⑤日露戦争

4、国家の存亡をかけた日露戦争 レキシジンから引用

4-1 不平等条約の改正

ロシアの南下を抑えたいことにおいて、日本とイギリスの利害は一致していました。
イギリスの日本に対する姿勢の変化は、不平等条約改正の機会を日本に与え、日清戦争の直前にイギリスとの不平等条約改正についに成功します。
条約改正は日本が近代化を成し遂げ、列強が認める軍事力を備えたからこそできたのです。
日清戦争に勝利したことで、不平等条約を交わしていた他の列強も競って改正に応じました。

4-2 侵略する側とされる側

日清戦争に敗れた清は、西欧列強の草刈り場と化しました。
19世紀末には、上海・天津・重慶など28カ所に租界ができました。
強ければ敬われ、弱ければ一斉に叩かれるのが帝国主義時代の非情な定めです。

日本を含めた列強の侵略に対し、1898年に中国国内では義和団の乱が起こりました。
各地でキリスト教の教会が焼かれ、西洋人の殺害が相次ぎ、ついに義和団は北京を制圧すると公使館区域を包囲しました。
清はこの機会に乗じて列強に宣戦を布告し、北京の公使館や天津の租界を攻撃し始めました。
このままでは、公使館員と居留民が皆殺しにあうことは明らかでした。しかし、欧米から援軍を派遣しようにも間に合うはずもありません。この緊急時に援軍をすぐに送れるのは、地理的に近い日本だけでした。イギリス政府からの正式な要請を受けて日本は出兵しました。

日本軍を中核とする8カ国連合軍は、北京と天津の清軍と義和団を撃破しました。
日本軍の勇敢さと規律の正しさは、世界から絶賛されました。
日本軍が外国の軍隊と共に戦ったのは、義和団の乱が初めてです。

4-3 日露戦争はなぜ起きたのか

日清戦争で日本が勝ったことにより清から独立した朝鮮は、大韓帝国として生まれ変わりました。
日本は閣議において朝鮮を「なるべく干渉を止めて自立させる」という方針を決定しています。
しかし、千年以上中国の属国だった朝鮮の人々は、独立自尊よりも、強いものに付き従う事大主義へと傾いていき、日本とロシアとではロシアの方が強いと多くの朝鮮人は考えました。そのため、親ロシア派が宮廷内で力を強め、独立派と親日派を次第に排除していく事態となりました。

義和団の乱が満州に及ぶと、治安を回復することを口実にロシアは軍を動かし、満州全域を占領しました。
そして鎮圧後も撤兵せずに占領を続け、朝鮮への侵略を開始したのです。
ロシアは北朝鮮の龍岩浦を占領すると朝鮮との間に強引に租借契約を結びました。この港は黄海に出る重要な拠点であり、これによりロシアは遼東半島沿岸と朝鮮の西海岸付近の制海権を握ることに成功しました。
これは日本本土防衛においても大きな脅威となるため、日本は何度もロシアに抗議しましたが、すべて無視されます。
ロシアは日本が太刀打ちできる相手ではありませんでした。

4-4 世界が驚いた日英同盟

1902年、日本とイギリスとの間で日英同盟が結ばれました。
当時世界第一の大国である大英帝国は「光栄ある孤立」を誇りとしており、ヨーロッパ各国とさえ同盟を結んではいませんでした。
しかしロシアの南下はイギリスにとっても不都合であり、イギリスにとっての一番の敵はロシアだったため、日英同盟を結ぶことで、ロシアの南下を日本を使って食い止めようとしたのです。
また日本にとっても日英同盟は大きな後ろ盾となりした。

4-5 日露戦争へ

日本はロシアとの戦争を避けるべくぎりぎりまで外交上の手段を尽くしました。
満州のロシア支配を認め、その代わりにロシアの朝鮮への侵略を断念させる交渉を行いました。

日本とロシアの国力の差を比べたとき、面積60倍、人口2.6倍、国家歳入8倍、陸軍総兵力11倍、海軍総トン数1.7倍、鉄鋼生産高30倍です。軍事力においても、ロシア海軍はイギリスに次ぐ世界第二位、陸軍は世界一の強さを誇っていました。国力の差はあまりにも歴然としています。
1904年、明治政府はロシアとの国交断絶を決定し、日露戦争へと突入しました。

日露戦争の裏話:日本がユダヤ民族の敵討ちをした

4-6 日露戦争、旅順要塞203高地と奉天の戦い、日本海海戦

日露戦争がいざ始まってみると、日本軍は各所の戦いでロシア軍を圧倒しました。
乃木希典の指揮する第三軍は、旅順要塞の攻略で多大な戦死者を出しながらも、203高地をついに陥落させ、頂上から旅順港内に停泊していた旅順艦隊を砲撃し、これを完全に壊滅しました。
日露戦争で最大の陸戦となった奉天の戦いでは、秋山好古率いる機関銃部隊がロシアのコサック騎兵を端からなぎ倒し、日本軍は奉天を占領することに成功しました。

劣勢に立たされたロシア軍は起死回生を狙って、当時世界最強とも言われたバルチック艦隊を投入しました。
バルチック艦隊を日本海で迎え撃ったのが日本の連合艦隊です。
この日本海海戦は、当時としては世界最大規模の海戦でした。
連合艦隊は型破りな戦略をもってバルチック艦隊を撃破しました。一昼夜の海戦でバルチック艦隊38隻のうち16隻を撃沈、5隻を撃破・自沈、6隻を拿捕するという海戦史上例を見ないほどの完全勝利でした。日本側の損害は、水雷艇が三隻沈んだのみです。

日本海海戦でバルチック艦隊を壊滅させたことにより、日露戦争での日本の勝利が決定し、アメリカの斡旋により、ポーツマスで日露講和条約が締結されました。

4-7 日露戦争が世界を変えた

日露戦争の勝利は世界を変えました。
日本海海戦の勝利は単に日本がロシアに勝ったというだけではなく、コロンブスによる新大陸の発見以来、4世紀に及ぶ有色人種が白人に隷従するという時代に確実に終止符を打ったのです。
白人の支配に苦しめられていた世界各地の有色人種の人々は、日本がロシアを打ち破ったことを我がことのように喜び、自分たちも白人に勝てるかもしれないという思いを新たにしたのです。
欧米の白人のものだった世界、白人のものだった歴史を、アジア・アフリカをはじめとする虐げられてきた有色人種の手に戻したことにおいて、日露戦争ほど世界に大きな影響をもたらした戦争はなかったといえるでしょう。

「あの海域で、アジアの一小国が、地上最大のヨーロッパの帝国を、わずか一時間たらずでうち負かしたあの勝利は、アジア人とヨーロッパ人には質的な開きがあるという長いあいだの神話を、永久に破壊してしまった。」
(アメリカのジャーナリスト、ノエル・F・ブッシュ)
「アジアもアフリカも歓喜と希望に胸をときめかせた。なによりも、不敗の白人の神話は、落ちた偶像となって泥にまみれた」
(『国家と人種偏見』ポール・ゴードン ローレン著)
「日本がロシアに勝ってからは、アジア全体の民族は、欧州を打ち破ろうと盛んに独立運動を起こしました。エジプト、ペルシャ、トルコ、アフガニスタン、アラビア、インド等が相次いで独立運動を起こしました。即ち日本が露国に勝った結果、アジア民族が独立に対する大いなる希望を抱くに至ったのであります」
(孫文講演「大アジア主義」1924年)

4-8 日露戦争の勝利がもたらしたもの レキシジンから引用

日本はアジアで侵略戦争を行ったと信じられているため、満州や朝鮮を独立させただろうなどという推論は信じがたい話のように聞こえるかもしれません。しかし日露戦争以降の日本の立場を知れば、そんなことはないことが分かります。
日露戦争の頃のアジアは、その大半が欧米列強の植民地でした。それまで有色人種は欧米列強に負け続け、白人に仕える奴隷同様の日々を強いられてきました。そこには深い絶望とあきらめの境地のみがありました。
しかし、日本がロシアに勝ったことにより、絶望やあきらめの境地は希望へと塗り変わりました。日露戦争で、白人国家の中でも最強国の一つであったロシアに日本が勝利したことは、欧米の白人による有色人種の支配という流れに終止符を打ち、白人優位という価値観・秩序は音を立てて崩れ去り、有色人種の逆襲という新たな大波が、世界を呑み込んだのです。

実際に日露戦争以降、白人の支配を断ち切り民族自決を求める運動は世界各地で巻き起こりました。フィリピン・ベトナム・ビルマ・インドネシアにおいても独立運動家を勇気づけ、民族主義が盛んとなり、多くの若者が日本に留学に訪れるようになったのです。「日本から学べ!」の合い言葉はアジア中に鳴り響き、東京はアジア中からやってきた民族主義者のメッカとなりました。
なかでも多かったのが清からやって来た留学生です。日清戦争では敵として戦ったものの、日露戦争での日本の勝利は、朝鮮を守ったのみならず、ロシアの中国侵略をも防いだのです。もし日露戦争で日本が敗れていれば、中国の北半分はロシアに占領されていたと、中国でも認識されていました。国ぐるみで日本への留学が奨励されたため、東京には一時、15000人を超える中国人留学生がいたとされています。後に中国をリードする孫文や蒋介石も、そうした留学生の一人でした。

4-9 アジアの盟主へ

当時の日本人はアジアを欧米列強の植民地から救出しなくてはならないとする使命感をもっていました。
道義的に見て白人がアジアで為している暴虐の数々は許せないとする空気は日本中を覆っていたからです。
その意気込みは思想家の徳富蘇峰の次のひと言に集約されています。
「極東の国々が欧州列強の餌食になるような事態をわが国は座視するわけにはゆかぬ。われわれには東亜の平和を維持する義務がある」

当時の日本には大きく二つの思想がありました。
ひとつは岡倉天心に代表される、日本がアジアと連携して欧米に対抗すべきであるという「アジア主義」、もう一つは福沢諭吉が唱えた、日本はアジアから抜け出し、欧米の仲間入りをすべきであるという「脱亜入欧論」です。
天心は「ヨーロッパの栄光はアジアの屈辱である」と述べ、「戦争は絶やされなければいけない。己を守る覚悟のないものは奴隷にされなければならないが、他国を侵略するような道義のない国民もまた哀れである。個人の道徳からして発達していない者たちである」と、白人によるアジア侵略を批判しています。
福沢はもともとはアジア主義者でしたが、近代化に背を向ける中国・朝鮮に絶望し、もはや二カ国の悪友との付き合いを謝絶すべしと主張したのです。

このように日露戦争以降日本はアジアの盟主として自覚し、多くのアジア人留学生を迎え入れ、民族自決の支援を行ってきたのです。
1919年、第一次世界大戦戦後処理のためのパリ講和会議においては、日本は世界で初めて人種的差別撤廃提案を行いました。

4-10 黄禍論と日本人差別 レキシジンから引用

日露戦争は、これまで虐げられていたアジアやアフリカの有色人種やアメリカの黒人に大きな希望を与えました。
しかし裏を返せば、これまで有色人種を迫害し奴隷化し、搾取を続けてきた白人にとっては歓迎できないことでした。
その結果日露戦争を境に、日本を脅威とする黄禍論が英米を中心に白人の間で唱えられるようになったのです。

「黄禍論」とは黄色人種が勢力を強くすることで、やがて白色人種に災禍を与えるとする論です。
吹き荒れる黄禍論は、やがて日本人差別をもたらしました。人種差別という暴力に日本人は振り回されることになるのです。

日露戦争を戦う上で日本は多額の戦費を必要としましたが、日本の外債を引き受けてくれたのがイギリスの銀行団とアメリカのユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフとその人脈です。
彼らユダヤ系金融資本家たちにとっては、最大の敵ロシアを倒すためには、日本を支援しロシアの南下を抑えることも、重要な戦略の一つでした。そのため日露戦争の開戦初期においては、彼らが支配する英米のマスメディアを使って日本を支援しました。

イギリスのインド、アメリカのフィリピン、オランダの東インド、フランスのインドシナなど、何百万人ものアジア人を前に植民地統治を可能にしているのは、ひとえに白人の威信であったため、日露戦争の日本勝利の知らせは、彼ら白人支配の終焉を告げるものとなり、欧米列強の植民地支配に深刻な打撃を与えることを彼らは恐れ始めました。
英米はともに当初は日露戦争での日本の勝利を願っていたはずです。しかし、英米の白人たちは、日露戦争に人種戦争の影を見ました。有色人種である日本人が完璧とも言えるほど圧倒的に、白人であるロシア人を打ち破ったことは、決して喜ばしいことではありませんでした。

当時の様子をリアルに伝えた孫文の講演会から引用いたします。
「私がヨーロッパにいた時に日露戦争がはじまり、ロシアがウラジオストックに派遣した艦隊が、日本海で全滅させられたことをききました。このニュースが伝わると全ヨーロッパの人民は、父母を失ったように悲しみました。イギリスは日本の同盟国でしたが、イギリス人のほとんどが眉をひそめ、日本がこのような大勝利をおさめたことは、結局白人の幸福でないと考えたのであります。」(「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助著)

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