(2)文鮮明先生の摂理路程

(2)文鮮明先生の摂理路程

神の復帰摂理歴史の結実体として誕生されたイエス。
2000年前に誕生されたイエスは、神が準備された選民や洗礼ヨハネらの不信により十字架へと追いやられ、神の復帰摂理歴史はすべて失敗に終わってしまいました。
イエスは十字架につき、命を奪われると同時に、ユダヤ選民は国を失い、2000年間国を持たざる民族として迫害され、世界中をさまよい続けることとなりました。そしてイエスの第一弟子になるべきだった洗礼ヨハネは、神の摂理とは全く違ったところで首をはねられ、非業の最期を遂げました。
このような結果は全て、イエスを迎えるために神が用意された選民や洗礼ヨハネが、イエスを不信することによりもたらされた結果であり、そのことゆえに神の摂理は、再臨の主を迎えるその時まで延長されることになりました。

イエスの十字架から2000年、1920年1月6日に韓半島の地に誕生されたのが文鮮明先生でした。
文先生が誕生された韓半島は、当時日本の統治下にあり、ローマ支配下のユダヤ属州にイエスが誕生されたのと同じような環境にありました。
1935年4月17日、文先生15才の復活節の朝、猫頭山での祈祷中、イエス様と霊的に出会い、『苦しんでいる人類のゆえに、神様はあまりにも悲しんでおられます。地上で天の御旨に対する特別な使命を果たしなさい』と啓示を受けました。
1941年、文先生は日本に留学し、真理探究の時を持ちましたが、1943年に帰国し、翌1944年には、崔先吉女史と婚礼を行いました。
1945年10月、金百文牧師のイスラエル修道院にて補助引導師として奉仕活動を始めましたが、この時から本格的な再臨主としての路程を出発されたと言えます。
ここでは1945年当時、神が文先生を迎えるために用意された摂理的基盤と、文先生の再臨主としての路程の詳細を見ていくことにします。

1、1945年当時の摂理

①男女相対的な役事

・サタン世界において、女一人で国家を中心として戦ってはなりません。
必ず男と二人で、一つとなって共同作戦をすることによって、一つの基盤を成さなければならないのです。

■男性を中心とした摂理
・復帰路程で外的使命は男性たちが責任を負わなければなりません。
・韓国の東側には山が多く、男性的な姿をしています。
・東側の元山を中心として男性たちの神霊役事が展開しました。
・男性を中心とした摂理は、白南柱、李龍道、金百文につながりました。

■女性を中心とした摂理
・内的使命は女性たちが責任を負わなければなりません。
・西側は平野が多く、女性的な特質をもたせたのです。
・西側の鉄山では婦人たちが神霊役事。
・女性を中心とした摂理は、金聖道、許孝彬、主なる神の夫人朴ウルリョンハルモニにつながりました。

②金聖道女史の聖主教と白南柱牧師

■金聖道女史:「新しい主」、韓国におけるエバ格の使命

■神様の啓示
・韓国解放の正確な日を聞きました。
・再臨主が肉身をもった人間として、韓国に来るであろうと聞きました。
・主によって韓国が特権をもった国になると聞きました。
・韓国によって全世界が神様に復帰されると知りました。

■白南柱牧師:韓国における最初の洗礼ヨハネ使命者、アダム型
・スウェーデンボルグを研究し、本を翻訳した人。
・主が韓国に来られるという啓示を受けて、主の役事をしました。
・苦難を蕩減するために、鉄山の金聖道のところに裸足で歩いて行きました。
・霊界の啓示で、今後、韓国が神様の特別な摂理の役事をすることを知りました。
・金聖道集団を「聖主教」という名前で、総督府に登録をしてあげました。
・金聖道氏と完全に一つになるべきであったのに、分かれてしまいました。

■聖主教の受難と金聖道女史の他界
・牧師たちの告発によって、金聖道女史は投獄されました。
・100日以上の獄中生活の末、釈放後に1944年4月1日、62歳で病死しました。

③李龍道牧師の「新イエス教」と許孝彬女史の「腹中教」

■李龍道牧師と「新イエス教会」
・1930年代に、韓国にエリヤ的な火をもってきた人物。
・平壌を中心として出発し、新イエス教運動を展開。
・全キリスト教が一つになり得る道を模索しようとしました。
・本来許孝彬氏と一つにならなければなりませんでしました。
一時は一つになりましたが、再び分かれてしまい、イエス教会をつくりました。
・1933年にイエス様の年齢と同じ33歳で死にました。

■「新イエス教会」と「腹中教」
・二つの教会、「腹中教」と「新イエス教会」を統一せよという、天からの教えがありました。
西側集団「腹中教」が東側集団「新イエス教会」の所に行ったのですが、東側集団は受け入れませんでした。
⇒二つの集団の統一を成すことに失敗。
⇒神の摂理、霊的な運動も金百文氏に移りました。

■許孝彬女史:「腹中教」教主、マリヤ的使命
・金聖道女史に精誠を尽くして侍った夫人。
・主の新婦だと言って、腹中を通して主が生まれるという。
・イエス様が、この夫婦に啓示を下ろし始めました。
・一番最初に罪を脱ぐ方法を教え、その次に生活する方式を教え、その次には主が来られたのちに子女を育てる方式を教えてくれました。
・主を迎えて生活する法度と、全体的な規範を立てて準備しました。
・マリヤ的使命なので、許氏の夫人はイエス様を生んで育てる体験をしました。
・イエス様がこの地上でみ旨を成し遂げられずに逝かれた、そのすべての恨を解くための蕩減的な一切の準備をしなければなりませんでした。
・その次には、主がこの地上に来て、最高の生活ができるようにしなければなりませんでした。
・それを準備するために、主が着る服の寸法とか、すべてを教えてくれました。

■「腹中教」が捧げた精誠
・「イエス様が幼い時から33歳の時まで着る服を作れ」という啓示を受けました。
・イエス様が三日ごとに着替えられるほど多くの服を、一度は韓国服で、そして一度は洋服で作りました。
・彼らがその服を作る時に、ミシンを使うことはできず、「一度に三針以上縫うな」と言われていました。
・服を作るために部屋中をきれいに清掃しなければならず、一着すべて作るまでは、立ち上がることもできませんでした。
・トイレに行くことも許されませんでした。
・「たとえお前たちがそのような代価を払っても、お前たちは主を迎えることができないだろう」と、天は彼らにそう言いました。
・彼らが何かで間違った時には、天から過酷な罰を受けました。それで彼らは、天の指示に従わざるを得ませんでした。
・イエス様の服を作り終えると、次は、「来られる主のための服を作れ」というみ言を受けました。
・彼らは、「主の服を作るにはもっと多くの精誠を込めよ」という啓示を受けました。
・彼らは三食をあたかも宴会の膳のように準備し、一日に三度肉を供えました。
・その婦人は、主の学問的な背景をはじめ、すべてのことを天から聞きました。
・その婦人に従う者たちは、もし命令を受ければ、いつでも倒れて死ぬことができるぐらいの覚悟ができていました。
彼らは、自分の生命を捧げる準備ができていました。
・金聖道氏の代を許孝彬氏が継いで、許孝彬氏の娘が主を迎えるように準備されました。
・敬礼を、3000回は普通で、7000回までしました。
・敬礼を3000回しようとすれば、5時間ないし6時間かかり、7000回しようとすれば、10時間近くかかります。
・明け方から始めて、御飯も食べないで7000回敬礼をしながら侍る訓練をした集団が、その行く道をつかむことができずに、みな壊れていきました。

■解放前後の「腹中教」の受難
・日本が1945年8月15日に降伏すると証言。
・彼女が日本の警察により釈放される前日、天皇の頭の上に一人の天使が立って、天皇に「お前たちは天の怨讐、だからお前たちは滅亡するだろう」と言っている幻想を見ました。
・彼女はまた、「次の日何時に天皇が放送するだろう」ということも聞きました。正にその翌日、日本の天皇はラジオ放送で、降伏すると語りました。
・彼らはまた、「日本が滅亡する時、お前たちは再臨主に会うだろう」という啓示を受けました。
・韓国で婦人として初めて役事を始めた人は金聖道ですが、これを蘇生として、許孝彬を経て、朴老婆につながりました。

④1945年当時の韓国政界とキリスト教指導者

■韓国政界とキリスト教指導者の不信
・大韓民国において、自由党を編成した五人の中の一人が先生でした。
・先生はその時、25、6歳の若者でしたが、この国の高位層の人々と手を結んで出発しようとしました。
その時の国防長官であった申性模を中心として、最高の基準で出発し、世界的な舞台に行こうとしたことが外れました。
李承晩博士とその一派の3人から12人だけでも結束していたならば、必ず民主世界の主導国家であるアメリカが、この国に連結されて動くことができました。
・最高の立場で出発することが神様から許された位置でしたが、二名の牧師ゆえに、すべてふさがれてしまいました。
⇒最高の牧師から切られてしまうことにより、最下位の道から復帰しなければならなくなりました。
・先生と因縁を結んで、先頭に立って仕事をした人が既成教会の有名な牧師でしたが、将来権力を握ろうという考えをもったために、先生を裏切りました。

■氏族と家庭の責任
・先生の三番目のおじいさんに、政治的な風土があれば良かったが、純真なキリスト教の牧師でした。
・李承晩博士が国を立てた時、先生の三番目のおじいさんを必要とし、当時いた旌善にヘリコプターで三度も迎えに来ました。
・三番目のおじいさんは、「私は政治はしないよ。信仰する人が政治をすることは……」こう言い、李博士と一つになれませんでした。
・先生が理論を中心として従祖父を説得しさえすれば、李博士一族と環境与件、キリスト教幹部のすべてのことを消化するのは問題なかったでしょう。

・大韓民国と既成教会が一つとなって、聖進のお母さんを前に立てて反対しました。自分の母親と組んで「主が人として来るというのは、偽キリストだ」と言ったのです。
洗礼ヨハネが天から教えてくれることが信じられなくて、イエス様に従えなかったことと同じようになりました。
・摂理のみ旨の中で、先生はキリスト教を代表した一人の女性に会いましたが、その女性が洗礼ヨハネ以上に先生を信奉し、蕩減復帰摂理時代の新婦の使命を果たすべきであるのにできなかったのです。

・アダム時代、イエス時代、再臨時代、三時代を経てきたために、三段階の歴史路程、三次7年路程を連結するのです。
・本来は1945年から1952年までの7年間で、キリスト教文化圏を統一しようとしたのが神様のみ旨だったのです。
・すべてのキリスト教文化圏が天のみ旨を知らずに一つになれないことにより、4000年歴史を再び先生の一代を通して、1992年まで蕩減して上がってこなければならないのです。
・これが何かといえば、世界的な荒野40年路程です。1945年から40年が過ぎて1985年までですが、それが7年が過ぎて1992年になりました。
この期間が統一教会の受難路程であり、イスラエル民族が追われた路程です。

⑤金百文牧師のイスラエル修道院を中心とした摂理 (1945.10~1946.4)

■解放直後の定州郭山支署収監事件(1945.10、一週間ほど)
・北側に行って、監獄に入って出てくるのが三度です。三度まで監獄暮らしをしましたが、その時はお金のために引っ掛かって入ったのです。
それはお金に対する未練を全部切るため、一切を否定させるための神様の作戦でした。

■金百文牧師と「イエス教イスラエル修道院」
・李龍道牧師を中心として三代を継いで続いた人が金百文。この集団は洗礼ヨハネ格の集団。
・彼は天から「一つの修道院をもて」というみ言を聞き、そして「再臨主を迎えることができる勢力を準備しろ」という啓示を受けました。
・金百文氏と先生はカインとアベル、洗礼ヨハネとイエス様のような立場にあったのです。
・金百文氏は神霊の面では、当時の既成教会の、最高の信仰基準にありました。
・当時、金百文は李承晩博士と近い立場にあったので、彼を洗礼ヨハネの立場に立ててみ旨を成すことができたのに、そのようにできませんでした。

■三人の女性の証と金百文牧師の祝福
・先生がその霊的集団から一人の男と、その男と一体になった三人の女を復帰することができていれば、エバの復帰のためのすべての条件を立てることができたはず。
・金氏が先生を祝福する前に、そこで先生を証した三人の女性がいました。
・金氏は天から啓示を受けて、自分に従うすべての食□たちの前で、先生の頭に自分の手を載せて、全世界のソロモン王の栄光が先生に臨むようになることを祝福しました。
・洗礼ヨハネがイエス様に引き継いだのと同じ役事、先生は彼から祝福を受け、彼がもっていたものを相続しました。
・金百文が先生にそのように祝福をすると、その集団で神霊的恩恵の役事をする婦人たちや食口たちすべてが「金先生に従わず、文先生に従え」という啓示を受けました。
・金百文は、先生に対して「ソロモン王のような使命を受けた方だ」と祝福をしましたが、彼はその真の意味が分かりませんでした。
・彼は、すべてのことを悟るために、先生に質問をしなければなりませんでした。

■金百文教団の不信の結果
・金氏の集団が先生と一つになっていたならば、先生はその集団と既成教会の牧師を連結させ、そののちに政府を連結させなければなりませんでした。
・三人の女性たちが先生を証しし、その後彼らは先生と一つになるべきであったのですが、先生に従わなかったので、先生は北韓に行かなければならなかったのです。
・北韓で先生は、そうした三人の女性と一人の男を復帰するために、すべての条件を通過しなければなりませんでした。
・金百文が受け入れようが受け入れまいが、先生は忠告して清算しなくては、心情的な再出発をすることができませんでした。
・先生は彼に18枚の手紙を書きましたが、彼はそれをみな破いてしまったのです。その後先生は責任をみな果たした立場で、平壌へ出発しました。

■天命に従い平壌に(1946.5.27~6.6)
・韓国キリスト教を中心としたみ旨の基盤がサタン側に帰してしまったがゆえに、それを取り戻すために、サタンの巣窟である北側に行ったのです。

⑥平壌大同保安署の受難と腹中教(1946.8.11~11.21)

■大同保安署に拘束(1946年8月11日)
・先生は1946年8月11日、北韓の共産党により、宗教と称して詐欺をしたという罪名で、大同保安署に投獄されました。
・許孝彬氏の集団が摘発され、その神霊集団の許孝彬氏ゆえに、先生が引っ張られて入ったのです。
・南側から来たから、李承晩の手先と疑われたのです。
・先生はその集団に人を送り許夫人に、「先生の集団が何であるか、祈祷して調べてみなさい」と言いました。
・その時許夫人は、一つの大きな兆候を期待し、一人の若い男などには期待もしませんでした。

■腹中教徒釈放のための獄中措置
・監獄に入ると、その婦人と相対になって教育して、全体に責任をもっていた黄元信という人がその部屋にいました。
翌朝、黄元信が先生の所に来て敬礼をし、「霊界から知らせてくれた」と言い、自分の集団に関するすべてのことを話しました。
・先生は「許孝彬氏に早く出るように言いなさい、出なければ、全部この監獄で倒れる」と言いました。
・黄元信が一人監獄から出たのちに訪ねてきて、「信徒たち一同に、いくら勧告しても聞こうとしない」というのです。
・黄元信が釈放されたのちに、許夫人の夫が先生の部屋に来ました。先生は夫に、先生が黄元信に言ったことを話しました。しかし夫は、「自分は妻に従うつもりだ」と言い、先生の話を受け入れようとしませんでした。
・最後に9月18日の朝、先生自身が一通の手紙を書きました。
許孝彬氏は、その手紙を読んでから破いてしまおうとしたのですが、共産党の監視員に見つかってしまいました。それで先生は、1946年9月18日午後2時に拷問を受けました。

■釈放(1946年11月21日)と腹中教の結末
・その時、先生は韓国にいる米軍のスパイとして告発されて、ソ連の調査官によって尋問を受けましたが、無罪だということが判明しました。
・先生は、11月21日に釈放されました。その時先生は、血をあまりにたくさん流していたので、ほとんど死んでいました。
先生に従っていた人々は、先生が死んでいくと考えました。先生が再び生き返ったことは、一つの奇跡でした。
・1950年に韓国戦争が起きた時、許孝彬氏以下、すべての監獄にいた人々を、共産党たちが後退する時、連れていって全部虐殺してしまいました。

★地獄からの再出発(文鮮明師の路程より)
許孝彬への手紙の事件で、文先生が李承晩のスパイだと確信を得た共産党は、自白させるためにあらゆる方法手段の拷問を行いました。その結果 、共産党は文先生に対し、半殺しのようにしてしまったため、ついに11月21日、門の外に放り出して釈放したのでした。
そこを出た途端、先生は多くの血を吐かれました。しかし霊界からの援助で起き上がられました。
そのころ、大同保安署の回りをエリコ城のように7回まわれば先生に会えるという啓示を受けた弟子たちが、祈りながら回っていると、先生が放り出されてきました。その時の先生は、口も利けず、血を吐き、全身を殴られたため思うように動けず、とても生きた人間の姿ではありませんでした。
弟子たちは先生を教会まで連れて帰り、いろいろ治療を施し、漢方薬を飲ませ、手を尽くしましたが、ついに先生は意識を失ってしまわれました。そのような姿を見ながら弟子たちは、「これでは先生は死んでしまう。もうおしまいだ」と叫びながら泣いていました。
しばらくして、奇跡的に先生は意識を回復されたのです。
ところが先生は、少し起き上がれるようになると、説教を始められました。弟子たちが「まだ休んでいて下さい」と泣いてお願いしてもその言葉を聞く先生ではなかったのです。
前に置かれた洗面器に血やたんなどを吐きながら祈られ、吐いた血をかき集めた手を振りかざし、説教される先生の前で、弟子たちはただ泣くばかりでありました。そればかりか、新しく人々が伝道されてくると、内臓もまだ弱っている中で、彼らのために蕩減断食を繰り返されたのであります。

⑦「主なる神の夫人」朴ウルリョンハルモニを中心とした摂理

■「主なる神の夫人」出現の意義
・その時、先生は26歳の年齢でしたが、霊的な世界のプログラムをすべて組み立てていたのです。
・金百文の集団を中心として、男性から祝福を受けたので、女性からも祝福を復帰しなければなりません。
そうでなければ、今まで韓国の全土で神様が築いておいたすべての摂理の基盤の相続を受けられないのです。
・そのために「私は神様の夫人である」と言う、地上において神様が直接導ける婦人が出てこなければならないのです。
その婦人を神様が直接導くために、神様を中心として連結される霊的世界が、ここに動き入っていくのです。
そうして初めて地上に着陸できる基地を一人の婦人、すなわち「主なる神の夫人」だという婦人を通してつくるのです。

■最低の立場で絶対服従し仕える
・天的な使命を担って、天のプログラムをすべて知っていた先生は、何も知らない小さな子供のようにして、そのおばあさんが死ぬ時まで、精誠を尽くして侍りました。
・そのおばあさんの僕になり、絶対服従しなければなりません。完全に僕の暮らしをしたのです。
57歳になったそのおばあさんの月経のものまで先生が洗い、さるまたまで作って着せ、「風呂に入れてくれ」と言えば、入れてあげなければなりませんでした。
その家から背負子を背負って十里の道、百里の道を行ってこいと言えば、行ってこなければならないのです。

■段階的な証と祝福、主管性復帰と朴老婆の不信
・僕のように扱われるその位置で精誠を込めれば、主管圏を再び転倒して次々に復帰されるのです。
・僕から上がっていきながら、「神様が愛する僕が来た」「養子が来た」この僕から養子、庶子、息子の位置まで上がっていき、「天の国の総理大臣である」「天国の全権を代表したイエス様の位である」「神様の対象実体である」と、はっきり証をしました。
・その宣布する式がぱっと終わった次には、自主権をもって、反対にひっくり返すのです。アダムの権限を蹂躙したのを、アダムが蕩減的条件を立てて復帰したので、アダムの位置に立つためには、完全に反対にしなければいけないのです。
・先生は、証をするその言葉を受け、即座に「敬礼しなさい」と言い、「私があなたに仕えたのと同じように、あなたも私に仕えなさい」と言いました。それが、復帰するための主管性転倒です。
・そのおばあさんは「今まで先生に従い、仕えようとしたのに、こうまで自分に容赦なく、僕に対するように命令できるのか」とひっくり返るのです。
天の定めた標準になっていれば、昨日の弟子でも今日の師匠になり得るし、天の国の王子の位置にも上っていけるのです。
自分の息子、娘がみな、一夜にして王妃になり、皇太子妃になれば、そこに頭を下げなければならないのが父母の立場なのです。

■朴老婆の不信の結末
・おばあさんに同情する連中と先生に従う群れに分かれました。
・そのおばあさんは精神異常になり、「文なにがしという人は天国の逆賊であり、世の中のすべてのものを奪っていき、自分のすべてのものを盗んでいった」と言うのです。
完全にサタンが発動し、おじいさんを連れて歩き、息子、娘を連れて歩きながら、梶棒で先生を殴り殺そうとするのです。
・そうこうするうちに、そのおじいさんが先生を殴って追い払おうと、杖を持って出てこようとしたところで倒れて死にました。
全身が青くなって、腹が張り裂けて死んだのです。棺に入れられないくらいに膨れていました。それは本当に恐ろしい死に方でした。
・天に対して自分の責任を果たせない時は、そこにサタンが侵犯できるのです。
そうなると、その女性が今までどんなに多くの精誠を込めたしても無駄になるのです。
・先生は、そのおばあさんが精誠を込めたものをすべて移して、くくってきたのです。
・神様中心か自分中心かということを分別できなければなりません。

■40日霊界勝利と神様の御印
・40日の試験期間がありました。霊界のすべての霊人たちが、みなそのおばあさんの味方になって責め立ててきます。
イエス様までも先生の所に来て頼みながら、「そのおばあさんは主なる神の夫人であり、神様が愛する娘ですから、どうか侍らなければならない」と言いました。
先生は一人で40日間、今まで来て逝った数多くの霊界の道人たち、イエス様と神様まで全部が動員された全霊界と、天理の原則をもって戦いました。
・天理の原則でなければ天と地が滅びる。先生が探してきたこの道は、間違いありません。
・天は、40日の期間が満ちれば、結局判定を下してあげなければならないのです。先生は最後の決戦で、勝利したという判決を受けました。
イエス様以下数多くの霊人たちが、逆賊として追い込んで反対した文という人の主張が、復帰の恨を解く原則であり、天倫の秘訣の中の秘訣であるという判決を受けて、勝利の基準を立てたのです。
・メシヤならば、霊界の総決議により公認を受けた神様からのしるしがなければなりません。

■女性心情の代の伝授と獄中暮らしの苦しみ出発
・エバは再創造できる原則があるため、朴氏ハルモニが先生に反対したので、代わりに他の人を立てるようになりました。
・家庭的な基準を立てられなかったことにより、先生は平壌で1948年2月22日に収監されて、2年8ヵ月の間獄中にいました。
それは洗礼ヨハネが使命を果たせず、イエス様が十字架の道を行かれたのと同じことでした。
・獄中には、ラケルの立場である金氏が共に収監されていました。
金氏はラケルの立場、朴氏ハルモニはレアの立場であり、さらにまた羅氏という婦人がいました。
この三人の婦人が先生に協助しなければならなかったのです。
失った娘、姉、母、この三代の心情を復帰するために、おばあさんから20代の年齢の女性に至るまで、みな復帰しなければなりません。
・先生は、三時代の女性を復帰する基準を立てなければならないので、心情の十字架を背負う道を行かなければなりませんでした。
・人類の僕の僕まで取り戻してこいという、それを取り戻すために、最低の場である監獄にまで行くのです。監獄から門を開けて出てくるのです。

⑧興南監獄の受難 (1948.2.22~1950.10.14)

■平壌での三ヵ月受難と興南移送(1948.2.22~5.20)
・(北韓で)三度目の投獄、「平壌内務署」拘束(1948年2月22日、日曜日午前10時)
・当時、北韓政府の政策は、すべての宗教を抹殺することでした。
・既成教会の牧師たちは、彼らの教会の多くの信徒たちが先生の所に来たために、先生を告発しました。
・南韓のスパイとして追い込まれ、李承晩政権の手先だとか、「北側政権を略奪するためのスパイだ」など、あらゆることを言われました。
・先生は監獄に入ったその日、腕に手錠をはめられながら、「これは神様が私を愛されているというラベルを貼られることだ」と考えました。
・結局、世界的な荒野に追われました。4300年の歴史を、43年で再蕩減しなけれぱならない、つらく悔しい事実……。
・国と世界の版図を、神様が6000年間苦労して残した功績をすべて失って、興南収容所を訪ねていきました。
・天と地の未来の希望としての解放の民族が、先生を歓迎しようとしたその群れが、雲の中の地獄に消えていき、暗黒の世界に消えていくのを見ながら、痛哭して、再び会おうと叫んだのです。
・「お前たちは消えていったが、私は再び私の行くべき道を行き、そして、光明なる朝日を抱いて、お前たちを訪ねて行き、再び解放を与えよう!」と宣言しました。

■過酷な拷問、取り調べ
・私は血を吐く拷問の場で、何度も倒れながら、意識をすべて失ってしまう場でも、「お父様、私をどうぞ救ってください」とは祈祷しませんでした。「お父様、心配しないでください。いまだに死にません。あなたに約束した志操が、そして責任をもつべき使命が私にはあります。同情を受ける時ではありません」このような祈祷をしました。
・拷問を受けて倒れるその瞬間が、神様の声を聞ける瞬間であり、今にも息が絶えそうなその場が、神様に会える場なのです。
・私がむちで打たれるのは、私のために打たれるのではなく、民族のために打たれるのであり、私が流す涙は、この民族の痛みを身代わりした蕩減の涙だったのです。
・服を脱げば、この道に乗り出してきて生じた傷跡が、何箇所もあるのです。それを眺める時、この傷跡は人類と天が私に与えた勲章であると思うのです。「お前、その時に決意したことを、お前が死ぬ時まで命をかけて行くと言ったその誓いを、忘れてしまったのか」と。その傷跡を見るたびに、朝、昼、晩、眺めながら誓うのです。「この傷をもったお前は勝利しなければならない!」、「勝利しろ」と激励するのです。

■興南特別労務者収容所強制労働(1948.6.21~1950.10.14)
・先生は北韓の共産党の監獄に入っていき、2年8ヵ月の間、肥料工場で重労働をしました。
・金日成はソ連の経験を見本にして、すべての囚人を3年の間強制労働に動員し、彼らを死ぬまでそのままにしておきました。
・一組10人の一日の責任量は1300かますであって、8時間以内に終えなければ、食糧が半分に減るようになっていました。
一般社会の人は、70個、80個もできないのに、「倍の基準でしろ」と言うので、それは「死ね」と言うことと同じなのです。
・体は硫酸で害を受けます。髪の毛が抜け、皮膚を絞ってみれば水が出てきます。6ヵ月が過ぎると、必ず喀血します。大概、肺病だと思って落胆するので、死んでしまいます。せいぜい1年半か2年しか耐えられません。肉が全部裂けて、骨が見えるほどになり、血が出るのです。朝には、血がぽたぽた流れ、皮膚が裂けるのです。
・先生は、そのような仕事をするために生まれたのだと考えました。先生は常に、あたかも復帰摂理をするかのように、すべての心情とすべての誠意を、その仕事に注ぎました。
・暑い所でも私は下半身が見えないようにしました。貞操を守る女性以上の訓練をしてきました。女だけに貞操があるのではありません。男にもあるのです。
・数ヵ月後、先生は最高の労働者と称されました。責任量を果たせなかったことがありませんでした。監獄に入った人として、所長からも特別接待を受けました。話はしなかったのですが、皆が仰ぎ見たのです。

■残酷な飢え
・一日にくれる御飯は、小さな茶わんで1.7杯ぐらい。おかずは何もなくて、汁は大根の葉を入れた塩水。それを食べて8時間労働をするのです。食べるものが少なくて、大きい口なら三口で終わってしまいます。
・御飯を自分の口の中にほうり込んだところ、のどが詰まってすぐに死んでしまった人もたくさんいました。一人の囚人が、自分の御飯を全部食べる前に死ぬと、他の人々が、その死んだ人の口から御飯粒を取り出して食べるために争います。
・御飯一粒、米一粒が落ちると、互いに拾って食べようとします。蝿がつき、うじ虫がついても、そのようなことは考えにもありません。そのような死の谷間です。
・1年も経てば、1000名のうち、40パーセント以上が死んでいったのです。ですから、毎日葬式を執り行うのです。毎日、裏口から棺が出ていくのを見なければならないのです。
・3年ないし4年経てばみな死ぬのです。死ぬ時までこき使おうという政策を用いてくるのです。無慈悲にも、冷酷なことにも、限界線があるのです。ところがこれは、限界線を越えに越えていたのです。
・先生が監獄生活をする時、社会的な名士とか、宗教的な代表者だとかいう人たちと一緒に生活してみたが、その人たちは、みなパンのために生きる人たちです。
有名な牧師なが「腹が減ったその場で、いくら神様を探し求めても神様はいる感じがしない。影さえも現れない。神様は降参をしたのか。神様は逃げたのだ」と言い、唯物論者になってしまいました。
ある地方で有名な牧師が、彼の婿と一緒に監獄に入ってきたが、その婿がマラリアを患うようになりました。その牧師は、マラリアの薬を持っていても与えず、はったい粉と交換してしまいました。

■三週間の半分の食事
・先生は他の人たちに先生の食事の半分を与えました。それを三週間続けました。先生は「半分の食事を食べても、作業量を完遂できる」と確信するようになりました。
・その時から先生は、先生に分け与えられた食事をすべて食べるようにしました。そして「先生の食事は半分で、残りの半分は神様によって与えられたおまけだ」と考えました。
・ひもじい時の御飯一粒がどれほど貴いものか、御飯一粒がそれほどまで全神経を刺激できるのかということ感じ、それに対する無限の価値を感じることができました。
・腹が減って、御飯を恋しがりつつも、それを忘れようと努めながら、神様をより一層恋しがろうと、涙を流しました。
・腹が膨れている時は世界が大きいと思ったのですが、腹が減っている時には、御飯一粒が地球数個よりずっと大きいのです。
・1ヵ月に1度ずつ、はったい粉を受け取って食べました。皆に分けてあげました。絶対一人では食べませんでした。
・先生は常に一番古い服を着ていました。良いものは他人に与え、擦り切れれば竹で針を作って縫って着ました。

■収容所の受刑生活
・先生は興南監獄で3年近い歳月を送りましたが、何人かの食口たちのための祈祷は、1日に3度ずつ、毎回してあげなかったことがありませんでした。
・困難になる時は、絶対に祈祷しませんでした。1週間でも1ヵ月でも話をしませんでした。
難しければ難しいほど、「私の最高の知恵を尽くして、精誠を込めて、どのようにこの困難な環境を、神様が私によって溶かし出すことができる道を模索するか」と考えました。
・先生が暮らしていた部屋には、36人が住んでいました。先生はそこの一番暑い所、一番においのする、最低の場所、糞尿桶の隣で過ごしました。それでも、「ちょうど良かった。将来、我が身を輝かせることができる、人類歴史を導くことができる、良い機会が今ではないか」と、考えました。
・獄中で水をくれると、小さな湯飲みに3分の1にしかなりません。その水を飲まずに、手ぬぐいに浸して、体をふくのです。
・監房において、約10分ないし15分前に1人で起きて冷水浴をするのです。さらに自分の体力を保持するためには運動をしなくてはなりません。
・どこかに座る時は、体を汚さないように必ず聖別して座り、立ち上がる時は、必ず聖別して立ち上がったりしたのです。・友達がたくさんいました。しらみの友達。それから、のみの友達、南京虫の友達、蚊の友達、はえの友達。これらを捕まえておいて、運動させる。
・その中で最も難しかったのは、毎日感想文を書けということでした。先生は書きませんでした。しかし仕事においては、成すべきことはしていたので、いつも白紙で出しても問題になりませんでした。それで一等労働者にならなければならなかったのです。生き残る方法は、それしかありませんでした。

■忠母様の面会
・千里の道を訪ねてきた母を面前に置いて、鉄格子の中から秋霜烈日のごとくに怒鳴りつける時、恥ずかしさで「私がお前の母だ」と言って、ただ口をぶるぶる震わせながら、涙を手でぬぐって背を向けた母が、私は忘れられません。
・その時母に向かって「私は金なにがしの息子である前に、大韓民国の息子であり、世界の息子であり、天と地の息子です。彼らを愛してから母の話を聞き、母を愛すべき道理を知っています。そのような小心者の息子ではないことを知って、その息子にふさわしい母の行いをしてください。」と攻撃をしました。
・約20時間も汽車に乗って来なければならないのです。それでも「息子だ」といって忘れられず、共産党治下の貧しい北側で、はったい粉を作るために、姻戚の8親等の家まで行って、米を一握りずつ借りて一生懸命に来たのに、その場で全部広げて分けてあげたのです。面会する場でそうしたのです。
・私が結婚する時に着た絹織りのズボンのようなものを持って来てくれると、それを全部分けてあげました。そうして私は、ほとんど擦り切れて足の肌が見える合い着を着ているのです。下着のようなものも、全部そうしました。
・私が監獄にいる時、そのような困難な場でも、私は神様に向かって「私に協助しないでください」と言ったのです。
・最も深刻で困難な場所において、神様に会えるのです。そこは最も隠密な場所です。

■獄中での弟子伝道
・獄中生活において、イエス様が追われ、弟子たちが反対した立場を蕩減復帰しなければなりませんでした。先生はその監獄生活の中でも、霊界が協助して十二名の弟子たちを伝道したのであり、それによって新しい摂理が出発できるようになったのです。
・見知らぬ人の夢うつつの中に神様が現れて「お前、なにがしが監獄にいるのだが、彼に食べる物を持っていけ!」というのです。「そうしなければいけない」というのです。それで私は御飯も餅もたくさんもらって食べ、物もたくさんもらって使ったのです。
・先生の囚人番号は596番、「オ・グ・リュク」番。「オグル」な(韓国語でぬれぎぬを着せられて無念だという意味)番号です。ある人の夢に先祖が現れて「何号室に596番なる方がいらっしゃるのだが、お前がもらったはったい粉を、少しも手を付けずに、その方に持っていって差し上げろ」と命令したのです。
それでも「こんな荒唐無稽な夢が何だ」と言って、聞かないので、二度、三度言い、しまいには首を締めながら、「こいつ!やるか、やらないのか」と言ったので、「はい、いたします」というようになったのです。
・世話になれば必ず返さねばならない。「これは私の一生で返そう」と思ったことで、返せなかったことがないのです。もしその人がいなくなれば、他の人を通して、そのような条件をかけて何倍にして、全部返してきたのです。死んでも、負債を負って死んだという墓を残したくないというのが、先生の生活哲学、人生観なのです。

■韓国動乱勃発(1950.6.25)
・メシヤが生まれる場所が祖国なのです。祖国の主権を回復するのために、独立軍として犠牲になった人たちが韓国動乱の参戦勇士たちだったのです。
・韓国動乱当時にイエス様が空中に現れたというような話も、イエス様の顕現とともに、韓国動乱は、神様の聖殿を取り戻すための神聖な戦争なのです。
・韓国は摂理的重要国として、真の父母の顕現で理想的祖国になるために、祖国主権復帰のために、天がすべての民主世界のキリスト教思想国家を動員して犠牲にさせたのです。
・もし韓国が統一教会を受け入れていたならば、韓国動乱は起きなかったのです。3年間もあれば完全に国家基準を全部収拾したはずです。そして7年路程もすれば、世界に完全に道を築いたはずです。
・キリスト教が支持しないことにより、サタンが浸透して打つことができる基盤ができたのです。それにより二つの怨讐が生じました。それらが共産世界とキリスト教なのです。
・共産世界は韓国を足場にすることができなかったならば、あのような勢力をもてなかったことでしょう。
・マッカーサー将軍の言うとおりに、中国本土空襲を行っていていたら、1952年6月までに終わったのです。解放以後、7年目に終わるのです。

■B-29の興南一帯の爆撃(1950.8.1)
・1950年8月1日、100機ほどのB-29機が総攻撃して、興南監獄を激しく爆撃しました。
先生はこのようになることをあらかじめ知っていただけでなく、直径十二メートル以内は神様が守ってくださるということを知っていたので、近くの人々にみな先生の周囲にいるように言い聞かせました。
・共産党は、6・25動乱が起こるや否や、すべての一線に収容所にいる囚人を全体動員したのです。

■国連軍の興南上陸と劇的な出獄(1950.10.14、深夜2時ごろ)
・興南を北韓地域の中で一番先に奪還しました。そうして、彼らが逃げたので先生が出てきたのです。
・10月12日、刑期が7年以上である囚人、およそ70名ほどを、三里ほどの山の中に引いて入っていき、全部殺してしまいました。先生の刑期は5年であったために、その次の次の日が先生が引っ張られていく番でした。
13日、国連軍が興南に上陸したのです。そのようにして、ついに10月14日共産軍が退いて、すぐ先生たちは監獄から抜け出てきました。
・先生の場合、刑務所から出てこようとすれば、判事が許可してくれるのではなく、サタンがしてくれたのです。サタンの公認を受けてこなければならないのです。
・先生は、先生がすることになっていたすべてのことを完遂したので、天使長国家(アメリカ)と国連軍が北韓を攻撃して、先生を解放させました。それで先生は監獄を出てきました。
・1950年10月14日。先生の死刑執行予定日の前日、マッカーサー元帥の連合軍が、先生をそこから救出してくれたのです。それは、全く神様の恩寵でした。
・国連軍が上陸して、監獄の門を開いて、先生を救出するようになったために、そこから民主世界が救いを受け、後援を受けることのできる因縁が残されたのです。

■監獄暮らしの歴史と伝統
・先生が生涯において何時、どんな苦労をしたか、監獄に入った日とか、監獄から出てきた日とか、そのようなすべての事実をはっきりと知って、一覧表に書いておいて、そのような日々を記念しなければなりません。
・統一教会の教理が広がる世界各地において、統一教会の原理のみ言を聞く若者の胸に、興南の監獄生活を通した先生の生涯路程が、新しい蘇生の爆発力を再発させることができる力をわき立たせる役事をしているのです。
・人を再創造することができ、新たに再評価をすることができる場所は、監獄しかありません。それゆえ若い人々を一度ずつほうり込んで、公式的な訓練をさせてこそ、世界を統一できる人々を育てあげることができると先生は考えるのです。

2、キリスト教二世を中心とした摂理の再出発(1954.5~1955.7)

 

①キリスト教二世を中心とした摂理圏

・神の摂理は、一世である当時のキリスト教指導者を一つにしようとしたのですが、彼らが神様のみ旨に完全に反対する立場に立ったために、再び二世を中心とする糾合運動が起こったのです。それが、梨花女子大学と延世大学の事件です。
・梨花女子大学と延世大学、これはアダムとエバと同じ相対的な関係、キリスト教の二世たちです。
・延世大と梨花女子大を中心として復帰されたならば、キリスト教の六大宗派のすべての息子、娘たちが来て、あっという間に完全に二世を占領するようになっていたのです。
・原理原則において、二世が完全に一つになるようになれば、一世のカインは屈服するようになるのです。一世は死ぬのではなくて二世と共にカナンの地に入ることができるのです。
・先生が相手とするのは結婚していない男女です。童貞、処女を相手とすべき先生であって、ぼろ切れ、犬の糞のような者を集めて、世界を救わなければならない先生ではないのです。
・先生が大統領に会う前に訪ねていったのが、梨花女子大の総長金活蘭でした。金活蘭はメシヤを待ち望んでいたので独身だったのです。
・延世大学と梨花女子大学は、一つは長老派の協助を受け、もう一つはメソジスト教団の協助を受けていました。
・当時、梨花女子大は副総長の朴マリヤを中心として、李承晩大統領の夫人と連結していました。それゆえ宣教師の基盤を中心として、その時政府と完全に一つとなることができるようになっていたのです。
西洋の宣教師を抑えて、金活蘭と白南柱の二人が一つとなって、統一教会を完全に迎えていたなら、李承晩を通し、一気にキリスト教文化圏であるアメリカに渡っていけたのです。

■キリスト教と李承晩政府の連結
・アダムとエバを中心として見てみると、延世大と梨花女子大は堕落していない若い青年男女と同じ立場でありました。
・李政権と完全に一つとなれば、キリスト教を中心として国が決定されるのです。そのようになっていたなら、韓国を中心として今日、真の父母の理想は堅固に出発していたはずでした。
・梨花女子大と延世大の二世を立てて、李博士を中心とする家庭圏まで連結させることによって、国家基準まで自然に一つになれるのです。ところが、これに既成教会が反対したのです。
・李承晩には度胸があってホッジ将軍をコントロールしていたので、「この宗教理想によって世界を制覇できる」と主張して出れば、米国まで逆襲し、世界へと伸びていくことができる道が完全に準備されていたのです。

②梨花女子大、延世大退職退学事件(1955.3~7)

■梨花女子大、延世大事件
・延世大学と梨花女子大学の学生たちに命じて、「このままでは駄目だ。二世が火を付けなさい。「ため」に生きる平和と正義の道を立てなければならない」と言いました。
・一日に80名ずつ、荷物をまとめて出てくるのです。塀を越えてくるのです。「風呂に行く」と言って飛び出してくるのです。その娘たちに「来るな」と言うと、「どうしてですか!来ることができなければ私を殺してください。学校には死んでも行かない。」と言うのです。先生のそばで、糞の臭いがしようが、足のくさい臭いがしようが、それが香ばしいというのです。
・そこで総長の金活蘭博士は、宗教社会事業科の科長であった金永雲先生という神学校を出た頭のいい先生を、「統一教会の内容を調べなさい」と送ったのですが、この方が原理のみ言を聞き、一週間で転向してしまいました。
そうしたら、それ以外の多くの梨花女子大学の教授が、あっという間に、みんな参席するようになりました。
・約380名ほどになる寄宿舎の学生たちが、この原理のみ言を聞いて、みな参席するようになりました。
・それで韓国の全国民が反対したのです。反対しない人がいませんでした。政府から、教会から、学校から、宗教団体はもちろんのこと、すべての家庭が全部が反対したのです。
・既成のキリスト教が我々を憎み始めたのです。賢い人が統一教会の原理を一日だけ聞けば、一週間以内にみな転向してしまうのです。そのように見る時、歴史上のすべての敵の中でも、このような敵はいなかったというのです。
・統一教会が現れて、賢い人がいれば、この教派から、あの教派からと、残らず引き抜いていくというのです。
それゆえに、梨花女子大事件の時には、二ヵ月もたたずに、退学問題だとか、緊急措置問題を中心として弾圧をしてきたのです。

■梨花女子大、延世大事件の主導勢力
・先生は梨花女子大と延世大を6ヵ月の間に、私のこの手で消化しようとしたのです。そうすれば、キリスト教は7年以内に統一教会の真理の前に屈服するはずであるという自信をもっていたのです。
・延世大事件、梨花女子大事件は、キリスト教と自由党が主導したのです。
・金活蘭と朴マリヤが主導となって、景武台(大統領官邸)に行って偽りの証言をし、五つの部署の長官を動かして、統一教会をなくしてしまい、完全に埋葬してしまおうとしまいました。
・延世大、梨花女子大事件が起こらなければ、景武台と連結され、キリスト教全体が連結されたのです。
その時、金永雲が宗教科長でした。主だった先生たちが全部復帰されたため、金活蘭が反対できないようになっていました。
・梨花女子大学校と延世大学校さえ復帰され、反対しなかったならば、韓国のキリスト教がすべて復帰されるようになっていました。

・韓国において、梨花女子大学、延世大学が統一教会を除去するように、宣教師らが背後で糸を引いていたのです。
・朴マリヤを中心として、金活蘭が大統領夫人のフランチェスカを中心として、後ろで米国の宣教師たちによって操られていたのです。
そこで宣教師を抑えつけなければならなかったのです。当時、学長級の教授らが五名復帰されていたので、完全に宣教師たちを圧倒することができたのです。
・そうすれば昔のユダヤ教の世界的版図と同じその基盤において、米国とキリスト教が一つとなって統一教会と完全に一つとなることができたのです。金活蘭と完全に一つにならなければなりませんでした。。
・米国人は天使長であり、韓国はアダムと同じ主体的立場にあるので、金活蘭が度胸を据えて、反対にひっくり返して、主体の位置を取り戻して、蕩減復帰しなければならないのに、それができなかったというのです。
・金活蘭が宣教師を完全に屈服させ、李博士と一つとなっていたならば、今ごろは完全に統一教会の天国になっていたのです。環境がすべてそのようになっていました。

■一方的な退職退学処分 (延世大教授1名、梨花女子大教授5名、梨花女子大学生14名、延世大学生2名)
・梨花女子大は、宣教師を背景として米国の援助を受けている立場にあったので、大変な危機を感じたのです。
緊急措置として取ったのが退学処分です。学校を取るのか、統一教会と文先生を取るのか、二者択一を迫ったのです。
・梨花女子大総長の金活蘭は有無を言わさず、「二者択一だ、統一教会か退学か」と迫ったのです。
・学校も、5大科長たちを全部追放し、統一教会の主謀者となった学生14人を何の相談もなく、一方的に退学処分にしたのです。
・1945年に出発して、1955年に梨花女子大事件が起き、国全体が大騒ぎして「文なにがしを殴り殺せ」というようになったのです。

③梨花女子大、延世大事件の結果と影響

■再出発基盤の瓦解
・延世大学と梨花女子大を中心として、1950年代に6ヵ月だけ待って、キリスト教が先生と手を組んでさえいたら、世界のキリスト教は7年以内で、間違いなく統一されたというのです。
・その時でも遅くはなかったのです。1955年度までに最初の摂理から10年がたっていましたが、遅くはなかったというのです。
・ところがその時、退学事件が起きたことにより、先生は監獄に行くことになり、神の摂理に一大問題が生じました。
・イエス様の時代にユダヤ教が反対したのと同じようになったのです。これによって先生は、荒野に追い出されたのです。4000年の間、天が準備したすべてのことを失ってしまいました。
・1955年の時の梨花女子大学事件は、挙国的であったというのです。国家と既成教会が一つになって、李承晩主権下の五大長官が、統一教会をなくすために総動員されたのです。

■事件の主導者たちの結末
・その時、朴マリヤと李起鵬を中心として、大韓民国大統領の李博士、フランチェスカ、金活蘭が国を滅ぼす元祖となったのです。
李起鵬と朴マリヤは、どうなりましたか。息子によって天罰を受けたとしても、それほどの天罰がどこにありますか。
・李博士も朴マリヤも、一家は全部死んだのです。天に反対した者たちの行く末は悲惨なものです。李博士の末路が哀れでしょう。
・金活蘭がどうなりましたか。名前と同じく患難(注・韓国語の発音でファルラン)を受けたのです。雷に打たれるようになったのです。
学校の教権の看板を掲げて、宗教団体を犠牲にしようとし、学生たちを犠牲にしたのです。正義に立脚したことではなく、不義に立脚していたからその代償を受けたのです。

※1960年4月28日に、李承晩の養子の李康石が一家心中を図って李起鵬一家(実父母と実弟)を射殺、自らも命を絶った。
※李承晩は1960年5月29日早朝に妻とともに、金浦空港からアメリカ・ハワイに亡命した。韓国で李の見送りに訪れたのは、1人だけだった。

④西大門刑務所の受難 (7・4事件、1955.7.4~10.49)

■ソウル中部警察署(治安局特殊情報課)連行
・1955年7月4日に監獄に入っていったのです。彼らは一つになって「文鮮明を捕まえて殺せ」と言ったのです。その時「共産党だ、何だ」と言いながら、この世の悪いことをすべて先生に負わせたのです。
・イエス様が十字架にかかっていったのと同じように、最後にサタンに引かれていく出来事まで起こりました。7・4事件がその代表的な例です。
・その時に、ばかにされ冷遇されたことは、先生は今でも忘れられません。彼らがしたことが先生の骨髄にしみ込んで、いまだに忘れられないのです。先生一人が苦痛を受け迫害を受けることはかまわないのですが、神様が数千年間準備した国と民主世界のすべての基台が崩壊してしまったというのです。

■事件をけしかけた最終的背後勢力
・西大門刑務所事件の時、李博士が五大長官と一つになり、朴マリヤと梨花女子大とフランチェスカの威信を立てるため、あらゆることをしたのです。
・文教部と、文公部(その時は公報部)、それから内務部、法務部、外務部の五大長官が一つとなって、権力で文総裁を捕まえようとしたのです。その五大長官が、「文総裁を除去しろ」という指示を受けたことは知っています。

■兵役法違反容疑
・1955年の梨花女子大事件。東亜日報が支持すると、それに対して政治的圧力が加えられました。そうして五代長官が文総裁を捕らえて殺そうと計画したのです。
・あらゆる怪しいうわさを立てて先生を調べたが、調査してみると何もない。それで「兵役回避だ」というのです。先生は北韓から監獄生活をして出てきたので、兵役の年齢は過ぎていたのです。それをもって兵役回避だと起訴したのです。

■拷問の取り調べ
・先生は、神様に侍っていくなかにおいて、「私」というものを考えたことがありません。むしろ先生が同情しなければならない神様であると思いました。西大門警察署に引かれていく場においても、牢獄の身、鉄格子に閉じ込められる身になってもそうでした。
・み旨の道を行くための最初の歩みを出発したときから、「このように命が残っているので感謝します」と言って、むしろ神様を慰めてさしあげました。
・今日の統一教会の伝統的思想をもってきた歴史的な蕩減基準を残すために、そのような道を歩んできたのです。
・私は西大門刑務所に入っていきながら、大韓民国に対して「滅びろ」とは思いませんでした。「既成教会よ、滅びろ」とは思いませんでした。「彼らが分かっていない罪をお許しください。かわいそうな大韓民国が罪を犯したことを蕩減するように、私にすべてを負わせてください。」と、そのような気持ちをもっていました。

■ソウル地方検察庁送検(1955.7.13) 西大門刑務所入監

■ある平壌の婦人の嘲笑と厳しい非難
・先生が1955年度に監獄にいた時、昔先生に従っていたある婦人が訪ねてきて、「文さん、まだそんなことをしているのか」と言うのです。一時は「先生」と言って従っていたのに、監獄に入っていったので、「神の息子であり、神が愛しているならば、なぜ監獄に入るのか」と言いながら、背いて出ていった人です。

⑤崔氏一家の不信と離婚の督促

■聖進様の母親とキリスト教
・南に下ってきて7年間、キリスト教に対する作戦を繰り広げながら、統一教会を発展させる融合工作をした中で、問題になったこととは聖進の母親がキリスト教と一つになって反対し、ありとあらゆる争いが繰り広げられたのです。
聖進の母親も、世の中の男の中で聖進の父親のような男はいないと、それだけは分かっているのです。それゆえに、「自分はどんなことでもするから、どんな女性にも負けないはずだから、統一教会をすべてほうり投げて、自分と楽しく暮らそう」と言ったのです。それは結局、「神様のみ旨をほうり投げさせて自分が主管しよう」ということなのです。完全に堕落したエバの立場だというのです。「アダムを主管しよう」ということです。
・どんなに反対してもうまくいかないから、釜山北部署に来て告発したのです。北部署でうまくいかないので、今度は大邱署に来て訴えるのです。警察署の力を借りて夫を取り戻そうとしたのです。
統一教会が苦労したのも、すべてその人が警察に通いながら宣伝したためなのです。「私の夫が悪いことをしている」と言って、ありとあらゆるうわさを立て、ある話、ない話、なんでも言いふらしたのです。

■崔氏一家の告訴
・聖進の母親の名前は崔先吉です。叔父が崔聖模。韓国が貧しい国家の復興期であった当時において、崔聖模は韓国の第一人者であったというのです。
・崔聖模さえ一つになっていれば、統一教会は迫害を受けることもなく、世界的な宗教になったはずです。梨花女子大事件も起こりはしないし、延世大事件も起こらなかったのです。
・1955年の事件を誰が起こしたかというと、崔聖模が起こしたのです。崔氏が先生を監獄に投げ込んだのです。内務部長官と手を組んで、統一教会をなくしてしまおうとしたのです。その息子の名前が崔淳永。今でも反対しています。
・結局、崔氏のせいで監獄に入ったのです。彼らが告発してそうなってしまったのです。崔氏が問題なのです。

■離婚要求
・その母親と父親、一族が少しだけ協助していたならば、聖進の母親はあのようにはならなかったのです。あのようになっていなければ、統一教会は40年のこのような受難の道を行くことはなかったのです。
・先生が刑務所にいる時、母親と上の兄、下の兄の三人が面会に来て、脅迫、恐喝するのです。「離婚書を書け」というのです。「判を押せ」というのです。それで先生が、「三年だけ待ちなさい」と言いました。「そうすれば、あなた方が疑っているこういうものは、すべて過ぎ去るはずだ」と言いました。

⑥西大門刑務所生活(1955.7.13~10.4)

■罪なき未決囚の牢獄生活
・先生は、統一教会を中心として大韓民国を率いて出発しなければならなかったのに、監獄に入ってしまったのです。しかし先生は、約束の時代でもそうであったのだから、実体の時代である現在においてそうならないはずがあろうかと思って平然としていました。
・先生は監獄に入っても、ただ唯一の心配は、「私が誤ることによって蕩減の道にマイナスとなる結果になりはしないか」ということでした。それが恐ろしいのであって、他に怖いものはありません。
・監獄に入っても、先生にとっては監獄ではないのです。愛の宮殿です。愛は次元の高い「拍子」として、高めてあげるべき一つの芸術作品になるのです。

■入監時の屈辱
・西大門刑務所所長は既成教会員だったのですが、私を見るや「あんたが文なにがしか。一ヵ月は拘留されろ。こいつめ」と言うのでした。先生は冗談で「こいつとは何だ。あなたはこういうことをやってきただろう」と言うと、胸を突かれたのか、びっくりするのです。
・先生が西大門刑務所に入る時、拘置課長が入ってきた人たちを引率していき判を押させました。その時の課長のことは永遠に忘れないでしょう。その男が先生に向かって「統一教会が何だかんだと言っていたが、結局こうなってしまったな」と言ってあざ笑いました。
・昔イエス様がローマ兵に捕まり、ピラトの法廷に出ていく前に、看守たちに愚弄されたように先生もそのようにされました。

■霊界の証と協助
・先生が口を閉じて静かにしていると、霊界から天使たちが現れて、彼らに「お前、文という人の所に行ってあいさつしろ!それから差し入れが来たら全部捧げろ!」と言って、しかりつけるというのです。
・口を閉じて黙っていても先祖たちが現れて、「こいつめ、お前はあの方が誰なのか分かっているのか!」と、霊界の法度を中心として大騒ぎするのです。御飯を食べても「先生の正面に座って食べるな!」と言うのです。食べているときも「頭を下げて食べろ!」と言うのです。

■所長と刑務官たちの態度の変化
・1ヵ月もたたずに刑務所の所長が訪ねてきて、私に「自分が間違っていた」とあいさつし、その上幹部たちが私を招待し、昼食の接待までする運動が起こり始めたのです。
・刑務所にいる人たちが先生の夢を見て、起きてはハッとして、「何号の監房のなんとかだ」と私を思い出すのです。それで朝になれば、先生の所に来て「おはようございます」とあいさつするのです。
・刑務官たちも訪ねてきてはあいさつをし、暑い時ならアイスキャンディも買ってくれるのです。天が共に行く道だから。その道は誰も遮ることはできないというのです。
・看守たちが「先生、何か不便なことはありませんか。何か必要な物があればおっしゃってください。買ってさしあげます」と言います。それで「もちを買ってくれ」と言えば、もちを買ってくれ、「何かの連絡をしてくれ」と言えば、連絡をしてくれたりしたのです。

⑦西大門刑務所出監(1955.10.4)

■無罪の言い渡しと釈放
・7・4事件の時、文なにがしをひっ捕らえて、踏みつけて片づけてしまおうと、既成教会と政府が一つになってありとあらゆることをしたのです。
・先生が刑務所に入ったので、世間ではみな「文なにがしの時代は過ぎ去った」と思ったのです。しかし公判廷で無罪釈放となることにより、新しい統一教会の歴史は始まったのです。
・キリスト教が霊的世界の基盤を築いたので、その霊的基盤の代わりとなり得る基盤を、一段階前進させた立場で先生が築いていくと同時に、肉的基準を立てていかなければなりません。
・先生が満3ヵ月ぶりに出てくる時には、所長も課長も、そこにいた既成教会の牧師も、「よくよく見たら、うわさとは違っていたなあ」と言ったのです。そして看守や何人かの人が統一教会に来るようになりました。
・真なる宗教は監獄から出発するのです。サタンも嫌う人間の「魔」が集まった世界でも、普通の人間たち以上の希望と願いをもつならば、そこから新しい世界まで連結される新しい出発の起源が起こるのです。そこから神様と一つになるのです。
・新聞(京郷新聞10月5日付)を調べてみると、無罪釈放になったという記事は三行しかありませんでした。
・刑務所に入っていく時、先生は恥ずかしいと思って入ったのではなく、堂々として入っていったのです。
出てくる時に「こいつら!私が力をつけたら覚えておけ、全部復讐してやる」という祈祷はしなかったのです。「父よ!笑って訪ねてくることができるようにしてください」と祈祷したのです。それが天の行く道です。そのような道を行く人は、天がいつも保護されるのです。

  1. 4、カナン復帰 ~真の基元節を迎えた聖殿聖徒の使命~

    2020.02.11

  2. 3、メシヤのための基台

    2020.02.08

  3. 2、実体基台 ~韓お母様の堕落を蕩減するアベルカイン一体化宣布~

    2020.02.06

  4. (3)第三次路程 =二代王文亨進様を中心とする復帰路程=1、信仰…

    2020.02.04

  5. 3、第二次路程の失敗 ~韓お母様と霊人の結婚でお父様は十字架に~

    2020.02.02

  1. 4、カナン復帰 ~真の基元節を迎えた聖殿聖徒の使命~

    2020.02.11

  2. 2、実体基台~内的刷新に失敗し外的粛清を受け3つに分立した天一国…

    2020.01.29

  3. 12、総括『驕りし選民 繰り返される摂理の失敗』

    2020.01.06

  4. 7、総括『サタン国家日本、罪の呪縛からの解放』

    2019.12.25

  5. 6、真のお父様の種子

    2019.12.22

  6. 2、誰もが知るべき真実!日本人による拷問の真の意味。

    2019.10.20

  7. ③決定的み言、1988年太田会長の御言報告

    2019.10.01

  1. 4、カナン復帰 ~真の基元節を迎えた聖殿聖徒の使命~

    2020.02.11

  2. 2、実体基台 ~韓お母様の堕落を蕩減するアベルカイン一体化宣布~

    2020.02.06

  3. 2)40年荒野路程と三大祝福復帰

    2020.01.23

  4. 13、驕りし選民韓国人の未来

    2020.01.09

  5. 11、霊人体の成長と天国

    2020.01.04

  6. 10、霊界は心が反映した世界

    2020.01.02

  7. 9、献金の意義、信仰の目的?

    2019.12.30

  8. 8、信仰的自立

    2019.12.27

  9. ②-2 日本2 日本と韓国における迫害の違い

    2019.12.02

  10. ★献金に対する姿勢

    2019.10.15

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