⑦日本の戦い

6、日本はなんのために戦ったのか

6-1 第一次世界大戦での日本 レキシジンから引用

1914年6月、第一次世界大戦が起きました。日本は中立を表明しましたが、日英同盟に基づきイギリスからの支援要請でドイツの基地がある青島を攻略し占領しました。
海軍にも地中海派遣の要請が寄せられましたが、「日本海軍は外敵防御の標準で組織されており、外征を企てる余力はない」と拒否しました。しかし、ドイツの潜水艦による攻撃のため連合国の船舶が多大な被害を出すに及び、再度の地中海派遣にやむなく応じています。
第一次世界大戦は連合国の勝利に終わり、日本は戦勝国の一つに名を連ねることになりました。

6-2 パリ講和会議と人種平等法案

1919年、大戦後の世界秩序の方向性を論ずる大規模な国際会議がパリで開かれました。このパリ国際会議ではアメリカのウィルソン大統領によって、国際平和機構「国際連盟」の設立が提案されました。

しかしこの会議で最も大きな議題は、日本が提議した人種平等法案でした。
日本は水面下で各国と粘り強く交渉を重ね、16票中11票が日本の提案に賛成票を投じるものとなりした。絶対多数で日本の提案が認められたのです。
しかし議長のウィルソンは即座に「委員会の全会一致の賛成が得られなかったため採択されません」と宣告したのです。
パリ講和会議では様々な議題が採決されましたが、すべて多数決で決められており、全会一致の「規則」は一度たりとも適用されていませんでした。

日本がパリ講和会議にて人種平等の訴えをしたことは、パンドラの箱を開けることに等しいものとなりました。日本は国際会議の舞台で初めて人種平等こそが正義なのだと、欧米の白人に向かって言い放ったのです。
15世紀に始まる大航海時代以来、白人に一方的に殺され、奴隷にされ、略奪され続けてきた有色人種が叫びたかった思いを、日本は人種平等条項として欧米にぶつけました。
人種平等の大義は有色人種の人々の胸に宿り、白人に対する抵抗運動へと発展していったのです。

・1919年2月に黒人運動のリーダー役デュボイスは、第一回汎アフリカ会議をパリで開き、5月には「アメリカでも民主主義をめざして前進せよ! 」と、黒人に向かって呼びかけた。
・中国においては機関誌『大亜』は「欧米の白人の圧迫により」苦しめられている「アジア10億の民」に向かって明瞭な言葉で語りかけた。
・1920年にはナイジェリア、シエラレオネ、ガンピア、黄金海岸(現ガーナ)の代表がアクラに結集して、民族自決と人種差別廃止を促進するために英領西アフリカ民族会議を設立した。
・インド国民議会は、大英帝国のすべての自治領と植民地における人種平等を要求し、1921年の帝国評議会でも再びこの要求を繰り返した。
・1920年に、フランス植民地の知識人が同じ目的で植民地同盟を結成し、また別のグループは黒人防衛連盟を創設した。
・基本的に同一の目標へ向かって行動する西アフリカ学生同盟(WASU)がロンドンに樹立された。
・日本、中国、インド、フィリピン、東インド、マレー部族国家、エジプト、トルコの代表で構成する「有色人種国際会議」が組織され、「一部白人国家の移民政策の人種差別廃止を支援し、白人種による社会的・種族的優位観念と戦う」ことを決議した。
・さらに二つの汎アジア会議が植民地支配と、人種差別とに反対する非白人の抗議の声の高まりにこたえて開くかれた。
(『国家と人種偏見』ポール・ゴードンローレン著)

6-3 汎アジア主義 レキシジンから引用

欧米列強の植民地となって苦しんでいる東亜から欧米列強を追い出し、アジアの民族がそれぞれの国を自ら統治できるように協力し合うことを目指す汎アジア主義は、明治・大正・昭和に渡って堅持されてきた日本の目指す理念です。
汎アジア主義の発祥の地は日本ですが、その構想は孫文をはじめアジア各地の多くの独立革命家を魅了し、民族自決の願いとなってアジア全土を覆っていました。
抽象的な理念に過ぎなかった汎アジア主義が「大東亜共栄圏」として、後に具体的にその姿を現しました。

6-4 大東亜共栄圏の始まり

大東亜共栄圏の理念の礎を築いたのは、陸軍の武藤章でした。
「帝国の国策が日満支を枢軸とする大東亜生存圏の結成に指向せられ、挙国一体不動の決意を以て、是が遂行に邁進しつつある所以のものは……外国の圧迫の為めに奴隷的境遇に呻吟しつつあった東亜民族全体を解放し、之を日本を盟主とする一大家族的関係に導いて、有無相通じ緩急相救い、共存共栄以て大東亜の自力更生の実を挙げんとするに外ならない」
(武藤「時局の展望と国防国家確立の急務に就て」『昭和陸軍全史』より)
このように武藤は、欧米列強の植民地支配によって奴隷的境遇に苦しんでいる東亜の民族全体を解放し、日本を盟主として家族のように助け合い、大東亜の自力更正を実現しようと呼びかけています。

初めて公式に「大東亜共栄圏」という言葉を用いたのは松岡洋右外相です。1940年8月1日、政府の外交方針について松岡外相は次のように述べました。
「我国現前の外交方針としてはこの皇道の大精神に則り、先ず日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立を図るにあらねばなりませぬ。(中略)更に進んで我に同調する友邦と提携、不退転の勇猛心を以て、天より課せられたる我が民族の理想と使命の達成を期すべきものと堅く信じて疑わぬものであります」
当時アジアで独立を保っていたのは日本・タイ・中国の3カ国のみです。そのなかで欧米に対抗できるだけの軍事力を持っている国は日本だけで、実際に「大東亜共栄圏」という理想を実現できそうな国も日本しかありませんでした。

6-5 大東亜共栄圏の理念とは

「大東亜共栄圏」とは、大東亜を欧米列強の植民地から解放した後、東亜諸民族があたかも家族のように協力し合うことで、欧米に頼ることなく自給自足経済を実現しようとする構想です。いわば大東亜全体の独立自尊を目指した雄大な構想と言えるでしょう。大東亜共栄圏の範囲は、東アジアや東南アジアのみならず、東部シベリアやオーストラリア、インドを含むものと定義されています。
日本が目指したものはナチスドイツがゲルマン民族だけの生存を目指していたこととは異なり、アジアに暮らす諸民族すべてにとっての生存圏でした。

6-6 ブロック経済とは

ブロック経済とは、植民地をもつ国々が本国と植民地の間の経済的な結びつきを強くするために、その他の国に対して関税を高くするなどの輸入障壁を設けることを指します。
1929年にアメリカで発生した世界恐慌は各国の経済に打撃を与えました。
こうした状況の中、豊富な植民地を持つイギリスとフランスは自国の植民地を一つのブロックとし、本国製品には低い関税、日本などの関係のない国の製品には高い関税を課すことで、本国の製品が植民地内で売れやすくするようにしました。

広大な植民地を持つイギリスやフランスに比べると日本の経済圏は日本本土と朝鮮半島、台湾、満州国と限られた範囲でした。また日本製品は相対的に安価だったため、ブロック経済はイギリス、フランスの本土ならびに植民地から日本製品を締め出す効果がありました。
一方、日本やドイツ、イタリアは外に目を向けるしかなかったのです。世界的に保護貿易に変化していく中で自国製品を排他的に売れる地域を増やすためには、自国の勢力圏を広げるしかありません。
日本は中国大陸に進出していきアメリカやイギリスと対立し、ドイツは東ヨーロッパへ進出する中でイギリスやフランスと対立し、イタリアもアフリカへ進出していく中でイギリスやフランスと対立します。

6-7 共産化を防ぐための孤独な戦い レキシジンから引用

満州事変にしても日中戦争にしても、日本による侵略戦争という見方が一般的でした。しかしこれまで見てきたように、日本は南下政策を取るロシアの脅威に対して、極東におけるロシア防衛の盾となっていたという一面もあります。自立しロシアの脅威に立ち向かうことのできない中国・朝鮮の代わりに、日本が大陸に進出し、朝鮮を統治し、満州をロシアに対する防波堤としようとしたのです。
それはまた利害を共有するアメリカ・イギリスの望むところでもありました。イギリスはインド、アメリカはフィリピンという植民地を守るために、ロシアの南下政策は両国にとっても脅威であったのです。

しかし、1917年に起こったロシア革命によって、アメリカ・イギリスとは利害が対立するようになりました。ロシア革命を陰で支援していたアメリカ・イギリスのユダヤ系金融資本家たちは、革命によって誕生した世界初の共産主義国家であるソ連を歓迎していたからです。
日本にとってはロシアからソ連に変わったからと言って、ロシアと同じように南下政策を取るソ連は、依然として驚異のままでした。ソ連に代わってからの満州事変と日中戦争には、共産化を防ぐための防共のための戦いという側面も持つようになりました。

ロシア革命の直後から、日本は防共のための戦いを始めていました。革命が起きた翌年にはアメリカとともにシベリア出兵を行ったのも、列強が引き上げた後に日本のみが残ったのも、防共に備えるためです。地理的にソ連に近い日本は、常に欧米以上に共産主義の脅威を感じていました。
満州事変もまた、満州の共産化を防ぐために必要なことでした。もちろん満州事変は防共のためだけに起きたわけではありません。それでも複雑な要因のなかのひとつに、防共という骨太な筋が日本軍の行動には常に通っていたことはたしかです。

グルー駐日大使は、次のように述べています。
「日本は、現在の重大の問題であるボルシェヴィズム(共産主義)の東方への蔓延に対して、堅固な緩衝装置の役割を果たしている。現在、中国を山火事のように席捲し、もし日本が手をつけなければ満州をもすぐに侵しかねない共産主義に対して日本が挑んでいる戦いについて、少なくともその功を認めなければならない」
(『満州事変とは何だったのか 下巻』クリストファー・ソーン著)

6-8 日独防共協定

日独防共協定は1936年11月に日本とドイツの間で調印された協定です。「共産インターナショナルに対する日独協定」が正式名称です。
防共協定の目的は共産主義の破壊活動に対する防衛にあります。そのための情報交換を行い、必要な防衛措置について協議することが協定の骨子でした。
日本とドイツの反共政策が、たまたま一致したことで協定が成立したに過ぎません。日本としてはイギリスをはじめ各国に防共協定への参加を呼びかけましたが、応えてくれたのがドイツだけだったのです。
しかし、アメリカとイギリスは防共協定を反米・反英の軍事協定と曲解し、日本に対する疑念を募らせました。

日本はドイツに対し、日中戦争は防共のための戦いであることを説明し、ドイツによる蔣介石政権への支援を中止するように訴えています。ドイツは中国で産出されるタングステンを必要としていたため、日本側の度重なる要請を拒否しました。防共協定を交わしていたドイツでさえ、防共の戦いという日本の掲げた大義については理解を示しませんでした。
かくしてドイツも、欧米列強もソ連もこぞって蔣介石政権の支援に回ったのです。日本は孤立無援のまま、共産主義との孤独な戦いを続けるよりありませんでした。

6-9 全世界のカトリック教徒よ、日本軍に協力せよ!

盧溝橋事件が起きた1937年の10月、ローマ法王ピウス11世は日中戦争について次のような声明を出しました。
「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」
欧米からは一方的な侵略として非難されていた日本にとって、その欧米の人々の精神的な支柱であるローマ法王自らが「日本は侵略したのではない、中国を救うために防共の戦いをしているのだ」と、防共のために孤独な戦いを続けている日本の行動に対して賛意を表明してくれたのです。

6-10 ドイツはなぜソ連に侵攻したのか

もともとソ連撃滅はヒトラーの悲願でした。ヒトラーが共産主義を毛嫌いしていたことは、彼の多くの言動から明らかです。
ヒトラーは第二次欧州大戦前からソ連とフランスを敵とし、イギリスとイタリアと提携することで両国を撃破する構想をもっていました。フランスを降伏に追い込んだ後はドイツによる欧州大陸の支配をイギリスに認めさせ、ソ連を打倒するために東方侵攻を行う予定でいたのです。
ところがチャーチルが講和に応じることなくドイツとの徹底抗戦を選んだため、本格的な対英戦に突入しました。

イギリスがドイツに対して抵抗を続けるのは、ソ連という大国の存在とアメリカによる支援に希望を繋いでいるからだとヒトラーは考えました。ソ連を倒してしまえば、イギリスの継戦意志を打ち砕き、対英戦に勝利できる、しかもソ連が消えることで、日本は自由に南方進出を果たせるようになる、そのことはイギリスの滅亡を招く、そのような状況になってはアメリカがイギリス側に立って参戦することもできなくなる、それがヒトラーの読みでした。つまりヒトラーにとってソ連侵攻は、対英戦に勝利するための手段だったということです。

イギリスに講和を拒否された直後の7月31日、ヒトラーはベルヒテスガルテン山荘で次のように述べています。
「イギリスの希望はロシアとアメリカである。ロシアにかけた希望が消えるなら、アメリカ(への望み)も消えてしまう。何となれば、ロシアの消滅は東アジアにおける日本の価値を恐ろしく増大させることになるからである。ロシアは、イギリス、アメリカ両国が東アジアで日本に向けてふりかざす剣である。……ロシアは、イギリスが主に頼りにしている要素である。……ロシアを打倒するならば、イギリスの最後の希望は消えるのである。……ロシアを清算せねばならない。」
(『ナチス・ドキュメント―1933-1945』ワルター・ホーファー著)

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