ローマ帝国迫害時代から法王捕虜および帰還時代まで キリスト教編

★ローマ帝国迫害時代(AD30~392年)

・原理講論「エジプト苦役時代とローマ帝国迫害時代」
「ヤコブとその12子息を中心とした70人家族がエジプトに入ってきて、その子孫たちは400年間、エジプト人たちによって悲惨な虐待を受けた」
「イエスを中心とする12弟子と70人の門徒、そうして、キリスト教信徒たちが、ローマ帝国において、400年の間、惨めな迫害を受けなければならなかった。」
「コンスタンチヌス大帝を感化させて、313年にはキリスト教を公認せしめ、392年、テオドシウス一世のときには、キリスト教を国教として制定せしめた。」

12使徒の中心、第一弟子のペテロや、最初はキリスト教を迫害していたが改心したローマ市民パウロなどが、イエスの教えを小アジアのユダヤ人に伝え、そしてローマに赴き伝道することによってキリスト教は一気にローマ領内に広まりました。
特にパウロが、イエスを救世主としてその愛によって人が原罪から救済されると説いてから、単なるユダヤ人のための信仰ではなく、あらゆる人々の信仰を受ける「世界宗教」としてのキリスト教に変質しました。

ローマ帝国では皇帝崇拝を拒否したキリスト教徒は、ネロ帝やディオクレティアヌス帝の時など、激しく迫害され、多くの殉教者を出しましたが、その間にも信仰はローマ領内に広がり、多くの信徒は地下墓坑である力タコンべで信仰を守りました。
64年に発生したローマ大火の犯人としてキリスト教徒を迫害したため、ネロは今日に至るまでローマ帝国最悪の暴君として知られるようになりましたが、迫害はそれほど大規模なものではなかったと言われています。
303年にディオクレティアヌスはローマ全土に対して、キリスト教徒の強制的な改宗、聖職者全員の逮捕および投獄などの勅令を発し、ローマにおける最大の迫害を行いました。キリスト教徒の処刑は全土で数千人を数えたといいます。

ローマ帝国ではディオクレティアヌス帝による大迫害の後、313年コンスタンティヌス帝によるいわゆるミラノ勅令が発せられ、ローマにおいてキリスト教が公認されることになりました。
380年にはテオドシウス帝がキリスト教を、ローマ帝国の国教と宣言しました。
さらに392年に帝国内でのキリスト教以外の宗教およびキリスト教の異端の信仰が禁止され、ローマ帝国唯一の国教としてのキリスト教の地位が確立しました。

ローマ帝国のキリスト教の国教化に先駆け、アルメニア王国は、国王ティリダテス3世がキリスト教に改宗し、303年頃に世界で初めて国家としてキリスト教を受け入れ、350年には現在のエチオピアに当たるアクスム王国でキリスト教が国教化されたました。

★教区長制キリスト教会時代(AD400~800年)

・原理講論「士師時代と教区長制キリスト教会時代」
「ヨシュアが、イスラエルの選民を導いてカナンの地に入ったのち、オテニエル士師をはじめとした12士師。サムソン、エリ、サムエルに至るまで、15士師がイスラエルを指導した400年間を士師時代という。士師たちは、預言者と祭司長と国王の使命をすべて兼任していた。」
「新約時代における第二イスラエル、キリスト教界は、復活されたイエスを王として信奉する、国土のない霊的な王国であった。教区長は、ときには預言者、祭司長、教区を統治する国王のような使命を果たさなければならなかった。」
「キリスト教信徒たちは、ゲルマン民族から異教の影響を受け、信仰に大きな混乱を引き起こした。」

★キリスト王国時代(AD800~919年)

・原理講論「第三節 統一王国時代とキリスト王国時代」
統一王国時代に入ると「預言者、祭司長、国王が鼎立して、各自の指導的な使命を遂行しなければならなくなった。」
「モーセの幕屋理想は初めて、国王を中心とする神殿理想として現れ、王国をつくった。」
「アブラハムから800年が経過したときに、預言者サムエルは神の命を受けてサウルに油を注いで祝福することにより、第一イスラエル選民の最初の王として立てた。」

「サウル王が、彼の在位40年を神のみ旨にかなうように「信仰基台」を立て、神殿を建設し、イスラエル選民たちが、国王を絶対的に信じ従ったならば、「実体基台」を造成し「メシヤのための基台」をつくり得た。ところがサウル王は、神の命令に逆らったので、神殿を建設することができなかった。」
「ダビデ王の40年を経て、ソロモン王の40年に至り、初めてその「信仰基台」が造成されて神殿を建設することができた。」
「サウル王の神殿建設の目的は、ソロモン王のときに成就されたのであるが、ソロモン王は淫乱に溺れて「メシヤのための基台」は造成されなかった。」

「キリスト王国時代においても、預言者に該当する修道院、祭司長に該当する法王、国民を統治する国王が、第二イスラエルを指導していかなければならなくなった。」
「聖アウグスチヌスによってキリスト教理想として著述された「神国論」が、チャールズ大帝によるキリスト王国(フランク王国)として現れた。」
「法王レオ三世は紀元800年に、チャールズ大帝を祝福して、金の王冠をかぶらせることにより、彼を第二イスラエル選民の最初の王として立てた。」

「チャールズ大帝が、キリスト教理想を実現していったならば、「信仰基台」は造成されるようになっていた。」「当時の第二イスラエルが、国王を、絶対的に信じ、従ったならば、「実体基台」は立てられ、「再臨されるメシヤのための基台」も、成就されるはずであった。」
「法王を中心として立てられた霊的な王国と、国王を中心とした実体的な王国とが一つとなり、その基台の上にイエスが再び来られて、メシヤ王国をつくることができたはずであるが、国王が神のみ旨を信奉し得ず、「再臨されるメシヤのための基台」もつくられなかった。」

★東西王朝分立時代(AD919~1309年)

・原理講論「第四節 南北王朝分立時代と東西王朝分立時代」
「統一王国時代は、ダビデ王を経て、ソロモン王に至り、この三代をもって、カインの立場であった十部族を中心とする北朝イスラエルと、アベルの立場であった二部族を中心とする南朝ユダに分立されて、南北王朝分立時代がくるようになった。」
「北朝イスラエルは、260年の間に19王が代わった。彼らは互いに殺害しあい、王室が9度も変革され、列王の中には、善良な王が一人もいなかった。神は預言者エリヤを通して、バアルとアシラの預言者850名を滅ぼされ、エリシャ、ヨナ、ホセア、アモスのような預言者たちを遣わされて、命懸けの伝道をするように摂理された。しかし邪神を崇拝し、悔い改めることがなかったので、神は、彼らをアッシリヤに引き渡して滅亡させることにより、永遠に選民としての資格を失うように摂理された。」

「南朝ユダは、394年間にわたる20人の王の中には、善良な王が多かったが、ヨシヤ王以後は、悪い王たちが続出し、北朝の影響を受けて偶像崇拝にふけるようになったので、バビロニアの捕虜となってしまった。」
「南北王朝分立時代において神は、4大預言者と12小預言者を遣わされて、内的な刷新運動を起こされた。しかし、彼らは悔い改めなかったので、神はエジプト、カルデヤ、シリヤ、アッシリヤ、バビロニアなどの異邦人たちに引き渡して、外的な粛清の摂理をされ、イスラエルの君主社会は、崩壊してしまった。」

「チャールズ大帝によって始まったキリスト王国も、三代目に至って孫たち三人の間に紛争が起こり、東、西両フランクとイタリア(東フランクの支配を受けた)に三分された。東フランクは、オットー一世によって大いに興隆し、神聖ローマ帝国と呼ばれるようになり、政教二権を確保しようとし、アベルの立場に立つようになった。」
「東西王朝分立時代においても法王庁が腐敗して、トマス・アクィナス、聖フランシスなど、修道院の人物たちが内的な刷新運動を起こした。しかし、彼らもまた悔い改めず、堕落と腐敗に陥ったため、神は異邦人たちに引き渡して、外的な粛清の摂理をなさった、これが十字軍戦争であった。」

「聖地を回復するために1096年に起こった十字軍は、その後約200年間にわたって、7回の遠征を行ったが、敗戦を繰り返すだけで終わってしまった。」
「十字軍が異教徒に敗れ、法王権が、その権威と信望とを完全に失墜し、封建社会を維持していた領主と騎士たちが、多く戦死してしまったので、政治的な基盤を失い、経済的困窮に陥り、キリスト教君主社会は崩壊しはじめた。」

★法王捕虜および帰還時代(AD1309~1517年)

・原理講論「ユダヤ民族捕虜および帰還時代と法王捕虜および帰還時代」
「ユダヤ民族は不信仰に陥って、一向に悔い改めなかったので、神はサタン世界であるバビロンに捕虜として連れていかれ、苦役をするように摂理された。」
「王族、大臣たち、官吏と工匠など、数多くのユダヤ人たちが、バビロニア王ネブカデネザルによって、捕虜として捕らわれていった70年の期間があり、ペルシャがバビロニアを滅ぼし彼らを解放し、三次にわたって故郷に帰還し、預言者マラキを中心として、メシヤのために準備する民族として立てられるときまでの140年の期間があった。」

「国王と法王たちが、あくまで悔い改めなかったので、神は「再臨のメシヤのための基台」を復帰するための新しい摂理をされるために、法王が捕虜となって苦役を受けるようにされた」
「法王クレメンス五世が1309年に、法王庁をローマから南フランスのアヴィニョンに移し、そこに70年間、歴代の法王たちはフランス王の拘束を受けながら、捕虜のような生活をするようになった。その後、法王グレゴリー11世は1377年にローマに帰還した。」

その後枢機卿たちは、ローマと南フランスのアヴィニョンそれぞれに法王庁を立てるようになったが、「1409年に枢機卿たちはピサ会議を開き、二人の法王をみな廃位させ、アレクサンドリア五世を正当な法王として任命した。しかし廃位された二人の法王が服さなかったので、三人の法王が鼎立するようになった。その後、コンスタンツ大会を開催、三人の法王を廃位させ、マルチヌス五世を法王に選出した。」

「14世紀の諸会議の指導者たちは、会議に最高の権限を与え、腐敗した法王と僧侶たちを除去しようとしたが、法王権は彼らを幽閉してしまい」法王専制に復帰してしまった。「ウィクリフとフスのような改革精神を抱いていた指導者を、極刑に処するようにまでなったので、このときからプロテスタントの 宗教改革運動が芽を吹きだしはじめた。」

「法王が1309年から70年間、南フランスのアヴィニョンに幽閉されたのち、三人の法王に分立される路程を経て、再び、ローマ教会を中心とする法王専制に復帰し、その後1517年にルターを中心として宗教改革が起こるときまでの約210年間は、ユダヤ民族捕虜および帰還時代210年間を実体的な同時性をもって蕩減復帰する期間であった。」

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