(一)大航海時代以降の西洋列強による植民地争奪時代
1、ヨーロッパの世界侵略開始以前 (1400年代まで)
世界進出を本格的に開始する前のヨーロッパは、キリスト教が支配する、非常に閉鎖的な世界でした。
当時のヨーロッパでは、現在のように国家がはっきりと別れておらず、各地域を支配する王国が存在し、それらの王国はキリスト教を国教に定めて、ローマ法王庁という巨大なキリスト教団の影響下で国家を運営していました。
1400年代以前ヨーロッパは、イスラム教徒との宗教対立が絶えず、聖地奪還を掲げ十字軍戦争などを繰り返していました。
敵の勢力であるイスラム圏を通過する危険な旅により入手したアジアの国々との貿易品は、非常に高値で売買されていました。特に、肉食であるヨーロッパ人にとって、インドをはじめとするアジアの国々でしか栽培がされていなかった「胡椒」などの香辛料が、食肉の保存に欠かせない必需品となっていました。
1400年代後半になってくると、次第にアラブ地方でオスマン帝国というイスラム教勢力が拡大し、キリスト教徒であるヨーロッパ人はアジアまで陸路を旅することができなくなり、アジアの品々を求めるために、海路を利用することにします。
こうして500年間に渡り世界中を席巻したヨーロッパの植民地争い、大航海時代が始まりました。
2、スペイン・ポルトガルの大航海時代 (1400~1600年代前半)
ヨーロッパ人が世界の植民地化を開始した当初、最も力のあった王国はスペインとポルトガルでした。
この二国は、「香辛料」をはじめとする貴重な品々の貿易を独占し、当時発明された羅針盤を駆使して海を渡り、インドを目指しました。
スペインは大西洋を西へ、ポルトガルはアフリカ大陸にそって南下することでインドに先に到着しようとします。その結果、コロンブスを擁するスペインは、インドにたどり着くどころかアメリカ大陸を発見(1492年)してしまい、ポルトガルはアフリカ大陸の最南端(喜望峰)を回ることでインドにたどり着いたのでした。
インドまでの競争は、ポルトガルが先にインドに着きましたが、スペインが新大陸を発見したことで、両国は、今度はアメリカ大陸の開拓により力を注ぐことになります。
そしてこれ以後スペインとポルトガルは、アジアの植民地化に着手しつつ、アメリカ大陸の開拓にも魅せられ、中南米の植民地化に精力的に取り組みはじめます。
この二国は、本国からアフリカへ物資を輸出し、それらを売ってアフリカ人奴隷を買い、その奴隷たちをアメリカ大陸へ連行して中南米の開拓に従事させ、さらにそこで得られた富を本国(スペイン、ポルトガル)へ送るという、「三角貿易」と呼ばれる貿易形態を確立して莫大な富を得ました。
この二国はアメリカ大陸では、富を搾取するために容赦なくネイティブ・アメリカンを虐殺し、ヨーロッパとアフリカから持ち込んだ伝染病を蔓延させた結果、幾つもの種族が絶滅してしまいます。
2-1 なぜヨーロッパ人は異世界の住人に友好的でなかったのか
ポルトガル人やスペイン人たちは、なぜ平和的にアフリカやアメリカ大陸の人々と接することができなかったのでしょうか。その原因はひとえに「キリスト教の世界観」にありました。
当時、ローマ法王庁は、このスペイン・ポルトガル両国の貿易事業に莫大な資金を提供する代わりに、宣教師を同行させ、世界中にキリスト教を布教するよう命じていたのです。
そして、その「命令」は、次のような信じがたい内容のものでした。
①イスラム教徒やトルコ人はこれまでにキリスト教徒の国土を不当に占領し領有していたのであるから、彼らに対して行ってきた、また今後行うであろう戦争は正当である。
②救世主は未信徒を改宗させ、霊魂の救済を行うように命じ、自己の利害をかえりみない宣教師を派遣したので、彼らは布教地で優遇を受ける権利がある。彼らの言に耳を傾けなかったり彼らを迫害した者に対する戦争は正当である。
③布教事業を妨害も圧迫もしないアメリカ大陸の原住民についてだが、彼らは自然法に反する重大な罪を犯すような野蛮な悪習を守り、それをやめようともしない。こういう者の土地を占拠し、武力で彼らを服従させる戦争は正当である。
(『キリシタン時代の研究』高瀬弘一郎)
彼らにとっての布教は、異教徒をキリスト教に改宗させ、キリスト教勢力の拡大を図るための事業でしかなかったのです。
そして、それを拒否する異教徒に対しては、どんなに高圧的で非人道的な態度をとろうとも、ローマ法王が認めるところの「宗教的に正しい態度」であると信じられていたわけです。
つまり、バックに絶大な宗教的権力を持ったローマ法王の存在があったため、彼らは、異世界の住民から富を収奪することにも、奴隷化することにも殺害することにも、ほとんど罪悪感を感じることがなかったのです。
3、オランダの台頭 (1600年代中盤)
コロンブスがアメリカ大陸を発見してから約100年間、スペインとポルトガルが世界中で植民地を拡大し、アフリカ人の奴隷化や中南米に置ける激しい搾取を行ってきましたが、この2国の植民地争奪戦は、最終的にスペインがポルトガルを併合することにより終焉を迎えます。
1600年代の中頃から、この二国に代わってオランダが大々的に世界進出し始めることになります。
3-1 オランダの世紀
1600年代初頭、スペインに領有されていた現在のオランダが、イギリスの協力を得て戦争を起こし、独立を勝ち取ります。(オランダ独立戦争)
その独立戦争をきっかけにして、それまで世界の植民地化を主導してきたスペインが衰退をはじめ、勢いを得たオランダが国外への進出を開始します。
オランダはまず、カリブ海の島々やアメリカ大陸の北部の植民地化に着手しました。
アジア方面へも積極的に進出し、東インド会社というアジアでの植民地政策を円滑に実行に移すシステムを確立します。これによりオランダは、インドをはじめとする、スペイン・ポルトガル領だった国々の領有権を次々と奪い、インドネシアのジャワ島などを拠点に、台湾や日本まで触手を伸ばしました。
4、イギリスとフランスの台頭
1600年代中盤以降、オランダは度重なる英蘭戦争に敗れ、その勢いも衰えてくる一方、オランダを敗ったイギリスと、小規模ながら海外進出を開始していたフランスが勢力を拡大してきました。
イギリスへの対抗心を燃やすフランスが、いまだ植民地化されていない土地を我先に奪取しようとしたため、この両国による、アメリカ、アフリカ、そしてアジア地方の植民地争いがさらに激化してゆくことになりました。
イギリスとフランスとの戦争はおおむねイギリスが勝利し、徐々にフランスの勢力が衰えを見せはじめ、イギリスが覇権を手中に収めます。
この両国もアフリカで黒人を奴隷化して米大陸へと連行し、彼らを米大陸の開拓に従事させ、そこで得られた富を本国へ送付するという、「三角貿易」でとことん荒稼ぎをしました。
イギリス躍進の背景には、海外の植民地で得た莫大な資金をもとに成し遂げた産業革命がありました。
この工業革命によって、イギリスをはじめとする欧米諸国は、いっそう強力な移動手段(蒸気機関車や蒸気船)と近代的な銃火器(兵器)を手にすることとなったため、欧米以外の国々との間の武力格差がさらに開き、植民地化も容易になったのでした。
大航海時代以後の西欧人は、近代的な軍隊により世界の大半を侵略、植民地化していきました。
有色人種の住む島を侵略する際の表向きの大義名分は、キリスト教の布教活動です。原始キリスト教では異教徒を悪魔同然とみなします。
植民地支配を正当化するため西欧人の優勢が主張され「白人が、非白人に文明を与えるのは義務である」とされました。
この優位性は、「白人こそが最も進化した人類である」「白人でなければ人間にあらず」といった究極の白人至上主義となり、有色人種の文明はもちろん人権さえも認めず、白人による有色人種の殺戮と略奪を正当化していきました。
大航海時代以後白人が世界を支配し、自分たちの価値観で歴史を作り上げ、世界を洗脳してきたため、今日においても白人が犯した犯罪行為は糾弾されることもなく、新しい時代を切り開いたとして歴史の中で美化されたままでいます。
新大陸の発見により、インカ帝国やマヤ帝国は滅亡し、アメリカインディアンの土地は奪われ、アフリカ人が奴隷として欧米に連れていかれました。
アジアでは多くの原住民が農奴として苦しい生活を送ったなどと言っても、実際どのようなことが行われたのか具体的なイメージが湧きません。
次からは欧米人が、自分たちの正義を行うために、有色人種に対して実際どのようなことが行われたのかの詳細を見て行きたいと思います。
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