◆国家の存亡をかけた日露戦争
・不平等条約の改正
ロシアの南下を抑えたいことにおいて、日本とイギリスの利害は一致していました。
イギリスの日本に対する姿勢の変化は、不平等条約改正の機会を日本に与え、日清戦争の直前にイギリスとの不平等条約改正についに成功します。条約改正は日本が近代化を成し遂げ、列強が認める軍事力を備えたからこそでした。
日清戦争に勝利したことで、不平等条約を交わしていた他の列強も競って改正に応じました。
・侵略する側とされる側
日清戦争に敗れた清は、西欧列強の草刈り場と化しました。19世紀末には、上海・天津・重慶など28カ所に租界ができました。強ければ敬われ、弱ければ一斉に叩かれるのが帝国主義の時代の非情な定めです。
日本を含めた列強の侵略に対し、1898年に中国国内では義和団の乱が起こりました。
各地でキリスト教の教会が焼かれ、西洋人の殺害が相次ぎ、ついに義和団は北京を制圧すると公使館区域を包囲しました。
清はこの機会に乗じて列強に宣戦を布告し、北京の公使館や天津の租界を攻撃し始めました。
このままでは、公使館員と居留民が皆殺しにあうことは明らかでした。しかし、欧米から援軍を派遣しようにも間に合うはずもありません。この緊急時に援軍をすぐに送れるのは、地理的に近い日本だけでした。イギリス政府からの正式な要請を受けて日本は出兵しました。
日本軍を中核とする8カ国連合軍は、北京と天津の清軍と義和団を撃破しました。日本軍の勇敢さと規律の正しさは、世界から絶賛されました。日本軍が外国の軍隊と共に戦ったのは、義和団の乱が初めてです。
・日露戦争はなぜ起きたのか
日清戦争で日本が勝ったことにより清から独立した朝鮮は、大韓帝国として生まれ変わりました。
日本は閣議において朝鮮を「なるべく干渉を止めて自立させる」という方針を決定しています。
しかし、千年以上中国の属国だった朝鮮の人々は、独立自尊よりも、強いものに付き従う事大主義へと傾いていき、日本とロシアとではロシアの方が強いと多くの朝鮮人は考えました。そのため、親ロシア派が宮廷内で力を強め、独立派と親日派を次第に排除していく事態となりました。
義和団の乱が満州に及ぶと、治安を回復することを口実にロシアは軍を動かし、満州全域を占領しました。そして鎮圧後も撤兵せずに占領を続け、朝鮮への侵略を開始したのです。ロシアは北朝鮮の龍岩浦を占領すると朝鮮との間に強引に租借契約を結びました。この港は黄海に出る重要な拠点であり、これによりロシアは遼東半島沿岸と朝鮮の西海岸付近の制海権を握ることに成功しました。
これは日本本土防衛においても大きな脅威となるため、日本は何度もロシアに抗議しましたが、すべて無視されます。ロシアは日本が太刀打ちできる相手ではありませんでした。
・世界が驚いた日英同盟
1902年、日本とイギリスとの間で日英同盟が結ばれました。当時世界第一の大国である大英帝国は「光栄ある孤立」を誇りとしており、ヨーロッパ各国とさえ同盟を結んではいませんでした。
しかしロシアの南下はイギリスにとっても不都合であり、イギリス特にユダヤ金融勢力にとっての一番の敵はロシアだったため、日英同盟を結ぶことで、ロシアの南下を日本を使って食い止めようとしたのです。
また日本にとっても日英同盟は大きな後ろ盾となりした。
・日露戦争へ
日本はロシアとの戦争を避けるべくぎりぎりまで外交上の手段を尽くしました。満州のロシア支配を認め、その代わりにロシアの朝鮮への侵略を断念させる交渉を行いました。
日本とロシアの国力の差を比べたとき、面積60倍、人口2.6倍、国家歳入8倍、陸軍総兵力11倍、海軍総トン数1.7倍、鉄鋼生産高30倍です。軍事力においても、ロシア海軍はイギリスに次ぐ世界第二位、陸軍は世界一の強さを誇っていました。国力の差はあまりにも歴然としています。
1904年、明治政府はロシアとの国交断絶を決定し、日露戦争へと突入しました。
・日露戦争、旅順要塞203高地と奉天の戦い、日本海海戦
日露戦争がいざ始まってみると、日本軍は各所の戦いでロシア軍を圧倒しました。
乃木希典の指揮する第三軍は、旅順要塞の攻略で多大な戦死者を出しながらも、203高地をついに陥落させ、頂上から旅順港内に停泊していた旅順艦隊を砲撃し、これを完全に壊滅しました。
日露戦争で最大の陸戦となった奉天の戦いでは、秋山好古率いる機関銃部隊がロシアのコサック騎兵を端からなぎ倒し、日本軍は奉天を占領することに成功しました。
劣勢に立たされたロシア軍は起死回生を狙って、当時世界最強とも言われたバルチック艦隊を投入しました。バルチック艦隊を日本海で迎え撃ったのが日本の連合艦隊です。この日本海海戦は、当時としては世界最大規模の海戦でした。連合艦隊は型破りな戦略をもってバルチック艦隊を撃破しました。一昼夜の海戦でバルチック艦隊38隻のうち16隻を撃沈、5隻を撃破・自沈、6隻を拿捕するという海戦史上例を見ないほどの完全勝利でした。日本側の損害は、水雷艇が三隻沈んだのみです。
日本海海戦でバルチック艦隊を壊滅させたことにより、日露戦争での日本の勝利が決定し、アメリカの斡旋により、ポーツマスで日露講和条約が締結されました。
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