(2)日本の韓国統治40年

(2)日本の韓国統治40年

原理講論には「40年間、第一、第二イスラエル選民が、エジプトやローマ帝国で受けたそれに劣らない迫害を受けたのである。」とありましたが、原理講論にあった内容のほとんどは、事実とはかけ離れた、根拠のあいまいな情報を基に書かれたものであったことがわかりました。
それでは日本による朝鮮統治時代40年間は、実際どのような統治がなされたのかを見ていくことにいたします。

1、日本の韓国統治時代概要

①朝鮮王朝末期の韓国

日本にいて朝鮮末期の状況を調べるとき、最も客観的な資料というものは、日本人や韓国人による資料ではなく、全く利害関係のない外国人による資料が最も信頼できるものと思われます。
そんな前提条件のもと、ここではよくネットでも取り上げられているイザベラ・バードの『朝鮮紀行』とシャルル・ダレの『朝鮮事情』を参考に李朝末期の朝鮮の様子を見てみたいと思います。

・李朝末期のソウル
路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家家から出た固体および液体の汚物を受ける穴かみぞで挟められている。
悪臭ふんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子どもたち、疥癬持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げ回ったり、ひなたでまばたきしたりしている。
「冬にはぬかるみ、ならしてない場合はでこぼこの地面と、突き出た岩の上をわだちが通っている。道と言っても獣や人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路に過ぎない」

・文化的建造物
「ソウルには芸術品はまったくなく、古代の遺跡もわずかで、公園もなければ、まれな例外を除けば見るべきイベントも劇場もなく、旧跡も図書館も文献もなく、宗教におよそ無関心であったため寺院もなく、迷信が影響力をもつため墓地もない」

・両班制度について
両班は公認の吸血鬼であり、ソウルには『盗む側』と『盗まれる側』の二つの身分しかない
「朝鮮の災いのもとのひとつにこの両班つまり貴族という特権階級の存在があるからである。
両班はみずからの生活のために働いてはならないものの、身内に生活を支えてもらうのは恥とはならず、妻がこっそりよその縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。
両班は自分ではなにも持たない。自分のキセルですらである。(中略)慣例上、この階級に属する者は旅行をするとき、おおぜいのお供をかき集めれるだけかき集めて引き連れて行くことになっている。本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの住民を脅して買っている鶏や卵を奪い、金を払わない。

・朝鮮の官僚
「日本の発展に興味を持つ者も少数はいたものの、多くの者は搾取や不正利得ができなくなるという私利私欲のために改革に反対していたとし、堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したが、それは困難きわまりなかった

・非特権階級(民衆)
「年貢という重い負担をかけられているおびただしい数の民衆が、代価を払いもせずにその労働力を利用するばかりか、借金という名目の無慈悲な取り立てを行う両班から過酷な圧迫を受けているのは疑いない。商人なり農民なりがある程度の穴あき銭を貯めたという評判がたてば、両班か官吏が借金を求めにくる。これは実質的に徴税であり、もしも断ろうものなら、その男は偽の負債をでっちあげられて投獄され、本人または身内の者が要求額を支払うまで毎朝鞭で打たれる。」

≪参考≫

イザベラ・バードの『朝鮮紀行』より
ソウルの町並みと悪臭

バードは本書の中で、1894年の訪問時のソウルに関して、道は牛がすれ違えないほど細く迷路のようであり、家から出た汚物によって悪臭が酷く、北京を見るまで「ソウルこそこの世で一番不潔な町」だとし、「紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世で一番ひどいにおいだ」「都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい」と記している。また、人工の道や橋も少なく、「あっても夏には土埃が厚くて、冬にはぬかるみ、ならしてない場合はでこぼこの地面と、突き出た岩の上をわだちが通っている。道と言っても獣や人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路に過ぎない」と記している。

また、ソウルには芸術品はまったくなく、古代の遺跡もわずかで、公園もなければ、まれな例外を除けば見るべきイベントも劇場もなく、旧跡も図書館も文献もなく、宗教におよそ無関心であったため寺院もなく、迷信が影響力をもつため墓地もない、と驚き、孔子廟と碑を除くと公認の寺院がひとつもなく、城内に僧侶が入ると死刑に処せられかねないため、清や日本ならどんなみすぼらしい町にでもある堂々とした宗教建築物の与える迫力がソウルにはないとしている。

両班制度について

両班は究極に無能であり、その従者たちは金を払わず住民を脅して鶏や卵を奪っているとしている。両班は公認の吸血鬼であり、ソウルには「盗む側」と「盗まれる側」の二つの身分しかないと述べている。朝鮮の官僚については、日本の発展に興味を持つ者も少数はいたものの、多くの者は搾取や不正利得ができなくなるという私利私欲のために改革に反対していたとし、堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したが、それは困難きわまりなかったと述べている。

【前編】イザベラ・バード「朝鮮紀行」まとめ
路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家家から出た固体および液体の汚物を受ける穴かみぞで挟められている。
悪臭ふんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子どもたち、疥癬持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げ回ったり、ひなたでまばたきしたりしている。

朝鮮の災いのもとのひとつにこの両班つまり貴族という特権階級の存在があるからである。
両班はみずからの生活のために働いてはならないものの、身内に生活を支えてもらうのは恥とはならず、妻がこっそりよその縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。
両班は自分ではなにも持たない。自分のキセルですらである。(中略)慣例上、この階級に属する者は旅行をするとき、おおぜいのお供をかき集めれるだけかき集めて引き連れて行くことになっている。本人は従僕に引かせた馬に乗るのであるが、伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの住民を脅して買っている鶏や卵を奪い、金を払わない。

(中略)非特権階級であり、年貢という重い負担をかけられているおびただしい数の民衆が、代価を払いもせずにその労働力を利用するばかりか、借金という名目の無慈悲な取り立てを行う両班から過酷な圧迫を受けているのは疑いない。商人なり農民なりがある程度の穴あき銭を貯めたという評判がたてば、両班か官吏が借金を求めにくる。これは実質的に徴税であり、もしも断ろうものなら、その男は偽の負債をでっちあげられて投獄され、本人または身内の者が要求額を支払うまで毎朝鞭で打たれる。(後略)

シャルル・ダレ 『朝鮮事情』
「序論」(『朝鮮事情』)では、以下のように当時の李氏朝鮮の様子を細かく伝えている。

ソウルは、人口が多い大都市であるが、見るべき建築物はなく、空気も流れることのない曲がりくねった路地ばかりで、足元にはゴミが散乱しているとし、道路を作る技術がほとんどないため、利用しにくい道は商取引の障害になっているとしている。
また役人の地位は売買されており、その地位を購入した人は、その費用を取り戻そうと特権を濫用して体裁かまうことなく行動するという。
女性の地位については極度に低く、男性の奴隷や労働力となっているだけとし、また学問については、書物はすべて中国のもので、学ぶ言葉は朝鮮語でなく漢語で、歴史に関しても朝鮮史でなく、中国史ばかり研究しており、科学技術については数世紀の間、まったく進歩していないと伝える。
朝鮮人の衣服については、白衣が一般的であるが、多くの場合、汚れて色変わりしており、富裕な者でも不潔なことが多く、これは朝鮮人の特徴であるとしている。
朝鮮は1871年、72年には酷い飢饉におそわれ、朝鮮人の中には娘を米一升で売る者もあらわれたほどであったが、朝鮮政府は己の利得のみのために、鎖国と固守し、中国や日本からの食料買い入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置する道を選んだと伝えている。

②朝鮮の近代化と日本への併合

・攘夷と開国
1863年、第26代王高宗(11歳)が即位、父興宣大院君が摂政の地位に就き、強硬な鎖国・攘夷策を取る。
1866~1872年、丙寅教獄。カトリックへの弾圧を強化し8千人あまりの信徒を殺害。
1866年、丙寅洋擾。フランス政府は、フランス人神父殺害の報復として江華島の一部を占領、1ヶ月ほどで撤退。
1866年、ジェネラル・シャーマン号事件。通商を求めてきたアメリカ商船が地元の軍と衝突し、沈没させられる。
1871年、辛未洋擾。アメリカは朝鮮へ通商と損害賠償を求めたが、朝鮮側の奇襲攻撃によって拒絶されると江華島を占領し通商を迫った。しかし大院君の強硬な開国拒絶により、アメリカ軍は1ヶ月で交渉を諦め撤退する。

・閔妃一派によるクーデター
1866年、閔妃の一族や大臣達が、大院君の下野運動を始める。
1873年、閔妃一派による宮中クーデターが成功、高宗の親政が宣言され、大院君は追放される。
1875年、江華島事件。江華島周辺で停泊中の日本軍艦を沿岸陣地の砲台から攻撃した事件。
1876年、日朝修好条規(江華島条約)を締結して日本側に謝罪。
それ以降閔氏政権は、攘夷政策から開国政策に切り替え、アメリカ(米朝修好通商条約)、フランス、ロシアなどとも通商条約を結んだ。

朝鮮時代末期、アメリカ、イギリス、フランスによる開国攻勢を、大院君の強硬な鎖国・攘夷政策によって跳ねのけてきたのが、日本との間で締結された江華島条約を機に、開国政策へと転換された。
朝鮮の開国によって欧米諸国との外交関係が樹立されると、プロテスタント諸派が朝鮮に宣教師を派遣した。
それが1903年から1908年にかけて起こる韓国キリスト教のリバイバル(信仰復興)へとつながった。

・攘夷派と揺れ動く閔氏政権
1882年、壬午事変。
旧式軍隊は、閔妃暗殺を狙い、クーデターに動いた。
この軍乱で新式軍隊の教育を支援していた日本も標的とされ、日本公使館が焼き討ちにされ、日本人が多数殺害された。
一時的に大院君が政権を掌握するが、閔妃は清の袁世凱に頼み、これらの軍を排除、大院君は清に連行された。
事変後には済物浦条約が締結され、日本に謝罪を行うとともに、日本人保護のために日本軍の朝鮮駐留が認められた。
清によって復権した閔氏政権は、親日開明政策から開明に消極的な親清政策へ大きく転換する。

1884年12月、甲申政変。
開化派がクーデターを起こし、閔氏を排した新政府を樹立するものの、袁世凱率いる清軍の介入により3日間で頓挫し、清国軍と朝鮮人によって日本公使館は焼き払われ、日本人数十人が殺害され、金玉均らは日本に亡命。
1885年、ポート・ハミルトン事件。イギリス軍によって巨文島が占領された。
1894年、東学党の乱(甲午農民戦争)が勃発すると、親清派の閔氏勢力は清に援軍を求め、一方日本も条約と居留民保護、列強の支持を盾に介入し、乱は官軍と農民の和議という形で終結するが、清軍と日本は朝鮮に駐屯し続けた。
日本は閔氏勢力を追放し、大院君に政権を担当させて日本の意に沿った内政改革を進めさせた。

・清からの独立:大韓帝国
1894年、駐留していた清軍と日本軍との間の軋轢から日清戦争が勃発し、日本軍が勝利すると、下関条約によって朝鮮と清朝の冊封関係は終わり、朝鮮は清への服属関係を廃棄し、独立国となった。
結果、列強が朝鮮に進出する契機を与えることになった。
その後、朝鮮は宗主国をロシアに変える動きを見せ、閔妃はロシアに近づき、親露政策を取る事になる。
1895年10月、乙未事変。閔妃が惨殺される。
1896年、露館播遷。自分の后が暗殺された高宗はロシア領事館に退避する。
1897年、朝鮮は大韓帝国と国号を改称し、元号を光武とした。

清国を宗主国としていた朝鮮は、鎖国・攘夷政策を取っていたため近代化に取り残され、国民の生活は疲弊しきっていた。しかし日清戦争の結果日本軍が勝利することにより、清への服属関係を廃棄し、独立国となることで列強が朝鮮に進出する契機となった。
それにより朝鮮の近代化も一気に進んだ様子がイザベル・バードの『朝鮮紀行』の中にも記述として残されている。

イザベラ・バードのソウル環境改善の印象 『ウィキペディア「朝鮮紀行」より』
ワシントンで市政運営について学んだ知性と手腕の市長(漢城府伴尹)李采淵が、1897年から税関長マクレヴィ・ブラウンの提案のもとに、市内環境改善を行なっており、「不潔さでならぶもののなかったソウルは、いまや極東で一番清潔な都市に変わろうとしている!」「路地には悪臭が漂い、冬にはあらゆる汚物が堆積し、くるぶしまで汚泥に埋まるほど道のぬかるんでいた不潔きまわりない旧ソウルは、みるみる地表から姿を消そうとしている」と記載し、改善点を具体的に列挙し、「首都修復は朝鮮式の法則に従ったもので、西洋化されているのではないことを念頭に置かなければならない」と記している。その結果、ソウルの街並み環境は著しく改善し、バードは、1894年当時そのままの姿の残るスラムを写真に撮ろうとしたが、「そんな場所はどこにも見つからなかった」と記載する程の改善を見せた。

・日本への併合と朝鮮王朝の滅亡
1904年、日露戦争が勃発し、日本が勝利する。
1905年、第二次日韓協約。日本は朝鮮(大韓帝国)の外交権を接収し、内政・財政に関しても強い影響力を得て朝鮮の保護国化を推し進めていく。
1907年、ハーグ密使事件。高宗はオランダのハーグに密使を送り、列強に保護国化政策の無効化を訴え出るがこの主張は国際社会に拒絶された。これらの動きに対し李完用などの親日派勢力、及び韓国統監伊藤博文は高宗に譲位するよう迫り、同年退位した。代わりに最後の朝鮮王、大韓帝国皇帝である純宗が即位した。

1906年、日本は韓国統監府を置き、伊藤博文を初代統監とした。
1909年10月26日、伊藤博文が安重根によって暗殺されると、韓日合邦を要求する声明書が朝鮮人によって出されるなど併合派が優勢となり、韓国併合および大韓帝国の滅亡は決定的なものとなった。
1910年8月22日、韓国併合ニ関スル条約が締結、ここに大韓帝国は日本の一部となり、朝鮮半島の国家は完全に消滅した。

③日本の朝鮮統治

日本統治時代の朝鮮は、慰安婦問題、徴用工問題等、日本によって世界の歴史に類を見ない悪逆非道な仕打ちを受けた期間として、今日においても韓国、北朝鮮によって、全世界にその悲劇が訴え続けられています。
しかしほとんどの場合、植民地として欧米諸国の支配下に置かれた国々は、原住民は大量虐殺され、欧米に奴隷として売られ、劣悪な環境で人間扱いされずに搾取されるため、人口は減少し、平均寿命は短くなります
また教育や環境整備を行い、生活に自由とゆとりを与えた場合、抵抗運動が起こり、独立の機運が高まるため、決して現地に資本投資を行ったり、教育を施すようなことはあり得ません。

このような一般的植民地政策と、日本による朝鮮統治政策を比較したとき、明らかな違いを発見することができます。
韓国の国定歴史教科書によると1777年、総人口は1,804万人であったのが、日韓併合時の1910年には1,313万人となりました。それが1942年には2,553万人となり、併合時の倍近くになりました。
また平均寿命も1910年には24歳だったものが、1942年以降45~56歳へと急速に伸びています。
このことは、李朝518年の統治がいかにひどいものであったかを如実に証明していると同時に、日本統治時代の朝鮮は、生活環境が充実し、食料も十分に供給され、衛生、健康面も急激に向上したことを表しています
では実際、日本統治時代の朝鮮はどのような時代であったのか、資料と写真を見ながら検証してみたいと思います。

★日本統治時代の朝鮮(Wikipedia)より

1910年、大日本帝国は大韓帝国との間に結ばれた日韓併合条約の締結によって大韓帝国を併合し朝鮮総督府の統治下に置いた。日本の同盟国のイギリスやアメリカ、フランスやドイツ、中華民国などの世界の主要国はこれを認めた。
日本による統治期間は、1919年の三・一独立運動までの武断統治期、それ以降日中戦争に至るまでの文化統治期、および日中戦争、太平洋戦争から終戦に至るまでの戦時体制期に大きく分けられる。

併合当初の10年間は所得税の免税措置を行い、インフラ整備、近代教育制度や近代工業の導入など朝鮮半島の開発に力を入れ、開発工事や運営の主な労働力を朝鮮人に求めることで雇用を創出した。
30数年間で朝鮮半島につぎ込んだ日本国民の税金は現在の価値で63兆円にもなり、民間の投資額まで入れると80兆円をはるかに超えるといわれている。

一方で憲兵警察制度や、内地と同様の言論・結社の自由の厳しい制限など武断統治により、朝鮮王朝末期から続いていた抗日運動を抑えようとした。1919年には三・一独立運動が起こったが、日本の憲兵警察により鎮圧された。

三・一独立運動以後、朝鮮総督府は従来の統治政策を修正し、内地と同様に言論や結社の自由が与えられたため、朝鮮人による様々な民族運動が繰り広げられた。満州国と接する北部国境地帯では、共産主義国家であるソビエト連邦の支援を受けた朝鮮独立を掲げる共産ゲリラと朝鮮総督府との散発的な戦闘も発生している。

1929年にカーネギー財団から朝鮮半島に派遣されたアメリカ人記者らは、「日本は併合以来19年間にして、数百年間停頓状態にあった朝鮮と、近代文明国との間に渡り橋を架けてやった。…朝鮮人の苦しみもあるかも知れぬが、日本は莫大な利益をもたらしている」「李氏朝鮮時代よりも日本統治によって朝鮮人民は救われている」との評価をしている。

社会政策
朝鮮総督府により、これまで存在しなかった高等教育や義務教育制度や戸籍制度などの近代的な社会制度の整備がおこなわれた。公立学校では朝鮮語は必須科目であった。

身分解放
統監府は1909年に戸籍制度を導入し、白丁などの賤民にも姓を名乗らせて戸籍には身分を記載することなく登録させた。これにより、白丁の子弟も学校に通えるようになった。身分解放に反発する両班は激しい抗議デモを繰り広げた

教育制度
李氏朝鮮では一般人のための教育機関は皆無で、大多数の朝鮮人は読み書きができない状況だった。
朝鮮では1906年の時点でも小学校が全国で40校未満であり、両班の子弟は書堂と呼ばれる私塾で漢籍の教育を受けていた。
併合後、朝鮮語は公教育で必須科目として教授された
1924年に京城帝国大学が、日本で6番目の帝国大学として設立された。各種学校は1940年代には1000校を超えていた
1938年には「国語を解する朝鮮人」の割合が前年度の8%弱から13%強にまで伸び、1943年末で22%にまで伸びた

創氏
創氏とは、すべての朝鮮人に新たに氏を創設させ、家族を基礎とする日本内地の家制度に近いものに変更しようとしたものである。
創氏改名後は、朝鮮人はすべて先祖伝来の「姓名」に加え、新しく作った「氏名」が増え、2つの名を持つことになったのであり、姓名自体が抹消・変更されたのではない。
改名は任意とされていたため、創氏と同時に改名した者の割合は9.6%であった。

宗教政策
キリスト教は李朝はアヘンと同じようなものと警戒し、カトリックへの弾圧は断続的に行われた。
朝鮮におけるキリスト信者の成長率は世界のキリスト教宣教史上類まれなものであり、1895年に公称1590人の信徒が1910年には22万6791名に達した。
1920年に入ってキリスト教会が三・一独立運動の主要な組織者であったとして、キリスト教会への苛烈な弾圧を加えるようになった。

造林事業
1910年当時、特に南部の海抜の低い低地帯では若い木と禿げ山が大部だった。
造林事業は1911年には約4千町、1152万本だったが1922年までの累計は約36万町、10億本に至ったと報告されている。

経済
朝鮮は日本本土防衛の為の重要な要と政府は捉え、富国強兵政策に従い多額の国家予算を朝鮮半島に投じた。
これまで朝鮮半島にほとんど存在しなかった鉄道、道路、上水道、下水道、電気インフラ、病院、学校、工場など、最新鋭のインフラの整備を行い、近代教育制度や近代医療制度の整備を進め、朝鮮半島を近代化していった
鉄道路線は幹線ばかりでなく生活用の支線も多くが敷設され地方経済を活性化させた。
朝鮮総督府からの補助金による1,527件の農業用ダムと410件の水路の建設、5億9千万本以上の植林や砂防ダム建設などの水利事業も行われた。
右の写真は水豊ダム。
ダムによって形成された水豊湖は琵琶湖のほぼ半分に相当する。
1944年3月に竣工した水豊水力発電所の発電規模は60万 kW 。当時の世界最大級。
ちなみに1940年当時の日本国内の水力発電規模は280万 kWだった。
1920から30年代の朝鮮半島の経済成長率は年間約4%で、同じ期間の欧州(1%台)や日本・アメリカ(3%)に比べて、より高い成長をしている。

平均寿命
衛生面では、生活面における衛生指導や集団予防接種が行われ、当時朝鮮半島で流行していたコレラ、天然痘、ペストなどの伝染病による乳児死亡率が減少し、平均寿命は24歳から56歳まで伸びた。
また農地の開発や農業技術の指導により食糧生産量も激増したことで、人口は併合時(1910年)の調査では13,128,780人、1944年の調査では25,120,174人となり、平均寿命も併合時(1910年)24歳だったものが、1942年には45歳まで伸びた
食糧生産は年々増加し、併合前の1909年には746万石であった収穫高は、1918年には1529万石と2倍以上に、更に1942年には2489万石なった、

資本主義の萌芽
韓国や北朝鮮では、現在も朝鮮の資本主義の萌芽を李氏朝鮮時代に求め、「芽生えた朝鮮の資本主義は成長する前に日韓併合による植民地化によって1945年まで大きく抑制されていた」という説が通説となっている。
これに対し、ハーバード大学教授で朝鮮史が専門のカーター・J・エッカートは、李氏朝鮮時代の経済規模は同時代の日本や中国と比べて小さく、当時の商人と後の時代の資本家とのつながりがほとんど無いため、資本主義の萌芽が李氏朝鮮時代には存在せず、日韓併合による日本の政策によって生まれ、特に戦後の韓国の資本主義や工業化は、日本の朝鮮半島での近代化政策を模したものであると発表している。

朝鮮人の独立運動
1919年には三・一独立運動が起こって大規模な暴動にまで発展し、朝鮮中を巻き込んだ。この独立運動は約一年間続き、暴動と総督府側による取締りによって多くの死傷者がでた(運動家に殺害された者も多い)。事件直後に行われた調査結果を記した資料によれば、8,437人が逮捕された。しかし逮捕者への刑罰は主犯でも最高で懲役3年以下という軽いものであった。死者数は553人、負傷数は1,409人である。
当時上海に亡命中の朴殷植は『韓国独立運動之血史』に46,948人が逮捕され、7,509人が死亡し、15,961人が負傷したと記している。
女学生・柳寛順は三・一独立運動を扇動した罪で投獄、西大門刑務所内で16才で獄死しました。

こうした中、いくつかの悲劇が発生した。最も有名な「堤岩里事件」は、4月15日に小学校焼き討ちと警察官2名の殺害の容疑で堤岩里の成人男性住民30余名を教会堂に集めたところ、取調べ中に容疑者1名が逃げようとし憲兵に斬殺され、それを見た他の容疑者が暴徒化した為に全員が射殺され、放火などにより15村落317戸が延焼し、39人が死亡した事件である。

朝鮮半島の人口推移

西暦 朝鮮半島居住の朝鮮人
1753年 730万人
1850年 750万人
1864年 802万人
1885年 897万人
1891年 788万人
1904年 710万人
1907年 1167万人
1910年 1313万人
1942年 2553万人

日韓併合とともに朝鮮人の人口は、驚異的に増加した。たとえば、韓国の教師用国定歴史(国史)教科書によると、1777年、総人口は1,804万人であったが、100年後の1844年には1,689万人で6.79%減少した。
さらに日韓併合時の1910年には、1,313万人となった。それが、32年後の1942年の人口は2,553万人で、併合時の倍近くになった。
このことは、李朝518年の統治がいかにひどいものであったかを如実に証明している。

――崔基鎬著 『歴史再検証 日韓併合の真実』より

≪参考≫

朝鮮併合の真実

日本統治時代の朝鮮(Wikipedia)より

李氏朝鮮(Wikipedia)

④朝鮮王朝末期の混乱とキリスト教伝播

韓国のキリスト教史を見たとき、歴史を通し日本の関与が大きかったことがわかります。
まず1593年の文禄・慶長の役の時に、キリシタン大名であった小西行長とともに、イエズス会司祭が朝鮮に渡り、小西行長は朝鮮人養女を得て洗礼を施し、歴史上初の朝鮮人キリスト教徒となりました

朝鮮王朝末期には、カトリック弾圧の激しかった朝鮮において、1876年日本が日朝修好条規を締結したのをきっかけとし、アメリカ、フランス、ロシアなどとも通商条約を結ぶことになり、キリスト教布教も活発に行われるようになりました。
1903年から1908年には韓国キリスト教のリバイバル(信仰復興)が起こり、平城は東洋のエルサレムと呼ばれるほどに急激にキリスト教が普及しました。
1910年の日韓併合の後、朝鮮総督府は日本組合基督教会に莫大な資金援助を行い、朝鮮植民地伝道を繰り広げました。
この後真のお父様が1920年に誕生されましたので、再臨のメシヤを迎えるために、その環境整備としてカトリックを弾圧していた朝鮮王朝が方針を転換し、キリスト教が受け入れられ、朝鮮半島に急激にリバイバルが起こったと言えるでしょう。
その方針転換のきっかけが日本との日朝修好条規であり、朝鮮総督府による日本組合基督教会への莫大な資金援助がメシヤ降臨を後押しをしたと言えるでしょう。

韓国のキリスト教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
★朝鮮への初めてのキリスト教
朝鮮に初めてキリスト教の宣教師が足を踏み入れたのは、1593年に文禄・慶長の役に参加していたキリシタン大名小西行長の求めに応じて朝鮮に渡ったイエズス会司祭グレゴリオ・デ・セスペデスが最初である。この戦役において小西はジュリアおたあと呼ばれる朝鮮人養女を得ており、彼女は養父にならって受洗し、歴史上初の朝鮮人キリスト教徒(受洗者)と考えられている。

★朝鮮王朝末期のカトリック弾圧
1801年、王朝を守るためとの理由でカトリックの弾圧を強化した(辛酉教獄)。
この弾圧でカトリック信者、巻き込まれた者もあわせて数万人が犠牲になったと言われている。
カトリックへの弾圧は1815年、1827年、1838年など、断続的に行われた。
・主なカトリックへの弾圧
1801年、辛酉教獄(しんゆうきょうごく):清国人宣教師周文謨・進士黄嗣永ほか300名あまりを処刑
1839年、己亥教獄(きがいきょうごく):フランス人宣教師ローラン=マリ=ジョゼフ・アンベールほか200名あまりを処刑
1846年、丙午教獄(へいごきょうごく):金大建ほか20名あまりを処刑
1866年、丙寅教獄(へいいんきょうごく):大院君政権は、迫り来る西洋列強に対しては強硬な鎖国・攘夷策を取りカトリックへの弾圧を強化し、1872年までの間に8千人あまりの信徒を殺害した。

≪参考≫

★朝鮮王朝末期の混乱とキリスト教伝播
・1875年日本軍艦を攻撃した事件(江華島事件)が発生、翌1876年に日朝修好条規(江華島条約)を締結して日本側に謝罪。
それ以降閔氏政権は開国政策に切り替え、アメリカ(米朝修好通商条約)、フランス、ロシアなどとも通商条約を結んだ。
朝鮮の開国によって欧米諸国との外交関係が樹立されると、プロテスタント諸派が朝鮮に宣教師を派遣した。
・1882年に大院君は閔妃暗殺を狙い、クーデターに動いた(壬午事変)。
この軍乱で日本も標的とされ日本公使館が焼き討ちにされ日本人が多数殺害された。
事変後には済物浦条約が締結され、日本に謝罪を行うとともに日本人保護のために日本軍の朝鮮駐留が認められた。
清によって復権した閔氏政権は、親日開明政策から開明に消極的な親清政策へ大きく転換する事になる。
・1884年に定住した宣教師によるプロテスタントの朝鮮布教は、メソジスト派と長老派の宣教師によって始められた。
・1884年12月、清国軍と朝鮮人によって日本公使館は焼き払われ日本人数十人が殺害された(甲申政変)。
事件後には守旧派によって開化派への処刑が徹底的に行われ、開化勢力は消滅し、清国の影響力が増大した。
・1885年にはイギリス軍によって巨文島が占領された(ポート・ハミルトン事件)。
・1885年に長老派は少年向けの培材学堂、
・1886年にメソジスト派は少女向けの梨花学堂を創設して教育に力を注いだ。
・1887年スコットランドの長老派から満州へ派遣されたジョン・ロスにより新約聖書全巻が翻訳・出版され、朝鮮に持ち込まれた。
・1894年には東学党の乱(甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう))が勃発すると閔氏勢力は清に援軍を求めた。
一方日本も条約と居留民保護、列強の支持を盾に介入し、乱は官軍と農民の和議という形で終結するが、淮軍と日本は朝鮮に駐屯し続けた。日本は閔氏勢力を追放し、大院君に政権を担当させて日本の意に沿った内政改革を進めさせた。
・1894年日清戦争が勃発し日本軍が勝利すると、朝鮮は清への服属関係を廃棄し独立国となった。
しかしその後、朝鮮は宗主国をロシアに変える動きを見せ、閔妃はロシアに近づき、親露政策を取る事になる。
・1895年10月に閔妃が惨殺される(乙未事変)。
・1897年、朝鮮は大韓帝国と国号を改称し、元号を光武とした。
・1904年になると、日露戦争が勃発し、日本が勝利する。
・1905年には第二次日韓協約が締結された。日本は朝鮮(大韓帝国)の外交権を接収し、内政・財政に関しても強い影響力を得て朝鮮の保護国化を推し進めていく。
・1906年、日本は韓国統監府を置き、伊藤博文を初代統監とした。
・1903年から1908年には韓国キリスト教のリバイバル(信仰復興)が起こった。
・1907年、R・A・ハーディーら宣教師の聖書研究会によって、信仰復興は広まった。
・1910年8月22日に韓国併合ニ関スル条約が締結、ここに大韓帝国は日本の一部となり、朝鮮半島の国家は完全に消滅した。
・1910年の日韓併合の後、朝鮮総督府は日本組合基督教会の指導者海老名弾正に朝鮮宣教を命じ渡瀬常吉を派遣。朝鮮総督府より莫大な資金援助を受けて朝鮮植民地伝道を繰り広げる。

⑤もし日本が韓国を統治しなかったら…ロシアによる統治

李氏朝鮮末期、朝鮮王朝は大院君と閔氏政権による主導権争いが続き、暗殺、内乱、武力闘争、クーデターを繰り返していました。同時にそれは親日開国政策と親清守旧政策との駆け引きでもありました。
しかしそんな逼迫した状況の中でも朝鮮の官僚制度は腐敗堕落し、日本の発展に興味を持つ者も少数はいたものの、多くの者は搾取や不正利得ができなくなるという私利私欲のために改革に反対していました。

1894年日清戦争が勃発し日本軍が勝利すると、朝鮮は清への服属関係を廃棄し独立国となりました。
しかしその後、朝鮮は宗主国をロシアに変える動きを見せ、親露政策を取る事になりました。
1904年になると日露戦争が勃発し、日本が勝利することによって、ロシアの南下政策に楔を打つことができました。
このような経緯を経て、1905年に第二次日韓協約が締結され、日本は朝鮮の外交権を接収し、内政・財政に関しても強い影響力を得て朝鮮の保護国化を推し進めていくようになりました。

このような経緯をもって日本は朝鮮を統治することになりましたが、もし日本が朝鮮を統治していなかったら、朝鮮は間違いなくロシアを宗主国として、ロシアの支配を受けるようになっていました。

もしロシアが朝鮮を支配するようになったら、朝鮮はどのようになっていたでしょうか?
当時の欧米は植民地にしたアジア人を全く人間扱いしませんでした。文字通り奴隷と同じ扱いです。
ですから一番考えられることは、ロシアも朝鮮に自国の税金を投資し、インフラを整備することなどありえず、朝鮮の農産物や鉱産物を搾取できるだけ搾取し、過酷な植民地政策をしていた可能性が高いでしょう。

しかし現実的には1917年にロシア革命が勃発し、ロシアは共産化され、ソビエト連邦が発足しましたので、必然的に朝鮮も共産化されてしまったでしょう。
無神論を奉じるソビエト政権が成立すると、キリスト教徒たちは、共産主義勢力に抵抗する者や、ロシアに残って共産主義勢力に一定程度妥協する者、亡命する者、地下活動に移る者などに分かれたといいます。
つまり1903年から1908年に起こった韓国キリスト教のリバイバルも消え失せ、キリスト教徒たちは迫害の中に身をさらすようになっていたことでしょう。
果たしてこのような環境の中で真のお父様は韓半島に誕生することができたでしょうか?
誕生することができたとしても、キリスト教徒と出会い、イエスの啓示を受け、再臨主としての道を歩むことはできたのでしょうか?
ソビエト政権下では2,300万人が虐殺されたといいます。
真のお父様の親族は虐殺されることなく、真のお父様をこの世に誕生させることはできたでしょうか?
いろいろな可能性を考えてみても、朝鮮がロシアを宗主国としていたら、真のお父様が韓半島に生まれていたかどうか、またはメシヤとしての道を歩むことができたかどうか、非常に疑わしいと言わざるを得ません。
それはロシアではなく、清または中華人民共和国であったとしても、同じような可能性が高いことでしょう。
結論を言えば、再臨の主、メシヤを韓半島に誕生させるためには、日本が朝鮮を統治するのが、最もふさわしい政治状況だったと言えます。
逆に日本でなければ、人類の真の父母様をこの地上に誕生させることが難しかったかもしれません。

⑥世界の植民地統治政策

欧米列強のアジア侵略はいかにして行われたか
15世紀の大航海時代で世界に進出した西欧列強は、やがてアジア全域を植民地化した。
彼ら白人帝国主義国はいかなる侵略行為を行ったのか-。

1 掠奪と搾取
350年にわたりインドネシアの香辛料など独占的に収奪したオランダは、19世紀に入ると、強制的栽培制度を導入し耕地の5分の1(実際は半分)にわたって、コーヒー・砂糖・藍などのヨーロッパ市場向け作物を強制栽培させた。これによる巨額な収益は国家予算の3分の1を占めた。
インドシナ半島東部を支配したフランスは、土地を収奪しフランス人らに無償で与えたため、農地を奪われた農民は小作人からさらに債務奴隷へと没落した。
茶の輸入により輸入超過になったイギリスは、中国へ流出した多額の銀を取り戻すためにインドにけし栽培を強制し、大量のアヘンを中国に密輸して暴利を得た。財政悪化を招いた清はアヘンの密輸を取り締まったため、イギリスはこれを口実に戦争を仕掛け、香港を租借した。これが悪名高いアヘン戦争である。

2 貧困と飢餓
土地の集約的耕作と輸出用換金作物の大規模栽培は、無料に近い土地で低廉な労働力を使い、莫大な収益をあげるものがほとんどであった。そして、マレーのゴム、インドの綿花というように、特定の一次商品を宗主国に輸出し、完成消費財を輸入するという経済構造に変質した。
その結果、水田の減少や失業者の増加により、飢饉に際して多くの犠牲者を出す地域が現れた。ジャワでは人口33万の町が12万に減少したり、インドではイギリスの支配ののち飢饉が増加し、1877年の南インドの飢饉では5百万人が死亡し、1943年での犠牲者はベンガル地方だけで340万にも達した。

3 複合民族化
大規模農業の急速な開発によって、大量の労働者を必要とした列強宗主国は、大量の移民政策をとった。インドネシアでは、中国人苦人(クーリー)が1860年の20万人から1930年の123万人と6倍に増加。マレー半島では、鉱山労働者に中国人、ゴム園労働者にインド・タミール人が大量に移入された。
植民統治では、上部に白人支配層が、次に華僑やインド人などの外来アジア人が、最も人口の多い現地民が最下層の地位におかれるという階層社会を造った。

4 弾圧と虐殺
列強は植民地支配への反乱については、きびしい弾圧と虐殺でのぞんだ。
イギリスは、1857年に起こったセポイの反乱に徹底的な弾圧を加えた。イギリスは、みせしめのため捕虜の集団銃撃や焼き殺しなど、珂責ない弾圧と虐殺を行った。
フランスのベトナム支配では、1940年のメコン河流域の住民蜂起では、6000人のベトナム人が逮捕され、サイゴンの監獄は満員となり多くの囚人が死亡した。
米西戦争に勝ったアメリカは、フィリピンに戦争を仕掛けて全域を制圧した。また1906年、アメリカ式の土地制度などに反発したイスラム系住民の反乱の時は、米軍は彼らの砦を包囲し、戦闘員から女子供を含めて6百人全員を皆殺しにしてしまった。

列強に侵略にあえぐアジア

清(中国)
1662 年以降、中国を支配した満州族の清は、東インド会社が経営するインドとの貿易を開いていたが、イギリスとのアヘン戦争やアロー戦争の敗北を契機に列強に不平等条約を締結させられ、外国の圧力を受けた。特に日清戦争の敗北後は、ロシア・イギリス・フランス・ドイツなどによって鉄道の敷設権や要地の租借権を奪われ、半ば植民地の状態となった。

インド
1600年にイギリスがインドに進出して東インド会社を設立し、度重なる征服戦争を繰り返して全土を征服した。イギリスは、セポイの反乱の武力鎮圧後、1877年にムガル帝国を滅ぼして英領インド帝国を樹立。以後は直接統治を行い、苛酷な植民地経営を行った。

ミャンマー(旧ビルマ)
17世紀以降、イギリスの東インド会社と貿易を行っていたが、イギリスが三度にわたるミャンマー(ビルマ)戦争でこれを征服し、1886年に全土をインド帝国に併合し、植民地化した。

インドネシア
17世紀よりポルトガル・オランダ・イギリスなどが進出し、1818年にオランダがマタラム王国を滅ぼして植民地にし、19世紀末までにスマトラ.ボルネオを支配し、1904年にオランダ領東インドをつくって植民地体制を確立した。

マレーシア
15 世紀にマラッカ王国がにポルトガルに支配され、17世紀にはオランダの支配を受けた。18世紀後半に入るとイギリスが進出し、イギリスは、ペナン・シンガポール・マラッカを海峡植民地として直接統治し、さらに北ボルネオ・マライ半島への支配を強化して1895年にマライ連邦を結成した。

インドシナ三国
ベトナムは19世紀の阮朝がフランスの軍事介入を受け、1885年フランスの保護国となった。
カンボジアはベトナムがフランスの植民地にされると1863年にフランスの保護国とされた。
ラオスも1893年にフランスの保護国となった。
フランスは、このインドシナ3国を併合して仏領インドシナ連邦(仏印)を形成した。

フィリピン
16世紀にマゼラン率いるスペイン遠征隊が侵入。武力でルソン島を平定したスペインは1571年に植民地とし、皇太子フィリップにちなみここをフィリピンと命名した。1898年には米西戦争でスペインに勝ったアメリカがフィリピンの植民統治を行い、徹底した英語とキリスト教の普及を押し付けた。

⑦世界はどのように大東亜戦争を評価しているか

日本は第二次世界大戦に敗北することにより、第二次世界大戦は日本の侵略戦争であり、戦前の日本の政策はすべて悪だったという自国を否定するような自虐史観を植え付けられました。
しかし近年になり、公開されたハルノート等により、日本はアメリカの策略により太平洋戦争に引き込まれたのであり、日本の植民地政策は正しいものだったという情報も流されるようになりました。
一体どちらの情報が正しいのか?
私たち日本人は今日に至るまで、ほとんど日本は加害者という教育を受けてきました。そこで「ここでは自存自衛と大東亜の解放を掲げて戦われた日本の戦争は、アジアの諸国民や各国の識者からどのように受け止められているのだろうか」ということを、多くの記事の中からまとめられたものをご紹介いたします。

太平洋戦争とはいったい何だったのか 1946年(昭和21年)5月3日、東京。
元アメリカ大統領ハーバート・フーヴァーと連合国軍最高司令官マッカーサーは「太平洋戦争とはいったい何だったのか」を3日間にも渡って話し合った。
そのとき、日本人なら誰も思いもしないようなことをフーヴァーは口にした…
「太平洋戦争は、日本が始めた戦争じゃない。あのアメリカの『狂人・ルーズベルト』が、日米戦争を起こさせた。気が狂っていると言っても精神異常なんかじゃない、ほんとうに戦争をやりたくてしょうがなかった…その欲望の結果が日米戦争になったんだ」

■タ イ
◎ククリット・プラモード 元首相
「日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジア諸国民が、アメリカやイギリスと対等に話ができるのは、一体だれのおかげであるのか。それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあったためである。12月8日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決意された日である。さらに8月15日は、われわれの大切なお母さんが、病の床に伏した日である。われわれはこの2つの日を忘れてはならない。」

■マレーシア
◎ラジャー・ダト・ノンチック 元上院議員
「私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。敗れて逃げてゆく英軍を見たときに、今まで感じたことのない興奮を覚えました。しかも、マレーシアを占領した日本軍は、日本の植民地としないで、将来のそれぞれの国の独立と発展のために、それぞれの民族の国語を普及させ、青少年の教育をおこなってくれたのです。」

■インドネシア
◎サンバス 元復員軍人省長官
「特にインドネシアが感謝することは、戦争が終わってから日本軍人約1000人が帰国せず、インドネシア国軍とともにオランダと戦い、独立に貢献してくれたことである。日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績を讃えて殊勲章を贈っているが、それだけですむものではない。」

■インド
◎グラバイ・デサイ インド弁護士会々長
「インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のお蔭で30年早まった。これはインドだけではない。インドネシア、ベトナムをはじめ東南アジア諸民族すべて共通である。インド4億の国民は深くこれを銘記している。」
(1946年の軍事裁判に出廷した藤原岩市氏らに)

■スリランカ
◎l・R・ジャヤワルダナ 大統領
「往時、アジア諸民族の中で、日本のみが強力かつ自由であって、アジア諸民族は日本を守護者かつ友邦として、仰ぎ見た。…当時、アジア共栄のスローガンは、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が解放されることを希望して、日本に協力した者がいたのである。」 (1951年、サンフランシスコ対日講和会議演説)

⑧大韓民国臨時政府

文在寅大統領は、大韓民国第19代大統領に就任してから次第次第にその本性を現し、反日色を強くしてきました。
文大統領の思想の根幹にあるのは、1919年に中国・上海にできた亡命者による「大韓民国臨時政府」は韓国のルーツであり、日本の不法な植民地支配に立ち向かった独立運動家たちこそが建国の父祖であるということです。
したがって今年2019年こそが、本当の韓国建国の100周年にあたるということです。
よって1948年に建国された大韓民国は、韓国と北朝鮮という南北分断のはじまりであり、この年を朝鮮民族の「悲劇の年」と位置付けています。
そんな韓国は、金九ら独立運動家たち朝鮮民族の共通の建国の父祖のもと、朝鮮民族が再び一つになるべきだと考え、北朝鮮との統一を目指しているのです。

しかし実際は、大韓民国臨時政府は政府としての実態はなく、国際的にもその存在は認められていませんでした。
第2次世界大戦終了後のサンフランシスコ平和条約締結時も、韓国は戦勝国として平和条約に署名することを希望したが、韓国は日本と戦争をしてはおらず、平和条約の当事国とは認められることはありませんでした。

大韓民国臨時政府というと、主の路程においてもたびたび登場する、教会における反日的思想の重要なポイントの一つでもあります。
真のお父様の日本留学時代、抗日運動の中心人物として、上海にある大韓民国臨時政府と連絡を取り合っていたということは有名な話です。
同じように真のお父様の大叔父、文潤國牧師が、文家の財産をすべて独立運動に捧げ、それでも足りないとして儲け話があると言いながら、村人たちからお金を集めては抗日運動に送金していたというのも、同じ上海臨時政府にでした。
文潤國牧師は結局、自分がそのお金を抗日運動に献金したとは言わなかったために、村人たちから詐欺師呼ばわりされ、その村に残ることもできなくなり、一人故郷を追われ、見知らぬ街で誰にも看取られることもなく客死したと言います。

このように真のお父様の生涯路程にも度々登場する大韓民国上海臨時政府ですが、抗日運動の拠点だったということもあり、今日に至るまで反日家たちに信じられている捏造された間違った情報も、ここから発せられていたのです。
例えば私たちが修練会等で教わった、日帝36年時代の日本人による韓国人迫害の様子は、大韓民国臨時政府の第2代大統領朴殷植氏が著した『朝鮮独立運動之血史』にある迫害の様子に酷似しています。
『朝鮮独立運動之血史』では日本による朝鮮迫害をどのように表現しているのか見てみたいと思います。

・1919年に起こった韓国独立運動(三・一運動)について
「平和的なデモをしていた朝鮮人たちを、日本軍警察が無差別に虐殺し、日本の軍警察は、馬に乗り剣をふるって横行し、デモ隊を乱撃した。また人の目を刺し、人の耳をもぎ、人の腕を切り落とし、人の鼻をそぐなどの残虐性をはっきした、一般市民も、少女とか、女性の性器を切リ、股裂きをした」
「日本は独立を妨害するために、あらゆる悪行を犯した。日本は独立を叫ぶ人々に向かって銃を撃ち、民家、教会、学校に火をつけた」
「10歳にならない少女と婦女子らが恥辱的な扱いを受け、身体を殴られ、幼い少女たちも残酷に殴られ、7歳以下の幼い少女ら300余命が殺害された」

実に残忍で惨たらしい迫害の様子ですが、教会の修練会でも似たような迫害の様子を聞いた記憶があります。
このような生々しい迫害の様子は、ネットや書籍を探しても、なかなか見つけることはできません。見つけることができるとすれば吉田清治氏の書いた著作物のみです。
この吉田清治氏の済州島での慰安婦狩り等の証言は、朝日新聞によって16回にわたり連載され、反日運動の根拠となっていましたが、朝日新聞は2014年8月5日に吉田証言を虚偽と判断し、すべての記事を取り消しました
しかし教会内では自虐史観に縛られ、『朝鮮独立運動之血史』にあるような韓国人への迫害が実際に行われたと、今でも信じられています。

大韓民国臨時政府が流した、もう一つの間違った情報が関東大震災時における、朝鮮人虐殺事件です。
関東大震災時日本人自警団によって6000人もの朝鮮人が虐殺されたと信じられてきましたが、その情報は上海臨時政府が震災当時に機関紙の「独立新聞」に掲載した数字でした。しかしこの数字は、実際に震災現場で確認した数字ではなく、何の裏付けもない伝聞によってはじき出された数字だったのです。
日本の公式記録では「自警団に殺された朝鮮人の数は231人」となっていますし、多く見積もったとしても数百人と言われています。それが6000人にまで膨れ上がり、今でも事実として信じられています。

そればかりではなく朝鮮人を虐殺したという事件も、単純な虐殺事件ではありませんでした。
共産党と根元が同じ在日朝鮮統一民主戦線の朝鮮人が関与し、各地で在日朝鮮人たちによる暴動や火事場泥棒が多発し、そのことに注意喚起する新聞記事によって自警団が結成され、結果として多数の朝鮮人の虐殺が行われてしまいました
もちろんどんな理由があったとしても虐殺など許されるわけではありませんが、理由もなく朝鮮人虐殺事件が起こったわけではなかったということです。

大韓民国臨時政府の初代大統領は李承晩でした。
そして第二代大統領が『朝鮮独立運動之血史』を著した朴殷植でした。
そしてその体制は金九によって引き継がれました。
これら大韓民国臨時政府の指導者たちを見ると、大韓民国臨時政府とはいかなる機関だったかということが想像ができます。
李承晩大統領は、今日に至るまで韓国の反日思想の基礎を作り上げた独裁者であり、後の大量殺戮者でした。
朴殷植は、反日の思想的根拠を捏造によって作り上げた張本人です。
そして主の路程にも登場する金九は、今でも独立運動の英雄として、多くの韓国人の尊敬を受けていますが、実際の人物像は少し違っていました。金九は元々日本人を殺した殺人犯であり、数多くの暗殺を指揮したテロリストでした。

このような事実を知るまでは、上海臨時政府は大叔父文潤國牧師が詐欺をしてまでお金を作り支援を行っていた独立運動の拠点であり、真のお父様も上海臨時政府と連絡を取りながら日本で抗日運動を展開していたということを学んでいましたので、摂理的にも重要な独立運動組織であると思っていたのですが、一人一人の中心的な指導者たちを見ると残念ながら別の側面も見えてきました。

安重根は韓国側から見ると独立運動の英雄ですが、日本側から見ると伊藤博文元総理を暗殺したテロリストです。
上海臨時政府も韓国側から見ると、独立運動の拠点として大きな役割を果たした機関ですが、日本側から見たらただのテロ組織にすぎません。
立場が変われば評価も変わります。
しかしその組織を構成している中心人物たちを見ると、上海臨時政府はとても評価できるものではありません。
大量殺戮者であり、事実を捏造し情報を操作する人たちであり、元々人殺しでありました。
自分達の思想を正当化し、都合の悪い事実は抹消し、反対する者たちを力ずくで消し去る人たちです。
そんな人たちによって作られた反日思想が今も韓国を席巻しています
だからこそ今正しい歴史教育が必要なのです。

≪参考≫

大韓民国臨時政府(Wikipedia)
大韓民国臨時政府は、1919年(大正8年)の日本統治時代の朝鮮で起こった三・一運動後、海外で朝鮮の独立運動を進めていた活動家李承晩・呂運亨・金九らによって、中華民国の上海市で結成された朝鮮(韓国)のテロ組織である。

日中戦争勃発後は所在地を上海から重慶に移した。たえまない党派間の対立と連合を続けていたため、蒋介石や中国国民党が党派間の融和ために指導を行っていた。

第二次世界大戦の終戦後、アメリカや他の連合国諸国は大韓民国臨時政府がポーランド亡命政府のように第二次世界大戦で貢献をしていないことから、何かしらの地位を与えることを故意に控えるなど、国際的な承認が得られることはなかった。

1919年9月に統合された臨時政府は国務総理に李東輝を選出し、1920年に李東輝が臨時政府を去ると李東寧・申圭植・盧伯麟が国務総理代理を引き受けた。国務総理代理体制は1922年9月、李承晩の大統領制に改編され、1925年には朴殷植を大統領に選出した。1926年末に構成された金九内閣は1927年、集団指導体制である国務委員制に改編した。

⑨金九

真のお父様は日本での早稲田留学時代、韓国人留学生を管理する立場で、地下工作活動をされていました。
お父様は朝鮮学徒出陣反対運動をやっており、徴兵される朝鮮人留学生を、上海の臨時政府へと派遣していました。
北京で金九の指揮下に入った人たちは、後に中国でも有名になった人も多いといいます。
このように真のお父様とも関係が深かった金九ですが、その人となりを調べると、全く違った姿が見えてきました。

金九は、朝鮮の民族主義者、韓国の政治家、韓国独立党党首。
韓人愛国団を率い大韓民国臨時政府主席を務め、1962年、建国勲章大韓民国勲章を追叙された。
1919年以来、上海で臨時政府に参加し、大韓民国臨時政府の警察本部長、内務大臣、大統領代理、国務領(大統領)などを務めた。
1940年から1947年まで大韓民国臨時政府の主席であったが、李承晩と対立して1949年6月26日に暗殺された。

★鴟河浦(チハポ)事件 金九の起こした殺人事件
1896年、金九は鴟河浦の宿に宿泊した時、早朝に朝飯を終えて旅に出ようと思ったが、短髮で刀のようなものをさした人が食膳を先に要求すると女店員がその人に先に食膳を与えるので心で甚だしく憤慨した。
その人の本貫を調べると日本人なので『不倶戴天の仇』と思い胸の血が騒いだ。
日本人がわき目をしているうちに足で蹴り倒し、手で撲殺し凍った川に捨てた。
腹にあった財布からのお金で宿賃を支払った。
同年3月に家に帰って来てから海州巡使に逮捕された
強盗殺人犯として死刑判決を受けたが、特赦により減刑されたが後に脱獄。

・金九の証言(『白凡逸志』日本語版 平凡社(1973年)79ページ)
倭奴(ウェノム)の頭から足の先まであちこちを切りつけた。
二月の寒い明けがたのことで、氷が張っていた地面に、血が泉の湧くように流れた。
わたしは手でその血を掬って飲み、またその倭(ウェ)の血をわたしの顔に塗り付け…

今でも金九は、独立運動を指揮した英雄として、文在寅大統領をはじめとして、多くの韓国人からの尊敬を受けています。
金九は、1896年の閔妃殺害事件に憤り鴟河浦事件を起こし、日本人を敵視し、殺害したと言われています。
しかしこの殺人は、食事を注文した時に、女給が自分より先に日本人に食膳を与えるのを見て憤慨し、閔妃殺害にはなんら関係がない日本人の土田譲亮を日帝・日本人への懲罰として殺害したとのことです。
軍人でもないただの商人であった日本人を、いかなる理由があったとしても殺していいはずがありません。
朝鮮における1896年が、どれほど混とんとした年だったとしても、殺人はあくまでも殺人です。許されるものではありません。
しかも金九の証言を見ると、殺人を自慢げに証言している感じさえあり、実に猟奇的な臭いを漂わせています。

金九の指揮した暗殺やテロ行為を列挙してみると、

1921年、ソ連の政治資金が臨時政府に上納されていないという理由で、青年たちに韓国人の共産主義者たちの暗殺を指示。
1922年11月、金九が刺客を放ち、韓国人共産主義者金立が上海で狙撃殺害される。
1924年、満州の朴喜光と通じ親日派暗殺、主要公館破壊などを指揮。
1932年、韓人愛国団の李奉昌が昭和天皇暗殺を狙った桜田門事件、尹奉吉による上海天長節爆弾事件などのテロを指令。
1947年12月、韓民党の党首・張徳秀を暗殺した疑いで米軍の法廷に召喚される。

このように金九はいくつかの暗殺を指揮しただけでなく、国時先生の真とのお父様の秘史「救国への奇跡」を見ると、真のお父様をも暗殺しようとしたということが述べられています。

救国への奇跡-大東亜戦争の陰で-国時先生米国講演より
「1946年5月27日のお父様が急にお米を買いに行ったその帰り道に啓示を受けて、急に北に行ったということは、蒋介石の手先の金九の一味が、お父様の命に狙いをつけていたということです。」

金九というと、韓国で最も英雄視される人物ですが、今では否定的な評価も現れてきました。
韓国の右翼論客の池萬元氏は「金九は現代版に解釈すればウサマ・ビンラディンのような人間。国を経営できる人間ではない。実力が足りないながらも李承晩に嫉妬した人間」と評論しています。

ジャーナリストの金完燮氏も「偏狭な儒教思想に凝り固まった無知蒙昧な人物」「金九については生まれつきの殺人鬼だと思わずにはいられない」と評論しています。

主の路程にも再三登場する金九は、真のお父様も認める独立運動の指導者というイメージでしたが、その実像を知ると意外な姿があったばかりではなく、お父様をも暗殺しようとした人物であった可能性が高いということです。
今改めて正しい歴史解釈の必要性を感じざるを得ません。

≪参考≫

金九(Wikipedia)
金九は、朝鮮の民族主義者、韓国の政治家、韓国独立党党首。韓人愛国団を率い大韓民国臨時政府主席を務めた。

1919年以来、上海で臨時政府に参加し、大韓民国臨時政府の警察本部長、内務大臣、大統領代理、国務領(大統領)などを務めた。1924年、満州の朴喜光と通じ親日派暗殺、主要公館破壊などを指揮し、韓人愛国団を組織して李奉昌の桜田門事件、尹奉吉の上海天長節爆弾事件を指示した。1940年から1947年まで大韓民国臨時政府の主席であったが、李承晩と対立して1949年6月26日に暗殺された。

1896年鴟河浦事件。食事を注文した時に女給が自分より先に食膳を与えるのを見て憤慨し、閔妃殺害にはなんら関係がない日本人の土田譲亮を日帝・日本人への懲罰として殺害した。金九は後に土田のことを日本陸軍中尉と記しているが、被害者の土田は長崎県出身の商人であった。殺害後金品を奪って逃走、捕縛され、強盗殺人犯として死刑判決を受けた。後に特赦により減刑され、さらにのち、脱獄する。

資料

倭奴(ウェノム)の頭から足の先まであちこちを切りつけた。二月の寒い明けがたのことで、氷が張っていた地面に、血が泉の湧くように流れた。わたしは手でその血を掬って飲み、またその倭(ウェ)の血をわたしの顔に塗り付け…
—金九、『白凡逸志』日本語版 平凡社(1973年)79ページ

1921年、ソ連の政治資金が臨時政府に上納されていないという理由で、青年たちに韓国人の共産主義者たちの暗殺を指示。
1922年11月、金九が刺客として放った呉冕稙と盧鍾均により韓国人の共産主義者・金立が上海で狙撃殺害される。
1932年、韓人愛国団の李奉昌が昭和天皇暗殺を狙った桜田門事件、尹奉吉による上海天長節爆弾事件などのテロを指令する。
1947年12月、韓民党の党首・張徳秀を暗殺した疑いで米軍の法廷に召喚される。

評価

肯定的評価
抗日独立活動が長期に渡ったことや右翼でありながら反共よりも統一志向に基づく活動をつづけたことに加えて、独立後早くに暗殺されたことも関係してか、南北朝鮮・左右両翼から比較的尊敬されている人物として稀有な存在となっている。

否定的評価
韓国の右翼論客であり軍事評論家の池萬元社会発展システム研究所長は「金九は現代版に解釈すればウサマ・ビンラディンのような人間。国を経営できる人間ではない。実力が足りないながらも李承晩に嫉妬した人間」と評論している。
2004年7月27日、ジャーナリストの金完燮も「偏狭な儒教思想に凝り固まった無知蒙昧な人物」「金九については生まれつきの殺人鬼だと思わずにはいられない」と評論して、ソウル高等検察庁に起訴された。

真の御父母様の生涯路程 1 より
韓国人留学生会地下活動
私は、日帝時代に地下工作をした人なのです。私はその時、留学生を管理していました。責任者だったのです。
玄界灘を渡り、釜山から安東まで列車の下に張りついて行くようにして、上海の臨時政府に派遣する、そのようなこともしました。そうして北京で金九先生の指揮下に入った者たちは、最近の情報によると、中国でも有名な人たちになりました。そのような地下運動をしたのです。

⑩『朝鮮独立運動之血史』

2019年3月19日、第100周年3.1節記念式において文在寅大統領は次のように演説しました。
朝鮮半島の全人口の10%におよぶ202万人が万歳運動に参加しました。7,500余人の朝鮮人が殺害され、16,000余人が負傷しました。逮捕・拘禁された人の数は、46,000人に達しました。
この文在寅大統領による、第100周年3.1節記念式という歴史的な場においてなされたこの演説は、『朝鮮独立運動之血史』を元にして語られたものでした。
『朝鮮独立運動之血史』には犠牲者数がそれぞれ、集会参加者延べ約202万、死傷者が7,509名、負傷者が15,961名と書いてあります。
それはとりもなおさず、文在寅大統領自身の反日の思想的原点が大韓民国臨時政府にあり、『朝鮮独立運動之血史』にあるということを端的に物語っております

また韓国の天安にある韓国独立記念館の展示物の中にある、拷問を受けてるおぞましい蝋人形の数々は、『朝鮮独立運動之血史』で描かれた拷問の様子を、リアルに再現したものだといわれています。

この韓国における反日・抗日運動のバイブルともいえる『朝鮮独立運動之血史』は、大韓民国臨時政府の第2代大統領朴殷植による著作物で、朝鮮人の民族意識鼓舞の目的で、1919年から1920年にかけて、亡命先の上海で、文献や伝聞、新聞資料等の資料から作成されたものです。そのため数値や事実関係の検証が徹底しておらず、多数の誤りが(韓国人の歴史家によって)指摘されています。内容については、民族主義を鼓舞するための記述であって、考証を意識した記述ではないとの指摘もあります。

つまり戦後最悪と言われる今の日韓関係は、朴殷植大韓民国臨時政府第2代大統領の、事実的根拠の薄弱な創作物によって引き起こされているといっても過言ではありません。
そればかりか日韓の良好な関係は、神の摂理にとっても、地上天国天上天国を建設するための要となるものでもあるため、『朝鮮独立運動之血史』は日韓の関係を破壊するサタンのバイブル以外の何物でもないといえるのではないでしょうか?

韓国人はよく、日本人は歴史を謙虚に学ばなければいけないと言います。
実際今の日本人は、日本の近現代史に弱く、特に日韓関係史に関してはほとんど知りません。
日本は韓国を36年間併合していたということも知らなければ、関東大震災時に韓国人の虐殺があったということも知りません。知らなかったからこそ韓国人に歴史問題を指摘されても何も言い返せずに、日本人が悪かったということで納得してしまいます。
韓国人ばかりか今の左傾化したマスコミによっても、自虐史観が当たり前のように語られているため、内からも外からも責められる状況では、自らが進んで正しい歴史を研究しない限り、反論することもできません。

しかし韓国人が知る日韓併合史は、韓国の義務教育で学ぶ教科書も含め、『朝鮮独立運動之血史』がその原点にあるので、虚構の上につくられた歴史でしかありません。
特に韓国人は自己正当化のためには当たり前のように嘘をつく民族性を持っていますので、自分たちの主張に合った話は、たとえその話が間違いであることを知っていたとしても事実として受け入れてしまいます。
一方自分の主張に合わない話は、それが真実であったとしても決して受け入れようとはしません。
今の文在寅政権は、その韓国人の特性を如実に現わしていますので、全く話が通じません。
日本の主張に耳を傾け、対話に応じる様子は全くなく、自分に都合の良い真実を一方的に押し付けようとします。
このような日韓の対立の原点がまさしく『朝鮮独立運動之血史』にあるのです。
「敵を知り、己を知りてこそ百戦危うからず」というように、まずは反日の原点を知ることで新しい一歩を踏みだすことができるのではないでしょうか?

『朝鮮独立運動之血史』より
・日本について
「日本では母子が性交する」
「日本は国や個人財産に至るまで、みな狡猾と暴力によって奪った」
「日本はその野蛮な習慣を我が民族に強制し、倫理を冒涜した」

・1919年に起こった韓国独立運動(三一運動)について
「平和的なデモをしていた朝鮮人たちを、日本軍警察が無差別に虐殺し、日本の軍警察は、馬に乗り剣をふるって横行し、デモ隊を乱撃した。また人の目を刺し、人の耳をもぎ、人の腕を切り落とし、人の鼻をそぐなどの残虐性をはっきした、一般市民も、少女とか、女性の性器を切リ、股裂きをした」
「日本は独立を妨害するために、あらゆる悪行を犯した。日本は独立を叫ぶ人々に向かって銃を撃ち、民家、教会、学校に火をつけた」
「10歳にならない少女と婦女子らが恥辱的な扱いを受け、身体を殴られ、幼い少女たちも残酷に殴られ、7歳以下の幼い少女ら300余命が殺害された」

「歴史を偽造する韓国」 中川八洋 2002年 徳間書店より

「女子高等普通学校(当時の女子中等学校の名称)の廬永烈は、裸体で十字架の上に仰臥させられた。日本人は、後列の十字架の傍に炭炉を置き、鉄線を真っ赤に焼いて廬永烈の乳頭を三、四回刺してからその縄を解き、刀で四肢を断ちおとし、まるでまこも(菰)のように分切した。血が雨のようにしたたりおちた。…が質問して、「お前はこれでもなお『万歳』を叫ぶつもりか」と言った。彼女はこれに答えて、「独立が達成できなければたとえ死んでもやめない」と言った。…数日間も食事を与えないで、三日目にふたたび拷問を加えた。…やむをえず、衣服を抛(ほう)りかえしてよこし、きびしく警責を加えた後に釈放された。……」(231~2頁、212頁)

両手・両足を切断された人間が即死しない、そればかりか手がないのに自分で衣服を着ることができる、足がないのに自分で歩いて帰宅できる、というのである。また、手足を切られたあと3日間も食事を与えられずとも元気で官憲を罵倒しつづけたという。

上記『朝鮮独立運動之血史』を見てわかるように、実に具体的で残虐な表現がなされています。
しかしどこか違和感が残ります。
「日本では母子が性交する」とだけ書いてあれば、日本人はみな母子が性交しているととらえられてしまいます。
一般の日本人には到底考えられない内容ですが、真偽は定かではありませんが、「試し腹」といった風習があったとされる朝鮮では、母子の性交という発想もあったのかもしれません。
「日本は国や個人財産に至るまで、みな狡猾と暴力によって奪った」
朝鮮ではもともと、両班以外は個人財産はほとんど持っていませんでした。もし持っていようものなら、両班は庶民の財産をみな狡猾と暴力によって奪っていってました。

イザベラ・バードの『朝鮮紀行』にある両班についての記述を見ると、
「(両班に仕える)従者たちは近くの住民を脅して飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。
非特権階級であり、年貢という重い負担をかけられているおびただしい数の民衆が、代価を払いもせずにその労働力を利用するばかりか、借金という名目の無慈悲な取り立てを行う両班から過酷な圧迫を受けているのは疑いない。商人なり農民なりがある程度の穴あき銭を貯めたという評判がたてば、両班か官吏が借金を求めにくる。これは実質的に徴税であり、もしも断ろうものなら、その男は偽の負債をでっちあげられて投獄され、本人または身内の者が要求額を支払うまで毎朝鞭で打たれる。」

朝鮮時代、狡猾と暴力によって個人の財産を奪っていたのは両班でした。
日本は朝鮮を併合することで、朝鮮の諸問題の根源の一つが身分制度にあるとみて、1909年に戸籍制度を導入し、白丁などの賤民にも姓を名乗らせて、戸籍には身分を記載することなく登録させました。
これにより、白丁の子弟も学校に通えるようになりました。
つまり戸籍制度を導入し、身分制度を廃止したことを受けて「日本はその野蛮な習慣を我が民族に強制し、倫理を冒涜した」と言っているのでしょう。朝鮮時代を支えてきた根幹である身分制度を廃止することで、万人平等という野蛮な習慣を韓民族に強制することによって、倫理を冒とくしたと訴えているのです。
こう考えると、両班から見たとき日本は、両班の特権社会を破壊する侵略者ととらえ、日本に反対する抗日運動を起こすのは必然と言えます。実際身分解放に反発する両班は激しい抗議デモを繰り広げたといいます。
つまり『朝鮮独立運動之血史』にあるこれら表現は、特権を剥奪された両班にだけ当てはまるもので、朝鮮の近代化のためには必要不可避な改革であったと考えられます。

朝鮮独立運動時における表現、一般市民の少女とか、女性の性器を切リ、股裂きなどの蛮行を日本人は本当に行ったのか?
拷問を加えるときに、女性は乳頭を刺し、性的暴行を加え、刀で四肢を断ちおとすというようなことを本当に行ったのか?

これらの表現は、日本人が行った蛮行としては、かなり違和感が残るものです。
日本の戦国時代、また第二次世界大戦時においても、日本人が行った蛮行としては、『朝鮮独立運動之血史』以外ではほとんど見ることのできない蛮行らしいです。
独立運動を主導した一人、柳寛順烈士が西大門刑務所内で獄死したときも、後に修正されたとは思いますが、四肢が切り落とされたと韓国の教科書にも載っていましたが、梨花学堂時代の柳寛順の級友の証言によると、実際には四肢は切断されてはいなかったという話です。

一方朝鮮半島や中国などでは、結構よく見る蛮行という話もあります。
つまり『朝鮮独立運動之血史』に書いてある日本人の残虐さ、蛮行も、実際に行われたものというよりは、著者である朴殷植の創作物にすぎない可能性が高いということです。日本人がいかに残虐で非道な民族であるかという印象付けを行うために、敢えてその残虐性を際立たせるような表現で描いているのです。

しかし今の韓国人には『朝鮮独立運動之血史』はそのまま信じられています
数値や事実関係の検証が徹底しておらず、信憑性が低いと韓国人の歴史家によって指摘されながらも、反日で凝り固まった韓国人にとっては、真実か否かはどうでもいいことなのかもしれません。とにかく日本を叩く材料となるのであれば、捏造された虚偽の真実であったとしてもそれで十分なのです。

文在寅大統領の第100周年3.1節記念式での講演は、そのことを端的に物語っています。
『朝鮮独立運動之血史』には本文の中にも、亡命先の上海で、文献や伝聞、新聞資料等の資料から作成されたものと書いてあるにもかかわらず、文大統領は一つ一つの内容や数値をちゃんと検証することもなく、『朝鮮独立運動之血史』に書いてある数値そのままを事実として演説しました。
文大統領は日本人に対し、「謙遜な姿勢で歴史を学ぶように」と語っていましたが、その言葉をそっくりそなまま自分にあてはめるべきなのではないでしょうか。自分が語る言葉は、いつか必ず自分に返ってきます。

ちなみに三・一運動の犠牲者の数は、『朝鮮独立運動之血史』では、集会参加者延べ約202万、死傷者が7509名、負傷者が15961名と書いてありますが、日本警察の集計では、参加人数約49万、死者357名、負傷者802名となっており、朝鮮総督府による公式数字は、参加人数106万人、死者553人となっています。
この三つを比べるとどれが正しいのか判断が難しいことでしょう。
しかし、日本人の憲兵6名と警察官2名が虐殺され、多くの建物が放火されたにもかかわらず、死刑を一人も求刑せず、15年以上の実刑もなく、3年以上の懲役はわずか80人に過ぎなかった事実から考えると、日本の対応は比較的冷静で、公平なものだったことがうかがわれます。
そう考えると日本の警察や朝鮮総督府側の発表の数字の方が比較的正しかったのではないだろうかと考えてしまいます。

今年、2019年の2月21日の朝鮮日報日本語版に、「韓国の国史編さん委員会は20日、1919年3月1日に起きた日本からの独立運動である三・一運動の当時、80~103万人がデモに参加し、725~934人が死亡したとする集計を明らかにした。」との記事が掲載されました。
これは、「日帝による既存資料に基づくデモ参加者数58万人、死者553人を最大で1.7倍上回る数値だ」とのことですので、当時の警察発表や総督府発表よりは多いものの、『朝鮮独立運動之血史』の死傷者が7509名という数字とはけた違いの数字となっています。

この話を聞いた反日の人はこう反論するかもしれません。
犠牲者の人数が問題なのではなく、これだけの犠牲者を出したという事実が問題なのだと。
しかし三一運動が過激化する中で、日本人の憲兵と警察官も8名が犠牲になっています。
まず最初に暴動によって日本人の犠牲者が出て、その結果暴動を鎮圧する過程で韓国人の犠牲者を出してしまったというのが事の真相でしょう。
日本の朝鮮統治の方法も三・一運動を招いた反省から、武断的な統治を改め、文化統治へ大きく切り替えた結果、以降は日本統治に対する抵抗といえる抵抗がまったくみられなくなったといいます。

『朝鮮独立運動之血史』は、今日に至るまでの反日運動の原点ともいえる書籍です。
しかし本文にもあるように、「亡命先の上海で、文献や伝聞、新聞資料等の資料から作成された」ものであることは間違いのない真実です。ですから盲目的に一方的に信じるのではなく、歴史の検証を重ねることにより、何が真実で何が間違いであったかを謙遜な姿勢で判断し、正しい日韓関係を築いていくことが神の願いでもあると感じます。

★三・一運動の犠牲者の数

・『朝鮮独立運動之血史』
3月~5月に集会参加者延べ約202万、死傷者が7509名、負傷者が15961名としている。

・日本警察の集計
3~4月11日、参加人数約49万、死者357名、負傷者802名となっている。
三・一運動期間中、6月30日までに逮捕され起訴された総数は26865人、第一審判決で最高15年から最低3月未満までの受刑者が22275名であった。
日本人の憲兵6名と警察官2名が虐殺され、多くの建物が放火されたにもかかわらず、死刑を一人も求刑せず、15年以上の実刑もなく、3年以上の懲役はわずか80人に過ぎなかった。

・朝鮮総督府による公式数字は、参加人数106万人、死者553人。

・(朝鮮日報日本語版) 三・一節:国史編さん委が初の公式集計「運動参加者103万人・死者934人」
2019.2.21(木) 11:02配信 朝鮮日報日本語版

韓国の国史編さん委員会は20日、1919年3月1日に起きた日本からの独立運動である三・一運動の当時、80~103万人がデモに参加し、725~934人が死亡したとする集計を明らかにした。日帝(日本帝国主義)による既存資料に基づくデモ参加者数58万人、死者553人を最大で1.7倍上回る数値だ。

・襲撃による日本側の被害を挙げると、人的なものは官憲の死者8名、負傷者158名であり、物的なものは駐在所159(警官のもの87、憲兵のもの72)、軍・面事務所77、郵便局15、その他諸々27であったといわれる。

≪参考≫

・朴殷植(Wikipedia)
朴 殷植は、朝鮮の歴史家、作家、民族主義運動家、政治家。
大韓民国臨時政府の第2代大統領(1925年3月~7月)を務めた。

三・一運動:文大統領演説全文「7500人殺害」のソースが伝聞だった件

上記報告を見ると、三・一運動犠牲者の記述は矛盾だらけということで、三・一運動犠牲者数のカウントが矛盾だらけであることを暴露しています。

「柳寛順への日本の蛮行、誇張多い」
柳寛順は小学校の教科書にあるように「検事に椅子を投げつけたため法廷冒とく罪が追加され、7年の刑を宣告された」のではなく、3年の刑を受けたという。その後、柳寛順は高等裁判所(現在の最高裁)に上告せず、これが最終刑量になったという。
「梨花学堂時代、柳寛順の級友だったポガック(99、僧侶)さんの証言によると、死亡して20日余り過ぎた後、柳寛順の死体を受け取ったそうです。その時、死体は腐っていましたが、四肢は切断されてはいなかったという話です」。

⑪李承晩大統領

李承晩博士は、大韓民国臨時政府と、大韓民国の初代大統領です。
李承晩大統領は1919年4月10日、上海で結成された「大韓民国臨時政府」の初代大統領に就任。独立建国運動の中心人物となりました。
また1948年8月15日には、アメリカ合衆国後援の下、大韓民国政府樹立を宣言し、初代大統領に就任しました。
李承晩大統領は日本統治時代から独立運動の中心人物だっただけに日本を激しく嫌い、アメリカ滞在中には『日本=野蛮国論』に影響を与え、アメリカが東アジアに政治介入する政策の根拠となりました。
独島(竹島)問題の発端となった李承晩ラインをはじめとして、今日まで日本と韓国間に横たわる問題の多くが、李承晩時代に端を発しています。

李承晩大統領は失脚の瞬間まで独裁的に振る舞い、韓国国内は政治的対立で揺れ続けました。
李承晩大統領時代に朝鮮戦争が勃発し、共産主義者の粛清のため保導連盟事件をおこしました。
また済州島四・三事件、国民防衛軍事件のような失政から国民の目をそらすべく、反日政策をいたずらに煽ることにつながったとも指摘されています。

★保導連盟事件
1948年12月1日、国家保安法を制定。
1949年6月5日、要監視対象者の教化と統制をおこなう思想保護観察団体「国民保導連盟」を組織。
この組織には転向した党員が登録されたほか、抵抗を続ける党員の家族や単なる同調者に対しても登録すれば共産主義者として処罰しないとして加盟が勧められました。保導連盟に登録すると食料配給がスムーズに行われたため、食料目当てに登録した人々も多かったといわれ、民間団体が左翼取り締まりの成績を上げるために無関係な人物を登録することもあったともいいます。
1950年6月25日朝鮮戦争が勃発、27日に李承晩大統領は保導連盟員や南朝鮮労働党関係者を処刑するよう命令
韓国軍、警察は釜山にまで後退する一方、保導連盟に登録していた人民を危険分子と見なして大虐殺を行う

・被害者は公式に確認されているもので4934人。
・「朝鮮戦争前後民間人虐殺真相糾明と名誉回復のための汎国民委員会」:虐殺された人数 60万人~120万人
・1960年4月、全国血虐殺者遺族会が遺族の申告をもとに作成した報告書:虐殺された人数 114万人。
・韓国政府の「真実・和解のための過去史整理委員会(ko)」:子供を含む少なくとも10万人以上の人々を殺害、遺棄。

済州島四・三事件(Wikipedia)
済州島四・三事件は、1948年4月3日から1954年9月21日までの期間に、アメリカ陸軍支配下にある済州島で起こった島民の蜂起に伴う一連の島民虐殺事件を指す。島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された。また、済州島の村々の70%が焼き尽くされた

国民防衛軍事件(Wikipedia)
国民防衛軍事件は、朝鮮戦争中の1951年1月に、韓国の国民防衛軍司令部の幹部らが、国民防衛軍に供給された軍事物資や兵糧米などを横領した事件。横領により9万名余りの韓国軍兵士が餓死したとされる。

≪参考≫

李承晩初代大統領(Wikipedia)
李承晩自身は李氏朝鮮の王族の分家出身であることを誇りにしていた。
1919年4月10日、上海で結成された「大韓民国臨時政府」の初代大総理に就任。
朝鮮独立から2ヵ月後の1945年10月に李承晩は在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁直接統治下の朝鮮半島に戻り、独立建国運動の中心人物となった。
1948年8月15日に、アメリカ合衆国の後援の下、朝鮮半島南部のみを実効支配する大韓民国政府樹立を宣言した。李は議会多数の支持を得て初代大統領に就任した。李政権は地主・資本家および大日本帝国統治下の朝鮮人官僚を勢力基盤としていた。

李承晩は失脚の瞬間まで独裁的に振る舞った。韓国国内は政治的対立で揺れ続けた。対立は多くの場合、「体制派と反体制派」「与党と野党」の論争というよりもむしろ「李と議会政治家たち」の軋轢であった。

李は25歳年下のフランチェスカ夫人との間に実子がいなかったため、遠縁にあたる側近で副大統領候補でもあった李起鵬の長男・李康石(イ・ガンソク)を子に迎えた。康石は1957年にソウル大学校に入学をするが、その入学が特恵措置によるものであったことから騒動となった。しかし承晩の独裁下では批判が出来ようもなく、案の定「独裁者の息子」はたびたび問題を起こし、朝鮮日報社『韓国現代史119事件』ではこう記されている。

「1957年8月、9月は李承晩政権の絶頂期。李康石は街の無法者となり、警察官を殴ったり、派出所の器物を壊して歩いても、誰も告発したり、処罰するものはいなかった。」

対日政策
朝鮮の独立運動に併合前後から関わっていた経歴から、李承晩は日本を激しく嫌った。アメリカ滞在中には併合以前の李朝を「東洋の理想国家」であったと積極的に言論活動を展開し、これがハースト系新聞によって宣伝された『日本=野蛮国論』の一部となり、アメリカが東アジアに政治介入する政策の根拠となった。

また、李承晩は朝鮮が日本統治下にあった時期の殆どを海外で過ごしていたため、日本や日本人というものをステレオタイプとして抽象的にしか理解できず、反日政策をいたずらに煽ることにつながったとも指摘されている。加えて権威主義政権として基盤の脆弱であったことや、保導連盟事件、済州島四・三事件、国民防衛軍事件の様な失政から国民の目をそらすべく、今日でも李承晩の民族主義的政策による影響は根強く残っており、日本と韓国間に横たわる問題の多くが、李承晩時代に端を発している。

保導連盟事件(Wikipedia)
保導連盟事件とは、朝鮮戦争の最中である1950年6月25日、韓国国軍、韓国警察、李承晩大統領支持者らが共産主義からの転向者やその家族を再教育するためとして設立されていた統制組織である「国民保導連盟」の加盟者や収監中の政治犯や民間人などを大量虐殺した事件。韓国では保導協会員虐殺事件とも呼ばれる。

・被害者は公式に確認されているもので4934人。
・「朝鮮戦争前後民間人虐殺真相糾明と名誉回復のための汎国民委員会」:虐殺された人数 60万人~120万人
・1960年4月、全国血虐殺者遺族会が遺族の申告をもとに作成した報告書:虐殺された人数 114万人。
・韓国政府の「真実・和解のための過去史整理委員会(ko)」:子供を含む少なくとも10万人以上の人々を殺害、遺棄。

国民保導連盟による共産主義者への弾圧
李承晩率いる大韓民国政府は、ストライキや武装闘争を挑む南朝鮮労働党(南労党)を中心とする共産勢力に対して弾圧を行い、1948年12月1日、国家保安法を制定。1949年6月5日、要監視対象者の教化と統制をおこなう思想保護観察団体「国民保導連盟」を組織し、翌年にかけて末端組織を全国に拡大した。
この組織には、転向した党員が登録されたほか、抵抗を続ける党員の家族や単なる同調者に対しても登録すれば共産主義者として処罰しないとして加盟が勧められた。保導連盟に登録すると食料配給がスムーズに行われたため、食料目当てに登録した人々も多かったといわれ、警察や体制に協力する民間団体が左翼取り締まりの成績を上げるために無関係な人物を登録することもあったともいう。

朝鮮戦争から処刑へ
1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発。朝鮮人民軍が南進しソウルに迫った。6月27日、李承晩大統領は保導連盟員や南朝鮮労働党関係者を処刑するよう命令を発し、同日中にソウルを脱出した。韓国軍、警察は釜山にまで後退する一方、保導連盟に登録していた人民を危険分子と見なして大田刑務所などで大虐殺を行った。

済州島四・三事件(Wikipedia)
済州島四・三事件は、1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮の済州島で起こった島民の蜂起に伴い、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島の李承晩支持者などが1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す。

南朝鮮当局側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察による大粛清をおこない、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された。また、済州島の村々の70%が焼き尽くされた

国民防衛軍事件(Wikipedia)
国民防衛軍事件は、朝鮮戦争中の1951年1月に、韓国の国民防衛軍司令部の幹部らが、国民防衛軍に供給された軍事物資や兵糧米などを横領した事件。横領により9万名余りの韓国軍兵士が餓死したとされる。

  1. 4、カナン復帰 ~真の基元節を迎えた聖殿聖徒の使命~

    2020.02.11

  2. 3、メシヤのための基台

    2020.02.08

  3. 2、実体基台 ~韓お母様の堕落を蕩減するアベルカイン一体化宣布~

    2020.02.06

  4. (3)第三次路程 =二代王文亨進様を中心とする復帰路程=1、信仰…

    2020.02.04

  5. 3、第二次路程の失敗 ~韓お母様と霊人の結婚でお父様は十字架に~

    2020.02.02

  1. 4、カナン復帰 ~真の基元節を迎えた聖殿聖徒の使命~

    2020.02.11

  2. 2、実体基台~内的刷新に失敗し外的粛清を受け3つに分立した天一国…

    2020.01.29

  3. 12、総括『驕りし選民 繰り返される摂理の失敗』

    2020.01.06

  4. 7、総括『サタン国家日本、罪の呪縛からの解放』

    2019.12.25

  5. 6、真のお父様の種子

    2019.12.22

  6. 2、誰もが知るべき真実!日本人による拷問の真の意味。

    2019.10.20

  7. ③決定的み言、1988年太田会長の御言報告

    2019.10.01

  1. 4、カナン復帰 ~真の基元節を迎えた聖殿聖徒の使命~

    2020.02.11

  2. 2、実体基台 ~韓お母様の堕落を蕩減するアベルカイン一体化宣布~

    2020.02.06

  3. 2)40年荒野路程と三大祝福復帰

    2020.01.23

  4. 13、驕りし選民韓国人の未来

    2020.01.09

  5. 11、霊人体の成長と天国

    2020.01.04

  6. 10、霊界は心が反映した世界

    2020.01.02

  7. 9、献金の意義、信仰の目的?

    2019.12.30

  8. 8、信仰的自立

    2019.12.27

  9. ②-2 日本2 日本と韓国における迫害の違い

    2019.12.02

  10. ★献金に対する姿勢

    2019.10.15

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