④19世紀後半世界情勢

3、19世紀後半の世界情勢 レキシジンから引用

19世紀後半の世界は、まさに戦国時代でした。
イギリス・フランス・プロイセン(後のドイツ帝国)・オランダ・ロシアの五大国が、世界の隅々まで領土の獲得合戦を繰り広げたのです。
アフリカ・アジア・オセアニアは西欧列強の侵略に為す術もなく、次々と植民地化していきました。

3-1 アフリカ分割

1884年にはベルリン西アフリカ会議が開かれ、アフリカ分割のルールが、西欧列強14カ国の間で取り交わされました。
このルールに則り、西欧列強は早い者勝ちでアフリカ分割を行ったのです。
アフリカに住んでいる人々は激しい民族的抵抗を各地で繰り広げましたが、西欧列強の圧倒的な軍事力の前に膝を屈するよりありませんでした。
軍事的に強い国が弱い国を侵略することは、当時の価値観では当然のこととして受け止められました。

3-2 植民地化するアジア

アジアもまた、明治時代に刻々と西欧列強によって侵略されました。
イギリスが300年の時をかけて、インド全領土をイギリスの軍門に下したのは明治維新の起こる10年前のことです。
よく「三国一の花嫁」という言い方に使われる「三国」とは、日本・中国・インドの三国を指します。かつて日本にとっては、この三国のみが世界のすべてでした。
日本にとってインドはあまりにも偉大な帝国でした。そのインドが、イギリスの完全支配下に入り民衆が塗炭の苦しみに喘いでいるという情報は、幕末の頃から逐一もたらされ、当時の日本人に大きな恐怖を植え付けました。

大国であるはずの中国もまた、アヘン戦争でイギリスに大敗を喫し、第二次アヘン戦争(アロー戦争)においても完敗し、領土の割譲を余儀なくされました。
1886年にはビルマがイギリスの植民地となり、1887年にはフランスが清からベトナムを奪いました。
さらに新興国のアメリカもアジア侵略に乗り出し、ハワイ併合が1898年、米比戦争でフィリピンを支配したのも同じ年です。
1890年代の中頃には、タイを除く東南アジアのほとんど全域が西欧列強によって分割され、中国・満州・朝鮮・日本の極東のみが残されました。
近代化を成し遂げることができなかった弱小国は、平和を踏みにじられ強国に隷従する、まさに力こそが正義の時代でした。

3-3 アメリカの膨張主義

19世紀後半から列強にのし上がった新興国のアメリカも、膨張主義を国是としてきました。
アリゾナ・ユ夕・ニューメキシコ・コロラドなどは今でこそアメリカの国土の一部として定着していますが、それらの地域の大部分は、元を正せば1846年に起きたメキシコとの戦争をきっかけに、かなり狭滑な手段で手に入れたものです。
南北戦争を経て19世紀後半になると海外への膨張はさらに拡大し、1912年までにアメリカは太平洋上に散在する多くの島嶼を新領土、植民地として獲得しました。
アメリカが目指していたのは、広大な人口を擁する中国市場でした。中国市場をめぐって日本とアメリカは必然的に対立を深めていきます。

3-4 最大の脅威ロシア

ロシアは長いこと他国に侵略され続けましたが、1613年にロマノフ王朝が発足してからは侵略する側となり、領土を広げていきました。ロシアの悲願は冬でも凍結しない不凍港を手にすることです。
ロシアはオスマン・トルコ帝国、ペルシャ帝国に手を出しますが、イギリスの介入を受け南下に失敗します。
次にアフガニスタンへの侵略には成功しますが、インドでイギリスに跳ね返されました。
ロシアは東方へと狙いを移し、シベリア侵略を続けますが清国に阻まれます。しかし清国が第2次アヘン戦争に敗れたことに乗じて黒竜江以北の地を割譲させ、ついにウラジオストックに港を建設しました。
ロシアの次の標的は、満州と朝鮮でした。
そしてその次は間違いなく日本でした。当時の日本にとってロシアは最大の脅威だったのです。

3-5 日本を守るために清国・朝鮮との連携を目指す レキシジンから引用

日本列島は欧米列強が侵略の手を他国に伸ばす上で、極めて重要な位置を占めていました。
ロシアの南下政策、アメリカの太平洋侵略、イギリスのインドから中国への侵略など、三方からの危険にさらされていたのです。
そのため日本が生き残るためには、軍事力によって対抗するより他に道はありませんでした。

当初日本は、欧米に侵略されていない朝鮮と、半植民地状態で苦しんでいる中国とともに協力し合い、欧米列強に対抗する道を模索し、1871年に清国との間に日清修好条規を取り交わしました。

完全な鎖国体制を敷いていた朝鮮も開国し、近代国家へと生まれ変わり、ロシアの侵略を跳ね返すだけの軍事力を備えてくれことを日本は望みました。そこで、日朝の国交回復を図るために何度も使者を送りましたが、朝鮮はかたくなに拒否しました。
1875年、朝鮮西岸海域を測量していた日本の軍艦が朝鮮から砲撃を受け、日朝間の武力衝突、江華島事件が起こりました。江華島事件によって日朝修好条規が結ばれ、日朝間の国交が回復したと同時に、日朝修好条規の中に朝鮮が清の属国ではなく、日本と同じ独立国なのだと宣言する条文があったため、朝鮮は事実上、清の属国としての立場を離れました。

朝鮮にも近代化を成し遂げようとする勢力が起こり、日本も朝鮮の軍事改革を支援しました。
しかし、暴動が起きると多数の日本人が虐殺され、清はこの機に乗じて5千の兵を派遣して暴動を鎮圧します。
清から派遣された軍はそのまま朝鮮に居座り、清は再び朝鮮に影響力を及ぼしては、その近代化を阻みました。
清には朝鮮を手放す気はなく、宗主国として相変わらず朝鮮を支配し続けようとしました。
朝鮮を改革するためには清の支配を断ち切るよりありませんでした。

3-6 日清戦争へ

1894年に起きた東学党の乱をきっかけとして清は朝鮮に出兵しました。
朝鮮を属国としてつなぎ止めることにこだわる清のかたくなな態度に、明治政府も「朝鮮が清国の属邦たることを承認せず」と反論し、朝鮮半島へと出兵しました。
こうして日清両国の軍は朝鮮で衝突し、日清戦争となったのです。

日清戦争では西欧列強の予想を裏切って、近代化を成し遂げた日本の軍事力が、旧態依然としたままの清軍を圧倒し、清は日本と講和せざるを得ませんでした。
日本軍が勝利し下関で結んだ講和条約では、朝鮮が完全な独立国であることを認めること、賠償金を支払うこと、そして遼東半島と台湾及び膨湖島を割譲することなどが定められました。

京城(ソウル)にいたシル米国弁理公使は、日清戦争を次のように評価しています。
「日本は朝鮮に対して非常に好意的であるやうに思へる。日本が欲することは、朝鮮に対する支那の宗主権といふ束縛を一挙に断ち切ること、そして次には朝鮮国民に平和と繁栄と啓蒙をもたらすやうな改革を援助することによって、その弱き隣国が独立国としての地位を強化するのを助けること、これだけであるやうに思へる。」(『大東亜戦争への道』中村粲著)

3-7 三国干渉により満州は事実上ロシアの領土に

条約の締結後に、ロシア・ドイツ・フランスの三国は日本に遼東半島を返せと勧告してきました。これが「三国干渉」です。
ロシアはすぐに旅順と大連を清から租借し、日本が返した関東州をそっくり手に入れることに成功し、遼東半島はロシアのものになりました。
多くの日本人の犠牲の上に取得した遼東半島を、結果的にロシアにだまし取られたのです。
これにより実質上、満州はすべてロシアの領土となったのです。
満州が事実上のロシアの領土と化した今、朝鮮をロシアの侵略から守ることが日本の生存をも左右する一大事となりました。

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