③日本開国

2、日本開国 レキシジンから引用

2-1 ペリーの黒船来航

江戸時代、世界一の軍事力を持った日本は、鎖国政策を取ることによって他国からの侵略の脅威が無くなり、平和な時代を迎えることができ、その結果軍事力の進化を自らの意志で止めました。つまり江戸時代日本は軍縮を行ったのです。
一方同じ期間欧米では、植民地争奪戦、独立戦争、英仏・英蘭・英米戦争、フランス革命、産業革命等戦乱と技術革新により、武器の開発が一気に進んだ時期でもありました。
その結果約200年後の1854年、ペリーの黒船来航のときには、日本の軍事力は欧米に比べて大きく遅れを取ってしまいました。日本が開国を余儀なくされたのは、欧米列強の強大な軍事力に屈したためだったのです。

開国を迫られた日本は、国際法を知らなかったため欧米人にだまされ「不平等条約」を交わされます。
この条約には、3つの不平等が定められていました。
1、貨幣の交換は日本の金銀比率に合わせること。
2、外国人が日本で犯罪を犯しても本国の法律で裁かれること(=領事裁判権)、つまり日本人が外国人を日本の法律で裁くことはできない(=治外法権)。
3、関税を決める権利(=関税自主権)が日本にないこと。
この不平等条約を結ぶことによって具体的にどのような事態を招いたのかを見ていきます。

2-2 ゴールドラッシュ

1、貨幣の交換は日本の金銀比率に合わせること。
日本の金銀比率と国際的な金銀比率が異なることは、前代未聞のゴールドラッシュをもたらしました。当時、日本の金銀比率は 1:5 でしたが、世界的には 1:15 だったのです。
交換比率の違いは、大きな為替差益を生みました。つまり、銀貨5枚を横浜の両替所で金貨1枚に替え、急いで上海に行って銀貨15枚に両替したあと、再び横浜で金貨3枚に両替する、これだけで元金は3倍に跳ね上がりました。
このときの様子を、イギリスの初代駐日総領事のオールコックは「日本人の金貨はかれらが絶望するほど連日多量に持ち出された」と綴っています。
それでも日本人は律儀に条約を守り、遠来のお客様のために毎日24時間休むことなく両替所を開いていました。

金の海外流出と日本国内を襲った突然の金銀交換の比率変更は、国内の金融を大混乱に陥れ、日本経済はたちまち危機に瀕しました。食料品は高騰し続け、鎖国時代にはありえなかったほどの貧困と悲惨が国内を包み込んだのです。
その頃、来日していたオランダの軍医ポンペ・ファン・メーデルフォールトは次のように綴っています。
「我々白人に対して、日本人から呪いと罵りの言葉しか聞こえなくても不思議ではない。一般庶民ほど、我々の罪によって一層深く貧困に沈んでいったのである」

2-3 日本はすでに植民地だった!?

2、外国人が日本で犯罪を犯しても本国の法律で裁かれること(=領事裁判権)、つまり日本人が外国人を日本の法律で裁くことはできない(=治外法権)。
領事裁判権の原則は、欧米各国と植民地の間でのみ適用されるものでした。要するに日本は植民地として扱われたことを意味します。
ゴールドラッシュで日本に押し寄せて来る白人たちは、自分たちこそが日本人のご主人様であるように振る舞いました。

フランス人医師は綴っています。
「最も品位に欠けたヨーロッパ人が来るようになってから、白人のいるところには、いつも危険と恐怖があった。酔っ払って大暴れする、私と同じ人種の黄金の亡者たちのやることは、悪行ばかりだった。彼らはわめき声をあげながら町を歩き回り、店に押し入り、略奪した。止めようとする者は蹴られ、殴られ、刺し殺され、あるいは撃ち殺された。我が同胞たちは、通りで婦女を強姦した。寺の柱に小便をかけ、金箔の祭壇と仏像を強奪した」

横浜でも江戸でも、同じような略奪と殺人・暴行が相次ぎました。
しかし、白人には領事裁判権が認められていたため、日本の法律で裁くことはできなかったのです。
白人たちは本国の法律で裁かれましたが、そこに正義はありませんでした。数人を殺した白人を現行犯逮捕し、詳細な報告書を作成して領事の監督下に引き渡しても、証拠不十分により不起訴になるばかりです。
そればかりか逮捕された白人たちは、日本当局による逮捕は自由の剥奪行為であると訴え、銃器を取り上げられたことは窃盗であると主張し、慰謝料や損害賠償を要求してくる始末です。その場合、日本は損害賠償を支払うことで事を収めました。
西欧列強の植民地となった他のアジア諸国と同様に、白人が有色人種である日本人を殺しても暴行を加えても、罰せられることはなかったのです。

一方、白人に対する犯罪は極刑をもって罰せられました。
無法を働く白人を殺傷した日本人は、幕府によって情け容赦なく首をはねられました。
どうしても犯人が見つからない場合もありましたが、西欧列強は犯人の処罰を要求してくるため、証拠がなくても容疑者の誰かを処刑するよりありませんでした。
西欧列強がこれを口実に日本に対して軍事力を行使してくることを、幕府は心底恐れたのです。力がない以上、欧米列強のやることがどれだけ不正義であっても、抗うことはできません。
このように不平等条約の本質は、欧米列強から見て日本を半植民地状態においたことにあります。

欧米人から見ると、当時の日本人は他の有色人種と同じく劣等民族でした。
イギリスの駐日総領事のオールコックは記しています。
「彼らは偶像崇拝者であり、異教徒であり、畜生のように神を信じることなく死ぬ。呪われ永劫の罰を受ける者たちである。畜生も信仰は持たず、死後のより良い暮らしへの希望もなく、くたばっていくのだ。詩人と、思想家と、政治家と、才能に恵まれた芸術家からなる民族の一員である我々と比べて、日本人は劣等民族である」

隷従によって奴隷の平和を求めるか、それともいつの日か抗うことを期してまずは欧米列強に追いつくことを目指すか、当時の日本人は選択を迫られ、西欧列強の白人に抗う道を選び、近代化への道を歩き始めました。そのためには、西欧と同じく国民国家を建設する必要があり、旧態依然とした幕府は邪魔なだけの存在となりました。
こうして改革の機運は日本中に広がり、それまでの支配者をすべて入れ替えることで、天皇を中心とする明治新政府が組織されました。

2-4 近代化と富国強兵は背中合わせ

1871年、岩倉具視を正使として伊藤博文・大久保利通・木戸孝允らは岩倉使節団として、およそ2年をかけて日本が条約を結んでいる欧米各国を訪れ、不平等条約を改正するための第一歩を踏み出します。
岩倉使節団によって欧米の発展ぶりを視察した日本の指導者たちは、まずは国の経済力を高める必要をひしひしと感じました。
その次に欧米列強の侵略を阻止するための軍事力の拡充です。軍事力を強化するためにも、工業の発展は欠かせません。
つまり日本の近代化とは、同時に軍国化でもありました。軍の近代化を基軸として、すべての分野における近代化が推進されたのです。

軍国化の必要性を痛感したのが1873年、当時の新興国ドイツ帝国で聞いた、宰相ビスマルクの演説によってです。
「世界のあらゆる国家がお互いを礼節をもって交わっているというが、これは虚構である。現実には強国の政府が弱小国を圧迫している。万国公法は諸国家間の秩序維持を目的としているが、強国が他国と紛争を生じたならば、強国は自国の目的に適合するかぎりで、それにしたがって行為するのであり、さもない場合には自らの力を用いるであろう。弱小国は常に不利な立場に立たされているのである。」
軍事的に強くなければ、常に不利な立場に追い込まれるのだとビスマルクは言い放ちました。

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