★オーストラリア大陸
オーストラリアにイギリス人のキャプテン・クックが到来したのは1770年のことでした。当時はオーストラリア全土にアボリジニが30万人から100万人ほどが平和に暮らしていました。
しかし、先占の権限に基づき、キャプテン・クックによってイギリス領であると宣言されると、オーストラリア大陸は本国で重犯罪を犯した者たちの流刑地として、植民地にされました。
アボリジニの暮らしぶりは石器時代に近いものでしたが、争いを好まず、極めて平和で善良な民族であったと伝えられています。
移民たちは現地のアボリジニを人間とは認めず野獣と同様にみなし、アボリジニ狩りに興じました。
射殺のほかにも数千のアボリジニを離島に送り餓死させたり、水場に毒を流して虐殺することも行われました。
30万人から100万人ほどいたアボリジニは、1920年には約7万人にまで減少しています。ここでも白人による無慈悲な虐殺と、白人がもたらした伝染病が人口の急激な減少へとつながりました。
白人とアボリジニの闘争が起こった際に、それをいさめたデーヴィー総督の言葉が残されています。
「すこぶる野蛮にして非道な行為、すなわち英人が原住民の子供を拉致することによって、これらあわれむべき未開の黒人の怒りが爆発したのは当然である。誰でも胸に手を置いて、原住民の両親から子供を拉致した英人と、この無情な迫害を憤り、その盗まれた子供を取り返さんと勇敢に英人に向かった黒人と、いずれが野蛮人であるかを、自問して見よ」
(「GHQ焚書図書開封1: 米占領軍に消された戦前の日本」西尾幹二著、徳間書店
四国と九州を合わせたような広さのタスマニア島においても、上陸した征服者たちによってタスマニア・アボリジニはハンティングの標的にされ、その多くが射殺されました。
原住民の捕獲に際し懸賞金もかけられました。子供一人につき2ポンド、大人一人につき5ポンドの賞金がかかると、原住民狩りの団体がいくつも組織され、大がかりな「人間狩り」が催されたのです。
初期イギリス移民の多くを占めた流刑囚はスポーツハンティングとして多くのアボリジニを虐殺しました。「今日はアボリジニ狩りにいって17匹をやった」と記された日記がサウスウエールズ州の図書館に実際に残されています。(wikipedia:アボリジニ)
島に3万7千人(諸説あり)はいた先住民族は、1847年にはわずか44人しか生き残っていませんでした。
こうして欧州から来た征服者たちは北米大陸も豪州も、太古から住み着き平和に暮らしていた有色人種である先住民族を抹殺することで、白人だけの占有地とすることに成功したのです。
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