5、日韓併合への道
約500年続いた李氏朝鮮時代、朝鮮は明・清からの冊封体制のもと、独立自尊よりも強いものに付き従う、事大主義が支配する国家でした。
同時に朝鮮は、中華が世界の中心であり、その文化・思想が神聖なものであると自負する中華思想に対し、自分たちはその中華思想を受け継ぐ小中華であると考えていました。そのため朝鮮のさらに周辺地域に当たる日本に対しては、中華からより遠くにある野蛮国として蔑んでみていたのです。
李氏朝鮮時代を理解するうえでもう一つ重要なことに身分制度があります。朝鮮は人口の3%に過ぎなかったと言われる一部の両班が、大多数の庶民を虐げる階級社会が数百年の間連綿と続けられてきました。
この身分制度は徹底されており、被支配階級である常人・賎人は一生その身分から解放されることがないため、両班からどんな仕打ちを受けたとしても、ただただじっと耐えるしかない立場でした。彼らは人として扱われるというよりは、両班の所有物のような存在でしかありませんでした。
韓国人をして“恨”の民族と言いますが、両班によって抑圧された被支配階級にとっては、どんなに努力しても、生まれ持った身分からは生涯解放されることはないため、自分の人生に対し希望を持つこともできない、一生耐えることしかできない人生でした。そのため朝鮮の被支配階級には希望がなく、努力するというという発想もなく、ただただ両班からの横暴から耐えるだけの“恨”の心しか育たないような民族だったのです。
5-1 イザベラ・バード『朝鮮紀行』
当時の朝鮮の様子を、西洋人の立場から客観的に書いたと思われる、イザベラ・バード『朝鮮紀行』を見て行くことにします。
「朝鮮人には猜疑、狡猾、嘘を言う癖などの東洋的な悪徳が見られ、人間同士の信頼は薄い。女性は隔離され、ひどく劣悪な地位に置かれている。」
「私は北京を見るまではソウルを地球上でもっとも不潔な都市、また紹興の悪臭に出会うまではもっとも悪臭のひどい都市と考えていた!大都市、首都にしてはそのみすぼらしさは名状できない程ひどいものである。二階家の建造が禁じられている。その結果、二十五万人と見積もられている人びとが「地べた」、主として迷路のような路地で暮らしている。その路地の多くは、荷を積んだ二頭の雄牛が通れないほど狭い。実にやっと人ひとりが、荷を積んだ雄牛一頭を通せる広さしか無い。さらに立ち並んでいるひどくむさくるしい家々や、その家が出す固体や液状の廃物を受け入れる緑色のぬるぬるしたどぶと、そしてその汚れた臭い縁によって一層狭められている。悪臭ふんぷんのその穴やみぞの横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子どもたち、疥癬持ちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げ回ったり、ひなたでまばたきしたりしている。」
「ソウルには美術の対象になるものが何も無く、古代の遺物ははなはだ少ない。公衆用の庭園も無く、行幸の稀有な一件を除けば見せものも無い。劇場も無い。ソウルは他国の都市が持っている魅力をまるで欠いている。ソウルには古い時代の廃墟も無く、図書館も無く、文学も無い。しまいには、他には見出せないほどの宗教に対する無関心から、ソウルは寺院無しの状態で放置されている。ある種の迷信のために、ソウルには墓がない」
「両班は究極に無能であり、その従者たちは金を払わず住民を脅して鶏や卵を奪っている。両班は公認の吸血鬼であり、ソウルには『盗む側』と『盗まれる側』の二つの身分しかない。貯金をしていると近所の人に告げ口されようものなら、官僚がそれを貸せと言ってきて、貸せば元金も利子も返済されず、貸すのを断れば罪をでっちあげられて投獄され、本人あるいは身内が要求金額を用意しないかぎり笞で打たれる。朝鮮にいたとき、わたしは朝鮮人というのはくずのような民族でその状態は望みなしと考えていた。」朝鮮の不治の病は、「何千人もの五体満足な人間が自分たちより暮らし向きのいい親戚や友人にのうのうとたかっている」として、人の親切につけこむ体質にあり、たかることをなんら恥とせずに、非難する世論もないことだとしています。
人口の5分の4をゆうに占める非貴族は文字通り「下の人間」で、吸血鬼に血を提供することがその存在理由となっていました。宗主国中国の影響のもとに、朝鮮の両班たちは貴族社会の全体的風潮である搾取と暴政をこれまで事実上ほしいままにしてきました。朝鮮の官僚については、「日本の発展に興味を持つ者も少数はいたものの、多くの者は搾取や不正利得ができなくなるという私利私欲のために改革に反対していた」とし、「堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したが、それは困難きわまりなかった」と述べています。
「朝鮮の状況は、日本かロシアの孰れかの援助を得て次第に改善されるよう運命付けられている。」「私はこの国の人びとの将来に希望が無いとは決して思わない。だが、次の二つの事が非常に重要である。
一、朝鮮は、内部からの改革が不可能なので、外部から改革されねばならない事。
二、君主の権力は、厳しくて永続的な憲法上の抑制の下に置かねばならない事。」(Wikipedia より)
このように朝鮮には、『盗む側』と『盗まれる側』の二つの身分しかなく、『盗む側』の両班の『盗まれる側』への横暴は、私たちの常識をはるかに超えたものとなっていました。
朝鮮の官僚は国家のことや国家の未来に対しては関心がなく、自分たちの私利私欲を満たすことにしか興味がないような人たちであり、そんな朝鮮を改革するには、外部からの改革が必要であると書き残しているのです。
これら李氏朝鮮末期の朝鮮の状況を踏まえたうえで、それ以降の歴史を見て行きたいと思います。
5-2 李氏朝鮮末期、日韓併合までの歴史年表
・1863年、朝鮮王朝末期に高宗が11歳で第26代王に即位すると、父興宣大院君が摂政の地位に就きました。
強硬な鎖国・攘夷策をとった大院君は、大々的なカトリックへの弾圧も行い、丙寅教獄では8千人あまりの信徒を殺害するなどの弾圧も行いました。
当時は欧米によるアジアへの侵略も激しさを増し、1890年代にはタイを除く東南アジアのほとんど全域が欧米列強によって分割され、中国・朝鮮・日本の極東の三国のみが独立を保っていました。その三国も、ロシアの南下政策、アメリカの太平洋侵略、イギリスのインドから中国への侵略など、三方からの危険にさらされていたため、三国が生き残るためには三国が協力し、軍事力によって対抗するより他に道はありませんでした。
そこで日本は、欧米に侵略されていない朝鮮と、半植民地状態で苦しんでいる中国とともに協力し合い、欧米列強に対抗する道を模索しましたが、完全な鎖国体制を敷いていた朝鮮は、日本の提案を受け入れ、近代国家へと生まれ変わることをかたくなに拒否しました。
・1873年には高宗の妻閔妃一派による宮中クーデターが成功し、高宗の親政が宣言され、大院君は追放されました。
・1875年、江華島事件がおこり、日朝修好条規が結ばれると、日朝間の国交が回復すると同時に清からの独立も宣言し、事実上、清の属国としての立場を離れました。
この日朝修好条規を機に朝鮮は開国され、欧米諸国とも外交関係が樹立されることとなりました。
開国以降朝鮮では、近代化を成し遂げようとする勢力が起こり、日本も朝鮮の軍事改革を支援しました。
・1882年、壬午事変によって旧式軍隊によるクーデターが起きると、新式軍隊の教育を支援していた日本も標的とされ、日本公使館が焼き討ちにされ、日本人が多数殺害されました。
このクーデターによって一時的に大院君が政権を掌握しますが、閔妃は清の袁世凱を頼りとし、清はこの機に乗じて5000の兵を派遣して暴動を鎮圧します。清から派遣された軍はそのまま朝鮮に居座り、清は再び朝鮮に影響力を及ぼしては、その近代化を阻みました。清によって復権した閔氏政権は、親日開明政策から開明に消極的な親清政策へと方針を大きく転換しました。
・1884年に開化派がクーデターを起こし、閔氏を排した新政府を樹立するものの、袁世凱率いる清軍の介入により3日間で頓挫し、清国軍と朝鮮人によって日本公使館は焼き払われ、日本人数十人が殺害されました。
・1894年に東学党の乱(甲午農民戦争)が勃発すると、親清派の閔氏勢力は清に援軍を求めましたが、日本も条約と居留民保護、列強の支持を盾に介入し、乱は官軍と農民の和議という形で終結しましたが、清軍と日本は朝鮮に駐屯し続けました。日本は閔氏勢力を追放し、大院君に政権を担当させて日本の意に沿った内政改革を進めさせました。
・1894年、駐留していた清軍と日本軍との間の軋轢から日清戦争が勃発しました。
日清戦争では近代化を成し遂げていた日本の軍事力が、旧態依然としたままの清軍を圧倒し日本軍が勝利しました。
日本の勝利によって朝鮮と清朝の冊封関係は終わり、朝鮮は清への服属関係を廃棄し、大韓帝国となりました。
しかし、千年以上中国の属国だった朝鮮の人々は、独立自尊よりも、強いものに付き従う事大主義へと傾いていき、日本とロシアとではロシアの方が強いと考え、親ロシア派が宮廷内で力を強め、独立派と親日派を次第に排除し、閔妃は親露政策を取る事になります。
・1895年10月、乙未事変。王宮に乱入した日本軍守備隊らによって王妃閔妃が暗殺されました。
この事変は、大院君が日本陸軍軍人三浦梧楼と共謀して起こしたクーデターとの説が有力です。
・1900年に起こった、義和団の乱が満州に及ぶと、治安を回復することを口実にロシアは軍を動かし、満州全域を占領しました。そして鎮圧後も撤兵せずに占領を続け、朝鮮への侵略を開始したのです。
ロシアは北朝鮮の龍岩浦を占領すると、朝鮮との間に強引に租借契約を結びました。この港は黄海に出る重要な拠点であり、これによりロシアは遼東半島沿岸と朝鮮の西海岸付近の制海権を握ることに成功しました。
・1902年、ロシアの朝鮮への侵攻は、日本にとっても直接的な脅威となるため、同じようにロシアを脅威としていたイギリスとの間で日英同盟が結ばれました。
・1904年、日本の外交的努力もむなしく、ついに日本はロシアとの間で日露戦争に突入します。
日露戦争のさ中朝鮮は突然中立声明を宣言します。朝鮮の中立は、日本軍が朝鮮を通って満州へ出ることができなくなることを意味し、日本はロシア軍とこれ以上戦うことができなくなるため、日本は朝鮮との間に、朝鮮の危機に際して日本は軍事上必要な地点を収用できるとする「日韓議定書」を交わします。
日本が日清・日露と国家の存亡をかけた二つの大戦を戦わなければいけなかったのも、ひとえに朝鮮半島を守るためでした。日露戦争では日本が勝利しましたが、朝鮮には自立能力はなく、放置しておけば朝鮮半島が再び紛争の種になることは誰の目にも明らかでした。
・1905年、「第二次日韓協約」。日本は朝鮮(大韓帝国)の外交権を接収し、内政・財政に関しても強い影響力を得て朝鮮の保護国化を推し進めていきます。
・1906年、日本は朝鮮統監府を置き、伊藤博文を初代統監としました。
・1909年、ハルビン駅で安重根が、反併合派のリーダー格的存在であった、朝鮮統監を辞したばかりの伊藤博文を暗殺。
暗殺事件以降日韓併合派が発言力を強め、韓国側からも日韓併合を望む声が起こります。
・1910年「韓国併合ニ関スル条約」が締結され、日韓併合があっという間に実現します。
当時はイギリス・アメリカにとっても、ロシアが最大の敵だったため、ロシアに対抗する勢力としての日本を支援し、日本による朝鮮の併合は欧米によっても支持されました。
イギリスはインド、アメリカはフィリピンという植民地を守るために、ロシアが再び南下して朝鮮侵略に乗り出すことを恐れていました。朝鮮半島は日本にとっても、イギリス・アメリカにとっても、戦略上重要な位置にあったため、朝鮮半島の安定化を望んでいたのです。
ポーツマス会議を終えたルーズヴェルトは「将来の禍根を絶滅させるには保護化あるのみ。それが韓国の安寧と東洋平和のため最良の策なるべし」と述べ、イギリスのランズダウン外相も「日韓併合はわれわれも強く祈り求めるところである」と述べています。
5-3 日本の朝鮮統治 (Wikipedia)より
1910年、日本は日韓併合条約の締結によって大韓帝国を併合し、朝鮮総督府の統治下に置きました。日本の同盟国のイギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、中華民国などの世界の主要国はこれを認めます。
日本による統治期間は、1919年の三・一独立運動までの武断統治期、それ以降日中戦争に至るまでの文化統治期、および日中戦争、太平洋戦争から終戦に至るまでの戦時体制期の大きく三つの期間に分けられます。
併合当初の10年間は所得税の免税措置を行い、インフラ整備、近代教育制度や近代工業の導入など朝鮮半島の開発に力を入れ、開発工事や運営の主な労働力を朝鮮人に求めることで雇用を創出しました。
30数年間で朝鮮半島につぎ込んだ日本国民の税金は、現在の価値で63兆円にもなり、民間の投資額まで入れると、80兆円をはるかに超える資本が投入されました。
一方で憲兵警察制度や、内地と同様の言論・結社の自由の厳しい制限などの武断統治により、朝鮮王朝末期から続いていた抗日運動を抑えようとしましたが、1919年には三・一独立運動が起こりました。
三・一独立運動以後、朝鮮総督府は従来の統治政策を修正し、武断的な統治を文化統治へ大きく改めた結果、以降は日本統治に対する抵抗といえる抵抗が全くみられなくなったといいます。
1929年にカーネギー財団から朝鮮半島に派遣されたアメリカ人記者らは、「日本は併合以来19年間にして、数百年間停頓状態にあった朝鮮と、近代文明国との間に渡り橋を架けてやった。…朝鮮人の苦しみもあるかも知れぬが、日本は莫大な利益をもたらしている」「李氏朝鮮時代よりも日本統治によって朝鮮人民は救われている」との評価をしています。
韓国の国定歴史教科書によると、1777年総人口は1,804万人だったのが、日韓併合時の1910年には1,313万人と、朝鮮時代には人口は減少していました。それが1942年には2,553万人となり、併合時の倍近くになりました。
また平均寿命も1910年には24歳だったものが、1942年以降45~56歳へと急速に伸びています。このことは、李朝518年の統治がいかにひどいものであったかを如実に証明していると同時に、日本統治時代の朝鮮は、生活環境が充実し、食料も十分に
供給され、衛生、健康面も急激に改善されていたことを意味しています。
このように日本による朝鮮統治は、朝鮮の近代化をもたらし、一般民衆にとっては総じて歓迎すべき変化をもたらしましたが、決して日本を許すことのできない人々をも生み出してしまいました。それは朝鮮で我が世の栄華を満喫していた両班たちです。
両班たちにとってはどんなに一般民衆が豊かになったとしても、身分制度の撤廃によって、自分たちが得ていた特権がすべて奪われてしまったため、日本を逆恨みするようになったのです。そのため彼らの一部は朝鮮の地を離れ、中国上海へと逃れ、上海臨時政府を樹立し、徹底した抗日運動を続けていくことになります。
彼らは日本の蛮行を宣伝する書籍を発行し、定期刊行物を発行し、テロ活動を活発化させることで、日本に対する抗日運動を続けます。それが今日に至る反日運動の原点となっていき、今日でも語られる捏造された歴史、日本の蛮行の歴史は、この時に作られたものが原点となっているのです。
アメリカ大統領だったフーバーは、朝鮮半島の問題に関して次のような認識を持っていました。
「日本の支配による35年間で、朝鮮の生活は革命的に改善した。日本はまず最も重要な、秩序を持ち込んだ。港湾施設、鉄道、通信施設、公共施設、そして民家も改良された。衛生状況もよくなり、農業もよりよい耕作方法が導入された。北部朝鮮には大型の肥料工場が建設され、その結果、人々の食糧事情はそれなりのレベルに到達した。日本は、禿げ山に植林した。教育を一般に広げ、国民の技能を上げた。汚れた衣服はしだいに明るい色の清潔なものに替わっていった。朝鮮人は、日本人に比較すれば、管理能力や経営の能力は劣っていた。このことが理由か、あるいはもっと別な理由があったのか確かではないが、経済や政治の上級ポストは日本人が占めた。
1948年、ようやく自治政府ができた。しかし朝鮮人はその準備がほとんどできていなかった」『裏切られた自由』フーバー著)
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