・原理講論にある日本の蛮行の詳細分析
原理講論にある日本の蛮行は、具体的には「閔妃暗殺事件」、「三・一運動」、「堤岩里事件」、「関東大震災」、そして「キリスト教徒の20万人虐殺計画」を指しているものと思われます。これらの事件一つ一つを検証してみることにします。
・「閔妃暗殺事件」
「閔妃暗殺事件」とは、日本の朝鮮統治前である1895年に、朝鮮王朝第26代国王高宗の妻閔妃と、父興宣大院君との権力闘争の中で起きた暗殺事件のことです。
興宣大院君が、日本陸軍軍人三浦梧楼と組んで起こしたクーデターであるとの説が有力です。
まず「閔妃暗殺事件」が起きたのは1895年でした。
日本が朝鮮を統治する15年も前の事件です。
それも閔妃と大院君との権力闘争に、日本の軍人が手を貸して行われたクーデターということです。
それを原理講論では、日本の統治時代における日本人による残虐行為の一例のように「西暦1910年、日本が強制的に韓国を合併した後には、韓国民族の自由を完全に剥奪し、数多くの愛国者を投獄、虐殺し、甚だしくは、皇宮に侵入して王妃を虐殺するなど、残虐無道な行為をほしいままにし」たと書いているのです。
基本的に日本は朝鮮を統治しても、朝鮮人をむやみやたらと投獄、虐殺し、残虐無道な行為をほしいままにした事実はありません。
数多くの愛国者を投獄したのは「三・一運動」でのことです。
日本の統治に反対し暴動となった「三・一運動」で、その暴動を主導した人々を逮捕し投獄するのは当たり前のことです。
残念ながら原理講論では、事実を巧みに織り込みながら、日本の蛮行を強調するような表現となっているのです。
・「三・一運動」
「三・一運動」は1919年3月1日、朝鮮のキリスト教、仏教、天道教の各宗教指導者ら33名が中心となって、「独立宣言」を読み上げることによって始まりました。
運動は暴動となって朝鮮半島全体に広がり、暴徒による日本人惨殺や放火などが相次ぎ、3月14日までの間に日本人死者10人、負傷者15人が出ています。
3月から5月にかけては、デモの回数は1542回、延べ参加人数は205万人に上り、駐在所159、軍・面事務所77、郵便局15、その他諸々27ヵ所が襲撃され、日本の官憲も8名の死者を出しています。
この時の暴動によって逮捕・送検された被疑者は12,668名、このうち3,789名が不起訴により釈放、6,417名が起訴されました。
このうち有罪判決を受けたのは3,967名。死刑・無期懲役になった者、懲役15年以上の実刑になった者はいませんでした。
3年以上の懲役は80名だったといいます。
今日の中国・香港や、アメリカで起きたデモを想像してみると分かり易いと思いますが、香港やアメリカで起きたデモでは、取り締まる側の警察官の死者は出ていませんでしたが、デモの参加者には複数の死傷者が出ていました。
三・一運動によるデモでは、取り締まる側の日本の官憲も8名の死者を出し、多くの建物も破壊されたことからも、私たちが最近経験したデモとは比較にならないほどの激しいデモが行われたことが想像できます。
1919年に起きた「三・一運動」と比較するのに最もふさわしい例が、同じ韓国で起きた光州事件かもしれません。
光州事件とは、朴正煕大統領暗殺の後、全斗煥らの軍事クーデターに抗議する学生デモが、1980年5月18日に光州市で発生し、デモの鎮圧にあたった戒厳軍の暴行が激しかったことに怒った市民も参加して、デモ参加者は約20万人にまで膨れ上がった事件です。
市民軍は武器庫を襲うと、銃撃戦の末に全羅南道道庁を占領しましたが、5月27日に大韓民国政府によって鎮圧されました。
事件の犠牲者は公式発表では官民あわせて死者191人、重軽傷者852人とされていますが、密かに埋められた遺体もあったとされ、死者だけでも2,000人を超えたとの説もあります。
どちらの数字も韓国による発表なのであてにはなりませんが、一度韓国で大規模なデモが起こると、官民合わせてどれほどの犠牲者が出るものなのかを知る手がかりになるのではないでしょうか。
デモ参加者20万人で、全羅南道道庁を占領し、約10日ほどで鎮圧された光州事件でも、犠牲者は公式発表では官民あわせて死者191人、重軽傷者852人、一説によると死者だけでも2,000人を超えたとも言われています。
一方デモ回数1,542回、延べ参加人数は205万人に上り、駐在所159、軍・面事務所77、郵便局15、その他諸々27ヵ所が襲撃され、日本の官憲も8名の死者を出し、3ヶ月間もの期間全国に広がっていたのが三・一運動です。
それだけ激しいデモが行われれば、デモの取り締まりも激しくならざるをえません。
よって三・一運動によって数百名もの朝鮮人が犠牲になったのも、デモの激しさから言っても想像に難くはないものですし、これをもって日本だけが朝鮮人に対し、むやみに投獄、虐殺し、残虐無道な行為をほしいままにしたとは言い難いのではないでしょうか。
しかしもし『朝鮮独立運動之血史』で書かれている三・一独立運動の時の様子をそのまま信じたならば、残虐無道な行為をほしいままにしていたと表現するのは妥当なのかもしれません。
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