★献金に対する姿勢
日本の献金体制の問題点を炙り出していったとき、もう一つ挙げておかなければいけない問題が、献金を捧げたときの我々の心の持ち方です。
一般的にこうあるべきと言われる献金に対する姿勢は、一旦献金したらその献金は天のもの、その使い道に関しては一切関知しないことと言われています。
それは本当に我々が持つべき正しい信仰姿勢なのでしょうか?
結論を言えば、半分正しく、半分間違っているといえます。
半分正しいというのは、本来は一旦献金を捧げるとそれは天のものです。天がどのように使おうともその使い道を人間的に判断してはいけないということです。
例えば献金と似たような性質を持っているものに税金があります。
国は税金を徴収することで国家を運営しています。
一国を維持するためには、公務員の人件費も必要ですし、道路や公共施設を整備する必要もあれば、箱モノを作る必要もあります。国民の生活を守るために軍事力を強化する必要もあれば、生活保護のための費用も必要です。
しかしそのような必要経費と誰もが理解できるものだけではなく、国と国との交渉をうまくまとめるための裏金も必要な時もあれば、決して表には出せない秘密工作資金も必要だったりもします。
それらをいちいち国民に公表し、使い道として正しいかどうかを判断してもらうなどということはできません。
そのため私たちは私たちの代表としての国会議員を選び、国の政策を委ね、予算の使い道も任せているのです。
もし私たちの意に反した政策を行い、税金を使うようだったら、そんな議員には票を投じないことで自分たちの意思を示すことができるようになっています。
ですから私たちの代表として選んだ国会議員の行う政策を支持し、その政策を実行するための予算の使い方に関しても全幅の信頼を寄せ、使い道を云々することなく税金を納めるようになっているのです。
同じように教会を信じ、神と真の御父母様の代身者としてのアベルを信じ、自分が捧げた献金を、神のみ旨の為に使っていただけることに感謝して、その使い道に関しては一切口出しをしないという姿勢は、信仰者としての基本的姿勢といえます。
しかしもし教会のアベルが神と一体化しておらず、真の御父母様のみ意に沿っていなかった場合、無条件に信じ、献金の使い道に関しても全幅の信頼を寄せ、任せっきりにしてもいいのでしょうか?
さらにはそんな教会のアベルが、食口たちからの精誠の結実である献金に手を付け、高級な車を公用車として購入したり、必要のない贅沢なものを教会の備品として購入したり、教会の経費で個人的に高価なものを購入したり、挙句の果てに公金を横領し私財を蓄えたりしている場合、そんなことにも見て見ぬふりをし、一旦捧げた献金は天のものとして、何も言わずにそのまま献金を続けていてもいいのでしょうか?
献金は天のみ旨に貢献できてこそ善の条件となります。または人の為に使われてこそ、天に積まれる功労となります。
もし献金を使う教会が天のみ旨を行っていなかったら、もし献金を管理する公職者が、自分勝手に献金を使うようになったら、それは善の条件とはなりません。
逆にその教会が天のみ旨の妨害をするようだったら、妨害のために使われる献金は善の条件どころか、悪の条件、サタンの条件となり、献金を捧げること自体罪となってしまいます。
また献金を自分勝手に使っている公職者は万物条件にひっかり、罪を犯すことになります。
例えば、真のお父様がメシヤとしての路程を出発したとき、多くの韓国の教会や聖職者たちが、自分たちの信者が奪われることを恐れ、真のお父様に反対し、迫害し、監獄にまで追いやりました。
そんな教会や聖職者の活動資金を、教会信者たちの献金で賄っているとしたら、その献金は天に善の条件として積まれていたといえるのでしょうか?それとも悪の条件を積み、罪となっていたでしょうか?
真のお父様の活動を妨害した聖職者たちも、教会信者の献金がなかったら、真のお父様を反対するための活動資金を作ることができずに、反対活動を行うこともできなかったはずです。つまり天のみ旨を妨害することもできなくなるので、それ以上罪を重ねることもなくなるのです。
ですから自分が所属している教会が真のお父様を迫害しているのだとしたら、その教会の信者たちは、天のみ旨のためにと信じて献金していたとしても、実際は逆で、天のみ旨を妨害し、サタンに条件を積んでしまっていたことになるのです。
本人はどんなに純粋に神を愛し、神のみ旨のためと思っていても、自分が所属する教会、信じた聖職者が神のみ旨に反していた場合、残念ながらその捧げた精誠は全てサタンに奪われてしまうのです。
したがって、献金に対する姿勢として、ただ純粋に一旦献金したらその献金はどのように使われようが自分は一切関知しないという姿勢は、一面では正しいといえますが、それだけでは十分とは言えません。正しくは、自分が捧げた献金が、どのように使われるか、最後まで見届ける責任があるのです。
上記のような場合では、自分が所属している教会、または教会牧会者が、神のみ旨に合致しているか、合致していないかを、見極める必要があります。なぜならば、み旨に合致していなかった場合、天に精誠を積んでいると信じて捧げていても、実際はサタンに条件を積んでしまっていたとなったら、悲劇でしかありません。
他の例を挙げると、企業が事業を行う場合、自己資金だけで事業を行うということはほとんどありません。銀行から融資を受けて設備投資を行い、事業を展開するのが一般的です。
銀行は融資を行う際、その企業の事業計画書や、今現在の事業収支報告書等を参考にしながら、融資を行うことによって、さらなる収益が見込めるかどうかを稟議にかけ、融資が適当か否かを判断します。
そしてその融資が、事業の発展にとって有効であると判断した場合にのみ融資を実行するようになります。
しかしある程度の規模の会社になるとそれだけでは終わりません。
融資した資金が適切に使われているかどうか、銀行員をその企業に出向させて、継続的に企業を指導します。出向した銀行員は融資した資金だけでなく、企業全体の経営と経理を把握することもできますから、企業としても健全な経営を行おうとより一層努力するようになります。
自分の会社に銀行の出向社員がいる場合、融資した資金が適切に使われていないと判断されれば、その資金は突然強制的に回収されるかもしれないし、さらなる融資を希望しても、それ以上の融資は受けることができなくなる可能性もあります。
出向社員を抱えることにより、会社は不正を行えなくなり、必然的に健全経営を行わざるを得なくなるのです。
健全経営を行う会社が増えたなら、その会社は銀行にとっても優良顧客となりますので、大きなメリットとなります。
このように一般社会でも、お金を提供するということは、お金を出してそれで終わりというわけではないのです。
そのお金が本当に有効に使われているかどうか、最後までチェックし、確認する責任が発生するのです。
この基準を教会にあてはめると、教会に献金した食口は、自分たちが捧げた献金が、教会で言っていた献金の目的に、間違いなく合致していたかどうかをチェックする必要があるということです。
本来の基準を当てはめれば、1円たりとも自分の為に使われることは許されません。
『超漢俊伝説』にあるように、真のお父様の前にメシヤが送られる予定だった超家で、超漢俊は全財産を投じて石橋をかけたが、残った7文で自分の草履を買ったばかりに、超家にメシヤが誕生しなかったという伝説があります。本来神のみ旨に捧げなければいけない献金は、1円たりとも自分勝手に使うことは許されないということです。
ですから本来は、教会が献金が何にどのように使われたかを、いちいち全てを発表できるほどに、ガラス張りにしていなければいけません。一般食口に発表できない使い方ということは、神に対しても報告できない使い方ということになります。
全てを正直に、一切負債無く発表できるような使い方をしなければいけないということです。
教会が発表できない、またはしないというならば、一般食口の中から、全てを監査する監査人を置くべきです。銀行からの出向社員のように、教会の経理をすべて監視できる食口を置き、教会経営を完全に透明化しなければいけません。
今までの教会の常識、カインはアベルに物申すことなどできない、というようなカインアベル観からいって、教会では実現できそうもありませんが、そうでもしなければ教会の健全化はありえません。
しかし現実的には、上からの改革は不可能でしょう。改革=既得権益の放棄になりますので、既得権益のある大幹部たちは、命がけで反対してくることでしょう。
実際子女様たちが改革を行おうとしたときも、大変な反対にあい、結果的に返り討ちにされてしまいましたから、一般食口が立ち上がったとしても、決して改革など認めるはずもありません。
今の家庭連合の組織では、改革などということは夢の夢でしかないのです。
宗教は元々経理に関しては公開の義務はなかったと思います。
しかし韓国の統一教会は宗教法人ではなく、財団でしたのでそのへんはどうなっているのかよくわかりませんが、会計報告をしているという話を聞いたことはありません。献金の使い道が一般の食口に公表されたことはないと思います。もし意識の高い人が現れて公表しようと思ったとしても、あまりにも不正が多いため、公表できないのではないでしょうか?
しかし驚くべきことに、サンクチュアリ教会では、米国と韓国で毎年財務報告を行っていると言います。
https://www.sanctuary-pa.org/financials
サンクチュアリ教会は家庭連合を反面教師としているため、摂理献金もなければ、解怨献金も最低限で可能です。祝福献金にしても各教会で金額は違ってきますが、ほとんど実費と言ってもいいくらいの基準です。
教会自体が本部に献金を収める場合、十分の一でいいと言われると言います。あとは自分たちで創造的に使用するようにと指導されていると聞きます。
これが理想的な教会の運営方式とまでは言いませんが、このようにガラス張りにすれば、不正がはびこる余地はありません。誰から言われるでもなく、このように透明な経理を行っていれば、監査を置いて監視する必要もなく、信頼して献金を捧げることができるのではないでしょうか?
献金に対する姿勢として、とりとめもない文章になってしまいましたが、結論を言うと、献金をした人は自分の献金に対して、最後まで責任を持たなければいけないということです。
献金を捧げたらそれで終わりというのではなく、自分の献金がどのように使われているか、最後まで見届ける責任があるということです。
自分が捧げた献金で、神のみ旨が妨害されたなら、それは間違いなく罪になります。
自分が捧げた献金で、聖職者が堕落し、教会が堕落してしまったら、献金を捧げた人にも責任はあります。
芸能人の二世や、大企業の二世にお金を無制限に与えた結果、堕落し、麻薬に走り、犯罪を犯してしまったというのはよくある話です。その時誰もが思うのは、親が悪い、お金をいくらでも与える親にも責任がある、親が問題だと考えます。
それと一緒です。正しくお金を管理できない人間に、いくらでもお金をあげた時、その人は堕落してしまうのは必然です。本人に問題があるのはもちろんですが、与えた親にも責任があるのです。
言われるままに献金を捧げた結果、教会が堕落し、教会幹部が堕落してしまったら、やはり言われるままに献金を捧げた人にも責任があると言わざるを得ません。
献金を捧げるのならば、その献金の使い方にまで責任を持たなければいけないということです。
平安北道定州に弥勒(メシヤ)が誕生するという伝説
「万暦任寅年間超漢俊なる者がいたが、(中略)全財産を投じて石橋を架けた。終わって余財は七文ばかり、それで一足の草鞋を買い取って旅に出た。
もし漢俊が七文で草鞋を買わなかったらば、明の皇太子に生まれ代わったのに、七文を利用したから皇女に生まれ、惨殺されたのだ。」
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このブログ記事は、このサイト『驕りし選民 繰り返される摂理の失敗』の一部を掲載したものです。
『驕りし選民 繰り返される摂理の失敗』は、今まで罪深いサタン国家と教育され、献金の無間地獄へと追いやられていた日本人を解放するためのサイトです。
実際は罪深いどころか、日本無くして1920年に真のお父様を韓半島へとお迎えすることはできませんでした。
日本が朝鮮半島に進出することにより、朝鮮にキリスト教が復興し、ロシアの侵略による共産化を防ぐことができました。
このサイトではこのような歴史的真実を明らかにすることにより、神と真のお父様の真の願いを追い求めたいと思います。
同時にこのサイトでは、本当に罪深く、自ら滅びの道を歩んでいるのは誰なのかを明らかにしていきます。 ここで明らかにされることにより、自ら悔い改め、滅びの運命から逃れることを期待するものです。
今回の記事は、 本来の摂理的エバ国家は日本!? の一部です。
ご興味を持っていただけましたら、本文をお読みいただければ幸いです。
※テーマ一覧
サタン国家日本、罪の呪縛からの解放
日本の韓国統治40年
本来の摂理的エバ国家は日本!?
真のお父様 6度の監獄生活
驕りし選民 繰り返される摂理の失敗
再臨摂理を失敗したのは誰か?
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