・イギリスによるビルマ侵略
3回にわたるイギリス・ビルマ戦争に敗れたビルマでは、昨日までの王城を刑務所として使うことで王室の権威を失墜させるとともに、国王と王妃、4人の王女をインドに追いやりました。王位継承者第一位の王女は、すでに妻がいる兵卒に報酬代わりに与えられ、他の王女たちは最貧層に身分を落とされています。
旧支配者に屈辱を与えることで、大英帝国が新たな支配者として君臨することをビルマの人々に知らしめたのです。
それでもなおイギリスの植民地支配に抵抗するビルマ人は多く、各地で反乱が起きました。これらの反乱を武力をもって鎮圧するために投入されたのは、すでに植民地支配されていたインド兵たちでした。
イギリスによる反乱鎮圧は過酷を極めました。反乱が起こった地方の指導者や有力者、関係者、さらには見せしめとしてその家族までが処刑されています。ビルマ人の団結と復興を呼びかける識者や国士も、その多くが殺されました。
逆らえば殺されるという恐怖を住民に植え付けることで、ヨーロッパ列強は植民地を思うがままに支配したのです。
植民地化した地域に異民族を移住させ、その異民族を介して先住民族を支配することは、イギリスのお家芸です。そうすることで住民の憎悪はイギリスではなく、異民族に向けられるからです。
仏教徒が多いビルマを解体するために、イスラム教徒のインド人を年間十万人単位でビルマに送り込みました。そしてインド人は金融業を一手に担いました。
極めつけは華僑の招き入れです。これによってビルマの経済は華僑に握られることになりました。
ビルマの主人であったはずのビルマ人は、その多くが最貧層の小作人に甘んじるよりありませんでした。
植民地になるまでは民族ごとに棲み分けされていたにもかかわらず、ヨーロッパ列強が植民地支配をたやすくするために異民族を大量に移住させたことにより、民族と宗教の対立は現在に至るまで東南アジア諸国を苦しめています。
東南アジア諸国はもともと多民族国家ではありません。無理やり多民族国家という構造を作り出したのは、ヨーロッパ列強による分割統治が原因です。
・イギリスによる中国侵略
▼アヘン戦争 1840~1842年
1700年代の終わりに、インドの領有権を巡るフランスとの戦争に勝利したイギリスは、その勢いのままにインドから東南アジア、東アジア方面に勢力を伸ばしはじめ、アジアの大国、清国に目を付けます。
イギリスは清国の富を収奪しようと考え、インドで生産した「アヘン」を清国政府に隠れて民間人に売りつけます。
その結果、「アヘン」は瞬く間に清国中に広まり、清国の人々はアヘン中毒になり、アヘンを入手するために、貴重な品々をイギリスに売り渡すようになります。
清国政府はこれを深刻視し、イギリスからのアヘンの密輸を禁止します。
すると、イギリス政府はこの清国政府の対応に腹を立て、1840年に清国を相手に戦争を起こします。これが「アヘン戦争」です。こうしてイギリスによって仕組まれた戦争でしたので、清国には勝ち目はありませんでした。
この戦争により、イギリスは「南京条約」という不平等条約を締結し、上海をはじめとする港を開放させ、香港を割譲させました。
▼第二次アヘン戦争(アロー戦争) 1856~1860年
「南京条約」により、清国から莫大な富が得られると踏んでいたイギリスでしたが、思ったほどの利益が得られなかったので、イギリスは再びアヘンの密貿易を行い、それを取り締まった清国政府に対して再度非難を浴びせ、戦争を仕掛けます。これが、第二次アヘン戦争(アロー戦争)です。
この戦争には、戦後の利益を狙ってフランス、アメリカ、ロシアが「連合国」として参戦し、戦後処理にそれぞれが口を挟んだため、アジア最大の国土と長い歴史を誇っていた清国は、欧米諸国に領土を割譲され、半植民地状態になってしまいました。
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