・「堤岩里事件」
1919年4月15日、三・一運動のさなかに起きた「堤岩里事件」は、日本人警官2人が殺害され、面事務所、日本人小学校、家屋が襲撃、破壊もしくは放火されるなどの被害が出たため、デモの首謀者逮捕の目的で堤岩里教会に集められた男性たちに対する取り調べの過程で反抗・逃亡があったため、全員を射殺したという事件です。
そこでは証拠隠滅のために教会および付近の家屋に火を放ち、23~29人の犠牲者を出したといいます。
この事件が三・一運動時だけではなく、日本統治下での朝鮮人弾圧による最大の悲劇となりました。
最初に日本人が襲撃され、日本人警官の犠牲者も出してしまったとはいえ、反抗・逃亡があったからといって、堤岩里教会に集めた男性全員を射殺し、証拠隠滅のため教会に火を放つなどという行為は許されざる行為であり、どんなに正当化しようとしても正当化することなどできない犯罪行為です。
ですから「堤岩里事件」に関しては何の弁解の余地もありません。
しかしこの「堤岩里事件」も、原理講論では「数多くの韓国人たちは日本の圧政に耐えることができず、肥沃な故国の山河を日本人に明け渡し、自由を求めて荒漠たる満州の広野に移民し、臥薪嘗胆の試練を経て、祖国の解放に尽力したのであった。日本軍は、このような韓国民族の多くの村落を探索しては、老人から幼児に至るまで全住民を一つの建物の中に監禁して放火し、皆殺しにした。日本はこのような圧政を帝国が滅亡する日まで続けたのであった。」と表現されているのです。
つまり原理講論にある表現をそのまま信じるなら、「日本の圧政に耐えることができず、祖国の解放に尽力した人々を探索しては、老人から幼児に至るまで全住民を一つの建物の中に監禁して放火し、皆殺しにするような圧政を、帝国が滅亡する日まで続けた。」ということになり、韓国人による蛮行には一切言及しないばかりか、日本の圧政に反対する人々を探し出しては、老人から幼児に至るまで無差別に一つの建物の中に監禁して放火し、皆殺しにするような残虐無道な行為を、帝国が滅亡する日まで続けたという、事実から全くかけ離れた内容となってしまっているのです。
ここでも一部の事実を織り込みながらもその事実を巧みに捻じ曲げ、捏造された事実によって日本の蛮行を強調する表現となっているのです。
三・一運動が起きた当時は、日本による朝鮮統治以外にも、世界中で白人支配による植民地統治が行われていた時代でした。
当時は第一次世界大戦が終わった直後でもあり、殺し合いが日常となっていた世界にとって、人命が軽んじられていたのは事実でした。
だからと言って堤岩里事件のような事件が正当化されるものではありませんが、堤岩里事件の二日前、1919年4月13日にインドで起きたアムリットサル事件では、ローラット法に反対する集会に参加していた非武装のインド人市民約12,000人に対して、インド軍部隊が約10~15分間無差別射撃を行い、1,500名以上の死者と、3,600名もの負傷者を出しています。
発砲を指示した指揮官は英国軍事会議にかけられましたが、罪には問われなかったばかりか、イギリスの功労者として讃えられ、一般人から募った2万ポンドが贈られています。
イギリスはこの虐殺の後には、インドを恐怖政治でもって支配し、1921年より37年までに25万人が投獄され、3,000人が銃殺されたと記録されています。
一方日本は、「三・一運動」「堤岩里事件」の反省を踏まえ、朝鮮総督府は武断統治を改めたため、それ以降は日本統治に対する抵抗といえる抵抗が全くみられなくなったといいます。
それが原理講論にかかると「日本はこのような圧政を帝国が滅亡する日まで続けたのであった。」と書かれており、事実とは全く違った内容となってしまっているのです。
サタン側国家とされる日本による最大の悲劇「堤岩里事件」と、天の側国家とされるイギリスによる残虐行為の一部を比較してみても、または事件後の両国の対応を比較して見ても、どちらがサタン側国家なのか疑問を持たざるを得ないのではないでしょうか。
またこの頃、人命は軽んじられていたと思われる事件は、独立後の韓国においても見出だすことができます。
1950年6月25日の朝鮮戦争勃発時、李承晩大統領は保導連盟員や南朝鮮労働党関係者を処刑するよう命令しました。
保導連盟とは、共産主義者として登録された韓国人の思想保護観察団体です。
共産主義者であったとしても、処罰はしないとして保導連盟への加盟が勧められたため、配給される食糧目当てに登録した人々も多くいたといいます。
そんな保導連盟員や南朝鮮労働党関係者を李承晩大統領は処刑するよう命令した結果、公式に確認されているもので4934人、全国血虐殺者遺族会による報告では114万人、汎国民委員会の発表では60万人から120万人とも言われる韓国人が虐殺されたとされています。
この事件は韓国現代史最大のタブーとも言われ、長い間隠蔽され続けてきましたが、2003年に誕生した盧武鉉政権によって明らかにされました。
・「関東大震災」
原理講論にあるもう一つの事件、1923年9月に起きた「関東大震災」では、6,000名もの罪無き朝鮮人が虐殺されたということが、今では常識のようになっていますが、公式記録では死者数は231人となっています。
関東大震災の時、実際何が起こっていたのかを時系列に従ってまとめて見ると、次のようになります。
①在日朝鮮人たちによる暴動や火事場泥棒が多発。
②そのことを新聞記事によって注意喚起。
③その結果自警団を結成。
④自警団による多数の朝鮮人の虐殺。
⑤政府は、それ以上虐殺が起きないよう報道の規制措置を取る。
①についてはより詳細を記すと、在日朝鮮人たちによる暴動や火事場泥棒というのは、共産党と根を同じくしていた、在日朝鮮統一民主戦線の朝鮮人が関与していたテロ行為との説が有力です。
つまり関東大震災が起こったとき、大震災の混乱に乗じて共産党と朝鮮人がテロ行為を行ったのに対して自警団が結成され、その結果多数の朝鮮人の虐殺が行われたため、それを政府は押しとどめようとしたという説が有力なのです。
もちろんテロに対する自警行為であったとは言っても、朝鮮人に対する虐殺行為は許されるべきではありません。
しかしだからと言って「根も葉もない謀略をもって東京に居住していた無辜の韓国人たちを数知れず虐殺した」ということでもなかったのです。
このように原理講論では、朝鮮人によるテロ行為があったことには一言も触れず、一方的に日本人の罪のみを強調する表現になってしまっているのです。
ちなみに「6,000人の朝鮮人が虐殺された」とする情報は、上海臨時政府の機関紙「独立新聞」に掲載された数字で、東京で取材されたわけでもないため何の裏付けも取られておらず、数字だけが一人歩きしているものです。
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