の情を表す。それは決して無償のものではなく、「情」をかけられたなら必ず対価が発生する。そのもっとも分かりやすい例が、「借金を返さない」ことだというのだ。
韓国に生まれ育ちながら韓国文化へのアイロニカルな言説を隠さないシンシアリー氏の著書 『なぜ韓国人は借りたお金を返さないのか 韓国人による日韓比較論』 (扶桑社)より一部を引用し、韓国人の倫理観について知る。
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「返してほしければ、お前が『下』であることを示せ」なぜ韓国人は借りたお金を返さないのか
他人のお金を借りて返さない人が偉そうにしている韓国社会
韓国人は、ウリの範囲にいる人に対しては、何が何でも徹底的に関わろうとします。韓国人はこれを「情が溢れる」という意味で「ジョンギョプタ」(정겹다)と言います。ジョンギョプタは、「情」と「ギョプ」の組み合わせで、ギョプは重なる、多重になっているという意味です。韓国ではジョンギョプタを日本語にする際に「多情多感」「親しい」「優しい」などとしますが、私に訳せというなら「ウザい」あたりがいいでしょう。
韓国人が日本人を「冷たい」と評する大きな要因です。同じグループ内に入った(たとえば同じ会社、同じ部署に入った)のに、なんで私をもっと構ってくれないのか、というのです。これもまた日本側のネット上のネタで、韓国を「かまってちゃん」と呼ぶ人が多いですが、それも大して間違ってないわけです。
ただ、その多重の情は、決してゴンチャ(タダ)ではありません。いずれ、かならず何かの「対価」を要求されることになります。その対価の概念のもっとも一般的な表れ方が、「借りたお金を返さない」です。
情をすでに払っておいたから、返さないのが公正だというのです。書いていて悲しくなることですが、私をはじめ、本当に大勢の韓国社会の人々が、この「公正」にやられました。
「経済分野の道徳性の回復を急ぐべきです。いつからか、私たちの社会には、他人のお金を借りて返さない人のほうが、ずっと偉そうにしています。借りたお金を自分の権利だと認識しているのです」
「借りたお金を返さない人のほうがもっと豊かに暮らせる社会では、そういう人たちを狙った犯罪が多発することになります」
「資本主義経済の根幹は、自由意志による契約です。契約はお互いの信頼を必要とします。どんな理由があろうと、契約を履行しない人が増えれば、資本主義経済は崩れるしかありません」
1992年9月17日、ソウル地方検察庁の経済関連担当となった、部長検事の就任演説の一部です(『毎日経済』/同日)。
当時、そう大きな話題になったわけではありませんが、一部のマスコミは、この演説に注目しました。「やはり、まだまだ借りたお金を返さない人が多い。だからあえてあのような演説をしたのだ」、と。演説文の「契約をちゃんと履行しない人」というのも、前後の内容からして、お金をちゃんと返さない人というニュアンスでした。
韓国の諺「お金は、座って(貸して)やり、立って(返して)もらう」
最近は韓国のマスコミも「韓国人の~(何かの問題点)」というような記事を書かなくなりましたが、80年代、いや90年代までは、「韓国人は~だから、~を直すべきだ」とする社会批判記事が結構ありました。
いわば社会改革キャンペーン的な記事でしたが、その中に欠かさず出てくるものが、「親しい仲でも借りたお金はちゃんと返すべきだ」でした。「保証人になるな」という内容が、いつもセットで載っていました。この部長検事も、同じことを指摘していたのです。
もともと韓国では、「ウリ」の「情」をお金で確認する方法が二つありました。
一つは、お金を貸してくれること。
もう一つは、銀行など金融機関からお金を借りる時に「保証人」(韓国では総称として連帯保証人といいます)になってくれること。
「自分の方が下」だと示してはじめて金が返ってくる
副作用が多すぎて、韓国の連帯保証人制度は2008年から廃止されました。
「親しい仲」(というウザさ)の人からお金を貸してくれと言われること自体がかなり苦しいものではありますが、問題は、返してもらえないことです。
日本では「借りる時の地蔵顔、返す時の閻魔顔」とも言いますが、韓国には「お金は、座ってやり、立ってもらう」という諺があります。
ここで言う「座る」や「立つ」は、「上下関係」のことです。上の立場の人が座り、下の立場の人は立っていないといけません。すなわち、お金を貸す時には貸す人が上ですが、返してもらう時には、むしろ貸した人のほうが下になってしまう、という意味です。
日韓両方の諺は、一見、同じ内容に見えます。どこの国でも、借りたお金を返す時には、誰もがいい顔はしないものなのでしょうか。ただ、日本の「返す時の閻魔顔」の場合は、「不機嫌そうだけど、返す」のニュアンスがありますが、韓国の「お金は、座ってやり」の場合は「『相手に下になってもらう』という相応の対価が得られないと、返さない」ニュアンスがあることに、お気づきでしょうか。
この差は、致命的です。ちゃんと返してくれるなら、相手の顔が閻魔大王の顔だろうがトランプ大統領の顔だろうが、別にいいでしょう。
韓国の諺に含まれている「座る・立つ」(上・下)の意味は、貸したお金を返してもらうのはそんなにも難しいことだ、という普通の解釈もできます。
でも、よく読んでみると、その真の意味は「対価の要求」です。お金を借りた人が、貸してくれた人に対して、「私がお金を返すだけでは、公正ではない。お前が『下』であることを示せ」と要求しているわけです。
「9回(お金を)貸してやっても、10回目に貸してやらないと恨まれる」
韓国で何か大きな事故、事案が起きると、私はブログを更新するために、ニュースだけでなく、韓国側の個人ブログなども回って情報を収集することになります。その際に偶然見つけたものですが、あるブロガーが「お金は座って貸して、土下座して返してもらえる」と書いていました。例の諺の変形です。
そのブロガーさんの個人経験ですので詳しくは書きませんが、自分が貸したお金なのに、自分が徹底的に相手より「下」にならないと返してもらえない、というのです。それでもコメント欄では「それでも返してもらえたからまだマシですよ」というコメントがいくつか付いていました。ただ、本文をよく読んでみたら、まだ返してもらったのかどうかハッキリとは書いていませんでした。
情のこともあって、韓国では、銀行からではなく、知り合いからお金を借りることが普通にあります。データはありません。そう言われています。そして、実際、私の周辺の大勢の人たちが、知り合いからお金を借りていました。
また、同じ人に何度も借りる人も多く、諺というほどではありませんが、「9回(お金を)貸してやっても、10回目に貸してやらないと恨まれる」とも言われています。
借りたお金を返さない人が多い件で、韓国のネットで格言のように出回っている画像があります。「お金を借りて返さない人の心理」というもので、オンライン講座で有名なある講師が話した内容の、字幕付きキャプチャーです。
そこには、「借りた人は、借りたお金を自分のものだと思ってしまう。だから、返す行為を、『奪われる』と思ってしまう」となっています。奪われるというのは自分が損をするわけですから、この指摘は、先の「相応の対価」(相手に下になってもらう)と同じ考え方だと見ていいでしょう。
借りたお金はすでに「情」で支払ったから返す必要はない
対価というのは、それをもらわないかぎり「公正」にはなれないという意味でもあります。その側面から、平等、またはニュートラルについて考えてみるのはどうでしょうか。
「返す」は、貸し借りの関係をニュートラルに戻す行為です。AがBにお金を貸したと仮定して、単純に債務関係だけを考えると、BはAからお金を借りた時点でマイナスで、Aにそれを返したことでAとBの関係はプラスマイナス・ゼロになれるわけです。なのに、返す時にBがAに対価を要求するとなると、それはニュートラルが崩壊してしまいます。
そう考えると、韓国社会は、「両方が対等な関係で事柄を決める」(借りたなら、返さないとニュートラルに戻れない)をうまく認識できないでいる、とも言えましょう。韓国人の「公正」に対する認識が、そのまま表れているわけです。
では、さすがに韓国人全員とは書きたくないですが、社会問題となるほど大勢の韓国人が、いったいなぜニュートラルを認識できないのでしょうか。お金は借りたら返すべきものだとする極めて基本的なことを知らないでいるのでしょうか。
借金返済を求めるのは「ひどい仕打ち」?
正しくは、認識できないわけでもなければ知らないわけでもありません。ただ、その必要性を感じないでいます。すでに「情」で支払ったからです。まさしく、「知り合いが泥棒である」です。
韓国の親たちが、子に孝道契約書を要求するようになったのも、「知り合いが泥棒である」を経験したからではないでしょうか。自分の子とて、泥棒になるかもしれないと思っているのです。孝道契約書は、ある意味、経験により学習した、自己防御の手段かもしれません。
親子でも裁判沙汰が多いと聞きますが、韓国社会の一般的なウリで、その「知り合い」という名の泥棒に「お金を返せ」と責め立てると、ほぼ決まった反応が見られます。
「お前が俺にこんなことをしていいのか」「俺は今まで我慢してきたんだ」「これだけは言わないつもりだったが」などなどです。
もっと分かりやすい言語体系にしますと、「私は悪くない。今まで『情』によってウリを支えてきた私に、たかがお金でこんな仕打ちはひどすぎる」の類です。
金融機関からお金を借りた半分の人は故意に借金を返さない
頭の痛いことに、マン・ツー・マンならともかく、この場合は「返せ」と責めたほうがウリから孤立します。なぜお金で騒ぎを起こすのか。ウリが壊れるではないか。そんな趣旨です。お金を貸した人に「有り難い」と思っている人は、誰もいません。
韓国では、「恥」とは「かくもの」(自分のせい)ではなく、「かかされるもの」(他人のせい)です。
ウリもまた、お金を借りて返さない人のほうが恥ずかしいのではなく、騒ぎを起こしてそれを公論化した人のほうが恥ずかしいと思われてしまいます。だから韓国では「いいものがいい」という言葉もあります。ウリの中の問題を表に出さず、騒ぎを起こさないのが一番いい、というのです。裁判までいったりしたら、その人(貸したほう)は、ウリからは徹底的に排除されることでしょう。
しかし、「私」が波紋の中心なら、「他人」もまた、それぞれの自分という名の波紋の中心。こと韓国人は、ウリ(会社、仲間、広い範囲で)に順応しているように見えても、何かあれば、すぐ裏切ります。その順応によって「すでに対価は払った」と思っているので、何の迷いもなく、あっさり裏切ります。
だから、韓国人のウリは、長くは続きません。同じく「はじめに」の『国民日報』の記事のもう一つの指摘である「万人の万人に対する闘争」現象の原因が、ここにあるのかもしれません。
ウリとは話がそれますが、金融機関からお金を借りては、故意に返さない人たちもまた社会問題になっています。いわゆる「モラルハザード」です。
家計負債が大きな問題になっている韓国では、ちゃんとした担保や信用を持っている人たちは比較的利子が安い一般の銀行を利用しますが、そうでない人たちは、貸し出しの基準があまいけれど利子が高い金融機関を利用することになります。合法的に運用している貸付業者もまた、韓国ではそういう「基準がゆるく利子の高い」機関となります。
2016年8月3日、このモラルハザードを指摘している『マネートゥデー』紙の記事によると、あくまで取材に応じた合法貸付業者たちの話ではありますが、「合法貸付業者から貸し出しを受けた人の約半分は、故意に借金を返さない悪性債務者に分類される」との驚きの一行がありました。貸付業者側も相応の対応はしているものの、それでも返済を延滞する人も多く、その場合「七割は故意だと見ていい」とも。
幸福専門家が挙げた韓国人が「幸せ」を感じられない理由
本章の最後になりますが、本書の趣旨とも相性のいいデータを一つ紹介します。
ストレス問題が世界的に、皮肉なことにもっとも裕福なはずの先進国を中心に、大勢の人々を苦しめている今日このごろ。人の「幸福」をテーマにする研究もまた、心理学、社会学など様々な分野で進められています。
その中でも、「主観的幸福感」(Subjective well-being)という論文が特に有名な、イリノイ大学の心理学教授エド・ディナーという幸福専門家がいます。
韓国は物質主義的な価値観が偏重されている
エド・ディナー教授は、「幸せを得るためにはどうすべきなのか」という幸福学の今までの定番テーマを、「幸せを得るとどこがどう変わるのか」という側面から研究し、幸福学の研究領域を一気に広げた人でもあります。
氏は、「個人が感じる幸福こそが、疾病管理、生産性、創造性など国家の各分野で上昇を目指している指標に肯定的な影響を与える」とし、国家は個人が幸せを感じ取ることができるよう、政策を進めるべきだと主張している人でもあります。
そのエド・ディナー教授が、2010年8月、韓国心理学会がソウルで開催した国際シンポジウムで、『韓国での不幸』(Unhappiness in South Korea)という題で講演しました。
2010年8月17日の『東亜日報』、2013年2月8日の『中央日報』の記事から講演の内容をまとめてみると、氏は韓国社会に対してこう主張しています。
「韓国人は、他の社会構成員たちと自分自身を絶えず比較し、勝つことが幸せになる道だと信じている」
「しかし、いつも勝者になることはできない。他人と物質的な面だけ比べ続けても、幸せを感じられなくなるだけだ」
「韓国人は過度に物質中心的で、社会的関係の質が低い」
「物質主義な価値観それ自体を一方的に悪いと言うつもりはないが、社会的な他人との関係や個人の心理的安定など、他の価値を犠牲にしているから問題だ」
『東亜日報』は氏の指摘した「他人との関係」は信頼関係のことで、「個人の心理的安定」は趣味を介して得られる幸せだと書いています。趣味については後述しますので、ここでは信頼関係を見てみましょう。
5人に1人が「信頼できる人がいない」と答えた韓国の劣悪な人間関係
韓国人の社会関係の「質」が低いとしてエド・ディナー教授が提示したデータの中で特に興味深いのが、「信頼できる(頼れる)人がいるのか」です。OECD(経済協力開発機構)も「Perceived social network support」として同じ趣旨のデータを集計しているので、それをベースにしたものだと思われます。
私も2013年11月に「韓国が不信社会である、ある種の証拠」としてこのデータをブログで紹介したことがあります。自分に困ったことが起きた場合、助けを求めることができる人(自分にとって信頼できる人)がいるのかを調べた結果、韓国人は78%が「いる」と答えました。
一見、高い数値に見えますが、実は違います。このデータの「頼れる人」の範囲には、家族も含まれます。家族、友、知り合い、すべての人たちを含めて、困った時に頼れる人を持たないという人が、22%もいるわけです。
これは世界的に見ても最悪クラスとなります。エド・ディナー教授が講演したシンポジウム当時、経済難や急激な通貨価値の下落などで、ネットではジンバブエが散々バカにされていました。
エド・ディナー教授はそれを意識してか、ジンバブエのデータも公開しましたが、ジンバブエの人たちは82%が「信頼できる人がいる」と答えました。米国が96%、日本が93%。80%を下回る国は、そうないとのことです。OECDの2013年データでは、韓国よりこの数字が低いのは、メキシコとトルコだけでした。
エド・ディナー教授は、「約5人に1人の韓国人が、『頼れる』と言えるほどの人間関係を築くことができないでいます。他人を信頼する、他人と力を合わせるなど、社会での『資本』ともいえる人間関係が、とても劣悪なのです」と指摘しました。
金を借りるのは当然の権利……韓国に蔓延する「ウリ意識」の底にあるものとは? へ続く
シンシアリー
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