・中国における欧米金融勢力の戦略
1928年、満洲の赤化を防ぐという点で日本と利害が一致していた満州軍閥の張作霖張をソ連情報部が爆殺。
満州における日貨(日本商品)排斥運動や、侮日(日本人の侮辱、蔑視)行為、日本人虐殺などの排日運動の結果、1931年9月18日、満州事変が起き、日本軍が満州を占領。
1933年5月、「塘沽停戦協定」により満洲事変は終結し、日中関係は好転しました。
日中関係の好転を受け蔣介石は、最大の敵毛沢東の共産党勢力の殲滅作戦を強化したため、共産党は“長征”により延安に逃げ延びました。
しかし中国共産党の危機に際し、アメリカ国防長官マーシャルは、勝利を収めつつあった蔣介石に対し停戦を命じました。
1936年12月、西安事件。アメリカメディアの捏造された情報により、日本に父親の張作霖を殺されたと信じている東北軍の張学良は西安で蔣介石を軟禁。蔣介石は、共産党とともに日本と戦争することを約束して釈放されました。
西安事件により抗日統一戦線が成立し、日中の和平の可能性も、共産党勢力を撲滅する可能性も完全に失われてしまいました。以降1937年7月の「慮溝橋事件」「第二次上海事変」「南京攻略」等々支那事変が続くことになりましたが、事変不拡大を目指す日本の和平交渉はことごとく蔣介石によって拒否されました。
支那事変とは日本と中国(蔣介石政府)、および蔣介石政権を軍事的、資金的に支援していた「米英」との戦闘でした。
同時に毛沢東を支援する、ソ連コミンテルン共産党分子が国民党内に入り込んで、対日謀略活動や在留日本人虐殺事件を起こした「日本」対「中米ソ連合国」との戦いでした。
つまり共産主義勢力を駆逐し、極東アジアの平和を築こうとする日本に対し、カイン型ヘレニズム、共産主義を世界に拡大しようとする国家群、米英中ソ連合軍が、まずその足掛かりとして極東地域に侵略し、支配権を奪うための戦いだったのです。
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