・教職追放
GHQの行なった思想弾圧で、後の日本に最も影響を与えたのは「教職追放」でした。
GHQは占領直後から、帝国大学で指導的立場にあった愛国的な教授、あるいはGHQの政策に批判的な教授を次々に追放しました。
「WGIP」を日本人に完全に植え付けるためには、教育界を押さえなければならないと考えたからでした。
代わってGHQが指名した人物の多くは戦前に共産党員であったり、無政府主義的な論文を書いたりして大学から処分された人たちでした。
戦前は無政府主義として大学を追放され、戦後法政大学総長となった大内兵衛、同じく京都大学総長となった滝川幸辰など、多くの者がGHQの後ろ盾を得て、「WGIP」の推進者となり、最高学府を含む大学を支配していくことになります。
一方、追放を免れた者も、これ以降は、GHQの政策に批判的なことを口にしなくなったばかりか、帝国大学においては、共産主義におもむる教授や社会主義者に転向する者、変節する学者が続出しました。
特にひどかったのは1946年、東京帝国大学で憲法学者の宮澤俊義は「八月革命説」を唱えて、日本国憲法の正当性を論じました。
「八月革命説」とは、「ポツダム宣言の受諾によって、主権原理が天皇主権から国民主権へと革命的に変動したもので、日本国憲法はGHQによって押し付けられたものではなく、日本国民が制定した憲法である」という説です。
現在でも、この説は東大の憲法学の教授たちによって引き継がれ、その教え子たちによって全国の大学の法学部に広く行き渡り、司法試験などの受験界では「宮沢説」は通説となっています。
また国際法学者として東京大学に君臨した横田喜三郎は、東京裁判の正当性を肯定しており、彼の説もその後弟子たちによって東京大学および全国の大学に脈々と継承されています。
東京大学法学部からは、戦後も数多くの官僚が輩出しています。
「自虐史観」に染まった教授たちから「日本国憲法は日本人が自主的に作った」「東京裁判は正しい」という教育を受けた人たちが、文部科学省や外務省の官僚になっているのです。
「教職追放」は大学だけでなく、高校、中学、小学校でも行なわれ、最終的に自主的な退職も含めて約12万人もの教職員が教育現場から去りました。
その多くが愛国心を隠さなかったり、保守的な考えを持っていたりした者で、特に戦前の師範学校出身者が多かったといわれています。
その結果、教育界は社会主義者が支配するようになり、1947年に生まれた日本教職員組合(日教組)は、完全に左翼系運動組織となり、戦後の日本の教育界は左翼系の人々に乗っ取られた形となりました。
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