⑧日本の中の敵

7、獅子身中の虫(日本の中の敵) 参照 日米戦争を策謀したのは誰だ! 林千勝著

今では日本は、アメリカ・ルーズベルト大統領を代表とする、欧米勢力の策略によって、支那事変・第二次世界大戦の泥沼へと引きずり込まれていった事実が明らかになっています。
しかし日本は一方的に被害者であり、加害者としての要素が全くなかったのかといえばそういうわけではありません。日本の中にも、天皇陛下をはじめとして、日本の国民を犠牲にしてでも己の欲望を叶えようと暗躍していた人物たちがいました。それが近衛文麿、当時の内閣総理大臣であり、彼を支える側近たちでした。
日本は、近衛内閣が敷いたレールの上を走らせられながらも、何とか日本の正義を立てるため、共産主義に対する防波堤となり、「大東亜共栄圏」構想を打ち出すことによって、アジアの人々の白人による植民地支配からの独立を支援し、「八紘一宇」の世界を実現しようと、第二次世界大戦を戦い続けました。
日本に巣食った敵の正体についても見て行きたいと思います。

7-1 近衛文麿

大東亜戦争への道を敷いたのは近衛内閣でした。近衛文麿は、支那事変勃発直前から真珠湾攻撃の50日前まで、正に戦前の激動期に日本の政治中枢を担いました。近衛が日本で果たした歴史的役割は、ルーズベルトがアメリカで果たした歴史的役割と似ています。近衛はルーズベルト同様、共産主義者やソ連コミンテルンと繋がりがある者たちを身近に登用します。近衛の側近であった共産主義者たちは、日本破壊の推進役でした。
近衛は自前で昭和研究会というシンクタンク・国策研究組織を持ちました。昭和研究会は共産主義者の拠点として人材を輩出していくと同時に、その主張は近衛内閣の施策に反映されていました。昭和研究会が輩出した人材として最も有名なのが、後にスパイとして処刑された尾崎秀実です。

近衛首相は支那事変に際し、朝日新聞出身の尾崎秀実らオピニオンリーダーを擁して、事変遂行の理念として「東亜新秩序」を謳い、更には東南アジアを指向して「大東亜共栄圏」構想を打ち出します。近衛首相は、共産主義者である風見章内閣書記長と共に、支那事変拡大を煽動する声明を出し、陸軍や世論を煽りました。
1940年7月の第二次近衛内閣成立直後の9月には、三国同盟を締結して、反英の枢軸陣営に入りました。
そして同じ9月にフランス領インドシナに進駐し、米英蘭による資産凍結と対日石油全面禁輸を招来し、大東亜戦争への道を完成します。

7-2 共産主義者風見章

風見と近衛は、対ソ戦不拡大を徹底しました。
1938年7月に起きた張鼓峰事件という満洲国とソビエトとの国境紛争では、不拡大が厳密に徹底されます。
事件発生の報に接し、敵にむけて飛行機を飛ばすことを禁止するなど、政府と陸軍は連絡を密にして不拡大を貫徹しました。ソビエト軍の激しい攻撃に対して現地を含め陸軍全体にしっかりと我慢をさせ、一歩もソビエト領に侵入させません。
一年前の支那事変への対応とはすべて真逆です。
拡大も不拡大も、「扇の要」にいる近衛と風見たちには、思うが儘だったのです。
近衛政権で共産主義者の風見は、コミンテルンの意向に沿った動きを巧妙かつ大胆に行いました。世界の共産主義陣営の彼に対する評価は絶大です。
政友会の鳩山一郎は『鳩山一郎日記』で「コミンテルンの東亜に於ける活動についての報告を読む。近衛時代に於ける政府の施策すべてにコミンテルンのテーゼに基づく、実に怖るべし」と記しています。

7-3 千載一遇のチャンス、独ソ開戦

1941年6月、ドイツがソビエトに攻めこんだことは、日本にとって千載一遇のチャンスでした。
独ソ開戦の報を聞くや否や松岡外相は、「即刻北進してソビエトを討ち、ドイツと共にソビエトを東西から挟み撃ちにすべし」と天皇に上奏します。日本が生き残る一つの道は、本来の不倶戴天の敵ソビエトを討つことでした。
ソビエトは支那事変勃発後、大量の資金と軍事物資、爆撃機を国民党政府に提供し、1937年8月には国民党政府と中ソ不可侵条約を締結しています。
日本が日ソ中立条約を破ってでもソビエトに向かえば、本来は反共である蔣介石にも影響を及ぼし、支那事変解決にも繋がる可能性がありました。

日本が対ソ戦に打って出れば、沿海州・北樺太などのソビエト領は短期間に占領できたでしょう。
北樺太には屈指の埋蔵量の油田があります。日本が北進すればソビエトは東西に兵力が分散されたままで、東西からの同時攻勢に抗しきれず、レニングラード、モスクワ、スターリングラードは恐らく陥落したでしょう。
ドイツはコーカサスを進んでカスピ海の油田を手にいれ、更に南下してペルシャ湾の油田も獲得した公算が大きいです。
ゾルゲから見ても「独ソ戦は日本にとって絶好のチャンス」「ソビエトにとって最大の危機」でした。
「扇の要」にいる近衛が、北進への代償として南進への道を開いたのです。
これによりスターリンは、モスクワ防衛のために極東ソビエト軍の二十個師団を振り向けることができ、独ソ戦の勝利に繋がります。
一方、日本は米英と衝突する道を突き進むことになります。

日本による対ソ開戦論は世界的にみても妥当なもので、チャーチルやアメリカのウデマイヤー将軍が共にのちに次の如く回顧しています。
「日本が第二次世界大戦で勝者となれる唯一最大のチャンスは、独ソ戦勃発時に北進してソビエトを攻撃し、ドイツと組んでソビエトを東西から挟み撃ちにすることだった。この絶好の機会を日本はみすみす逃した。日本が北進せず南進して、アメリカとの戦争に突入してくれたことは、我々にとっては最大の幸福であった」

7-4 近衛の野望

近衛の真意は、昭和天皇を廃して、藤原氏の筆頭として自らの覇権を打ち立てることにあったのです。
そのために、共産主義者たちを利用して戦争を泥沼化させて大日本帝国を存亡の淵に陥れ、アメリカ軍をして皇軍を潰させるのです。
皇軍を失い丸裸となり、かつ敗戦の結果として戦争責任を負う昭和天皇には退位して貰い、進駐してくるアメリカ軍を御しながら近衛が国の統治を担うのです。
このような「支那事変から対米開戦へそして日本の全面的敗北、併せて天皇退位と米軍進駐、近衛による親米政権の樹立と覇権獲得」が近衛の野望のメジャーシナリオでした。
念のためのマイナーシナリオが、風見や尾崎たちが主導している「ソビエトをバックとした敗戦革命」です。
対ソ戦はこのメジャーシナリオの進行を妨げるものであり、同時にソビエトの力を弱めるという観点からマイナーシナリオにも悪影響を与えます。

7-5 ゾルゲ事件

1941年、ドイツの新聞社特派員として駐日ドイツ大使の信任を得ていたR.ゾルゲが、コミンテルンの命を受けて、日中戦争下の日本の政治、経済、外交、軍事の最高機密を探り、これに協力した尾崎秀実ら35人が検挙された事件。
特に7月2日の御前会議と、9月6日の二度目の御前会議の内容を、尾崎秀実を通じて知ったゾルゲは、「日本の対ソ連攻撃は今ではもはや問題外」と打電し、日本が南進を決めたことで、対ソ戦が中止になったことを伝える情報で、スターリンは満州に日本の大兵団が張り付いていても、最早ソ連侵攻がないことを確信し、極東ソ連軍を安心してモスクワに移送し、独ソ戦の勝利に繋げました。

7-6 日米に巣食ったコミンテルンによる謀略

ゾルゲ事件は日本を騒然とさせた最大のスパイ事件として有名ですが、コミンテルンが日本で行っていた活動における氷山の一角とされています。
共産主義に魅せられた識者や文化人は多く、東京帝国大学等に巣食ったマルクス主義者や隠れマルクス主義者のなかには、ソ連の工作員として活動した者も多くいました。
コミンテルンによる工作活動は、日本ばかりではなくアメリカにも及んでいます。
1995年に公開された「ヴェノナ文書」では、200名を超える政府官僚の名がスパイ、あるいは工作員として含まれていました。ルーズベルト政権に巣食ったコミンテルンの協力者たちは、当時のアメリカの政治・外交を恣意的にソ連有利となるように誘導したことがわかっています。彼らは日米戦争が起こるように謀略を巡らしました。

7-7 日本がソ連に侵攻していたら

日本は、社会主義国家ソ連の拡大路線に対し、自衛のために国の存亡をかけて戦いを挑もうとしていた唯一の国家であったため、ソ連にとって最も脅威となる存在でした。そのためソ連コミンテルンは、日本に工作員を送り込み、対ソ戦回避に成功しました。
しかし社会主義国家・ソ連を壊滅できる千載一遇のチャンスが、たった一度だけ存在しました。それがドイツによるソ連侵攻の時です。そのとき日本がドイツと歩調を合わせ、ソ連に対し宣戦布告を行っていたら、世界の歴史は変わっていたかもしれません。日本のソ連侵攻によってソ連は崩壊し、地上に社会主義国家は消えてしまっていた可能性が高いからです。

もし日本が対ソ戦に舵を取り、ソ連に宣戦布告をしていたらば、電光石火のごとくにまずは樺太を占領していたでしょう。樺太には埋蔵量が豊富な石油資源がありましたから、そこで獲得した油田により、日本はエネルギー問題が解消し、欧米による経済封鎖にも対応は可能でした。したがって日本はアメリカに宣戦布告する必要もなく、支那事変も収束されていた可能性が高いのです。
ソ連はドイツの侵攻に対しても劣勢となっていましたから、極東から日本軍が攻め込んで来たら、ソ連は同時に2正面で戦わざるを得なくなり、当時の軍事力から言ってもソ連に勝ち目はありませんでした。
その時にソ連を壊滅していれば、第二次世界大戦後の共産主義の膨張もなく、ソ連、中国をはじめとした多くの国々で共産主義による犠牲者も出すことはありませんでした。
中国国民党の蔣介石にとって最大の敵は元々は共産党でしたので、日本が対ソ戦に勝利していたら、蔣介石は共産党の殲滅に舵を取り、後ろ盾を失う中国共産党も壊滅していた可能性が高いのです。そうなれば中国は共産化されることもなく、北朝鮮も誕生することはありませんでした。

第二次大戦に米、英、仏の連合国側が勝利することで、結果としてソ連は危機を回避し、領土を広げ、後の中華人民共和国、北朝鮮の誕生に繋がりました。同時にドイツは分割され、東欧圏に社会主義国家が次々と誕生し、共産主義を信奉する国家は、世界の3分の2の領土と人口を擁するほどに拡大したのです。
日本の間違った決断が、第二次大戦後の世界を全く違ったものにしてしまったのです。

日本は侵略を国是とはしないため、世界を、アジアを白人至上主義で植民地化し、原住民を虐殺し、虐待していた欧米からアジアの国々を解放しようと、大東亜共栄圏を掲げることにより正義の戦いとして臨んでいます。
そしてその時に掲げられた標語が「八紘一宇」であり、これは「多様な世界を一つの家のように統一する」という意味で、人道的・道徳的な意味合いでの統一を表した言葉でした。
日本がドイツと共にソ連に侵攻し、枢軸国側が勝利していたら、日本は結果としてアジアを欧米の植民地から解放し、大東亜共栄圏を築くことも可能でした。

実質上日本の傀儡国家だった満州国は建国の理念として、『五族協和の王道楽土』が謳われ、日本政府主導による経済政策は成功をおさめ、重工業を中心とする産業が急速に発展していき、インフラも急速に整備されました。特に満州鉄道は日本にもないほどに充実した鉄道となりました。全長900Kmの高速道路・哈大道路の建設がはじまり、現在もなお稼動している豊満ダム、水豊ダムなどは地域の電力事情に多大な貢献をしました。

日本が統治した朝鮮においても、36年の統治期間中に日本の税金63兆円、民間投資も含めると80兆円をはるかに超える資金が投じられ、身分制度の廃止、インフラ整備、近代教育制度や近代工業の導入など朝鮮半島の開発に力を入れ、その結果朝鮮人の寿命は2倍に伸び、人口も2倍に増えました。この事実は生活環境が充実し、食料も十分に供給され、衛生、健康面も急激に向上したことを表しています。
こうして日本による統治政策は、欧米による植民地政策とは根本的に違ったものであったため、満州や朝鮮が自立できる力をつけた時には、日本の友好国、同盟国として、独立させていた可能性が高かっただろうと推測できます。

アジア人に対しては、「八紘一宇」の精神を持って大東亜共栄圏を築くため、自主独立の支援を行っていました。
実際第二次世界大戦に突入し、日本が破竹の勢いでイギリス、アメリカ、オランダを駆逐し、植民地を解放していく中で、各地で独立運動家を支援し、義勇軍を創設しました。
日本が東南アジア諸国を解放し、朝鮮・台湾・満州国と同じような政策が実行されていたならば、東南アジア諸国の発展も急速に遂げていただろうことが想像できます。まさしく大東亜共栄圏の完成です。
日本の敗戦によってアジア各国の独立は一旦は挫折しましたが、日本の敗戦後再び旧宗主国がアジア各国を植民地にしようとした時、日本軍によって訓練された独立義勇軍は旧宗主国に敢然と立ち向かい、激しい戦いの末独立を勝ち取りました。
日本は戦争に敗れはしましたが、自主独立の精神は確実にアジアの人々に根付くことができたのです。

このように日本がもしソ連に侵攻していたらば、第二次大戦後の世界は全く違ったものになっていました。
日本の敗北は、日本だけの敗北ではなく、大東亜共栄圏理想の後退でもあり、同時に共産主義の勝利でもあったのです。

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