大航海時代 北米大陸

★北米大陸

ヨーロッパの人々による北米の征服は、中南米より一世紀遅れて始まりました。
西欧の人々が新天地を求めて北米にたどり着いた頃は、白人とインディアンの交流が友好的に進められた例もあります。インディアンたちは食べるものさえ尽きて困っている白人たちを助け、それまで西欧には知られていなかったトウモロコシ・タバコ・ピーナツ・ココア・ジャガイモ・かぼちゃ・メロン等々の作物の育て方などを教えました。

しかし白人とインディアンの友好関係は長くは続きませんでした。白人の移民者はインディアンたちが先祖から受け継いだ土地を奪っていったからです。立ち退きを求められたインディアンたちは、自分たちの生存をかけて抵抗しましたが、南米で起きたことと同様に、白人の征服者たちはインディアンを次々に虐殺していきました。イギリスの植民地時代だけでも、インディアンによる4つの大きな抵抗戦争が起きています(インディアン戦争)。

1620年にプリマスに上陸したピルグリム・ファーザーズは、自分たち清教徒を神の選民と捉え、野蛮なインディアンをサタンの弟子とみなしました。清教徒たちはインディアンを改宗させ、キリスト教の恩恵を与えることこそが自分たちの崇高なる使命だと考えました。
一方インディアンにとっては、昨日まで平和と愛に満ちた暮らしをしていた土地に武器を携えて現れ、仲間や家族を有無を言わさず見つけ次第撃ち殺していく白人たちは、悪魔そのものでした。

西部劇ではインディアンとの戦いを正義の戦いとして描いていますが、実際はには自己正当化の論理があるだけで、正義は微塵もありませんでした。
1776年、イギリスの植民地から独立してアメリカ合衆国が誕生しました。
アメリカ政府は、平和を求めるインディアンとの間に370もの条約を締結しましたが、そのなかでアメリカ政府が最後まで守った条約はひとつもなかったと、歴史家は綴っています。

インディアンのなかには武力抵抗をやめて、文化的にアメリカ政府と対等になろうと努めた部族もありました。
チェロキー族はアメリカ文明を学び実践することで、短期間のうちに独自の政府を設立し、憲法を制定し、チェロキー国を宣言し、大統領も選んで自分たちの生存の権利をアメリカ政府に認めてもらおうとしました。
しかし、1829年に彼らの土地で新たな金鉱が発見されたことで、アメリカ政府は翌年インディアン移住法を無理やり成立させ、当時は荒野が広がるだけの西部へとインディアンを強制移住させることを決めました。

これによってチェロキー族とクリーク族1万5千人がはるか西、1300キロ先のオクラホマへと追いやられました。
移動の過程で4千人(1984年調査では8千人)のインディアンが倒れています。インディアンは家族や仲間の死体が連なるこの進路を「涙の道」と呼びました。(wikipedia:涙の道の経路)

ところが、なにもない荒野が広がっているだけと思われていた西部各地で金や銀の鉱脈が新たに発見されると、欲に目がくらんだ白人たちは、インディアンの土地を再び力尽くで奪っていきました。
一時的な休戦協定を結ぶことで油断したインディアンの村を襲撃し、老人から子供まで情け容赦なく殺しまくっては女たちに暴行を加えるという残酷なインディアン狩りが、広範囲で行われたのです。この民兵隊がデンヴァーに帰還すると、輝かしい勝利を祝う住民の歓呼の声に迎えられたと記録されています。

度重なる白人側の約束違反と卑劣な虐殺の横行を受け、ついにインディアンたちは複数の部族を結集させ、武装蜂起しました。1876年、モンタナ南部の高原においてカスター隊長率いる第七騎兵隊がインディアン連合軍に包囲され、全滅したことです。この事件はインディアンの残酷さ、野蛮さをアピールするための宣伝に大いに利用されました。
この事件をきっかけに、合衆国内にわずかに残っていたインディアンに対する同情の声もかき消され、「良いインディアンは死んだインディアンだけだ」とばかりに軍によるインディアンの虐殺はますます過熱していきました。

インディアン最後の武力抵抗となったのは、1890年、サウス・ダコタのウンデッド・ニーのスー族の戦いです。
食糧を受け取るために移動していただけの350人ほどの集団が、軍の要求に従って武装解除をしている最中に発砲事故が起きました。白人兵の一人が射殺されると、米軍はスー族に対して無差別攻撃を始めました。
そのときの様子を、兵士の一人は次のように回想しています。
「ホッチキス山砲は1分間で50発の弾を吐き、2ポンド分の弾丸の雨を降らせた。命あるものなら何でも手当たりしだいになぎ倒した。この(子供に対する3キロ余りの)追跡行は、虐殺以外何ものでもない。幼子を抱いて逃げ惑う者まで撃ち倒された。動くものがなくなってようやく銃声が止んだ」

後日、埋葬が行われましたが、そのなかには多くの乳飲み子が混じっていました。埋葬隊の一人も証言しています。
「この幼子達が身体中に弾を受けてばらばらになって、穴の中に裸で投げ込まれるのを見たのでは、どんなに石のように冷たい心を持った人間でも、心を動かさないではいられなかった」
この戦いで300人近いスー族が命を落としました。この戦いこそ、アメリカによるインディアン征服の実態をまさに象徴するものでした。なお、虐殺を実行した第7騎兵隊には、のちに名誉勲章が送られています。
(wikipedia:ウーンデッド・ニーの虐殺)

コロンブスが到達したとき、北米には200万から500万のインディアンがいました。
しかし、白人による殺戮と伝染病のために1890年頃にはわずか35万人に減っています。
天然痘などの免疫をもたなかったインディアンは、白人のもたらした伝染病に対する抵抗力がまったくありませんでした。
しかし、伝染病が広がった背景にも、白人の悪意が介在しています。物々交換の際に、白人たちは天然痘患者が使用して汚染されている毛布等の物品をインディアンに贈り、意図的に発病を誘発したことがわかっています。

アメリカは建国にあたり「すべての人間は平等に造られている」と唱え、誰もが「生命・自由・幸福の追求」の権利を有すると高らかにうたいあげました。しかし、ここでも「人間」が意味するものは白人のみであり、先住民であるインディアンや黒人奴隷にそれらの権利が認めることはありませんでした。
インディアンがようやく人間と認められるようになったのは、1924年のことでした。

イギリス植民地時代はキリスト教の教義に基づき、インディアンへの迫害が正当化されました。
アメリカ合衆国時代に迫害の拠り所となったのはマニフェスト・デスティニー(明白な天命)です。
マニフェスト・デスティニーとは、アメリカの西部開拓を、神から与えられた使命であるとして正当化したものでした。
同時期に進められたメキシコへの侵略も、インディアンの虐殺も、神から選ばれたアメリカ人に与えられた明白な天命だとしたのです。
マニフェスト・デスティニーの精神は、西部開拓が終わると太平洋の島々にも及び、やがてアジアに飛び火することになります。

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