マレーの虎ハリマオ、マレーシア・シンガポール侵攻

◆マレーシア・シンガポール(イギリス領マラヤ)侵攻

マレー半島の南部に位置する現在のマレーシアとシンガポールは、当時は「イギリス領マラヤ」と呼ばれており、ポルトガル、オランダの植民地を経て1800年代初頭から徐々にイギリスの植民地化が始まり1900年代初頭には実質的に全土がイギリスの植民地となっていました。
マレー半島南部の原住民はマレー人でしたが、イギリスの植民地化後の移民政策により、華僑とインド人が次々流入し、大東亜戦争開戦直前には、華僑の人口がマレー人の人口をしのぐまでに増えていました。
この地域における主な産業は、錫と天然ゴム産業でしたが、イギリスの移民政策により優遇を受けた華僑とインド人がそれらの主要産業をほぼ独占してしまったため、マレー人たちは社会からつまはじきにされる結果となります。そんな不遇にあっていたマレー人たちの独立志向は日増しに強くなっていました。

当時のイギリス領マラヤに、マレー人たちの間で「ハリマオ(虎)」と呼ばれ尊敬されていた独立活動家がいました。彼の本名は谷豊といい、現地に住む日本人青年でした。彼は、現地で理髪店を営む日本人一家に生まれた一青年にすぎませんでしたが、あるとき暴徒化した華僑に妹を殺害され、さらに、イギリス植民地政府が、華僑に対する優遇措置と、被害者が日本人であることなどから犯人を釈放してしまったことに憤り、その事件をきっかけにして、同様の不満を持つ周囲のマレー人たちを集めて独立活動を開始していました。彼の活動はイギリスの目にも留まり、高額の懸賞金が掛けられるなどしており、逆に、マレー人たちの間では信頼厚い人物として名が通っていました。

1942年12月8日、真珠湾攻撃のあった日、日本軍は同時にマレー半島への進攻を開始します。
イギリス軍は、マレー半島最南端のシンガポールに「世界最強の要塞」を自認するほどの堅固な要塞を築き、主に海からの攻撃に備えていました。ところが、日本軍は、マレー半島中央に位置するコタバルに上陸すると、ハリマオ・谷豊ら現地のマレー人の協力を得、自転車で生い茂った森を南下するという意外な作戦で、マレー半島最南端のシンガポールに攻め上がり、イギリス軍の虚を突きます。イギリスは、この日本軍の大胆な作戦のまえにあっという間に屈することとなり、1942年2月15日、イギリス極東軍事司令官パーシバル中将は、無条件降伏します。

・日本軍政下のマレーシア・シンガポール

日本がマレー半島からイギリスを追い払ったことに対する、現地の人々の反応は様々でした。
当時のマレー半島の人口状況は、イギリスが勝手に移民させた華僑が半数以上を占めていました。華僑はイギリス政府から優遇を受けていたため、マレー人をはじめとする異民族に対しては暴力的な態度を取っていました。現地の原住民であるマレー人たちは、マレー作戦の際に日本軍に協力したことからも分かるとおり、日本の占領には非常に好意的でした。
一方華僑は中国本土では日中戦争が繰り広げられていたこともあって反日感情が強く、日本の占領には非常に不満を持っていました。そのため、日本の軍政下でも活発にテロ行為に及んだことから、日本軍は華僑に対し弾圧を加えます。この弾圧により、日本では一般的に5千人の華僑が日本軍によって殺害されたとされています。それに対しシンガポールの華僑たちは現在、4万人から5万人という説を主張しています。

華僑と並んでイギリスの移民政策により移住したインド人たちは、日本によるマレー作戦にはイギリス側として参加していましたが、実はシンガポールでの戦闘時に日本側に寝返るような手はずが整っていました。
結局、戦闘に参加する前にイギリスが無条件降伏したため、イギリス降伏後に日本側へ投降することになりましたが、6万人の投降インド兵たちは、日本がマレー半島にやってきたら、日本とともにイギリス軍と戦うつもりだったのです。
日本軍の進撃があまりにも早かったため、寝返り工作は実行されませんでしたが、その後、この6万のインド兵たちのなかから、日本の支援のもと「インド国民軍」が結成され、祖国インドの独立に大きく貢献することとなります。

・日本軍政の失敗

日本はマレー半島、特に最南端のシンガポールを、地政学上の理由から他の国々よりも重要視していました。そのためシンガポールに「昭南島」という名称を与え、植民地としてではなく日本の一都市のように扱います。現地の人々に対して日本語教育を徹底し、神社を建立するなど、日本文化を急速に広めようとした結果、暴力的で強引な手法がとられたことから、現地の人々の心をつかむことに失敗してしまい、日本の占領に好意的だった人々からもほとんど評価されませんでした。
しかし日本は、華僑を弾圧した反面、原住民であるマレー人を徹底的に優遇し、マレー人のための学校の建設や、政治政党の結成、イスラム教の容認、昭南興亜訓練所という人材育成機関を設置し、エリートを育成するなど、イギリスにほとんど動物扱いされていたマレー人たちに民族の誇りと独立心を植え付けました。このようなマレー人への優遇政策は、戦後のマレー人たちの政治活動に大いに変革をもたらしました。

・日本敗戦後のマレー半島

日本の占領政策の失敗により、現地の人々は再度植民地化しに戻って来たイギリス軍を「解放」と称して歓迎しますが、以前の状況とはまったく異なりました。特に異なった点はマレー人の政治的な意識でした。日本占領前には「独立」ということを考えるきっかけさえ与えられてこなかったマレー人たちは、日本の占領期を経て、イギリス人による支配に疑問を持つようになりました。そして、マレー人を中心とした独立運動が活発化し、1957年にマラヤ連邦が独立を果たし、その後、シンガポールなどの周辺地域と合流して国名をマレーシアとします。しかしマレー人中心の社会に不満を持った華僑が、1965年にシンガポールとしてさらに独立します。つまり、日本の優遇政策により独立心が芽生えたマレー人たちがマレーシアという国を建国し、日本の弾圧を受けた華僑が中心になって建国した国がシンガポールになったのです。

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