アメリカによるハワイ侵略

・アメリカによるハワイ侵略

1870年以降はイギリス・オランダ・フランス・スペインに加えてアメリカも植民地争奪戦に加わってきます。アメリカのアジア侵略はハワイから始まりました。
当時、ハワイには憲法を有する近代国家ハワイ王国が栄えていました。アメリカはハワイを侵略するために、まず移民を大量に送り込みました。ハワイのアメリカ移民は度々武装蜂起しては、武力による脅しで憲法の修正を国王に迫ったため、国王は改正憲法に署名をするよりありませんでした。

改正憲法には
「国王は議会の承認無しに政治に関与できない」
「アジア人には選挙権を与えない」
「先住ハワイ人は高収入の者しか選挙権を得られないこと」
これらの条項が盛り込まれていました。
ハワイ人の多くは貧しかったため、実質的に選挙権を得たのは裕福な白人ばかりでした。
こうして全人口からすればわずかな人数の白人が、ハワイの実権を握ったのです。これこそが武力を背景に成し遂げたアメリカの「民主主義」です。

アメリカの影響力が増していくことに危機感を募らせたハワイ王朝は、国策として日本人移民を奨励しました。1902年にはサトウキビ労働者の70%が日本人移民で占められるほどだったため、アメリカ移民はアジア人から選挙権を剥奪しました。
カラカウア王は世界旅行の傍らに日本を公式訪問して明治天皇に秘密裏に謁見すると、皇室との縁組みを提案し、アメリカの脅威にさらされるハワイ王国を援助してほしいと申し出ました。しかし、まだ国力が弱かった日本は、この切実な願いを受けることができませんでした。

1891年、リリウオカラニが王位に就くと、多くのハワイ人は実権を取り戻すための新憲法の制定を画策します。
アメリカは、米人保護を口実に軍をホノルルに上陸させました。ホノルルに停泊していた米軍艦ボストンの主砲が宮殿に向けられ、女王は幽閉されました。ハワイには戒厳令が敷かれ、暫定政府が樹立されました。世にいうハワイ事変です。

日本政府はアメリカによるハワイ併合の動きをけん制するために、邦人保護を名目に東郷平八郎率いる軍艦「浪速」と「金剛」をホノルルに送り、米軍艦ボストンに対峙させました。これは明確な威嚇であり、米軍に対するあからさまな抗議でした。女王を支持するハワイ人は、涙を流してこれに歓喜したと記録されています。
「武力でハワイ王政を倒す暴挙が進行している。我々は危険にさらされた無辜の市民の安全と保護に当たる」と東郷艦長は声明を発表し、日本の艦艇は三ヶ月間ホノルルに留まりました。
しかし日本の抗議も空しく、1894年、ハワイ共和国が樹立されました。

翌年、ワイキキでの小さな衝突が発端となり先住ハワイ人が武装蜂起すると、共和国政府はこれを反乱軍と見なし武力で鎮圧し、多くの先住ハワイ人が虐殺されました。さらに米軍は200人の先住ハワイ人を拘束し、女王の退位を迫りました。リリウオカラニ女王は200人のハワイ人の命と引き換えに退位に同意し、ハワイ王国は名実ともに滅亡してしまいました。
日本はハワイのアメリカ併合に厳重な抗議を行いましたが、1898年、ハワイの主権は正式にアメリカ合衆国へ移譲されるところとなりました。
ハワイはアメリカにとって、太平洋の島々を侵略する上で極めて重要な軍事拠点となったのです。

・アメリカによるフィリピン侵略

アメリカがハワイの次に狙ったのはフィリピンでした。
アメリカは、スペインからの独立を目指して戦っていた独立軍のリーダーであるアギナルドにフィリピン独立を約束し、アメリカに協力するように求めました。
革命軍は1898年、アメリカの支援を受けスペイン軍を打ち破り独立を宣言しました。フィリピンは喜びに沸き返りました。
しかし独立を約束していたはずのアメリカが、突然掌を返します。実はアメリカはスペインからフィリピンを2千万ドルで買い取っていたのです。

アメリカはフィリピンの独立を認めず、フィリピンの領有を一方的に宣言しました。
独立を果たしたはずのフィリピンがアメリカの勝手な領有宣言に従うはずもなく、米比戦争がはじまりました。圧倒的な軍事力を誇る米軍の前に独立軍は各地で撃破され、山にこもってのゲリラ戦を余儀なくされました。
このときアメリカ軍の主力を占めていたのは、アメリカ本土で残虐なインディアン狩りをしていた部隊です。彼らは祖国の独立をかけて抵抗するフィリピン人をインディアンになぞらえ、虐殺していきました。
彼等は言いました。「良いフィリピン人は死んだフィリピン人だ」と。

ことに悲惨を極めたのはサマール島とレイテ島です。サマール島で米兵38人がゲリラの待ち伏せにあい殺された報復として、大東亜戦争時のマッカーサー司令官の父アーサー・マッカーサーはサマール島とレイテ島の島民の皆殺しを命じました。
マッカーサーは10才以上の島民の殺戮を無慈悲に繰り返しました。この虐殺で10万人以上が殺されたとする説もあります。

米比戦争の最中、アギナルドは要人を日本に送り、フィリピン独立軍のための援助を申し出ました。しかし、政府自らが動けば国際法の下ではアメリカへの宣戦布告と見なされてしまうため、有志が個人の名で援助することとなり、1899年大量の武器弾薬とフィリピン独立革命に参加を希望した志士十数名を乗せて、布引丸と名付けられた船がマニラを目指して出港しました。
布引丸は暴風雨のため、途中で沈没してしまいます。武器弾薬も義憤に駆られた志士たちも、フィリピンにたどり着くことはかないませんでした。

1901年、アギナルドは米軍に捕らえられ、独立軍に停戦と降伏を命じ、1902年にアメリカはフィリピン平定を宣言します。
こうしてフィリピンは独立の夢を踏みにじられ、アメリカの植民地とされたのです。
米比戦争でのフィリピン側の民間人の死者は、20万人から150万人とされています。

こうして20世紀初頭までに、東南アジア全域は欧米列強による植民地として分割されるに至りました。東南アジアで唯一植民地化を逃れたのは、タイだけでした。
仏領インドシナとイギリスの植民地ビルマに挟まれたタイは、イギリスとフランスの植民地が直接には接しないための緩衝地帯としての役割を果たしていたため、植民地にならずにすみました。

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