海岸線のトーチカ(塹壕)、有事に備える台湾
4月30日、西海岸沿いの新竹から環島1号線をひたすら南下。海浜景観地区を走行していた時に、砂丘の草むらの中に分厚いコンクリートのトーチカ(塹壕)がいくつか見えた。
雑草に覆われたトーチカには“軍事施設につき民間人の立入や占有を禁止する”とペンキで朱書きされていた。現在では見たところ廃墟と化しているようだが、台湾海峡での中台の軍事衝突に備えて保存管理しているのであろう。
台湾を自転車で一周すると至る所に軍事施設があることに気づく。太平洋に面した東海岸でも防衛体制は怠りない。
東海岸の七星潭の砂浜のトーチカ
台湾島の南端のリゾート墾丁(ケンティン)から台湾最南端碑、鵝鸞公園を廻って東海岸を北上し始めると広大な軍事施設が延々と続いて稜線の上にレーダー基地が幾つも並んでいる。
中部東海岸の中心都市花蓮郊外の七星潭(チーシンタン)は美しい砂浜が続く観光名所であるが、その海岸線にも場違いな立派なトーチカが保存されていた。
新竹、台東、台南、花蓮など空軍基地の付近では環島自転車道の真上を超低空で飛ぶジェット戦闘機編隊に頻繁に遭遇する。花蓮市付近では山肌に戦闘機を収納するシェルターが道路沿いから見える。
台湾では意外と中国語(北京語)が通じない?
台北では中国大陸で公用語とされている普通語(プートンホア)=北京語で問題なく会話ができた。中国も台湾も北京語が共通語・標準語としているので台湾全島で北京語が通用するものと思い込んでいた。
ところが台北を離れて、東海岸を南下して行くとオジサンの北京語が余り通用しないことに気づいた。オジサンの北京語は45歳の時に一念発起してNHK中国語講座で2年余り自学自習したものだ。かなり馬馬虎虎(いい加減)ではあるものの、台北では問題なく通用した。
台湾南部の台南~高雄~台東のあたりでは北京語がすんなりと通用するのは学生や40歳以下の教養のありそうな人だけのような感じであった。お年寄りは特にダメであった。
尋ねてみると日常生活では台湾語で会話しているという。太平洋戦争後、国民党政府が北京語を公用語に定め、学校教育でも北京語が用いられてきた。しかし地方、特に南部では北京語は日常言語として完全には定着していないらしい。
調べてみると、台湾語は中国南部方言である閩南語をベースにして明清時代から台湾に渡航した移民により数百年かけて台湾独自の言語になったものという。台湾人にとり台湾語が歴史的に母国語であり、戦後70年余りかけて学校教育やTV放送により北京語が普及したというのが実態のようである。
台湾の原住民の伝説上の英雄像
台湾人は中国人と同じ漢民族ではない?
中国共産党は“台湾も含めて一つの中国(One China)”と喧伝しているが、台湾語の存在に気づいてから“一つの中国論”の正統性に違和感を抱いた。
台湾自転車旅行の次の欧州旅行の途上で国立台湾大学の大学院生洪さんに出会った。生物化学を専攻している洪さんはかなりの論客。台湾国立大学といえば大日本帝国時代に創設された旧帝大であり台湾の最高学府である。
洪さんの分析は目に鱗であった。洪さん曰く、『一つの中国』(一個中国)理論は中国も台湾も同じ漢民族で、台湾が歴史的に中国の領土であったという大前提に立っている。中国では総人口の90%超が漢民族である。しかし台湾では純粋に漢民族に分類されるのは十数パーセントに過ぎない。つまり戦後大陸から渡ってきた国民党軍とその家族という外省人だけが漢民族である。
そして台湾の人口の80%以上が“台湾人”であるという。この台湾人と数パーセントの原住民(高砂族などの少数民族)を合わせて“本省人”、つまり国民党の統治以前から台湾に居住していた人々である。
“台湾人”の祖先は明清の時代に中国南部から移住してきた漢民族と南方系原住民が混血した人々であり戦後国民党が統治するまでは“台湾語”を日常言語としていた。
洪さん曰く、台湾で民主主義が定着するに従い台湾人としてのアイデンティティーが強くなりつつあるという。中国共産党が『一つの中国』をごり押しすればするほど、アンチテーゼとしての台湾人主権論(台湾人による台湾国家)が高まるというのが洪さんの分析である。
遭難した沖縄の漁民の墓『大日本琉球藩民墓』
景勝地「太魯閣」は断崖絶壁の渓流。日本統治下で発電所建設のため工事道路を掘削。
5月7日、四重渓谷温泉を後にして恒春を目指している途中で『大日本琉球藩民墓』という標識が目に入った。脇道に入り畦道を20分程走ると古い墓石と新しい墓碑と大きな墳墓があった。
悲劇の受難者を慰霊するとともに日台の友好を願う墓碑
墓石には『大日本琉球藩民五十四名墓』と刻まれていた。1982年に建立された墓碑に由来が中国語・日本語で記されていた。1871年の“台湾遭難事件”で亡くなった54名の沖縄漁民の霊を弔う墓であり、爾来100年以上の幾多の歴史の変遷を経て、中華民国の関係当局、地元民の協力を得て日台の末代永劫の友好を築く架け橋として建てられたというような趣旨が読み取れた。
明治維新直後の琉球(沖縄)の漁船が荒天に遭遇した海難事故であろうと想像した。墓には地元民が手向けたとみられる花、小銭、煙草などが供えられていた。約150年前の遭難犠牲者を今日でも地元の人々が弔っていることに日台関係の奥深さを感じた。
1871年の台湾遭難事件は日清戦争への伏線
西郷従道が建てた墓石
後日調べてみたところ事件には筆者の想像を超える物語があった。奇しくも1871年に廃藩置県が公布されている。江戸時代に尚家が統治していた琉球王国は薩摩藩の支配を受け容れると同時に清国へも朝貢していたことはよく知られている。即ち中国と日本に二重帰属していたのである。
1871年7月に公布された廃藩置県により琉球王国は琉球藩として鹿児島県に編入された。同年秋に宮古島の船が嵐で遭難して69人が台湾東南に漂着したのだ。
上 陸した一行は南下して当時の高雄州恒春群満州庄に至る。ここで土地の蛮族(パイワン族)に襲われ54人が落命。からくも生き残った12名が福建省経由で帰国している。
当時台湾南部は原住民部族が実質的に独立割拠しており、清朝政府は福建省の役人が台湾府城(現在の台南市)に出張所を設けていただけである。
明治政府は台湾での虐殺事件に対して北京の清朝政府に厳重抗議したが、清朝政府は言を左右して煮え切らない。清朝政府には琉球は清国の属領という意識もあったようだ。
『台湾を含めて中国は一つ』ってどうにも腑に落ちない
清朝政府が虐殺事件は“化外の民”(中央政府の威令が行き渡らぬ蛮族)の行為であり清朝政府の責任外と回答してきたので、明治政府は1874年に台湾出兵を断行。
清朝政府が台湾を実効支配していないと自ら認めたわけであるから、明治政府としては台湾現地で原住民への実力行使に踏み切ったのである。記録によると、この時総大将の西郷従道が建てた墓石は筆者が見た『大日本琉球藩民墓』であるようだ。
清朝政府は日清戦争の敗北により1895年に下関条約で台湾を日本に割譲した。同時に同条約にて琉球(=沖縄)を日本の領土として正式に認めたのである。
こうして150年を振り返ると中国政府が核心的利益としている“一つの中国”論には民族的にも歴史的にも根拠が希薄に思われる。ましてや尖閣列島がどうして中国固有の領土と喧伝できるのだろうか。
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