目 次
(ニ)驕りし選民 繰り返される摂理の失敗
★2000年前のイエス降臨時 | ★文先生誕生時の時代背景 |
①ヘロデ大王 紀元前37年、ローマの軍勢の力を借りて、イスラエルのレビ族が祭司王として統治したハスモン朝を破り、ユダヤ地区にヘロデ朝を成立。 |
①朝鮮総督府 朝鮮併合により、大日本帝国領となった朝鮮を統治するための官庁。(1919~1945) |
②ローマ帝国 ユダヤ地区の宗主国 ⇒ 紀元395年東西に分裂。 西ローマ帝国は476年に滅亡。 東ローマ帝国は1453年に滅亡。 |
②日本 日清戦争、日露戦争の勝利により、朝鮮を併合し統治。 ⇒1945年、第二次世界大戦に敗戦。 |
③ユダヤ地区 ガリラヤにイエス誕生 ⇒ 紀元70年にローマ帝国軍に滅ぼされる |
③韓半島 平安北道定州郡徳彦面上思里に再臨主文鮮明先生誕生 ⇒ 1953.7.27.韓国動乱後、韓国と北朝鮮に南北分断。 |
④洗礼ヨハネ 主の道を直くする者。エリヤの使命を持つ者 ⇒ 一旦はイエスを証すも不信し従わず。 ルカ7:28「女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。」 |
④洗礼ヨハネ型人物:金百文、許孝彬、朴ウルリョンハルモニ ⇒ 金百文:文先生にソロモン王の祝福。しかし文先生を不信し従わず。 許孝彬、朴ウルリョンハルモニも文先生を受け入れず。 |
⑤ユダヤ人 神の選民、ユダヤ人の中にイエス誕生 ・イエスを十字架に。 マタイ27:25「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」 ⇒ 2000年間流浪の民となり、迫害を受けてきた。 |
⑤韓国人 神の選民、韓民族として文先生誕生 ・北朝鮮においてキリスト教会、北朝鮮政府が、直接的に投獄、拷問…2度にわたる死の危機。 ・韓国キリスト教会、李承晩政権が文先生を迫害。 ・金九が文先生を暗殺未遂。 ⇒ 朝鮮戦争により、韓半島は南北に分断。 |
⑥イエス 神の独り子として降臨されたイエスは、世界的カナン復帰路程を出発。 ⇒ エリヤの使命を持った洗礼ヨハネは、その修道生活により信仰基台を造成し、イエスを証ししましたが、その後イエスを不信し従わなかったために、第一次世界的カナン復帰路程は失敗。 ⇒ イエスは、40日断食と三大試練の勝利により、自らが信仰基台を造成しましたが、イスラエル民族の不信により十字架につけられてしまい、第二次世界的カナン復帰路程も失敗。 ⇒ イエスの40日間の霊的復活とペンテコステ、弟子たちの信仰により、第三次世界的カナン復帰路程は霊的に勝利! ⇒ 再臨主を中心とする実体的カナン復帰路程。 |
⑥文鮮明 文鮮明師は、2000年間神が準備した基台の上で、再臨主としての路程を出発。 ⇒ 金百文、許孝彬をはじめとしてキリスト教会、韓国が挙国的に迫害…死の淵を何度も通過、第一次摂理に失敗。 ⇒ 40年荒野路程の勝利、21年路程を勝利し、神様王権即位式、天宙平和の王・真の父母様戴冠式を勝利したが、韓鶴子オモニの裏切りによりすべての基台を失う。第二次摂理に失敗。 ⇒ 文國進様、文亨進様のカインとアベル一体化宣布によって韓鶴子オモニに入ったサタンを分立、三代王圏摂理出発。 |
(1)イエス降臨時と再臨時
1、2000年前のイエス降臨時
イエスキリスト降臨時、イエスはその使命を全うできずに十字架についてしまいました。
しかし多くのキリスト教徒たちは、全知全能なる神のひとり子イエスが、その使命を果たせずに十字架についたなどとは考えることは許されず、結果としての十字架を肯定するために、イエスは十字架につくために来られたと考えています。
十字架につくことにより、私たちの罪を清算し、私たちを罪から解放してくれたと考えているのです。
しかし原理で明らかにされたように、イエスの言行を見ると、決してイエスは十字架につくために来たなどとは言ってはいません。神の国を地上にもたらすために来たと言っています。
その事実を明らかにした文鮮明先生は、イエスは使命を全うすることができなかった。本来イエスを迎えるべく、神が用意した人物、洗礼ヨハネが、その使命を果たすことができなかった。イエスを迎えるために用意された選民、ユダヤ民族も使命を果たせず、イエスを不信し、十字架へと追いやってしまった。
聖母マリアも、その使命を全うすることができなかったと言っておられます。
では文先生が語られるように、イエスがその使命を全うすることができなかったとするならば、どこにその原因があったのでしょうか?
その原因と結果を、より重要なものから簡単に列挙すると、
①洗礼ヨハネがイエスを証ししながらも、イエスを不信し、受け入れなかった。
⇒洗礼ヨハネの悲惨な最期。イエスはサタンから直接試練を受け、律法学者、パリサイ人らユダヤ人からも、不信された。
②ユダヤ人、律法学者、パリサイ人たちがイエスを受入れず、迫害し、十字架に付ける。
⇒ユダヤの地はローマによって滅ぼされ、ユダヤ人は2000年間国を持たない流浪の民になった。
③イスカりオテのユダが、銀貨30枚でイエスを裏切り、売り渡す。
⇒ユダは自分の罪に耐え切れずに自殺。
④ゲッセマネの祈りで弟子は寝てしまい、夜が明ける前にペテロは3度イエスを否認する。
⇒イエスは一人逮捕され、ユダヤ人の祭司長、長老たちは、イエスを十字架にと叫ぶ。
⑤マリヤがイエスの使命を悟れずに、母親としての使命を果たせず。
⇒イエスは最後まで独身となり、家庭を持つことができなかった。
イエス降臨時、イエスがその使命を全うできるように、神が4000年の歳月をかけ準備してきた基盤がその使命を全うできたとき、神が準備してきた基盤にとっても、最高の栄光が待っていたはずです。それはあたかも、イエスが洗礼ヨハネをさして、「女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。」と言っていたことからもわります。
しかしその基盤が、イエスを受入れなかったとき、自分の使命を悟れなかっただけでも、それはこの上もない罪になってしまうことも、同じくイエスの言動から理解できます。「神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。」
神の摂理にとって、人類歴史を通じ神が準備した基盤が、イエスを受入れ、その使命を全うできることが、人類にとっての最大の栄光であります。
逆にイエスを受入れることができなかった時、それは最大の罪になってしまいます。
さらに、イエスの使命完遂を妨害し、直接にイエスを迫害などしようものなら、その罪は拭い去ることなどできないほどの大罪になってしまいます。
そのような観点で見たとき、イエス降臨時、最も罪深い存在が、自分の使命を悟れずに、イエスを受入れなかった洗礼ヨハネでした。
そしてイエスを直接に迫害し、十字架に付けるように訴えたユダヤ人の祭司長、長老たちでした。
さらには銀貨30枚でイエスを裏切ったイスカりオテのユダでした。
しかしいくら聖書を見ても、ユダヤの王が誕生したという話を聞き、3歳以下のユダヤ人を皆殺しにするように指示を出したヘロデ王や、イエスを大衆裁判にかけたピラト。イエスを直接槍で突いて殺したローマ兵に関しては、その罪深さを糾弾するような内容は見当たりません。
またキリスト教徒を徹底的に迫害したローマ帝国に関しても、その罪を問うような部分は見当たりません。
それどころかローマ帝国に関しては、世界で最も早くキリスト教を受入れ、国教としたわけですから、最も大きな恵みをいただいた国となったともいえるでしょう。
このような考察の元、再臨の主である真のお父様の路程を分析し、神の摂理から見て罪深いと判断される、イエス降臨時における洗礼ヨハネのような人物は誰であったのか?そしてユダヤ教、ユダヤ人に相当する人物、国はどこだったのか?さらには神の摂理から見て、実際の行為に対して、比較的罪深いとは言えないローマ帝国に相当するところはどこなのかについて考察してみることにします。
まずは2000年前、イエス・キリスト降臨時の状況について見てみることにします。
①ヘロデ大王
(Wikipedia『ヘロデ大王』より)
まずは、文先生誕生時の時代背景を見たときの朝鮮総督府に相当する、イエス・キリスト降臨時のヘロデ大王について詳細を見ていくことにします。
朝鮮総督府は、1910年の韓国併合によって大日本帝国領となった朝鮮を統治するために設置された官庁です。
朝鮮総督府の最も大きな功績としては、鉄道、道路、上下水道、電気、病院、学校、工場などのインフラの整備をあげることができます。その結果として、伝染病の予防や出生率の増加等の効果をもたらしました。
一方、皇民化教育、言論の制限や結社の禁止、独立運動などへの取り締まりなども行われたため、韓国人の反発を呼び、今日に至るまでの反日の原因を作ったとも言えます。
一方ヘロデは、ローマに従属することを約束してユダヤの分封王となり、ヘロデ朝を創設しました。
ヘロデ大王の治世を見ていくと、朝鮮総督府と同じように、最も大きな功績として挙げられるのが、都市計画だと言われています。
ソロモンを超える規模で行ったエルサレム神殿の大改築(ヘロデ神殿)、カイサリアの港、マサダ要塞、ヘロディウムなどの大建築は、ローマ帝国を含む当時の世界でも評判になったと言われています。
こうした業績を残す一方、敵対的であったユダヤ教の指導層最高法院のレビ族の祭司たちを迷わず処刑したり、ユダヤの王の誕生を聞くや、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺したりと、ユダヤ人に対する厳しい政策も行いました。
■ヘロデ朝の創設
ヘロデ大王は、共和政ローマ末期からローマ帝国初期にユダヤ地区を統治したユダヤ人の王(在位:紀元前37年 – 紀元前4年)である。
ヘロデはローマにおいて元老院にアピール、父の代から続くローマへの忠誠を評価されてローマの軍勢を貸与され、エルサレムへ向かった。
エルサレムにあったイスラエルのレビ族が祭司王として統治したハスモン朝は、ローマ軍の精鋭の前にあえなく陥落。
紀元前37年、ヘロデはついにローマに従属することを約束して、ユダヤの分封王となり、エドム人ヘロデが統治するヘロデ朝を創設。
■ユダヤ人の迫害
王位についたヘロデは、前政権ハスモン朝の血をひくものをすべて抹殺した。
自分に対して敵対的であったユダヤ教の指導層最高法院の指導的なレビ族の祭司たちを迷わず処刑。
■幼児虐殺
2:7そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、
2:8彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。
2:9彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。
2:10彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。
2:11そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。
2:12そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。
2:13彼らが帰って行ったのち、見よ、主の使が夢でヨセフに現れて言った、「立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている」。
2:14そこで、ヨセフは立って、夜の間に幼な子とその母とを連れてエジプトへ行き、
2:15ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた。それは、主が預言者によって「エジプトからわが子を呼び出した」と言われたことが、成就するためである。
2:16さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。
■ヘロデ王の業績
ヘロデは都市計画において業績を残した。
人工港湾都市カイサリア、歴史に名を残す大要塞マサダ、アウグストゥスの名前を冠した新都市セバステ(サマリア)、エルサレムのアントニア要塞、要塞都市ヘロディオン、マカイロスなどはすべてヘロデの時代につくられた計画都市である。それだけでなくヘレニズム君主としてパレスティナや小アジアのユダヤ人が住む多くの都市に多くの公共施設を提供している。
しかし、なんといってもヘロデの名を不朽のものとしたのは、第二神殿の改築(ヘロデ神殿)、カイサリアの港、マサダ要塞、ヘロディウム (Herodium) などの大建築であった。特にヘロデ神殿はソロモンを超える規模で行ったエルサレム神殿の大改築であった。神殿はローマ帝国を含む当時の世界でも評判となり、このヘロデの時代にディアスポラのユダヤ人や非ユダヤ教徒までが神殿に参拝しようとエルサレムをさかんに訪れるようになった。
② ローマ帝国
朝鮮王朝末期、朝鮮は清との長きにわたる冊封体制にありましたが、日清戦争の結果日本の勝利により独立、1897年、大韓帝国に国号を変更しました。
そして1910年には日本に併合されました。
1920年文先生誕生時には、朝鮮半島は日本に併合され、日本の一部という立場にありました。
それと同じように、紀元前142年頃、ユダヤはシリアからの事実上の独立を勝ち取り、ローマの元老院の承認によりハスモン朝が成立しました。
その後紀元前37年、ヘロデはローマに従属することを約束して分封王となり、ヘロデ朝を創設しました。
ヘロデ大王の死後、ユダヤ属州はローマの総督による直轄統治となったため、イエス降臨時は、ユダヤ属州やガリラヤ地方が、全てローマ帝国の支配下にありましした。
■王政期
建国された紀元前753年から紀元前509年までローマは、伝説上の七人の王が治める。
■共和政期
紀元前509年から紀元前27年まで、イタリア半島の一都市国家から地中海の全域に属州を持つ帝政になるまでの期間。
政治は元老院と執政官ら政務官を中心として、民会などで一般ローマ市民の意思も反映されながら運営。
■帝政期
紀元前27年、アウグストゥスのローマ皇帝即位によって、ローマ帝国は共和政から帝政へと移行。
■ユダヤ属州の宗主国
・紀元前142年から紀元前135年にかけて、ユダヤはシリアからの事実上の独立を勝ち取り、ローマの元老院の承認によりハスモン朝が成立。
・紀元前37年、ヘロデはローマ元老院によって「ユダヤ人の王」として認められ、ヘロデ朝を創設。
■ローマによるユダヤ属州統治
ヘロデ大王の死後、ユダヤ属州はローマの総督によって直轄統治。
当時のローマ帝国は基本的に被支配民族の文化を尊重し、統治者としてバランスのとれた巧みな統治政策を示したが、多神教文化であった地中海世界の中で、一神教を奉ずるユダヤは特殊な文化を持った地域だった。
イエス・キリストの時代には、ユダヤ属州やガリラヤ地方が、全てローマ帝国の支配下だった。
■ペテロやパウロなどによるキリスト教の伝播
帝政初期に帝国領内のユダヤ属州で生まれたイエス・キリストの創始したキリスト教はローマ領内に伝えられ、ペテロやパウロなどの布教によって広がっていったが、ローマ帝国は、皇帝崇拝を拒否する異教であるとして、厳しくキリスト教を弾圧した。
■皇帝ネロによる迫害
64年、ローマの大火が起こり、ネロが新しい都市計画を思いついて自らに火をつけたとの風聞がたつと、ネロはローマ大火の原因をキリスト教徒の放火であると断定した。
ネロは捕らえたキリスト教徒を簡単な裁判で死刑に決め、猛獣の餌食にしたり、十字架にかけたり、松明代わりに燃やしたりしたという。
またこのとき、キリスト教の最高指導者として捕らえられたペテロも、逆さまに十字架にかけられ殉教。パウロもこのときローマで殉教したとされている。
■ユダヤ戦争
ローマによって直轄統治されていたユダヤ属州では、独自の民族宗教であるユダヤ教の信仰を続けていたユダヤ人は、ローマの支配に対する不満をつのらせ、66年の春に反乱を起こし、ユダヤ戦争が始まる。
ユダヤ人たちは頑強に抵抗したが、70年に圧倒的なローマ軍の前にエルサレムは陥落し国を失い、神殿は破壊され、ユダヤ人は殺されるか、奴隷として売られるかし、中東世界に離散した。
■皇帝ディオクレティアヌスによるキリスト教の迫害
303年ディオクレティアヌス帝はキリスト教の会合を禁止し、神としての皇帝崇拝と、伝統的なローマの神々への祭儀への参加をキリスト教徒に強要した。
また教会の破壊、聖書の焼き捨て、聖職者全員の逮捕などが行われ、コロッセオでは数千人のキリスト教徒が火あぶりや、ライオンに食わせるなどの処刑が行われた。
■カタコンベ:地下墓坑。
キリスト教は非合法とされ迫害されていたが、社会の下層民にひろがり、さらにローマの市民・上層民にも信者が現れるようになっていった。
キリスト教徒はカタコンベ(地下墓坑)で祈りを捧げるなどして信仰を守り、迫害に耐えた。
■キリスト教の公認と国教化
ローマ帝国の軍人皇帝時代の3世紀の危機といわれた混乱から、帝国支配の安定を回復しようとしていたコンスタンティヌス帝は、キリスト教を認めることに踏み切り、313年にミラノ勅令を発してキリスト教を公認した。
その後392年にテオドシウス帝は、キリスト教以外の宗教を禁止し、キリスト教をローマ帝国での唯一の宗教とし、国教と定めた。
■略歴
・ 30年以降ペテロやパウロなどによるキリスト教の伝播
・ 64年:皇帝ネロによるキリスト教の迫害
・ 70年:ユダヤ戦争
・ 303年:皇帝ディオクレティアヌスによるキリスト教の迫害
・ 313年:ミラノ勅令、皇帝コンスタンティヌスによるキリスト教の公認。
・ 392年:テオドシウス一世によりキリスト教の国教化。
・ 395年:テオドシウス一世の死後、ローマ帝国は東西に分裂。
・ 476年:ゲルマン民族の侵入により西ローマ帝国は滅亡。
・1453年4月:オスマン帝国軍により東ローマ帝国は滅亡。
③ユダヤ属州
再臨主を迎える前の韓半島は、李氏朝鮮時代を通し、清を宗主国とする冊封体制にありました。
1894年、日清戦争で日本が清に勝利することにより、朝鮮と清朝の冊封関係は終わり独立国となりました。
1910年8月22日、韓国併合ニ関スル条約が締結され、大韓帝国は日本に併合されました。
一方紀元前142年頃、ローマの元老院の承認を受け、ユダヤはシリアからの事実上の独立を勝ち取り、ハスモン朝が成立しました。
紀元前37年、ヘロデはローマ元老院によって「ユダヤ人の王」として認められ、ヘロデ朝を創設しました。
そしてイエス降臨時は、ユダヤ属州やガリラヤ地方が、全てローマ帝国の支配下でした。
このように文鮮明先生誕生時、韓半島は日本の統治下にあったように、2000年前のイエス降臨時、イエス誕生の地だったユダヤの地もローマ帝国の支配下にありました。
■ハスモン朝
紀元前166年に起きた決起から20年後、紀元前142年から紀元前135年にかけて、ローマの元老院の承認を受け、ユダヤはシリアからの事実上の独立を勝ち取ることに成功し、ハスモン朝が成立。
しかしハスモン朝は、混乱と内紛の時代が続き、晩年、ローマの影響力の前に、すでに名前だけのものになっていた。
■ヘロデとヘロデ朝の成立
ハスモン朝が身内の争いで王座が空位となった際、ハスモン朝の武将の息子ヘロデは、ローマ元老院によって「ユダヤ人の王」として認められ、ヘロデ朝を創設、ローマとの協調関係を構築した。
■ヘロデ大王
ヘロデがユダヤの王として支配した時代は大きく3つに分けられる。
第1期はBC37-BC25年の権威の強化時代
第2期はBC25-BC13年の全盛期
第3期はBC13-BC4年の晩年の家庭の悲惨な時期
ヘロデは紀元前4年に亡くなるまで統治し、ヘロデの死後は3人の息子が分割支配した。
■3分統治時期
ヘロデ・アルケラオス(紀元前4年 – 6年、支配地:ユダヤ、エドム、サマリア)
ヘロデ・フィリッポス(紀元前4年 – 34年、支配地:バタネア、ガウラニティスなど)
ヘロデ・アンティパス(紀元前4年 – 39年、支配地:ガリラヤ、ペレア)
・アグリッパ1世(34年 – 44年):ヘロデ大王が支配していた時期の支配地を回復させた。
・アグリッパ2世(44年 – 93年頃):王国の北部分を承継し、南半分はローマが直轄統治した。
■ユダヤ戦争
ヘロデ大王の死後、ユダヤ属州はローマの総督によって直轄統治されていた。
当時のローマ帝国は基本的に被支配民族の文化を尊重し、統治者としてバランスのとれた巧みな統治政策を示していたが、多神教文化であった地中海世界の中で、一神教を奉ずるユダヤは特殊な文化を持った地域であったため、支配されていたユダヤ人のローマへの反感は日増しに高まっていた。
そんな中、当時のユダヤ属州総督が、エルサレムのインフラ整備のための資金として、神殿の宝物を持ち出したことをきっかけに、エルサレムで過激派による暴動が起こり、「ユダヤ戦争」が勃発した。
ユダヤ側の指導者は、いずれも強硬派・原理主義者に属していたため、事態は過激化した。
ローマ側は暴動の首謀者の逮捕・処刑によって事態を収拾しようとしたが、逆に反ローマの機運を全土に飛び火させてしまい、主導権争いと仲間割れを繰り返し、意思統一ができていなかったユダヤ人たちも反ローマで結束した。
70年、ユダヤ人たちは神殿やアントニウス要塞に拠って頑強に抵抗したが、圧倒的なローマ軍の前に敗北し、エルサレム神殿は火を放たれて炎上し、エルサレムは陥落してしまった。
その結果ユダヤ人は中東世界に離散した。
ユダヤ的なものを一掃しようとしたローマ人は、この土地をユダヤ人の宿敵ペリシテ人にちなんでパレスチナという名前をつけたため、ユダヤという地名は消滅してしまった。
それから約2000年後の1948年、かつてのユダヤの地に建国した新国家は、イスラエル国と命名された。
④ 洗礼ヨハネ
神はイエスを迎えるために、メシヤの道を直くする者として、サタン分立の使命を担う預言者エリヤの使命を持つ洗礼ヨハネを遣わしました。
洗礼ヨハネの誕生時の奇跡と、荒野での修行により、洗礼ヨハネは「信仰基台」を造成することに成功しました。
同時に当時のユダヤ人たちは、彼こそは神が遣わしたメシヤではないかと思うほどに洗礼ヨハネを信じたため、洗礼ヨハネとユダヤ人たちの間に「実体基台」が復帰され、「メシヤのための基台」が完成しました。
あとは洗礼ヨハネがイエスを信じ、従いさえすれば、全ユダヤ人も自動的にイエスを受け入れ、イエスはメシヤとして、王の王として、人類救済の道を歩むはずでした。
しかし洗礼ヨハネ一人の不信により、神が4000年かけて造成したすべての基台を喪失させ、イエス自らが僕の僕となり、世界的カナン復帰路程をたった一人で出発せざるを得なくなりました。
イエスを信じないというほんの些細な出来事が、人類の命運を決めてしまったのです。
摂理の中心人物の責任の重さを知る、重要な教訓がここにあります。
イエスを中心とする復帰摂理、第一次世界的カナン復帰路程
(1) 信仰基台
★預言者エリヤ
・ユダヤ民族は、メシヤ降臨以前にサタン分立の使命を担って、メシヤの道を直くするために(ヨハネ 1/23)エリヤが再臨すると信じていたため、メシヤ降臨よりもエリヤの再臨をもっと渇望していた。
「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。」(マラキ 4/5)
・サタン分立の使命を担ってこれを完遂し、メシヤの道を直くするために(ヨハネ1/23)、エリヤとして来た預言者が、洗礼ヨハネであった(マタイ11/14、マタイ17/13)。
★洗礼ヨハネ
・洗礼ヨハネは、荒野でいなごと野蜜とを食べながら、メシヤを迎えるために、天に対する忠孝の道を立てたのであった。それゆえに、祭司たちをはじめとして(ヨハネ1/19)、ユダヤ人たちはみな、洗礼ヨハネがメシヤではないかとまで思うようになったのである(ルカ3/15)。
(2) 実体基台
・イエス当時のユダヤ人たちも、神の奇跡をもって信仰の対象者として立ててくださった洗礼ヨハネを信じ、彼に従ったならば、彼らは「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立て、「実体基台」を復帰することにより、「メシヤのための基台」を復帰することができた。
・洗礼ヨハネは、当時の名門の出である祭司ザカリヤの子として生まれた(ルカ 1/13)。
・ザカリヤは、妻が男の子を懐胎するという天使の言葉を信じなかったために唖となったが、ヨハネが出生するや否や口がきけるようになった(ルカ 1/8~66)奇跡などによって「近所の人々はみな恐れをいだき、またユダヤの山里の至るところに、これらの事がことごとく語り伝えられたので、聞く者たちは皆それを心に留めて、『この子は、いったい、どんな者になるだろう』と語り合った。主のみ手が彼と共にあった」(ルカ 1/65、66)
・イスラエル民族は、洗礼ヨハネが生まれたときから、彼を神がお送りになった預言者であると認めていた。
★洗礼ヨハネはイエスを証した。
・「ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。』とわたしが言ったのは、この人のことである。
ヨハネは言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。
わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。(ヨハネ 1/29~34)
・自分が神のみ旨のために今まで築きあげてきたすべてのものを、イエスの前に引き渡すという一種の儀式。
(3) 第一次世界的カナン復帰路程の失敗
洗礼ヨハネは自らイエスをメシヤとして証したのにもかかわらず、彼を疑うようになり(マタイ11/3)、また、自分がエリヤとして来たのにもかかわらず、それを知らずに否認して(ヨハネ1/21)、ユダヤ人たちがイエスの前に出ていく道をふさいだばかりでなく、彼らがイエスに逆らうような立場にまで押しやった。
★洗礼ヨハネの不信
・自身がエリヤであることを否認
「そこで、彼らは問うた、『それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか』。彼は『いや、そうではない』と言った。『では、あの預言者ですか』。彼は『いいえ』と答えた。そこで、彼らは言った、『あなたはどなたですか。…あなた自身をだれだと考えるのですか』。彼は言った、『わたしは、預言者イザヤが言ったように、「主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声」である』。」(ヨハネ 1/21~23)
・イエスをも不信
「ヨハネは『きたるべきかたはあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか』と尋ねさせた。
イエスは答えて言われた、『行って、あなたがたが見聞きしたことを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである』。
・イエスは洗礼ヨハネを叱責
「イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。柔らかい着物をまとった人か。きらびやかに着かざって、ぜいたくに暮している人々なら、宮殿にいる。
では、何を見に出てきたのか。預言者か。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろうと書いてあるのは、この人のことである。」(ルカ 7/18~27)
「あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。」(ルカ 7/28)
★洗礼ヨハネの最期
「ヘロデの誕生日の祝に、ヘロデヤの娘がその席上で舞をまい、ヘロデを喜ばせたので、彼女の願うものは、なんでも与えようと、彼は誓って約束までした。
すると彼女は『バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、ここに持ってきて』と言った。
王は困ったが、人をつかわして、獄中でヨハネの首を切らせた。
その首は盆に載せて運ばれ、少女にわたされ、少女はそれを母のところに持って行った。」(マタイ 11/6~11)
⑤ユダヤ人
本来洗礼ヨハネがイエスを受け入れていたらば、自動的にユダヤ人たちもイエスを受け入れ、選民としてイエスと共に神の国建設の一翼を担うはずでした。
しかし洗礼ヨハネがイエスを不信したため、イエス自らが信仰基台を造成するためにユダヤ人たちの中に降り、み言を語り、奇跡を行うことにより、多くの民衆がイエスを信じ、従うようになりました。
しかしイエスのもとに集まった民衆は、本来神が用意されたユダヤ教指導者たちではなく、何の力も信仰もない人々だったため、祭司や律法学者たちにより迫害されるようになると、イエスの弟子イスカリオテのユダは銀貨30枚でイエスを売り、イエスは捕らえられてしまい、第一弟子ペテロもイエスを知らないと否定しました。
総督はイエスを許そうと、ユダヤ人たちに誰を許してほしいと言ったとき、祭司長、長老たちに扇動されたユダヤ人たちは、バラバを許して、イエスを『十字架につけよ』と叫び、『その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい』と叫びました。
その結果ユダヤ民族はイエスの血に責任を持ち、西暦70年にローマ軍により国を奪われ、2000年間国を持たざる流浪の民として、世界的に迫害を受けてきました。
(二)第二次世界的カナン復帰路程
(2) 実体基台
第二次世界的カナン復帰路程においては、イエス自身がみ言と奇跡とをもってその「出発のための摂理」をされた。
カインの立場におかれていたユダヤ民族が、アベルの立場に立っていたイエスを信じ、彼に仕え従ったならば、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てて「実体基台」を復帰するようになるので「メシヤのための基台」を造成することができた。
★ユダヤ人の不信を嘆くイエス
・「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった」(マタイ 23/37)
・「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」(ヨハネ 5/39、40)
・「もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである」(ヨハネ 5/43~46)
・「たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」(ヨハネ 10/38)
(3) 第二次世界的カナン復帰路程の失敗
サタンは、不信に陥った祭司たちと律法学者たちを中心とするユダヤ民族、特に、イエスを売った弟子、イスカリオテのユダを通して、再びイエスの前に現れて、対立した。
★イスカリオテのユダ (マタイ26/14~15、47~50、27/1~5)
「十二弟子のひとりイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行って言った、『彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか』。すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。」
「十二弟子のひとりのユダがきた。イエスを裏切った者が、あらかじめ彼らに、『わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ』と合図をしておいた。彼はすぐイエスに近寄り、『先生、いかがですか』と言って、イエスに接吻した。しかし、イエスは彼に言われた、『友よ、なんのためにきたのか』」
「夜が明けると、祭司長たち、民の長老たち一同は、イエスを殺そうとして協議をこらした上、 イエスを縛って引き出し、総督ピラトに渡した。そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して言った、『わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました』。しかし彼らは言った、『それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい』。そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。」
★第一弟子ペテロがイエスを3度否認 (マタイ 26/69~75)
「ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、『あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった』と言った。するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、『あなたが何を言っているのか、わからない』。そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって、『この人はナザレ人イエスと一緒だった』と言った。そこで彼は再びそれを打ち消して、『そんな人は知らない』と誓って言った。しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った、『確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる』。彼は『その人のことは何も知らない』と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。ペテロは『鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう』と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。」
★イエスの十字架の死に責任を持つ者 (マタイ 27/15~26)
「さて、祭のたびごとに、総督は群衆が願い出る囚人ひとりを、ゆるしてやる慣例になっていた。それで、彼らが集まったとき、ピラトは言った、『おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか。バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか』。しかし、祭司長、長老たちは、バラバをゆるして、イエスを殺してもらうようにと、群衆を説き伏せた。総督は彼らにむかって言った、『ふたりのうち、どちらをゆるしてほしいのか』。彼らは『バラバの方を』と言った。ピラトは言った、『それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか』。彼らはいっせいに『十字架につけよ』と言った。しかし、ピラトは言った、『あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか』。すると彼らはいっそう激しく叫んで、『十字架につけよ』と言った。ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、『この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい』。すると、民衆全体が答えて言った、『その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい』。そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。」
⑥ イエス
人類始祖アダムとエバの堕落以来、神は人類を再び我が手に取り戻すため、復帰摂理歴史を歩まれてきました。
アダム家庭、ノア家庭、アブラハム家庭、モーセ路程と摂理は続き、4000年の歴史の結実体として降臨されたのがまさしくイエス・キリストでした。神の一人子イエスをお迎えすることにより、人類歴史上初めて、人類が親なる神の元に還れる時を迎えることができたのです。つまり人類歴史は、イエスお一人をお迎えするための歴史であったと言って過言ではありませんでした。
しかしサタンが支配するこの地上において、イエスお一人を送られても、神のみ旨を成就することは難しいのが現実でした。よって神はイエスを迎えるための基盤として、イエスの基台となるべき民族、ユダヤ民族を選民として立てられ、その選民とともに神のみ旨を成就すべくありとあらゆる準備をなされました。
サタンが支配する地上からサタンを分立すべく、ユダヤ人たちの中心人物として立てられたのが洗礼ヨハネでした。洗礼ヨハネがイエスを迎え、イエスと一体となり、イエスの第一弟子としてユダヤ人たちを指導していったとき、王の王としてイエスは神のみ旨を成就することができるようになっていました。
そんな王の王となるべくして来られた神の一人子イエスが、33歳の若さで十字架につかれ、非業の最期を遂げられたのは誰もが知る事実です。
今日に至るまでキリスト教徒たちは、全知全能である神の一人子イエスが、摂理に失敗したなどとは考えることが許されませんでした。神の子イエスが摂理に失敗したなどと考えることは、全知全能なる神の否定につながるため、神に対する不敬と考えられたからです。
そのため結果としてのイエスの十字架を肯定するために、イエスは十字架につくために来たのだと、頑なに信じてきました。イエスの十字架を肯定するために、イエスは人類のすべての罪を背負われ、我々の身代わりとなって十字架につかれたのだという論理を構築し、信じ続けてきたのです。
しかし今日、再臨の主として来られた文鮮明先生は、イエスは摂理に失敗したのだ。イエスの十字架は神の予定にはなかったことだと神の摂理を解き明かし、イエスに対する正しい見解を発表されました。
ここでは摂理に失敗したイエスは、どのような路程を歩まれたのか、そして失敗した立場からどのように再び立ち上がり、今日に繋がるどのような歩みをされたのかについて『イエスを中心とする復帰摂理』の概略を見ていきたいと思います。
イエスを中心とする復帰摂理
(一)第一次世界的カナン復帰路程
(1) 信仰基台
サタン分立の使命を担い、メシヤの道を直くするために、エリヤとして来た預言者が洗礼ヨハネであった。
洗礼ヨハネ生誕時の奇跡、輝かしい修道生活などにより、祭司や一般のユダヤ人たちは、彼を神がお送りになった預言者であると認め、メシヤではないかと思うほどに信望は高かった。
(2) 実体基台
当時のユダヤ人たちも、洗礼ヨハネを信じ、従ったならば、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立て、「実体基台」を復帰することにより、「メシヤのための基台」を復帰することができた。
(3) 第一次世界的カナン復帰路程の失敗
洗礼ヨハネは自らイエスをメシヤとして証したにもかかわらず、イエスを疑うようになった。
また、自分がエリヤであることを否認し、ユダヤ人たちがイエスの前に出ていく道をふさぎ、イエスに逆らうような立場にまで押しやった。
(二)第二次世界的カナン復帰路程
(1) 信仰基台
① イエスが洗礼ヨハネの使命を代理する
イエスが荒野で40日間断食をされながら、サタンを分立し、洗礼ヨハネの代理の立場で、「信仰基台」を蕩減復帰された。
② イエスの荒野40日の断食祈祷と三大試練
★40日の断食祈祷 (マタイ 4/1~2)
「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、40日四40夜、断食をし、そののち空腹になられた。」
★第一試練 第一祝福復帰 (マタイ 4/3~4)
サタン「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」
イエス「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」
★第ニ試練 第ニ祝福復帰 (マタイ 4/6~7)
サタン「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい」
イエス「主なるあなたの神を試みてはならない」
★第三試練 第三祝福復帰 (マタイ 4/9~10)
サタン「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」
イエス「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」
③ 40日断食と三大試練とをもってサタンを分立した結果
イエスは、洗礼ヨハネの立場からメシヤの立場に立つための「信仰基台」を造成したので、神の三大祝福を成就して、四位基台を蕩減復帰することができる条件を立てられた。
(2) 実体基台
イエス自身がみ言と奇跡とをもって「出発のための摂理」をされた。
カインの立場であるユダヤ民族が、アベルの立場であるイエスを信じ、仕え従ったならば、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てて「実体基台」を復帰するようになるので「メシヤのための基台」を造成することができた。
(3) 第二次世界的カナン復帰路程の失敗
祭司たちと律法学者たちを中心とするユダヤ民族はイエスを不信し十字架に付けた。
イエスの弟子イスカリオテのユダは、銀貨30枚でイエスを売り、ペテロはイエスを三回否認した。
(三)第三次世界的カナン復帰路程
(1) イエスを中心とする霊的カナン復帰路程
① 霊的な信仰基台
イエスは、すべての人類を救われるために、その肉身を供え物として十字架に引き渡されたのち、復活40日のサタン分立期間をもって、霊的な「信仰基台」を立て、万民の罪を贖罪し得る道を開拓された。
② 霊的な実体基台
復活されたイエスは、弟子たちに一切の奇跡の権威を授けられ(マタイ 28/16~18)、「出発のための摂理」をされた。カインの立場に立っていた信徒たちは、復活されたイエスを信じ、彼に仕え従って、「堕落性を脱ぐための霊的な蕩減条件」を立てることにより、「霊的な実体基台」を復帰することができた。
③ メシヤのための霊的な基台
弟子たちは、復活されたイエスを命懸けて信奉することにより、「霊的な実体基台」を造成し、「メシヤのための霊的な基台」を復帰した。そこでイエスは、霊的なメシヤの立場を確立し、聖霊を復帰することによって、霊的な真の父母となり、重生の摂理をされるようになった。
④ 霊的カナン復帰
キリスト教信徒たちは「メシヤのための霊的基台」の上で霊的メシヤとして立たせられたイエスを信じ侍ることによって、霊的カナン復帰だけを完成するようになった。
信徒たちの肉身は、サタンの侵入を受けることにより、原罪は依然として元のままに残っているので(ロマ 7/25)、信徒たちもまた、キリスト再臨のための、サタン再分立の路程を歩まなければならない。
2、文先生誕生時の時代背景
2000年前、イエス降臨時の状況について見てみると、イエスの降臨に備え、神が4000年の歴史をかけて備えてきた基盤の上に立つ、エリヤの使命を持って神が遣わされた人物が洗礼ヨハネでした。洗礼ヨハネはイエスを「神の子」と証しをし、神のみ旨のために今まで築きあげてきたすべてのものを、イエスに引き渡しました。しかしその後イエスを不信することで、選民として立てられたユダヤ人たちが、イエスの前に行く道が閉ざされてしまいました。
その後イエス自らが洗礼ヨハネの使命を代理し、み言と奇跡によって自らが神が遣わされた神の息子であると証しをしましたが、律法学者やパリサイ人らユダヤ人たちはイエスを受入れず、迫害し、十字架へと追いやることでイエスは摂理に失敗し、十字架についてしまいました。
洗礼ヨハネは領主ヘロデに対し、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤをめとるのはよろしくないと非難したために投獄されました。ヘロデの誕生日の祝に、ヘロデヤの娘が舞をまってヘロデを喜ばせ、その褒美に彼女が願うものは何でも与えようと誓って約束したため、娘は母にそそのかされて、洗礼ヨハネの首を盆に載せて持ってきて欲しいと願いました。そのために洗礼ヨハネは首を切られ、神のみ旨とは全く関係のないことで無駄に命を落としました。
その結果洗礼ヨハネは、イエスにも「女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。」と言われる存在となってしまいました。
またユダヤ人たちも、総督ピラトにイエスを引き渡し、祭司長、長老たちが群衆を説き伏せて「イエスを十字架に付けよ」と激しく叫びました。ピラトは暴動になるのを恐れ「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」と言ったため、民衆全体が答えて「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」と言い、イエスは十字架についてしまいました。
その結果ユダヤは、西暦70年に「ユダヤ戦争」で圧倒的なローマ軍の前に敗北し、エルサレム神殿は火を放たれて炎上し、エルサレムは陥落し、ユダヤ人は中東世界に離散してしまいました。
地上からからユダヤという地名は消滅し、ユダヤ人は1948年にイスラエルが建国されるまで、国を持たざる民族として、迫害の中世界中を転々とし、イエスの十字架に対し責任を取らされる形となりました。
こうして神が4000年かけて準備した選民ユダヤ民族と、その上に立つ洗礼ヨハネは、自らの使命に成功したら、永遠なる神の国で最も栄えある立場に立つはずであったにもかかわらず、摂理に失敗したために、歴史上最も悲惨な立場に立ってしまいました。
つまり洗礼ヨハネ、ユダヤ人達が、人類にとっての最も重い罪を犯してしまったことがわかります。
一方、ユダヤ人の王が誕生したという話を聞き、3歳以下のユダヤ人を皆殺しにするように指示を出したヘロデ王や、イエスを直接槍で突いて殺したローマ兵、ユダヤの地を統治していたローマに関しては、その罪深さを糾弾するような内容は、聖書の中には見当たりません。
それはあくまでも、イエスがその使命を全うできるか否かの直接的な責任に関わった人物こそが、洗礼ヨハネであり、ユダヤ人、律法学者やパリサイ人たちであったのに対し、ヘロデ王やローマ兵、ローマは、イエスの使命完遂には直接的には関与せず、結果として刑の執行を命じられただけにすぎなかったからでした。
このような観点を踏まえて、文鮮明先生の路程を分析し、洗礼ヨハネの使命を持った人物は誰だったのか、ユダヤ人、律法学者、パリサイ人たちに相当する人物たちは誰だったのか、またヘロデ王やローマ兵、ローマに相当する人物、国家というのは誰でありどこだったのかについて考えてみることにします。
① 朝鮮総督府
1910年の韓国併合により、大日本帝国領となった朝鮮を統治するための官庁。(1919~1945年)
1910年、大日本帝国は大韓帝国との間に結ばれた「韓国併合ニ関スル条約」(日韓併合条約)の締結によって大韓帝国を併合し朝鮮総督府の統治下に置いた。日本の同盟国のイギリスやアメリカ、フランスやドイツ、中華民国などの世界の主要国はこれを認めた。
日本による統治期間は、1919年の三・一独立運動までの武断統治期、それ以降日中戦争に至るまでの文化統治期、および日中戦争、太平洋戦争から終戦に至るまでの戦時体制期に大きく分けられる。
併合当初の10年間は所得税の免税措置、インフラ整備、近代教育制度や近代工業の導入など朝鮮半島の開発に力を入れ、開発工事や運営の主な労働力を朝鮮人に求めることで雇用を創出した。
一方で、憲兵警察制度や、内地と同様の言論・結社の自由の厳しい制限などに代表される武断統治により、朝鮮王朝末期から続いていた抗日運動を抑えようとした。
三・一独立運動以後、日中戦争に至るまでの期間は、朝鮮総督府は従来の統治政策を修正し、内地と同様に言論や結社の自由が与えられたため、比較的自由な雰囲気の中で、朝鮮人による様々な民族運動が繰り広げられた。
イエス降臨時、イエスが誕生した地ベツレヘムは、ローマに従属することを約束してユダヤの分封王となったヘロデの王朝、ヘロデ朝の領土でした。
したがって文鮮明先生が誕生した地、平安北道定州郡徳彦面上思里2221番地も、日本統治下の朝鮮半島にありました。
よって、朝鮮半島を統治する朝鮮総督府が、ヘロデ大王、またはヘロデ朝に相当すると考えられます。
★朝鮮総督府による韓民族への迫害とされるもの
・身分解放
統監府は1909年に戸籍制度を導入し、白丁などの賤民にも姓を名乗らせて、戸籍には身分を記載することなく登録させた。
身分解放に反発する両班は激しい抗議デモを繰り広げたが、身分にかかわらず教育機会を与えるべきと考える日本政府によって即座に鎮圧された。
・朝鮮人の独立運動
1919年には三・一独立運動が起こって大規模な暴動にまで発展し、朝鮮中を巻き込んだ。この独立運動は約一年間続き、暴動と総督府側による取締りによって多くの死傷者がでた。
事件直後に行われた調査結果を記した資料によれば、8,437人が逮捕された。しかし逮捕者への刑罰は主犯でも最高で懲役3年以下という軽いものであった。
女学生・柳寛順は三・一独立運動を扇動した罪で投獄、16才で西大門刑務所内で獄死した。
・堤岩里事件
1919年4月15日に小学校焼き討ちと警察官2名の殺害の容疑で堤岩里の成人男性住民30余名を教会堂に集めたところ、取調べ中に容疑者1名が逃げようとし憲兵に斬殺され、それを見た他の容疑者が暴徒化した為に全員が射殺され、放火などにより15村落317戸が延焼し、39人が死亡した事件である。
・三・一独立運動の結果
日本は三・一運動で掲げられた要求を受け、日本及び朝鮮総督府の武断統治を改めさせ、憲兵警察制度を廃止し、集会や言論、出版に一定の自由を認めるなど、朝鮮総督府による統治体制が武断的なものから文治的なものへと方針転換される契機となり、以降は日本統治に対する抵抗といえる抵抗がまったくみられなくなった。
・皇民化政策
皇民化政策は思想と言語統一によって他民族を日本人化することで、日本人と植民地住民を対等に扱おうとするものであった。
・神社参拝
朝鮮総督府は「皇民化政策の一環」として神社参拝を奨励し、各家庭での神棚設置と礼拝を奨励した。
三・一独立運動の主要勢力がキリスト教徒だったため、朝鮮のキリスト教徒に対する圧力も強まっていった。
☆日本の朝鮮統治
・30数年間で朝鮮半島につぎ込んだ日本国民の税金は現在の価値で63兆円、民間まで入れると80兆円をはるかに超える。
・社会政策…高等教育や義務教育制度や戸籍制度などの近代的な社会制度の整備が行われた。
・身分解放…1909年に戸籍制度を導入し、白丁など賤民にも姓を名乗らせて戸籍には身分を記載することなく登録させた。
・教育制度…1906年時点で小学校が全国で40校未満、両班の子弟は書堂と呼ばれる私塾で教育。1940年代には各種学校は1000校を超え、身分開放された白丁の子弟も学校に通えるようになった。
・宗教政策…李朝はカトリックへの弾圧は断続的に行われた。1895年に公称1590人の信徒が1910年には22万6791名に。
・造林事業…1911年には約4千町、1152万本だったが1922年までの累計は約36万町、10億本に至った。
・経済…鉄道、道路、上水道、下水道、電気インフラ、病院、学校、工場など、最新鋭のインフラの整備を行い、近代教育制度や近代医療制度の整備を進めた。1,527件の農業用ダムと410件の水路の建設、砂防ダム建設など水利事業も行われた。
・平均寿命…衛生指導や集団予防接種が行われ、コレラ、天然痘、ペストなどによる乳児死亡率が減少し、平均寿命は24歳から56歳まで伸びた。また農地の開発や農業技術の指導により食糧生産量も激増し、人口はも平均寿命も併合時(1910年)の2倍になった。
食糧生産は併合前の1909年には746万石、1918年には1529万石と2倍以上に、更に1942年には2489万石なった。
・資本主義の萌芽…資本主義の萌芽が李氏朝鮮時代には存在せず、日韓併合による日本の政策によって生まれ、特に戦後の韓国の資本主義や工業化は、日本の朝鮮半島での近代化政策を模したものである。(ハーバード大学教授、朝鮮史専門カーター・J・エッカート)
☆日本の朝鮮統治の結果
・両班制度と腐敗した官僚により、李氏朝鮮時代の520年間は文化的、経済的に停滞し、王朝末期には漢陽はこの世で一番不潔な町と言われるようになり、一般民衆は疲弊し、自力では改革のできるような状況にはなかった。
・日本政府は朝鮮半島に現在の価値で63~80兆円をはるかに超える資金を投入し、朝鮮の近代化に寄与した。
・衛生指導や集団予防接種、医療制度の整備、農地開発、農業技術指導、教育改革、身分制度の撤廃等により、民衆の生活は劇的に向上し、人口は併合時(1910年)13,128,780人だったのが、1944年には25,120,174人となり、平均寿命も併合時(1910年)24歳だったものが、1942年には45歳まで伸びた。
・併合時は4%程度だった識字率が61%を超えた(1944年)
・30年代GDP平均成長率は約4%。(1920年代の世界経済は2%以下、日本は3%強)
・1人当り国民所得が1910年の40ドルから倍増した。
②日本
1910年8月22日に、韓国併合条約が調印され、29日に発効、大日本帝国は大韓帝国を併合し、その領土であった朝鮮半島を領有しました。
1920年1月6日(陰暦)、文鮮明先生が誕生された平安北道定州郡徳彦面上思里2221番地は日本によって併合された朝鮮半島にありました。韓国人は決してこのような表現は使わないし、認めようとはしないでしょうが、当時大韓帝国という国も、朝鮮という国も存在しませんでしたから、正確には日本の統治下、つまり日本の地に文先生は誕生されたということになります。
それはあたかも、ユダヤが国を持たずに、ローマの属国としてローマの支配下にあったときにイエスが誕生されたのと同様の状況下にあったと言えます。
1945年8月15日、大日本帝国は第二次世界大戦における連合国に対する敗戦に伴って朝鮮半島に対する実効支配を喪失し、同年9月2日、ポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印によって、正式に大日本帝国による朝鮮半島の領有は終了しました。
この日韓併合条約に至るまでの、日韓の関係史を簡単にまとめてみることにします。
★日本と李氏朝鮮との関係 略史
・当時の朝鮮半島を治めていた李氏朝鮮は、清朝中国を中心とした冊封体制を堅持していた。
・1876年の江華島事件を経て、日本は朝鮮と日朝修好条規を締結して国交が結ばれたが、明治政府は条約締結の際に朝鮮を清朝の冊封体制から離脱させるために「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」と表現したため、朝鮮を「属邦」とする清国と対立する下地が生まれた。
・1894年、駐留していた清軍と日本軍との間の軋轢から日清戦争が勃発。日本軍が勝利すると、下関条約によって朝鮮と清朝の冊封関係は終わり、朝鮮は清への服属関係を廃棄し独立国となった。
しかしその後、朝鮮は宗主国をロシアに変える動きを見せ、閔妃はロシアに近づき、親露政策を取る事になる。
これにより1895年10月に閔妃が惨殺される(乙未事変)。
・1897年、朝鮮は大韓帝国と国号を改称し、元号を光武とした。
・1904年になると、日露戦争が勃発し、日本が勝利する。
・1905年には第二次日韓協約が締結された。日本は朝鮮(大韓帝国)の外交権を接収し、内政・財政に関しても強い影響力を得て朝鮮の保護国化を推し進めていく。
・1906年、日本は韓国統監府を置き、伊藤博文を初代統監とした。
・1910年8月22日に韓国併合ニ関スル条約が締結、ここに大韓帝国は日本の一部となり、朝鮮半島の国家は完全に消滅した。
当時の日本と韓国の関係、摂理的意義について「神様の摂理から見た南北統一」のみ言で見ていきたいと思います。
★日帝統治下40年の摂理史的意義 (神様の摂理から見た南北統一より)
復帰摂理歴史は、同じ内容と形式が反復されながら、蕩減の路程を通して復帰していく歴史だという事実を知らなければなりません。よって再び来られるメシヤは、独立した国を通しては来ることができないのです。
再臨の一日にそのような立場に立った国が韓国です。
イスラエルの国とキリスト教が、霊肉を中心としてサタン圏で支配されながら戦ってきたように、韓国も40年間肉的な面で怨讐に支配されながら、霊的な面で、この国のために生命を捧げることを覚悟する群れを中心として独立運動をしてきました。そうして民族を糾合し、結束させて、キリスト教を主とした人たちが主導となって国を建てるようになったのです。
キリスト教の信者たちが霊的な面で、日帝40年の弾圧を受け、国もない中で死の道を自ら進んでいきながら国を愛する忠節の道理を立てたのです。
韓国は内的な面でキリスト教を中心として、120年間発展するようになるのです。
韓国が日本から40年間抑圧される時代、内外の40年蕩減期間
=イスラエル民族においては、民族的カナン復帰をするためのエジプトでの400年苦難時代
=キリスト教のローマ帝国迫害時代400年
=アダム以後イエス様までの4000年を蕩減し得る受難ともなる
日本:失敗した英国に相当する立場でアジア的代身国家として立てた国が日本
アジアを育て、アジアのための日本にならなければならないのです。それゆえ世界的な経済大国を築きました。
神様は英国の祝福を蕩減するために日本に祝福を与えたので、日本は英国の立場を蕩減して世界を救わなければなりません。
⇒神社参拝問題を中心としてキリスト教を極度に弾圧。
自分の国のために生きるアジアをつくろうというサタン的な立場になってしまった。
神様の名前を閉め出して、自分の国の民族主義的な女神、天照大神に仕えるのです。
★日本での統一運動略史と反対運動
・1945年 8月15日:光復節。日本による朝鮮の統治時代は終わる。
・1954年 5月 1日:世界基督教統一神霊協会が創立されると、統一教会は世界への宣教も始め、国交の無かった日本にも宣教師が派遣された。
・1955年 8月17日:第二のお母様、金明煕先生がが日本に密入国した直後に、東京で文喜進様を出産。
・1958年 6月 :韓国から西川勝(韓国名は崔奉春)先生が宣教のために、国交のない日本に密入国。
・1959年10月 2日:日本統一教会創立。
・1964年 7月15日:東京都知事の認証で宗教法人となった。
・1965年 7月 7日:朝日新聞が「親泣かせの原理運動」と報じた。
・1967年 9月 :自分の子供は洗脳を受けたから家出したと考える親たちが「原理運動対策全国父母の会」を結成。
・1968年 4月 1日:国際勝共連合創立(日本)
・1974年 9月28日:世界平和教授アカデミー創設(日本)
・1975年 1月 1日:「世界日報」発刊(日本)
・1977年 6月 :早稲田大学で反原理運動が始まり、全国に広がった。
・1980年代 :姓名判断や印相鑑定と絡めたいわゆる「霊感商法」が大きな社会問題となった。
・1987年 2月 :全国の弁護士により「全国霊感商法被害対策弁護士連絡会」が結成された。
・1992年 :「3万組国際合同祝福結婚式」で歌手で女優の桜田淳子、元新体操選手の山崎浩子、元バドミントンの世界チャンピオンの徳田敦子ら有名人が参加。
・1998年 1月 1日:日本が『エバ国家』から『母の国』となる。
・2009年 7月13日:「新世」が霊感商法により特定商取引法違反で摘発。社長以下幹部が逮捕。徳野英治会長が引責辞任。
③朝鮮半島
朝鮮半島は代々、現在の中国の冊封体制下にあり、文先生の生まれる前の李氏朝鮮時代は清の冊封体制下にありました。
冊封とは、中国の歴代王朝の君主たちが、近隣の諸国・諸民族の長との間で取り結ぶ名目的な君臣関係のことを言います。
1894年、日清戦争で日本軍が勝利することにより、朝鮮と清との冊封関係は終わり、朝鮮は清への服属関係を廃棄し独立国となりました。
1897年には朝鮮は大韓帝国と国号を改称しましたが、1910年8月22日に日本との間において「韓国併合ニ関スル条約」が締結され、大韓帝国は日本の一部となりました。
1920年1月6日に文鮮明先生が誕生された平安北道定州郡徳彦面上思里2221番地は、現在の北朝鮮西部にあり、北朝鮮と中国との国境にあたる鴨緑江と平壌を結ぶ中間地点にありますが、当時は日本統治時代にあたります。
それはあたかもイエスを迎えたベツレヘムの地が、ローマの分封王ヘロデの統治するヘロデ朝のもとにあったのと同じ環境下にありました。
日本による統治期間は、1919年の三・一独立運動までは武断統治期と呼ばれ、憲兵警察制度や、内地と同様の言論・結社の自由の厳しい制限など、武断的な統治がなされていました。そのためキリスト教徒を中心とした抗日運動も展開され、1919年には全国的な運動にまで発展した三・一独立運動が発生しました。
三・一独立運動では柳寛順をはじめとして、運動の中心となったキリスト教徒を中心として、数多くの貴い犠牲者を出しました。
しかしその後、日本及び朝鮮総督府は武断統治を改め、文治的な統治へと方針転換したため、それ以降は抗日運動は全く見られなくなりました。
1945年8月15日、大日本帝国は第二次世界大戦における連合国に対する敗戦に伴って実効支配を喪失し、同年9月2日、ポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書に調印することによって、正式に大日本帝国による朝鮮半島の領有は終了しました。
1948年、米ソ両国が南北にそれぞれ自国の傀儡政権、南側では李承晩初代大統領率いる「大韓民国」、北側では金日成首相率いる「朝鮮民主主義人民共和国」(北朝鮮)が樹立宣言し、南北分断の時代が始まりました。
1950年6月25日、北朝鮮の朝鮮人民軍が北緯38度線を南侵することで朝鮮戦争が勃発。
1953年7月27日に板門店で休戦協定が調印され、軍事境界線(DMZ)が確定し、今日に至るまで南北分断の悲哀が続いています。
★み言に見る南北分断の原因「神様の摂理から見た南北統一」より
・南北が分かれたのは、解放直後にキリスト教と先生が一つになることができなかったからです。キリスト教と国家が先生に反対して一つになれなかったからなのです。この南北が分かれたのは何のためなのかといえば、地上のキリスト教と国が責任を果たすことができなかったからです。
・大韓民国が南北に分かれて38度線が生じたのは、解放以後、神様のみ旨を奉じることができなかったことに対する神様の怨恨の応報です。
・復帰歴史を中心として見るとき、既成教会が解放直後にみ旨を奉じて立ち上がったこの若者の後ろに従っていたなら、韓国はこのようにかわいそうなことにはならなかったのです。そうしていたなら38度線がふさがれなかったのです。そして、ソ連はとっくになくなったはずです。1951年4月、トルーマン大統領がマッカーサー将軍を解任してから、韓国は押され始めました。もしその時、マッカーサー将軍の言葉どおりにしていたならば、その年の9月に韓国は蘇満国境に行って戦ったはずです。そのようになれば、日本が受ける祝福を韓国が全部受けるのです。じっと座っていても生きられる国になるということです。ところが、紆余曲折の末に今のように複雑な世界になったのです。
1945年当時の摂理において、神が2000年かけて準備したキリスト教の基盤の上に文先生をお迎えできていたら、朝鮮半島の分断も無かったということです。
つまり洗礼ヨハネの使命を持って生まれた「イスラエル修道院」の金百文牧師、「腹中教」の許孝彬女史、そして「主なる神の夫人」朴ウルリョンハルモニらが使命を果たしていたら、朝鮮半島の分断はなかったということです。
そして当時神の選民として準備された韓民族とキリスト教が責任を果たしていたら、やはり朝鮮半島の分断という悲劇はなかったということなのです。
2000年前イエスを迎えたにもかかわらず、イエスを十字架に追いやり、『その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい』と叫んだユダヤ人は西暦70年、圧倒的なローマ軍の前に敗北し、エルサレムは陥落し、ユダヤ人は国を失い2000年間世界中を彷徨いました。
それと同じように1945年当時の摂理に失敗した韓民族は南北に分断され、未だに祖国統一を実現できずに、分断の悲哀を味わっているのです。
④洗礼ヨハネ型人物
神が2000年の歴史を通し準備されたキリスト教の基盤。そのキリスト教の基盤の上に神は何人かの洗礼ヨハネ使命者を立てて、1920年1月6日に朝鮮半島の地に文鮮明先生をお迎えしました。
神がキリスト教を中心として準備された基盤とは、具体的には韓半島の東側の元山を中心として、男性たちの神霊役事が展開し、その中心人物たちが白南柱牧師であり、李龍道牧師であり、そして金百文牧師につながりました。
同時に西側の鉄山では婦人たちが神霊役事を行い、女性を中心とした摂理として、金聖道女史、許孝彬女史、そして朴ウルリョンハルモニにつながりました。
しかしこれら中心人物たちの中でも洗礼ヨハネ的な使命を持ち、文先生と直接に関わったのが「イスラエル修道院」の金百文牧師、「腹中教」の許孝彬女史、そしてキチガイ女と言われた「主なる神の夫人」朴ウルリョンハルモニでした。
よってここでは、洗礼ヨハネの使命を持って文先生と直接関りを持ったこれら3人の人物たちについてみていくことにします。
1、金百文牧師と「イエス教イスラエル修道院」
・李龍道牧師を中心として三代を継いで続いた人が金百文牧師。この集団は洗礼ヨハネ格の集団。
・彼は天から「一つの修道院をもて」というみ言を聞き、そして「再臨主を迎えることができる勢力を準備しろ」という啓示を受けました。
・金牧師と文先生はカインとアベル、洗礼ヨハネとイエス様のような立場にあったのです。
・金牧師は神霊の面では、当時の既成教会の、最高の信仰基準にありました。
・当時、金牧師は李承晩博士と近い立場にあったので、彼を洗礼ヨハネの立場に立ててみ旨を成すことができたのに、そのようにできませんでした。
・金牧師は、先生に対して「ソロモン王のような使命を受けた方だ」と祝福をしましたが、彼はその真の意味が分かりませんでした。
・金牧師の集団が先生と一つになっていたならば、先生はその集団と既成教会の牧師を連結させ、そののちに政府を連結させなければなりませんでした。
・三人の女性たちが先生を証しし、その後彼らは先生と一つになるべきであったのですが、先生に従わなかったので、先生は北韓に行かなければならなかったのです。
・先生は彼に18枚の手紙を書きましたが、彼はそれをみな破いてしまったのです。その後先生は責任をみな果たした立場で、平壌へ出発しました。
●金百文牧師不信の結果
・韓国キリスト教を中心としたみ旨の基盤がサタン側に帰してしまったがゆえに、それを取り戻すために、サタンの巣窟である北側に行ったのです。
2、「腹中教」許孝彬女史
・許孝彬女史:「腹中教」教主、マリヤ的使命。金聖道女史に精誠を尽くして侍った夫人。
・聖主教団の使命を引き継ぐ。許孝彬女史の娘が主を迎えるように準備された。
・主の新婦だと言って、腹中を通して主が生まれるという。
・先生は1946年8月11日、北韓の共産党により、宗教と称して詐欺をしたという罪名で、大同保安署に投獄されました。
・許孝彬女史の集団が摘発され、その神霊集団の許女史ゆえに、先生が引っ張られて入ったのです。
・南側から来たから、李承晩の手先と疑われたのです。
○文先生は許孝彬女史に3度にわたり勧告
①腹中教に人を送り「先生の集団が何であるか、祈祷して調べなさい」と伝える。
⇒ 許女史は大きな兆候を期待し、一人の若い男などには期待もしなかった。
・1946年6月、許女史は共産党により社会秩序を乱したという罪名で大同保安署に連行され投獄。
8月11日、許女史ゆえに、文先生も拘束。
②全体に責任をもっていた黄元信氏、次に許女史の夫と監獄で会い、許女史に「早く出るように言いなさい」と勧告。
⇒ 信徒たちは勧告を聞こうとせず、夫は「自分は妻に従うつもりだ」と言う。
③9月18日、文先生自身が一通の手紙を送る「私が誰であるか祈ってみなさい。」「すべてを否定してここから出なさい。」
⇒ 許女史はその手紙を読んでから破こうとしたが、共産党の監視員に見つかり、文先生は拷問を受ける。
●許孝彬女史不信の結末
・許女史ゆえに文先生は拷問を受けましたが、無罪だということが判明し釈放されました。
その時先生は、血をあまりにたくさん流していたので、ほとんど死んでいました。
先生に従っていた人々は、先生が死んでいくと考えました。先生が再び生き返ったことは、一つの奇跡でした。
・1950年に韓国戦争が起きた時、許孝彬女史以下、すべての監獄にいた人々を、共産党たちが後退する時、連れていって全部虐殺してしまいました。
3、「主なる神の夫人」朴ウルリョンハルモニを中心とした摂理
○「主なる神の夫人」出現の意義
・韓国全土で神様が築いておいた全ての摂理の基盤を相続するため、男と女から祝福の相続を受けなければならなかった。そのため「私は神様の夫人である」という、神様が直接導ける婦人が出てこなければならなかった。その婦人を神様が直接導くために、神様を中心として連結される霊的世界が動き入っていくようになる。初めて地上に着陸できる基地を、「主なる神の夫人」だという婦人を通してつくるようになる。その婦人が復活したエバであると同時に、堕落直後のエバの身代わりの役事の二つの側の役事をしている朴老婆だった。
●最低の立場から段階的な証と祝福
・僕のように扱われるその位置で、精誠を込めれば、次々に復帰される。「神様が愛する僕が来た」、養子、庶子、息子の位置まで上がって「天の国の総理大臣である」「天国の全権を代表したイエス様の位である」「神様の対象実体である」と証し、その宣布する式が終わった次には、自主権をもって反対にひっくり返す。アダムの権限を蹂躙したのを、蕩減的条件を立てて復帰したので、アダムの位置に立つために完全に反対にする。
・文先生は、証をするその言葉を受け、即座に「敬礼しなさい」と言う。それが、復帰するための主管性転倒。
・それに対し「今まで先生に従い仕えたのに、僕に対するように容赦なく命令することができるのか」とひっくり返った。
●朴ウルリョンハルモニ不信の結果
・朴老婆は精神異常になり「文という人は天国の逆賊であり、世の中のすべてのものを盗んでいった」と言い、完全にサタンが発動し、おじいさん、息子、娘を連れて歩きながら、梶棒で文先生を殴り殺そうとし、そのおじいさんは棺に入れられないくらいに膨れるという恐ろしい死に方で死にました。
・エバは再創造できる原則があるため、朴氏ハルモニが先生に反対したので、代わりに他の人を立てるようになりました。
・家庭的な基準を立てられなかったことにより、先生は平壌で1948年2月22日に収監されて、2年8ヵ月の間獄中にいました。
それは洗礼ヨハネが使命を果たせず、イエス様が十字架の道を行かれたのと同じことでした。
・人類の僕の僕まで取り戻してこいという、それを取り戻すために、最低の場である監獄にまで行くのです。監獄から門を開けて出てくるのです。
⇒ 文先生は興南特別労務者収容所で2年8ヵ月の間強制労働。
文先生を迎えるために神が用意した神霊集団。その中心人物たち、金百文牧師、許孝彬女史、朴ウルリョンハルモニは、文先生に直接侍る機会があったにもかかわらず、文先生を受け入れることができずにその使命に失敗してしまいました。
これらはほんの些細な失敗にすぎませんでしたが、イエス降臨時の洗礼ヨハネと同じで、このようなほんの些細な失敗が、人類史上最も大きな罪となってしまったと言っても過言ではありません。
その結果、朝鮮半島は南北に分断され、今に至るまで韓民族は分断の悲哀を味わっているのです。
⑤韓国人
1945年当時の韓半島を中心とした摂理について、「神様の摂理から見た南北統一」に従ってまとめてみたいと思います。
・イスラエル民族の失敗は、「メシヤが来ればすぐさまローマ帝国を征服し、さらにはユダヤの国が世界を制覇してしまうだろう」と考えていたことにある。
・神様のみ旨は、イスラエル民族を祭物とし、メシヤ自体も人類の僕の立場に立って、人類のために生きるということだった。
・旧約時代を蕩減復帰する使命をもった男性と女性、信仰団体、新約時代を蕩減復帰した使命をもった男性と女性、信仰団体が現れて、摂理の一翼を担当する役事が展開されていた。
・1945年からの3年間に、キリスト教の最高幹部の数人が反対することにより、全国のキリスト教が反対し得る道が生じた。
・キリスト教を中心として、選民たる民族が先生と分かれることにより、国土が南北に分かれる動機となった。
・韓国がその責任を果たすことができなければ、み旨は他の国家を探して行く。歴史はある一地点にとどまるものではなく流れていく。
このように神が2000年の歴史を通じて準備した韓民族とキリスト教が摂理に失敗したため、韓半島は南北に分断され、み旨は他の国家へと流れていくということが書かれています。つまりこの時点において、韓民族とキリスト教は、摂理に失敗してしまったということが明らかにされています。
それは何故かというと、「イスラエル民族の失敗は、『メシヤが来ればすぐさまローマ帝国を征服し、さらにはユダヤの国が世界を制覇してしまうだろう』と考えていたことにある。」とあるように、神は選民、韓民族の為に働かれ、韓民族を中心とした世界が築かれると勝手に思い込んでいたことにありました。
しかし、「神様のみ旨は、イスラエル民族を祭物とし、メシヤ自体も人類の僕の立場に立って、人類のために生きるということだった。」とあるように、選民とは祭物となる民族であり、僕であるメシヤと共に僕となって、人類の為に生きるべき民族だということを知らなかったため、韓民族も僕となって世界の為に祭物となることができず、摂理に失敗してしまいました。
これまで文先生の路程を見て何度も確認したように、文先生を中心とした摂理が失敗したとき、常に文先生自らが責任を取られ、地獄の底に降りて行き、誰よりも悲惨な苦難の道を歩みながら、復帰の摂理を歩んでこられました。
しかし文先生以上に苦難の道、蕩減の道を歩まなければいけないのは、摂理に失敗した当事者である第三イスラエル選民、韓民族であり、摂理的中心人物たちであるということは当然の話です。
しかしながら彼ら韓民族は、文先生に何度も摂理の失敗を指摘されながらも、自らは摂理に失敗した罪深き民族であるということを自覚せず、自分たちはあくまでも選民であるとして、自分に都合が良い事実だけを頑なに信じています。
それは自分たちに対する自尊心を高めると同時に、結果として韓民族以外の人たちを見下すようになりました。
特に日本人に対しては「お前たちは罪深きサタン側エバ国家だった」として、日本統治時代の恨みを晴らすかのごとくに、日本人に対し自虐史観を植え付け、終わることなき献金の無間地獄へと追いやっています。罪深き日本人からはいくら搾り取っても当然のこと、選民である韓民族に尽くすのは当たり前という感覚は、李氏朝鮮時代の両班と奴婢の関係に酷似しています。両班は奴婢を人とは思わず、奴婢の財産を搾り取るのは当たり前のこと、奴婢の命は両班に属するものという思考をもっており、その思考が歴史的に連綿と受け繋がれていると感じざるを得ません。(参考 イザベラ・バードの『朝鮮紀行』)
そこで実際、神によって2000年かけて選民として立てられた韓民族を中心として、1945年当時、実際はどのような摂理が進められていたのか?そしてその摂理に対して韓国人はどのように貢献したのか?または貢献できなかったのかについて、今一度まとめてみてみたいと思います。
★中心人物たちの不信
1、韓国政界とキリスト教指導者の不信
・大韓民国において、自由党を編成した五人の中の一人が先生でした。
・先生はその時、25、6歳の若者でしたが、この国の高位層の人々と手を結んで出発しようとしました。
その時の国防長官であった申性模を中心として、最高の基準で出発し、世界的な舞台に行こうとしたことが外れました。
李承晩博士とその一派の3人から12人だけでも結束していたならば、必ず民主世界の主導国家であるアメリカが、この国に連結されて動くことができました。
・最高の立場で出発することが神様から許された位置でしたが、二名の牧師ゆえに、すべてふさがれてしまいました。最高の牧師から切られてしまうことにより、最下位の道から復帰しなければならなくなりました。
・先生と因縁を結んで、先頭に立って仕事をした人が既成教会の有名な牧師でしたが、将来権力を握ろうという考えをもったために、先生を裏切りました。
2、氏族の責任、文潤國牧師
・先生の三番目のおじいさんに、政治的な風土があれば良かったが、純真なキリスト教の牧師でした。
・李承晩博士が国を立てた時、先生の三番目のおじいさんを必要とし、当時いた旌善にヘリコプターで三度も迎えに来ました。
・三番目のおじいさんは、「私は政治はしないよ。信仰する人が政治をすることは……」こう言い、李博士と一つになれませんでした。
・先生が理論を中心として従祖父を説得しさえすれば、李博士一族と環境与件、キリスト教幹部のすべてのことを消化するのは問題なかったでしょう。
3、第一のお母様、崔先吉夫人
・大韓民国と既成教会が一つとなって、聖進のお母さんを前に立てて反対しました。自分の母親と組んで「主が人として来るというのは、偽キリストだ」と言ったのです。洗礼ヨハネが天から教えてくれることが信じられなくて、イエス様に従えなかったことと同じようになりました。
4、崔氏一家、韓国の第一人者崔聖模
・聖進の母親の名前は崔先吉です。叔父が崔聖模。韓国が貧しい国家の復興期であった当時において、崔聖模は韓国の第一人者であったというのです。
・崔聖模さえ一つになっていれば、統一教会は迫害を受けることもなく、世界的な宗教になったはずです。梨花女子大事件も起こりはしないし、延世大事件も起こらなかったのです。
・1955年の事件を誰が起こしたかというと、崔聖模が起こしたのです。崔氏が先生を監獄に投げ込んだのです。内務部長官と手を組んで、統一教会をなくしてしまおうとしたのです。その息子の名前が崔淳永。今でも反対しています。
・結局、崔氏のせいで監獄に入ったのです。彼らが告発してそうなってしまったのです。崔氏が問題なのです。
5、梨花女子大、延世大事件 キリスト教と李承晩政府の失敗
・李政権と完全に一つとなれば、キリスト教を中心として国が決定されるのです。そのようになっていたなら、韓国を中心として今日、真の父母の理想は堅固に出発していたはずでした。
・梨花女子大と延世大の二世を立てて、李博士を中心とする家庭圏まで連結させることによって、国家基準まで自然に一つになれるのです。ところが、これに既成教会が反対したのです。
・金活蘭と朴マリヤが主導となって、景武台(大統領官邸)に行って偽りの証言をし、五つの部署の長官を動かして、統一教会をなくしてしまい、完全に埋葬してしまおうとしまいました。
・朴マリヤを中心として、金活蘭が大統領夫人のフランチェスカを中心として、後ろで米国の宣教師たちによって操られていたのです。
そこで宣教師を抑えつけなければならなかったのです。当時、学長級の教授らが五名復帰されていたので、完全に宣教師たちを圧倒することができたのです。
・そうすれば昔のユダヤ教の世界的版図と同じその基盤において、米国とキリスト教が一つとなって統一教会と完全に一つとなることができたのです。金活蘭と完全に一つにならなければなりませんでした。。
・金活蘭が宣教師を完全に屈服させ、李博士と一つとなっていたならば、今ごろは完全に統一教会の天国になっていたのです。環境がすべてそのようになっていました。
・その時でも遅くはなかったのです。1955年度までに最初の摂理から10年がたっていましたが、遅くはなかったというのです。
・ところがその時、退学事件が起きたことにより、先生は監獄に行くことになり、神の摂理に一大問題が生じました。イエス様の時代にユダヤ教が反対したのと同じようになったのです。これによって先生は、荒野に追い出されたのです。4000年の間、天が準備したすべてのことを失ってしまいました。
・1955年の時の梨花女子大学事件は、挙国的であったというのです。国家と既成教会が一つになって、李承晩主権下の五大長官が、統一教会をなくすために総動員されたのです。文教部と、文公部(その時は公報部)、それから内務部、法務部、外務部の五大長官が一つとなって、権力で文総裁を捕まえようとしたのです。その五大長官が、「文総裁を除去しろ」という指示を受けたことは知っています。
・1955年7月4日に監獄に入っていったのです。彼らは一つになって「文鮮明を捕まえて殺せ」と言ったのです。その時「共産党だ、何だ」と言いながら、この世の悪いことをすべて先生に負わせたのです。
・イエス様が十字架にかかっていったのと同じように、最後にサタンに引かれていく出来事まで起こりました。7・4事件がその代表的な例です。
・その時に、ばかにされ冷遇されたことは、先生は今でも忘れられません。彼らがしたことが先生の骨髄にしみ込んで、いまだに忘れられないのです。先生一人が苦痛を受け迫害を受けることはかまわないのですが、神様が数千年間準備した国と民主世界のすべての基台が崩壊してしまったというのです。
6、金九による暗殺指令
「1946年5月27日のお父様が急にお米を買いに行ったその帰り道に啓示を受けて、急に北に行ったということは、蒋介石の手先の金九の一味が、お父様の命に狙いをつけていたということです。」(救国への奇跡-大東亜戦争の陰で-国時先生米国講演より)
このように文先生の路程のクライマックスともいえる部分を分析的にみてみると、6000年の歳月をかけ、神が用意した全ての基盤は、選民として立てられた韓国人によるものであり、その全ての摂理はことごとく失敗に終わったことがわかります。
2000年前、神の選民として立てられたユダヤ民族、そして洗礼ヨハネ等中心人物たちは、摂理に成功していたら最高の栄光が約束されていましたが、摂理に失敗したため、その栄光の位置は奪われ、今日に至るまで悲惨な路程を歩むことになりました。
イエスの路程を教訓として考えると、金百文牧師をはじめとした洗礼ヨハネ使命者たちは、その使命にことごとく失敗し、洗礼ヨハネと同じ「女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。」と評されるような人物となってしまいました。
また韓国の既成教会、その指導者たち、さらには選民として選ばれた韓国人たちも、イエス当時の律法学者やパリサイ人たちと同じように、「イエスを十字架に付けよ」と叫び訴えたように、文先生を告発し、監獄へと追いやり、2度、3度と命を落としてもおかしくないところまで追いつめました。
洗礼ヨハネの悲惨な最期、ユダヤ民族の悲惨な2000年の歴史を見てみたとき、再臨主を迎えるために神が用意した基盤が、その使命を果たさなかった時、彼らにどのような未来が待っているのか?
文先生の路程を見ても、洗礼ヨハネ的人物であった許孝彬集団は、1950年に韓国動乱が起きた時、共産党たちが後退する時に許孝彬をはじめとしてすべての監獄にいた人々を虐殺してしまいました。
朴ウルリョンハルモニは精神異常になり、おじいさんに梶棒で文先生を殴り殺させようとしました。おじいさんは杖を持って出てこようとしたところで倒れて、全身が青くなって、腹が張り裂けて棺に入れられないくらいに膨れて死にました。
北韓で反対した牧師たちは、共産党がすべて殺していなくなりました。
梨花女子大で中心的に迫害を加えた朴マリヤと李起鵬家庭の朴マリヤと李起鵬は、次男の李康旭とともに長男の李康石の手によって射殺され、長男もまた自決するという悲惨な末路を迎えました。
洗礼ヨハネの最期を彷彿させるように、洗礼ヨハネ使命者たちは、悲惨な最期を遂げている人物が多いと感じざるを得ません。
そう考えると、神が立てた選民である韓国、韓民族たちも、イエスを十字架に付けよと叫んだユダヤ人達と同じような未来が待っていないといいのですが、果たしてどうなるのでしょうか?
ユダヤ人達は、自分たちの中に救世主が来ると信じていました。そして現れたイエスを救世主とは認めず、未だに自分たちの中に救世主が現れると信じています。
ユダヤ人達は、イエスを十字架に付けたことを悔い改めることもなく、選民である自分たちの中に、いつか必ず救世主が来ると未だに信じているのです。
しかしイエスが十字架につくことにより、第二イスラエルであるキリスト教徒に摂理は移りました。
キリスト教徒とは、イエスに従ったペテロをはじめとした12弟子たちが、イエスが十字架に付いたとき、自分たちはイエスを知らないと言って裏切ってしまったという悔い改めの心と、ペンテコステにより精霊の力を得て、イエスのみ言を述べ伝えようというところから始まりました。
文先生と共に摂理を担ってきた統一教会の韓国人たちは、どちらの心情を持っているでしょうか?
「文先生の勝利圏を相続した自分たちこそが選民であり、神に愛された民族である。将来韓民族がこそが世界の中心民族になるのであり、日本人をはじめとした他民族は、韓民族に侍るべき民族である。」
または、「神が6000年の歴史をかけ用意してきたすべての韓民族の基盤は失敗し、文先生が一人僕の僕から全ての基盤を蕩減復帰し勝利されたのであり、韓民族は悔い改めて、父母の心情僕の体をもって世界の人々に侍らなければいけない。」
どちらの心情をもって今の時を生きるかによって、韓民族ばかりか、神の摂理も、人類の未来も決まってしまう、そんな重要な時を私たちは生きているんだということを自覚し、正しい道を選ばれることを期待したいと思います。
⑥再臨主、文鮮明
再臨主を中心とする復帰摂理
文鮮明先生の生涯を改めて整理すると、そこに見えてきたのはイエス路程との相似性でした。
イエスは洗礼ヨハネの不信により第一次路程を失敗し、自らが中心人物として立たれ出発した第二次路程も、神が立てられたユダヤ民族の不信により失敗しましたが、十字架につくことにより最後に霊的な勝利をなされました。
それと同じように、文先生も神が準備された洗礼ヨハネ使命者たちの不信により第一次路程は失敗に終わり、その蕩減を果たすべく苦難の路程を歩みながら自らが中心人物として立ち、メシヤとしての数々の勝利圏を確立しました。
しかし最終的には韓お母様と幹部たちの裏切りにより、文先生を中心とした復帰摂理は完成することはありませんでした。
家庭連合では全て成されたとして、全ての摂理は勝利し、今韓お母様にその摂理は受け継がれているかのごとくに説明していますが、原理的に見ると、旧統一教会が分裂した事実一つをとってみても統一教会は摂理に失敗し、サタンの侵入を許してしまったことが証明できます。
イエスは第二次路程に失敗しましたが、最終的には十字架につくことによって、肉体はサタンに奪われても霊的には勝利し、復活することにより、霊的世界的カナン復帰路程を勝利しました。
本来選民として立てられたユダヤ人を中心として摂理されていたものが、ユダヤ人が失敗したため、霊的に復活したイエスを信じるキリスト教徒を中心として、霊的世界的カナン復帰路程を勝利することができました。
同じように文先生も韓お母様の裏切りと、統一教会の利権を狙う幹部たちの裏切りにより、文先生の勝利圏自体がサタンに奪われてしまい、2013年1月13日(旧)基元節においてなされるべき核となる最も重要な儀式、第三次「真の父母様聖婚式」は行われず、「天地人真の父母様天一国即位式」および「天一国基元節入籍祝福式」のみが行われました。
それでは文先生における十字架とは何であり、イエスにおける復活摂理は文先生の路程においてはどの部分を指すのでしょうか?また選民ユダヤ人の失敗によってキリスト教徒に摂理が移行したように、韓国人、統一教会の失敗により、摂理はどこに移行したのでしょうか?
まずは再臨主を中心とする復帰摂理についてまとめてみたいと思います。
(一)第一次路程
(1) 信仰基台
・1945年当時の洗礼ヨハネ使命者たちが金百文牧師、許孝彬女史、朴ウルリョンハルモニらであった。
・金聖道女史を許孝彬女史が継いで、その娘が主を迎えるように準備された。
李龍道牧師「新イエス教会」と統一せよという天からの教えがあった。
男女の使命者が一つとなって国家を動かさなければいけなかった。
・金百文牧師は神霊の面では、当時の既成教会の最高の信仰基準にあり、李承晩博士と近い立場にあった。
・朴ウルリョンハルモニを通して、神様を中心とした霊的世界が動き入り、地上に着陸できる基地をつくれた。
・梨花女子大は副総長朴マリヤが、李承晩大統領夫人と連結され、政府と完全に一つとなれた。
西洋の宣教師を抑えて、金活蘭と白南柱が一つとなって、統一教会を迎えていたら、李承晩を通し、一気にキリスト教文化圏であるアメリカに渡っていけた。
(2) 実体基台
1945年当時、韓国キリスト教会も金百文牧師、許孝彬女史らを信じ、従ったならば、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立て、「実体基台」を復帰することにより、「メシヤのための基台」を復帰することができた。
(3) 第一次路程の失敗
・金百文は文先生に対して「ソロモン王のような使命を受けた方だ」と祝福をしたが、その真の意味が分からず不信した。
・許孝彬女史は、一つの大きな兆候を期待し、文先生の勧告を聞かなかった。
・朴ウルリョンハルモニは主管性転倒を受け入れられず、サタンが発動した。
・朴マリヤと李起鵬を中心として、李承晩大統領、フランチェスカ夫人、金活蘭が国を滅ぼす元祖となった。
(二)第二次路程
(1) 信仰基台
①文先生が洗礼ヨハネ使命者たちの使命を代理する
・金百文牧師と許孝彬女史の不信により、サタンの巣窟である北側に行く。
・許孝彬女史ゆえに文先生も逮捕され、平壌の大同保安署で拷問。
・朴ウルリョンハルモニの不信により、その後興南監獄で2年8ヵ月の間強制労働。
・朴マリヤ、李起鵬、金活蘭の不信により、天が準備したすべてのことを失い西大門刑務所へ。
② 40年荒野路程と三大祝福復帰
★40年荒野路程(1945~1985年)
1945年当時、民主世界が再臨のメシヤに侍ったならば、7年以内に自動的に神様の世界になっていた。
それが一つになれず、サタンの先頭に立って神の摂理の中心者に対して総攻撃した。
その結果真のお父様 は、1945年から1985年まで40年荒野路程を歩むことになった。
★第一祝福復帰(1985~1992年)
真のお父様、メシヤとして個人の勝利圏確立。
・1985年 8月20日:ダンベリー連邦刑務所出監。「神と自由のバンケット」全米から2000名の牧師と聖職者参加。
・1990年 4月11日:ゴルバチョフ大統領と会談。
・1991年12月 6日:金日成主席と単独会談。
・1991年12月25日:ソ連崩壊。
・1992年 7月 3日:『メシヤ宣言』
★第ニ祝福復帰(1993~1999年)
お母様を中心とした摂理。家庭的勝利圏確立。
・1992年5月10日:『世界女性時代』宣布 ⇒ お母様の時代へ。
・1998年7月19日:文顯進様が「世界平和統一家庭連合」世界副会長に就任。
・1999年3月21日:サタン完全(自然)屈服の日(ルーシェルの謝罪)
・1999年9月9、10日(九・九節と三・十節):『天地父母天宙統一解放圏』宣布。神様の最高の家庭理想を地上に展開⇒神様が天地の主人に。
★第三祝福復帰(2000~2006年)
神様をお迎えし、天一国の出発。天正宮奉献。天宙平和の王・真の父母様戴冠。
・2001年 1月13日:『神様王権即位式』⇒ 天一国の出発。歴史上初めて神様が王の位置に立たれた。
・2004年 5月 5日:『双合十勝日』⇒ 先天時代の終了、後天時代の幕開け。
・2006年 6月13日:天正宮博物館奉献式および天宙平和の王・真の父母様戴冠式。
③40年荒野路程と三大祝福を復帰し、サタンを分立した結果
真のお父様は、洗礼ヨハネの立場で「信仰基台」を造成し、神の三大祝福を成就して、四位基台を蕩減復帰することができる条件を立てられた。
(2) 実体基台
真のお父様自身がみ言と実践をもって「出発のための摂理」をされた。
カインの立場である韓お母様と統一食口が、アベルの立場である真のお父様を信じ、仕え従ったならば、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てて「実体基台」を復帰するようになるので「メシヤのための基台」を造成することができた。
(3) 第二次路程の失敗
韓お母様は取り巻きの幹部たちにより、真のお父様を裏切るように誘惑され、真のお父様との3度目の聖婚式がサタンに奪われた。
その結果2013年1月13日の基元節は、神様の家庭が出発できず、偽基元節となった。
(三)第三次路程
(1) 二代王文亨進様を中心とする復帰路程
① 信仰基台
当時世界会長であった文亨進様は、真のお父様に「お父様のそばにいなさい」と指示され、世界会長としての多忙なスケジュールを全て白紙に戻し、聖和されるまでの2年間、真のお父様と行動を共にし、真のお父様と心情一体となり、「信仰基台」を勝利された。
② 実体基台
2012年1月18日頃、真のお父様不在時、韓お母様は金孝南訓母様主礼の元、神様(悪霊、天の父母様)と結婚式を挙行。
翌1月19日の訓読会時、真のお父様は韓お母様を烈火のごとく怒れら、テーブルの前に呼ばれ、4人の幹部とともに絶対服従を誓わせる特別な役事を行われた。
韓お母様の不信仰と不従順によって真の家庭に侵入したサタンを分立し、再び創造本然の真の家庭を完成させるため、2012年6月5日、真の家庭で初めて文國進様と文亨進様との間において、アベルカイン一体化の宣布をなされた。
③ メシヤのための基台
「実体基台」を勝利した文亨進様と文國進様は偽基元節以降、文信俊様を誘拐するように連れ出し、アメリカの片田舎で2家庭だけでサンクチュアリ教会をスタート。王宮から何も持たずに逃げ出したため、オバマ・ケアを受けるほどだった。
2015年1月18日に文亨進様が説教「沈黙を破って」を発表された。
4月21日、真のお父様の真の後継者文亨進様を信じる、世界中に散らばっていた食口たちが集まり、「真のお父様の権威の下に戻るための聖婚祝福」に参加。2016年2月13日の祝福式までに、約3000組が祝福式に参加した。
2015年8月30日には真のお父様の聖和3周年を迎え、国進様ご夫妻が文亨進二代王戴冠式を執り行うことにより真の基元節が確定勝利した。
④カナン復帰
アメリカ、ペンシルバニア州ニューファンドランドにて、文亨進様と文國進様のアベルカイン勝利の基台の上に立つサンクチュアリ教会が出発。
三代王文信俊様をいただき、二代王文亨進様を中心として、実体的カナン復帰の路程を出発。
以上再臨主を中心とする復帰摂理は、イエス路程ととても似通っていることがご理解いただけたものと思います。まさしく歴史は繰り返されていたのです。
もちろん反論も多くあるとは思いますが、再臨主の復帰摂理路程をイエス路程にあてはめたときに、このように見ることができたというだけで、これで絶対間違いはないというわけではありません。この分析をたたき台として、今後多くの食口の皆様方に正しい再臨主を中心とする復帰摂理を研究していただければ幸いです。
次章では、再臨主を中心とする復帰摂理について、もう少し詳しく分析していきたいと思います。