5/13(水) 6:00配信文春オンライン
「返してほしければ、お前が『下』であることを示せ」なぜ韓国人は借りたお金を返さないのか から続く
金を借りるのは当然の権利……韓国に蔓延する「ウリ意識」の底にあるものとは?
たとえ国家間で結んだ条約だろうと、それに優先されうる「正義」があるというのが韓国側の心理だという。
日本人にしてみれば国家との約束=法律を守ることは、日本という国に住む以上当たり前のことである。しかし韓国人にとっては時に個人の「正義」が法律より優先されることもあるらしい。そこには「借りた金を返さない」こととよく似たロジックが働いている。
韓国に育ちながら日本文化にも触れることで「韓国がヘイトを向ける日本」はどこにも存在しないことを知ったというシンシアリー氏。その著書 『なぜ韓国人は借りたお金を返さないのか 韓国人による日韓比較論』 (扶桑社)から抜粋し、韓国人特有の正義を読み解く。
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金を借りるのは当然の権利……韓国に蔓延する「ウリ意識」の底にあるものとは?
日韓関係と「借りたお金を返さない」ことの類似性
「借りたお金を返さない」といっても、人それぞれ様々な事情があるでしょうけど、私が韓国で数十年間生きた「肌の感覚」だと、これは個人の問題ではありません。もはや社会レベルの問題です。
経済的に余裕があるのかどうかを離れ、「お金を貸したのに返してもらえなかった」経験がある韓国人は、成人ならほぼ全員ではないだろうか、と私は感じています。データはありません。ただの邪推かもしれません。でも、率直に、そう感じています。某有名アニメの台詞を借りますと、「私のゴーストがそう囁いて」います。
最近の日韓関係を見ると、日本(安倍総理)と韓国(文大統領)の間で、いつもいつも、ほぼ決まったパターンで応酬が行われます。日本は韓国にこう言います。「国際法という約束を守れ」。私的な正義は国内で勝手にやればいい、国家間の約束を守れ、というのです。すると、韓国はこう言います。「条約や合意では解決できない」。
文在寅大統領は2020年1月14日の新年記者会見でも、「被害者の同意なしに韓日政府がいくら合意しても、問題解決の役には立たないことを、慰安婦合意で、切実に経験した」「日本政府が被害者たちが収容できる法案を用意すれば、両国間で解決策を用意することもさほど難しくない」と話しました。合意をしても役に立たないというのです。
同じく、元朝鮮半島出身労働者(いわゆる元徴用工)問題においては、「請求権協定(基本条約)では解決されていない」と主張しています。条約締結から五十年以上も経った時点で。
韓国の弁は、国家間の約束である国際法よりもっと重要な「正義」があるというのです。日本と韓国は過去を克服して未来志向で共に発展しなければならない関係だから、日本が負けろ、日本が折れろ、そうしないと大事な両国関係が破壊されてしまう、というのです。
少し書き換えてみると、「韓国が国際法を守るのではなく、日本が韓国の正義を守れ」です。どことなく、今の日韓関係は、「借りたお金を返さない」ことと非常に似ているようにも見えます。いや、「今の」でもありません。ずっと前からそうでした。
「約束を破るわけには行かない」――法律的な側面を重視する日本
2019年12月のことです。ブログに、神田外語大学のキム・ギョンファ准教授が『韓国日報』に連載している「同じ日本、違う日本」というタイトルのコラムを部分引用し、その内容について考察したことがあります。
まことに残念なことですが、私が「シンシアリーのブログ」で紹介する「日本駐在韓国人教授の日本関連発言」は、悪い意味でとんでもない反日発言ばかりで、いつもブログのコメント欄が「こんな人が日本の大学で教授やっているのか」という意見で溢れかえったりします。そもそも親日だろうが反日だろうが、意見表明の場は保障されるべきでしょうけど、読んでいて不愉快になるのもまた、仕方ないことです。
でも、キム准教授のコラムは、明らかに日本を貶めるために書かれた「いわゆる知識人」のコラムが多い中、反日さは目立たない内容です。もちろん、日本に対する感謝や愛などはさほど感じとることができませんでしたが、それは個人差の問題でありましょう。
共通の不満を通じた「共感」は難しい
私がブログで紹介した2019年12月18日のコラムのテーマは、「男女平等ができていない日本と韓国だけあって、日本と韓国の若い人たちが『抑圧されている』という側面で、共感できるのではないか」というものでした。男女だろうがなんだろうが、「人が不当な扱いにより言いたいことが言えず、抑圧されている」とする問題を論ずるなら、それは国家というより現代社会の問題です。性別、年齢、国家などに関係なく、どこの社会にも一定数は存在すると言えるでしょう。
それに、コラムを読んでみて、私は、同じ不満を持っていることを「共感」と呼ぶのは、デモが多い韓国ならともかく、日本ではニュアンス的に違和感があると思いました。でも、人の立場や経験はそれぞれ違うものだし、キム准教授は女性だから、私とは観点が違うだろう、こういう考え方もあるものだな、と最後まで読んでみました。私がブログで取り上げたのは、この部分です。
〈……数年前、日本で地方議会の女性議員が、育児スペースがないことに対する抗議の意味で、乳児の赤ちゃんを抱いて、議会本会議場に入ろうとして、出入り禁止されたことが話題になった。授業でこのことについて議論したことがあるが、女子学生を含めて、学生の70%以上が、「会議に出席する資格があるのは議員だけという法を破った以上、禁止は妥当である」とする保守的な意見であり、落胆したこともある……〉
日本人学生の意見に「落胆」する韓国人准教授
たぶん、キム准教授は、「育児問題を放置する日本が悪い」「そんな点は韓国と同じだ」「日韓の若者が共感した!」という流れを期待していたのかもしれません。実際、日本で育児に関する問題がまったく話題にならないとか、そんなことはありません。日本社会そのものが、そういう問題があるとちゃんと認識していますし、ニュースでも報道されています。
ただ、「物の見方においての優先順位」、普通にその社会の価値観と呼ばれるものが、日本と韓国とでは、違います。日本の大学生たちは、「会議に出席する資格があるのは議員だけという法を破った以上、禁止は妥当である」を守ることを優先します。韓国なら、法より自分が抑圧されている、実際に抑圧されているかどうかより「自分でそう思っている」ことを優先するでしょう。すなわち、自分の正義を万人の法より上に置くはずです。
この考え方があるかぎり、両国の若い人たちに「共感」はありません。なにより、日本の大学生たちのこのような意見に対し、講義している准教授が「保守的だ」とし「落胆」するようでは、共感は無理でしょう。このような考えの差があるから、日韓の真の共感はありえません。たとえ、問題そのものを「あ、これは問題だな」と感じることは同じでも。
「そうあるべき」に囚われる韓国人
私は、こう思っています。キム准教授と韓国側は、「育児問題に対する解決策」においてその結果を重要とし、それを邪魔する全てによって「私は『拘束』されている」と感じています。そして、他の人たちもそう感じるべきだ、いわゆる「当為さ」(「そうであるべきだ」とする概念)を重要視します。だから、逆に、自分でその邪魔な存在を拘束しないと、問題が解決しないと信じ込んでいます。「やられる前にやってしまえ」とまではいかないにせよ、「やられているからやってしまえ」です。困ったものです。
日本側は、結果だけでなく、結果(解決策)に至るまでの過程や手続きを、万人との「約束」として認識し、重要視します。だから、「約束を破るわけには行かない」と判断し、法律的な側面を重視します。なにせ、「安保など様々な側面で周辺情勢が変わったので、憲法の一部を変え、国民投票したいと思います」という当たり前のことが、ここまで長引く国、日本ですから。
日本社会では「約束」、韓国社会では「拘束」が物を言う
皆さんは、「約束」と「拘束」の差をどう思われますか。漠然とした書き方ですが、約束は何か良いイメージがあるし、拘束は悪いイメージがあります。「約束をちゃんと守る人」といえば社会的に大変良いイメージがありますが、拘束はそうではありません。たまにテレビニュースに出てくる、人を部屋に拘束する凶悪犯罪のイメージもあり、とても気軽に口にする言葉ではありません。でも、実は約束が拘束になってしまうことだってありますし、その逆もまた然り、です。
友だちとユビキッタ! した約束ならそれは普通に約束でいいでしょうし、犯人が被害者を物理的に拘束したならそれは犯罪で間違いありませんが、そこまで明確でない場合は、約束と拘束の境界はどうなるのでしょうか。約束でも、気にしすぎると拘束になってしまうことはないのでしょうか。逆に、拘束されているのに、その状況を「約束を守っているだけ」と勘違いしている人は、いないのでしょうか。
そもそも、社会に存在する約束は実に様々な形で存在し、人と人が約束を交わす「一対一」のものだけではありません。「一対多(個人と大勢の人の間)」のものも無数に存在します。でも、妙なことに、少なくとも現状、すなわち、今の社会風潮を見てみると、日本社会では「約束」が、韓国社会では「拘束」が物を言います。
韓国は、教育をはじめ、全ての分野において日本の法律をほぼそのまま真似してスタートした国であり、日本をロールモデルにして成長しました。「約束は守らないといけない」「法律を守ろう」などの教育も、ちゃんとあります。しかし、その結果は、日韓とでまったく別のものになります。
韓国では恥は「かかされるもの」と考える
両国の社会風潮の「一見同じに見えるけど、実は結構違う」を論ずるため、あえてよく使う慣用表現を一つ用いるなら、「世間様を気にする」をある種の約束事として考えた場合はどうでしょうか。
世間を気にしすぎるのはよくないという話も聞きますが、それはあくまで「気にしすぎた」場合のこと。日本で住むようになってから、さらに強く感じるようになりましたが、世間様を気にするのはとても良いことです。韓国にも「町の恥(ドンネチャンピへ、町中で恥ずかしい)」といって、何か社会通念上ありえないことをやった場合、世間の笑いものにされることを大いに恐れる表現があります。
ただ、もともと「恥」という概念が、韓国では「かかされる」、日本では「かく」ものであるため、その意味合いは日本とは似て非なるものです。日本で言う「世間」という言葉は、「相手」に気を遣う日本の「建前」の表れです。韓国で言う「町」は、自分で「自分」に気を遣う「体面(チェミョン、韓国人特有のプライド意識)」の表れです。
自分が自分にかかせる「恥」
韓国社会の「(町の恥という表現の)町」という考えを、本書のテーマ「なぜ韓国人は借りたお金を返さないのか」と繫げてみると、こうなります。
お金を借りたことで、人(貸してくれた人)に対して「悪いことをした」や「恩を受けた」と考えるならば、視野を広くするとそれは恥の概念になります。常識的に考えて、お金を借りるのは愉快なことではありません。「急に必要だったから、なんとかなってよかった」と思うことはあっても、所詮は借金です。人生設計またはビジネスのために銀行から借りたものならそうでもありませんが、私的な、例えば友だちから借りたものなら、良かったよりは「悪いな」と先に思うでしょう。
ある意味では、それは自分自身による自分自身への恥であり、それをちゃんと返すことで、その恥を取り除く、いわば浄化することができます。浅い知識の日本語で恐縮ですが、「払う(返す)」ことで「祓う(恥を取り除く)」を得る、とも言えるでしょう。
借りたのは当然だから、返すのは損
もし、ある人が、お金を借りたことで、相手(貸してくれた人)に対して「当然のことだ」としか思わないなら、恥の居場所がおかしくなります。借りたのが「当然」なら、返すのは自分にとって損でしかありません。借りた時点でプラスマイナスゼロ、すなわち当然だから、返す分、マイナスになるわけです。
この理屈だと、貸してくれた人は、それを返せと言わないのが、両者(借りた人と貸した人)の関係を維持するもっとも「公正」な方法になります。ここでいう「関係」という言葉、後で繰り返して出てきますので、ぜひ覚えておいてください。
韓国社会では、この関係を「情が多い(情に厚い)」関係、言わば「恥の無い」関係だと信じる人が、大勢います。このゆがんだ「当然」と「公正」の同一視は、韓国社会で蔓延しています。俗に言う裏の世界の人、法の死角で生きる人、そういう人たちだけの話ではありません。
実は、普通に金銭的に余裕がある人でも、なぜか借りたお金を返さない人は大勢います。それを「悪いこと」と考えず、「当然のこと(関係として公正なこと)」と考えているからです。「情」など人間関係に関わる感情を持ち出し、相手の権利をねじ伏せることが多いのは、その行為に一切の罪悪感を持っていない、すなわちそういうことを当然で公正だと思う人が多いわけです。社会がそういう人たちを増やしたのか、そういう人たちが増えたからそういう社会になったのか、それともその両方か、どちらにせよ、実に気まずい話です。
「ウリ意識」の根幹になにがあるのか
だから、韓国社会では、「貸したお金を返せ」と言ったせいで、相手(借りた人)が信じていた「公正(対等)な関係」が壊れてしまうという、笑うに笑えないシチュエーションも多発します。お金を借りて返さないでいる関係が公正(対等)な関係だったのに、相手から「返せ!」と言われたから、急に上下関係になり、自分(借りた人)が「下」になってしまうわけです。
そして、それは情のない、とても恥ずかしいことであり、その恥は借りた人が自分の中から見いだすのではなく、返せと主張した人によって「かかされた」ものになります。すなわち公正で対等な関係は、自分のミスで壊れたのではなく、薄情な他人によって壊されたことになるわけです。
ここでいう「公正な関係」または「当為さ」とやらが、韓国人の信じる「ウリ(私たち)」たる共同体意識の根幹です。私は、こう思っています。そうした世界でいう「公正」など、もはやお金の借り貸しという約束ではありません。ある種の拘束です。
なぜ「絆」の韓国語が存在しないのか、少し分かる気もします。絆と約束は、平等や対等の関係でこそ自然に存在できます。拘束や情は、上下の関係でこそ自然に存在できます。
シンシアリー
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