・日本の「侵略」まで
フィリピンはアジアではじめてヨーロッパの植民地になった国で、1529年、サラゴサ条約により一方的にスペインの植民地に編入されました。
スペインの植民地時代には、フィリピンの人々はスペインの暴政から解放されようと独立運動を続けていましたが、その度にスペインに弾圧され、力で屈服させられていました。
その後、1898年にアメリカとスペインによって米西戦争が勃発し、この戦争に勝ったアメリカがフィリピンを植民地として支配することとなります。
アメリカが支配を獲得した当初も、アメリカ人は現地の人々の猛烈な抵抗にあい、アメリカ軍はその勢力を押さえ込むために数十万人規模の虐殺を行うなど、暴力で押さえ込んでいましたが、スペインの暴力的な植民地政策から学んだアメリカは、フィリピン人の独立心を上手くやりこめるような融和政策を採るようになります。
アメリカは現地の人々のためのインフラ整備を行い、経済を立て直して豊かな生活を提供し、また、独立運動家たちには政治政党の結成を認め、広く教育を施し、極めつけには将来の「独立」を約束するなど、まるで日本がインドネシアで占領期に行ったような善政を敷いて、フィリピン人の心をつかんでいったのでした。
日本がそんなフィリピンを攻略したのは、1941年12月のことでした。
日本は現地の人々が、アメリカの植民地政策にある程度満足していることなど把握せずに「解放」の旗を掲げてでやってきたのです。
それが、のちにフィリピン各地で繰り広げられることとなる「悲劇」の大きな要因となってしまうのです。
・失敗続きの日本の占領政策
日本軍のフィリピン占領当初、アメリカ軍にはアメリカ人兵士とフィリピン人兵士がおり、そのうち、占領後にゲリラと化したフィリピン兵が、民衆に紛れて日本軍をたびたび襲い、日本兵たちは次第に疑心暗鬼に陥っていきます。
日本軍は民衆とゲリラの見分けがつかず混乱し、フィリピンの民衆は、ゲリラの圧力と日本軍の圧力との板挟みになり、多数の犠牲者を出すことになってしまったのです。
また、日本軍に追われオーストラリアへ退却したアメリカ軍が、海上からフィリピンゲリラに武器弾薬や資金などを提供したことで、力が衰えるどころか強力になっていったフィリピンゲリラと日本軍との戦いは、時の経過とともに泥沼化し、地獄の様相を呈していくことになったのです。
フィリピン人の心を掴むことが出来なかった日本は、苦し紛れにフィリピンの「独立」を承認して、フィリピン人を手なずけようとしますが、基本的に親米路線のフィリピン人たちは日本の思惑通りにはならず、日本政府は、フィリピン独立後も内政干渉をたびたび行ったことで、さらにフィリピン人からの反発を招くことになるのです。
フィリピンでの日本軍政の失敗は、戦後、連合軍の占領政策により、日本国内における「日本=悪」のレッテル貼りに最も多く利用された事例であるため、戦後日本人のよく知る、「日本軍の行った残虐行為」のイメージそのものといえるでしょう。
その具体例のなかで、もっとも印象操作に多用されてきたものが「バターン・死の行進」と「マニラ虐殺」という事件です。
・悪名高い「バターン・死の行進」と「マニラ虐殺」
「バターン・死の行進」とは次のような事件のことをいいます。
日本軍がフィリピンを制圧する直前、フィリピンに駐留していた、マッカーサー率いるアメリカ軍は、バターン半島で徹底抗戦の姿勢を見せていました。
しかし、真珠湾攻撃により、ハワイの基地が機能していなかったため、フィリピンには食料や医療品などの物資が届かない状態が続いており、マラリアに感染する兵士を看病することもできなければ、食料も残り一ヶ月分しか残っていないという状況にあったため、フィリピンの米軍にはとても日本軍と戦う力は残っていませんでした。
そんな状況の中で日本軍がやってきたため、日本軍の第一次攻撃こそしのいだものの、一ヶ月後に食料が尽きてしまい、マッカーサーは部下の兵士7万人をフィリピンに置き去りにしたままオーストラリアへと逃げ出してしまいました。
こうして食料を持たず、マラリアなどの疫病を患った米軍兵士(アメリカ兵とフィリピン兵)総勢7万人が日本の捕虜になったのです。
日本軍も、この7万人の捕虜に与えるほどの食料を持っていなかったため、急遽、サンフェルナンドという120km離れた都市へ捕虜を移送することになりました。
しかし、トラックが不足していたため、捕虜は炎天下を徒歩で向かうことになり、ただでさえ戦闘に疲弊していた米軍捕虜は、移動中に1万~1万7千人(資料によって人数が異なる)の死者を出してしまったのでした。
この事件について、戦後、「日本人の残虐性」を誇大宣伝するため、この「バターン・死の行進」は日本軍による捕虜の虐待であるという決めつけが行われ、この捕虜の移送に関わった日本の将校が死刑に処されています。
もう一つの「マニラ虐殺」なるものは、次のようなものでした。
戦局が悪化し、日本軍が連合軍に押しまくられていた終戦間際に、フィリピン戦線での主戦場はルソン島の首都・マニラに移行していました。
マニラへ落ち延びるまでに、日本軍は劣勢に追い込まれ、フィリピンゲリラだけでなく、数々の日本軍の暴挙に恨みをもった民衆からも容赦なく攻撃され、捕まった日本兵は刀で手足を切り落とされて、長い時間苦しまされるといった残虐な殺され方をされていました。
マニラまで生き延びた日本兵たちは、市内に入ってからも、一般市民とゲリラとの見分けがつかないという疑心暗鬼から、マニラ市内のフィリピン人を虐殺することとなってしまいます。
しかし、結局のところ、日本人が殺害した人数はどれほどに上るのかはまったく分かっていません。
その後アメリカ軍が連日、軍艦からの艦砲射撃や空爆を行い、日本兵とマニラ市民を見境なく攻撃したため、マニラはちょうど東京大空襲のあとの東京のような焼け野原となってしまいました。
この時のマニラ市民の死者は約10万人と言われています。
日本軍がフィリピン人を歩兵銃で銃殺するのと、都市が壊滅するまで砲撃や空爆を行うのとでは、被害者の人数がまったく違うことは明らかです。マニラ市民の死者のほとんどは、アメリカの攻撃によるものであることは明白です。
しかし、これもやはり、敗戦後、一方的にすべてが日本軍の「戦争犯罪」による被害として片付けられ、日本人だけが罪に問われることとなり、アメリカの「罪」についてはまったく不問に付されています。
・日本敗戦後のフィリピン
1945年8月15日に日本がポツダム宣言を受け入れた後のフィリピンは、日本によって承認された「独立」も無効とされ、以前のようにアメリカの植民地に戻り、その後1946年7月に正式に独立が認められます。
この史実を現在のフィリピンでは、アメリカによる「解放」とみなされる傾向にありますが、「独立」ののち、アメリカにより「ベル通商法」という不平等条約を締結させられ、フィリピン経済がアメリカ企業に牛耳られる結果を招き、現在でもなお、実質的にアメリカに搾取されている状況にあるため、この「解放」については歴史家のレナト・コンスタンティーノ氏のような見方も存在しています。
「あれは『解放』ではなく、『再占領』でした。アメリカは、再びフィリピンを植民地とするために戻ってきたのです。我々は日本軍に対して戦ったように、アメリカの再占領をも拒むべきでした」(『アジアの人々が見た太平洋戦争』小神野真弘 著)
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