「神様の摂理から見た南北統一」と比較したキリスト教の流れ

・摂理概観

こうして真のお父様のみ言「神様の摂理から見た南北統一」を見ると、この2000年間の摂理の流れがはっきりとわかります。
ここではいくつかポイントがあります。
イエスの復活によって始まったキリスト教は、まずはローマに渡り、ローマで迫害を受けながらも400年後にはローマを屈服し国教となることができました。
しかしその後キリスト教は、権威主義に陥り、腐敗し、その使命を果たすことができませんでした。
そこで起こったキリスト教刷新運動がルターに始まる宗教改革でした。

マルティン・ルターは、1517年に免罪符販売に対して異議を唱える「95か条の意見書」を公表しました。また信仰の拠りどころは、神の言葉を記した聖書だけだとし、それまでは聖職者にしか読むことが許されていなかったラテン語聖書をドイツ語に翻訳し、誰もが聖書に触れることができるようにしました。
こうして始まった宗教改革運動の結果、それまでのキリスト教である旧教、カトリックをカインとし、ルターに始まる宗教改革者たちの新教、プロテスタントをアベルとして分かれ、神の摂理はアベル型信仰、プロテスタントを中心として展開することになります。
それに伴い神の祝福もイタリアから国教会を立てたイギリスへと移っていきました。

イギリスでは1530年代にヘンリー8世が、離婚問題を契機としてローマと訣別し、1534年にイギリス国教会として独立しました。
1530年代から70年代にかけて、ヘンリー8世、エドワード6世、エリザベス1世によってイギリスの宗教界は混乱しましたが、1559年にエリザベス1世は首長法を制定、1563年には信仰箇条を確定して国教会による宗教統制を徹底し、イギリスにおける宗教改革は完成しました。

一方このころから、信仰の清純さを聖書に求め、徹底した改革を進めようとする清教徒と国教会派の対立が深刻化することになります。
1603年に即位したジェームズ1世は国教会派を強く支持、また王権神授説を称えて国王の絶対性を主張しました。そこで弾圧された清教徒は、祖国での弾圧を逃れ、1620年、メイフラワー号に乗りアメリカ新大陸に移住するものも多く出ました(ピルグリム・ファーザーズ)。

次のチャールズ1世の治世では1642年に清教徒革命が勃発し、敗れたチャールズ1世は1649年に処刑されました。しかしその後、1660年の王政復古や名誉革命を経て、国教会主流派の地位は強化されていきました。
イギリス国教会主流派と対立した人々の中には、国教会内部で改革を行おうとする非分離派(長老派教会など)もいましたが、国教会から出て別の教会を立てる分離派(バプテスト教会、クエーカー、メソジスト、会衆派教会)も多くいました。

こうしてイギリスにおいても国教会はカイン型となり、既に大航海時代を迎えていたスペインポルトガルに後れを取ったイギリスも世界各地に植民地を持つようになり、イギリス自国のみの栄華を求めるようになったため、神の祝福はイギリスを離れ、清教徒と共にアメリカへと移りました。

神の祝福は去ったイギリスではありましたが、イギリスはその後太陽の沈まない国と言われるほどに世界中に植民地を拡大し、発展を遂げます
その発展の原動力となったのは、1694年に設立されたイングランド銀行、その背後のユダヤ人金融資本家であり、イギリスから始まった産業革命でした。
しかしイギリスの発展はあくまでも植民地の犠牲によるものであり、イギリス自国の繁栄のみを追求したものでしたので、その植民地における所業は悪魔の所業そのものでした。

ピルグリム・ファーザーズがメイフラワーに乗ってアメリカに着いたのが1620年11月。彼らは食べるものがないのに、明くる年に蒔く種を残しておいて、飢え死にする道を選んだと言います。
また彼らは自分たちの家を建てる前に教会を建てるほどに、何よりも信仰を優先したと言います。
そのような精神で建国されたアメリカでしたから、神様が保護し、祝福されて、み旨を成し遂げることができるほどに、200年間で世界的な一等国家に育くまれました。

・会衆派、アメリカン・ボード

イギリスにおける宗教改革期にピューリタン(清教徒)と呼ばれたのは、主に分離派(会衆派、長老派、バプテスト、クエーカー)の人々でした。その中でも英国での国教会の迫害から逃れ、北アメリカのプリマスに入植したピューリタンは主に会衆派で、会衆派はスイスの宗教改革者であったカルヴァンの影響が強く、直接民主的な会衆制をとるためにリベラルな傾向を持っており、いち早く奴隷制度にも反対しました。会衆派の人々の政治・社会生活のスタイルはピューリタン神権政治とも呼ばれ、神学教育だけでなく一般教育にも関心が深く、ハーバード大学、イェール大学、スミス大学、アマースト大学、オーバリン大学など多くの大学を設立しました。

ピューリタンは元々、インディアンと平和交渉を結び平和に共存しようとし、インディアンへの伝道を試みました。
また外国伝道にも熱心で、1810年に北米最初の超教派的な外国伝道団体、アメリカン・ボードを設立しています。
しかし1870年頃になると、長老派、バプテスト派、オランダ改革派、ドイツ改革派教会などが離脱し、実際上は会衆派のみの外国宣教機関になりました。

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