中国・東南アジア ⑤

6-5 イギリスによるビルマ侵略

3回にわたるイギリス・ビルマ戦争に敗れたビルマでは、昨日までの王城を刑務所として使うことで王室の権威を失墜させるとともに、国王と王妃、4人の王女をインドに追いやりました。
王位継承者第一位の王女は、すでに妻がいる兵卒に報酬代わりに与えられ、他の王女たちは最貧層に身分を落とされています。
旧支配者に屈辱を与えることで、大英帝国が新たな支配者として君臨することをビルマの人々に知らしめたのです。

それでもなおイギリスの植民地支配に抵抗するビルマ人は多く、各地で反乱が起きました。
これらの反乱を武力をもって鎮圧するために投入されたのは、すでに植民地支配されていたインド兵たちでした。

イギリスによる反乱鎮圧は過酷を極めました。反乱が起こった地方の指導者や有力者、関係者、さらには見せしめとしてその家族までが処刑されています。
ビルマ人の団結と復興を呼びかける識者や国士も、その多くが殺されました。
逆らえば殺されるという恐怖を住民に植え付けることで、ヨーロッパ列強は植民地を思うがままに支配したのです。

植民地化した地域に異民族を移住させ、その異民族を介して先住民族を支配することは、イギリスのお家芸です。そうすることで住民の憎悪はイギリスではなく、異民族に向けられるからです。

仏教徒が多いビルマを解体するために、イスラム教徒のインド人を年間十万人単位でビルマに送り込みました。そしてインド人は金融業を一手に担いました。

極めつけは華僑の招き入れです。これによってビルマの経済は華僑に握られることになりました。
ビルマの主人であったはずのビルマ人は、その多くが最貧層の小作人に甘んじるよりありませんでした。

植民地になるまでは民族ごとに棲み分けされていたにもかかわらず、ヨーロッパ列強が植民地支配をたやすくするために異民族を大量に移住させたことにより、民族と宗教の対立は現在に至るまで東南アジア諸国を苦しめています。

東南アジア諸国はもともと多民族国家ではありません。無理やり多民族国家という構造を作り出したのは、ヨーロッパ列強による分割統治が原因です。

6-6 イギリスによる中国侵略

①アヘン戦争 1840~1842年

1700年代の終わりに、インドの領有権を巡るフランスとの戦争に勝利したイギリスは、その勢いのままにインドから東南アジア、東アジア方面に勢力を伸ばしはじめ、アジアの大国、清国に目を付けます。

イギリスは清国の富を収奪しようと考え、インドで生産した「アヘン」を清国政府に隠れて民間人に売りつけます。
その結果、「アヘン」は瞬く間に清国中に広まり、清国の人々はアヘン中毒になり、アヘンを入手するために、貴重な品々をイギリスに売り渡すようになります。

清国政府はこれを深刻視し、イギリスからのアヘンの密輸を禁止します。
すると、イギリス政府はこの清国政府の対応に腹を立て、1840年に清国を相手に戦争を起こします。これが「アヘン戦争」です。
こうしてイギリスによって仕組まれた戦争でしたので、清国には勝ち目はありませんでした。
この戦争により、イギリスは「南京条約」という不平等条約を締結し、上海をはじめとする港を開放させ、香港を割譲させました。

②第二次アヘン戦争(アロー戦争) 1856~1860年

「南京条約」により、清国から莫大な富が得られると踏んでいたイギリスでしたが、思ったほどの利益が得られなかったので、イギリスは再びアヘンの密貿易を行い、それを取り締まった清国政府に対して再度非難を浴びせ、戦争を仕掛けます。これが、第二次アヘン戦争(アロー戦争)です。

この戦争には、戦後の利益を狙ってフランス、アメリカ、ロシアが「連合国」として参戦し、戦後処理にそれぞれが口を挟んだため、アジア最大の国土と長い歴史を誇っていた清国は、欧米諸国に領土を割譲され、半植民地状態になってしまいました。

7、フランスによるアジア侵略

植民地争奪戦に遅れをとったフランスは、現在のベトナム・ラオス・カンボジアを合わせた領域を侵略し、19世紀後半にそれらの地域をまとめて仏領インドシナとして支配下に治めました。

フランスがベトナムを植民地化においた際に真っ先に手がけたことは、主要な街に刑務所を作り、刑務所の数に合わせて本国からギロチン台を取り寄せることでした。
サイゴンにはベトナムでもっとも高い建物になる5階建てのチーファ刑務所を建て、それでも囚人を収容しきれなくなるとサイゴンの南海にあるコンダオを監獄島に作り替えました。
そうしてフランスに逆らった者、フランスのために働かない者がいると刑務所に収監し、次々とギロチン台にかけていったのです。

ベトナム人には過酷な税金が課せられました。
10才以上のすべてのベトナム人に対して、当時のベトナム人の平均給料3ヶ月分に近い人頭税が課せられ、さらには結婚税・葬式税・物品税・通行税などが重くのしかかりました。

圧政に耐えかねて抗議のデモが起きると、フランス植民地政府はためらうことなく爆撃機を飛ばし、群衆に向けて機銃掃射をしたことが、1930年代にフランス人女性ジャーナリストのアンドレイ・ビオリスが著した「インドシナSOS」に綴られています。

その頃、東南アジアや太平洋地域の国々も、次々に欧米の植民地になっていきました。
1800年代後半から1900年代前半へかけて、イギリスはオーストラリア、ニュージーランド、マレー半島などを、フランスはベトナム、ラオス、カンボジアなどを、スペインはフィリピンを、オランダはインドネシアを、ドイツが太平洋沖の各諸島をそれぞれ植民地とし、東南アジア、太平洋地域で植民地化されていないのは日本以外では、タイ、モンゴル、清国の一部、朝鮮のみという状況にまでなってしまいました。

8、アメリカによるハワイ侵略

1870年以降はイギリス・オランダ・フランス・スペインに加えてアメリカも植民地争奪戦に加わってきます。アメリカのアジア侵略はハワイから始まりました。

当時、ハワイには憲法を有する近代国家ハワイ王国が栄えていました。
アメリカはハワイを侵略するために、まず移民を大量に送り込みました。
ハワイのアメリカ移民は度々武装蜂起しては、武力による脅しで憲法の修正を国王に迫ったため、国王は改正憲法に署名をするよりありませんでした。

改正憲法には
「国王は議会の承認無しに政治に関与できない」
「アジア人には選挙権を与えない」
「先住ハワイ人は高収入の者しか選挙権を得られないこと」
これらの条項が盛り込まれていました。

ハワイ人の多くは貧しかったため、実質的に選挙権を得たのは裕福な白人ばかりでした。
こうして全人口からすればわずかな人数の白人が、ハワイの実権を握ったのです。これこそが武力を背景に成し遂げたアメリカの「民主主義」です。

アメリカの影響力が増していくことに危機感を募らせたハワイ王朝は、国策として日本人移民を奨励しました。1902年にはサトウキビ労働者の70%が日本人移民で占められるほどだったため、アメリカ移民はアジア人から選挙権を剥奪しました。

カラカウア王は世界旅行の傍らに日本を公式訪問して明治天皇に秘密裏に謁見すると、皇室との縁組みを提案し、アメリカの脅威にさらされるハワイ王国を援助してほしいと申し出ました。
しかし、まだ国力が弱かった日本は、この切実な願いを受けることができませんでした。

Queen Liliuokalani in a black dress Hawaiian Monarchy Hawaii

1891年、リリウオカラニが王位に就くと、多くのハワイ人は実権を取り戻すための新憲法の制定を画策します。
アメリカは、米人保護を口実に軍をホノルルに上陸させました。ホノルルに停泊していた米軍艦ボストンの主砲が宮殿に向けられ、女王は幽閉されました。ハワイには戒厳令が敷かれ、暫定政府が樹立されました。世にいうハワイ事変です。

日本政府はアメリカによるハワイ併合の動きをけん制するために、邦人保護を名目に東郷平八郎率いる軍艦「浪速」と「金剛」をホノルルに送り、米軍艦ボストンに対峙させました。これは明確な威嚇であり、米軍に対するあからさまな抗議でした。女王を支持するハワイ人は、涙を流してこれに歓喜したと記録されています。

「武力でハワイ王政を倒す暴挙が進行している。我々は危険にさらされた無辜の市民の安全と保護に当たる」と東郷艦長は声明を発表し、日本の艦艇は三ヶ月間ホノルルに留まりました。
しかし日本の抗議も空しく、1894年、ハワイ共和国が樹立されました。

翌年、ワイキキでの小さな衝突が発端となり先住ハワイ人が武装蜂起すると、共和国政府はこれを反乱軍と見なし武力で鎮圧し、多くの先住ハワイ人が虐殺されました。
さらに米軍は200人の先住ハワイ人を拘束し、女王の退位を迫りました。リリウオカラニ女王は200人のハワイ人の命と引き換えに退位に同意し、ハワイ王国は名実ともに滅亡してしまいました。

日本はハワイのアメリカ併合に厳重な抗議を行いましたが、1898年、ハワイの主権は正式にアメリカ合衆国へ移譲されるところとなりました。
ハワイはアメリカにとって、太平洋の島々を侵略する上で極めて重要な軍事拠点となったのです。

9、アメリカによるフィリピン侵略

アメリカがハワイの次に狙ったのはフィリピンでした。
アメリカは、スペインからの独立を目指して戦っていた独立軍のリーダーであるアギナルドにフィリピン独立を約束し、アメリカに協力するように求めました。

革命軍は1898年、アメリカの支援を受けスペイン軍を打ち破り独立を宣言しました。フィリピンは喜びに沸き返りました。
しかし独立を約束していたはずのアメリカが、突然掌を返します。実はアメリカはスペインからフィリピンを2千万ドルで買い取っていたのです。

アメリカはフィリピンの独立を認めず、フィリピンの領有を一方的に宣言しました。
独立を果たしたはずのフィリピンがアメリカの勝手な領有宣言に従うはずもなく、米比戦争がはじまりました。圧倒的な軍事力を誇る米軍の前に独立軍は各地で撃破され、山にこもってのゲリラ戦を余儀なくされました。

このときアメリカ軍の主力を占めていたのは、アメリカ本土で残虐なインディアン狩りをしていた部隊です。彼らは祖国の独立をかけて抵抗するフィリピン人をインディアンになぞらえ、虐殺していきました。彼等は言いました。「良いフィリピン人は死んだフィリピン人だ」と。

ことに悲惨を極めたのはサマール島とレイテ島です。
サマール島で米兵38人がゲリラの待ち伏せにあい殺された報復として、大東亜戦争時のマッカーサー司令官の父アーサー・マッカーサーはサマール島とレイテ島の島民の皆殺しを命じました。
マッカーサーは10才以上の島民の殺戮を無慈悲に繰り返しました。
この虐殺で10万人以上が殺されたとする説もあります。

米比戦争の最中、アギナルドは要人を日本に送り、フィリピン独立軍のための援助を申し出ました。
しかし、政府自らが動けば国際法の下ではアメリカへの宣戦布告と見なされてしまうため、有志が個人の名で援助することとなり、1899年大量の武器弾薬とフィリピン独立革命に参加を希望した志士十数名を乗せて、布引丸と名付けられた船がマニラを目指して出港しました。

布引丸は暴風雨のため、途中で沈没してしまいます。武器弾薬も義憤に駆られた志士たちも、フィリピンにたどり着くことはかないませんでした。

1901年、アギナルドは米軍に捕らえられ、独立軍に停戦と降伏を命じ、1902年にアメリカはフィリピン平定を宣言します。
こうしてフィリピンは独立の夢を踏みにじられ、アメリカの植民地とされたのです。
米比戦争でのフィリピン側の民間人の死者は、20万人から150万人とされています。

こうして20世紀初頭までに、東南アジア全域は欧米列強による植民地として分割されるに至りました。東南アジアで唯一植民地化を逃れたのは、タイだけでした。
仏領インドシナとイギリスの植民地ビルマに挟まれたタイは、イギリスとフランスの植民地が直接には接しないための緩衝地帯としての役割を果たしていたため、植民地にならずにすみました。

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