(三)中国
中国人と接する機会が多い人に中国人の特徴を聞くと、自分の意見をはっきりと主張する、メンツを非常に重んじる、商売に長けている、家族を大切にするなどという返事が返ってきます。
しかし中国人と一口で言っても、地方によってその性格も全く違うんだという答えも返ってきます。
実際中国人と言っても、北方の騎馬民族から南方の農耕民族に至るまで多種多様であり、民族性というのも同様に多種多様であると考えられるからです。
よって中国人と言っても、その民族性を一括りに考えることは難しいため、まずは中国に普及している思想から来る、中国人に普遍的に流れる考え方を見ていくことにします。
同時に中国の歴史を見ることで、中国人はどのような経験を経ることで、今日のような思考を持つに至ったのか、どのような教育を受けることで、特に日本人に対して本音ではどのように思っているのかを見ていきたいと思います。
基本的に中国人のものの考え方は日本人とは全く違います。
日本人に対するように、共通の価値観を持つものと思い込んで中国人に対すると、大きく足もとをすくわれてしまうことになりかねません。
『彼を知り己を知れば百戦殆からず』と孫氏の兵法にもあるように、中国に存在する思想、歴史教育を知らずして、今日の中国人を理解することなど絶対にできませんし、特に日本人をどのように考えているのかも理解することはできません。
中国人と正しい付き合い方をするためにも、まずは中国の思想、歴史教育、中国人の民族性を理解し、日本人としてどのように中国人と向き合っっていったらいいのかを考えてみたいと思います。
1、昔の中国
・イザベラ・バード『中国奥地紀行』(1895年~96年)
「孝を重んじること、粘り強さ、機知に富むこと、結束力、法と文学を尊ぶ心などが力になって、中国人はアジア諸国の先頭に立ってきている。」(1巻, 40頁)
「中国人は明敏だし機敏でもあるが、保守的で、何事についてもすぐに感化されるということがない。商売の才には舌を巻いてしまう。生まれながらの商売人である。」(1巻, 41頁)
「中国人の並外れた活力や適応性・勤勉さは、一面では「黄禍」とみられるけれども、他面では、黄色人種の希望の源ともみることができる。」(1巻, 42頁)
「中国人は無学であるし、信じがたいほど迷信深い。だが、ひたむきさという点では他の東洋民族にはないものがあるように思われる。」(1巻, 42頁)
「私は、私の知る東洋のどの国の女性よりも中国の女性が好きである。彼女らには多くのよい素質があるし、気骨もある。親切心にあふれているし、大変慎み深くもある。また、忠実な妻であるし、彼女らなりによい母親でもある。」(1巻, 412頁)
「中国で仁が重んじられているという印象は日常生活からはさほど受けない。中国人の性格に関するこの国での一般的な見解は、冷酷、残忍、無慈悲で、徹底して利己的であり、他人の不幸に対して無関心であるというものである。」(1巻, 280頁)
「中国人が慈善を、無欲で行うとか親切心や厚意から行うのでないことは明白である。彼らの徳行は集団としての人間のために大規模になされ、個人的な問題は見落とされてしまう。そこでは、愛や感謝の念を生むことになる、慈善を与える者と受ける者との間の個人的で健全なつながりや個人的な克己は度外視される。」(1巻, 296頁)
「中国の町のごろつき連中は、無作法で、野蛮で、下品で、横柄で、自惚れが強く、卑劣で、その無知さ加減は筆舌に尽くせない。そして、表現することも信じることもできないような不潔さの下に暮らしている。その汚さといったら想像を絶するし、その悪臭を言い表せる言葉は存在しない。そんな連中が日本人を、何と、「野蛮な小人」と呼ぶのである!」(1巻, 381頁)
「病気の苦力は木の下に横たえられた。そこで私はその男の燃えるような額に濡れたハンカチを当ててやった。その時、中国人の潜在的な残虐性が現われた。あの実に愛らしい創造物である観音が広く崇拝されているのに、この連中には何の感化も及ぼしていないことがわかった。何も運んでいない苦力が五人いたので、一匹のラバの荷物を五人で分け合い、病気の男をラバに乗せるように提案してみたけれど、拒絶したのである。この十二日間、寝食をともにしてきた男なのに、である。しかも、お前達はこの男をここに置き去りにして死なせるつもりかと尋ねると、彼らはせせら笑いながら、『死なせればいい。もう何の役にも立ちませんぜ』と宣った。病気の男が懇願した水が目と鼻の先にあったにもかかわらず、それをやろうとさえしなかった。」(2巻, 192頁)
2、中国人を形成する思想
①中華思想(華夷思想)
中華とは『華(文明)の中』であり『文明圏』を意味する儒教的価値観から発展した選民思想です。
中華思想は漢民族を中心としたものであり、中国の皇帝を世界の中心とみなし、天下を代表する「天子」と称し、この皇帝が統治する朝廷の文化と思想が世界で最高の価値を持つとみなされるとするものです。
中国の歴史においては、はじめは北の遊牧文化に対し、漢民族の農耕文化が優越であることを意味しました。
春秋戦国時代以後は、礼教文化の王道政治にもとづいて、天子を頂点とする国家体制を最上とし、自らを華(文明)と美称するようになりました。一方その徳が及んでいない状態は『華の外』として夷(非文明、蛮)と称されるようになりました。夷は道からはずれた禽獣(鳥やけだもの)に等しいものとして、東夷・西戎・南蛮・北狄などと呼ばれました。
②冊封体制
中国歴代王朝が東アジア諸国の国際秩序を維持するために用いた対外政策。
中国の皇帝が朝貢をしてきた周辺諸国の君主に、官号・爵位などを与えて君臣関係を結んで彼らにその統治を認める(冊封)体制であり、それはつまり宗主国(中国)対藩属国(周辺諸国)という従属的関係におくことをさしました。
日本では馴染みのない制度ですが、韓流時代劇にはよく出てくる制度であり、自らを小中華と呼んだ高麗や朝鮮王朝では、国王や後継者となる世子を決めるにも、宗主国である元や明、清にお伺いを立て、宗主国から認めてもらって初めて正式な国王、正式な世継ぎとなることができたのです。
中国歴代王朝は周辺諸国には武力侵略はせず、定期的に中国に朝貢すること、中国皇帝の要請に応じて出兵することという義務を課すことで従属関係を築き、周辺諸国を統治していたのです。
一方日本は、中国の冊封体制には属さずに、独自の立場を築いてきました。
中国が日本をその勢力下に置こうとしたのが元の時代でした。
元が日本に対しても同じような冊封体制を敷こうと使者を派遣してきたとき、当時の鎌倉幕府北条時宗は、元の申し出を断固拒否したため、元は二度にわたって当時世界最大規模の蒙古・高麗連合軍の兵士を日本に派遣し、戦いを挑んできたのです(元寇)。
最初の文永の役では、約800艘の軍船に乗船した総計4万人の蒙古・高麗連合軍、ニ度目の弘安の役では4,400艘の軍船に乗船した14万の大軍に対し、日本は国家存亡をかけて戦いを挑み、見事蒙古軍を打ち破ることに成功したのです。
このように中国歴代王朝は、冊封体制に応じる国家には従属関係を強いて朝貢や兵士を提供させますが、冊封体制に応じない国家に対しては、武力をもって侵略を繰り返してきたのです。
③共産主義思想
共産主義思想に関しては他の項において詳細を記したように、共産主義社会こそが人類が目指すべき最終的理想世界とする思想です。
その理想の実現のためには、どんな手段も肯定され、暴力による革命もまた、必然的なものとして肯定される理論です。
また共産主義思想の根本には唯物思想があるため、人間の命は軽視される傾向にあります。
その結果共産主義理想の実現のためには、暴力革命をはじめとしたあらゆる手段は肯定され、同時に人間の命は軽んじられるため、共産主義国家・社会主義国家が誕生して以来今日に至るまで、共産主義に反対する者や抵抗する者に対する虐殺行為が世界中で多発してきました。
現代の中国には、上記中華思想と共産主義思想が同居し、共産主義理想の実現という大義を果たすのは、中華思想を戴く選民・中華民族であり、中華民族による共産主義理想の実現のためには、周辺の野蛮国は犠牲になるのは当然という考えが形成されているとみなすべきです。
つまり共産主義理想の実現という絶対的大義を掲げることによって、彼ら選民・中華民族の理想世界実現の邪魔をする、周辺の野蛮国を排除することは絶対的正義であり、正義を実現するための全ての手段もまた、同様に絶対的な正義であるという理論が成り立つのです。
3、日中関係史
①清朝滅亡後の国民党と中国共産党
ロシアの南下政策に対抗するために大陸に出兵していた日本と、朝鮮半島をかけて1894年に日清戦争を戦い、戦いに敗れることで清は西欧列強の草刈り場と化し、急速にその求心力を失っていきました。
1912年に起こった辛亥革命によって清朝が倒れ、代わりに実権を握るようになっていったのが国民党でした。
一方1921年にソ連コミンテルンの主導により結成されたのが中国共産党でした。
ソ連の工作員が多く入り込んでいた当時のアメリカ・ルーズベルト政権は、ソ連を南下させるとともに、中国国内では共産党に政権を握らせる戦略を立てていました。そのため国民党の蔣介石を日本と戦わせて疲弊させ、その間に共産党の勢力を伸ばすのが、彼らが描いたグランドデザインとなりました。
日本はソ連の南下政策に備え大陸に進出していたため、中国ともしばしば衝突し、特に無法地帯と化していた満州においては日貨(日本商品)排斥運動や、侮日(日本人の侮辱、蔑視)行為、日本人虐殺などの排日運動が盛んになっていました。
そんな満州では1928年に張作霖爆殺事件が起こり、1931年には満洲事変が起こりました。
しかし国民党の蔣介石にとっては、本来最大の敵は中国共産党であったため、1933年に日本と協定を結ぶことによって日中関係は好転し、蔣介石は最大の敵毛沢東の共産党勢力の殲滅作戦を強化しました。
劣勢に陥った共産党は“長征”と称する退却作戦に追い込まれ、辺境の地・延安にまで追いやられ、あと一歩で壊滅という危機に瀕しましたが、アメリカ国防長官ジョージ・マーシャルは、勝利を収めつつあった蔣介石に対し停戦を命じたのです。
アメリカは表向きは蔣介石を支援しながらも、密かに毛沢東とも好を通じており、イギリスも、毛沢東の背後にいるソ連コミンテルンも、蔣介石が日本と戦争を続けることが必要と考えていました。
その後1936年に張学良によって、蔣介石が西安で拉致され監禁されるという西安事件が起きると、蔣介石は共産党とともに日本と戦争をする約束をすることで釈放され、その後1937年に第二次国共合作がなされ、蔣介石は日本との戦いに全力を注ぐことになります。
蔣介石は援蔣ルートを通じ、イギリス、フランス、ソ連、アメリカ等からの支援を受け、日本との交戦を続け、日本軍を中国大陸にくぎ付けにし、支那事変の泥沼へと引きずり込むことになります。
こうしてアメリカが描いたグランドデザインの通り、国民党は日本との交戦によって疲弊したところで、1946年に国共内戦が起こります。
国共内戦では国民党は中国共産党に対し、序盤こそは優位に戦いを進めますが、戦いは次第に形勢を逆転し、ついには国民党は戦いに敗れ台湾へと逃れることで、中華民国として台湾を治めることになります。
一方中国共産党は、日本とは直接に戦うことはなく、国民党に闘わせることによって漁夫の利を得て、中国の共産化に成功し、1949年10月1日、毛沢東によって中華人民共和国の建国が宣言されました。
②毛沢東の日本への感謝(毛沢東はなぜ「日本の侵略に感謝する」と発言したのか?=中国 より)
毛沢東外交文選には、「毛沢東が日本人に対し何度も、侵略に感謝すると発言した」と記載されています。
1956年、訪中した遠藤三郎元陸軍中将に対し、「あなた方に感謝する。日本の侵略が中国国民に団結することを教えた」と述べ、同年、日中輸出入組合の南郷三郎理事長(当時)と会見した際にも同様の話をしています。
また、1961年1月24日、毛沢東は日本社会党の黒田寿男氏らと会見し、「日本軍がかつて中国の大半を占領したために、中国国民は学ぶことができた。もし侵略がなければわれわれはいまだへき地にあり、北京で京劇を見ることもなかっただろう。侵略に対抗するためにわれわれは抗日拠点を作り、それがその後の解放戦争の勝利に有利な条件を整えた。日本の資本や軍閥はわれわれにとっていいことをしてくれた。感謝しろと言われれば私は侵略に感謝しても良い」と述べています。
毛沢東の中国共産党は、日本軍とは直接戦闘はしておらず、国民党と日本との泥沼の戦いのおかげで、漁夫の利を得て中国を統一することができました。そのため日本に対しては終始感謝する立場で一貫していました。それは日中の正しい歴史を見ても明らかに理解できるものです。
③鄧小平の改革開放路線
1965年から10年間にわたって毛沢東主席の主導下で行われた『文化大革命』の失敗により、中国全土で政治的・社会的混乱をきたしたため、後に権力を掌握した鄧小平によって、1978年から『改革開放路線』が敷かれ、市場経済への移行が図られました。
1979年の人民公社の解体に始まる農村の体制「改革」、対外「開放」政策を初めとして、工業、農業、科学技術、国防の「四つの近代化」を柱に掲げ、路線の大転換を図りました。
1972年に日中国交正常化がなされていたため、この時は日本の政財界のリーダーたちが、中国経済の近代化への全面支援という積極的な態度をとり、大規模な対中ODA供与の決定に踏み込みました。経済インフラ支援、各技術支援などを中心に3兆円余りが投入され、中国の経済発展、近代化の重要な推進力となりました。
④天安門事件
鄧小平によってもたらされた経済発展は、やがて深刻な経済腐敗や格差拡大、物価の高騰を引き起こし、社会不安、混乱も高まっていきました。
その結果、改革開放の推進を担った胡耀邦前共産党総書記の死去を契機として、1989年4月15日に天安門事件が起こりました。
天安門事件では、北京の学生たちはデモやストライキを組織し、当局に腐敗反対、政治改革および民主化の実行などを求めたため、当局は学生運動を動乱として糾弾しましたが、逆にデモなどの街頭活動は全国の大中都市へと広がりました。
5月20日、当局は北京地区において戒厳令を発動し、6月4日戒厳軍は学生や市民に発砲し、天安門広場から排除しました。
その結果300人余の死亡者を出し(数百人から数万人に及ぶなど諸説あり)、多数の指導者が逮捕され、学生運動の責任を問われた趙紫陽共産党総書記らが失脚しました。
一方アメリカ、イギリス、フランス、西ドイツを含む西側諸国は、武器を持たぬ市民を手当たり次第に大虐殺した蛮行に対してきびしく非難し、武器輸出の禁止、世界銀行による中国への融資の停止などの経済制裁や、政府高官訪問禁止などの外交制裁を実施しました。
また同年7月の第15回先進国首脳会議(アルシュ・サミット)では、議長国フランスをはじめとした西側諸国が、残虐行為を厳しく非難しました。
これら西側諸国の中国制裁に異を唱えたのが日本でした。
日本政府は事件当日に「長期的、大局的観点から得策でない」として、欧米諸国と共同の中国への制裁に反対する方針を決め、90年7月には円借款再開を表明し、91年には海部首相が中国を訪問。1992年10月に天皇、皇后両陛下も訪中されました。
このように日本は常に中国に寄り添った立場で中国を支援しましたが、中国は1992年2月25日には領海法を制定し、その中で沖縄県・尖閣諸島を中国領として同法に明記し、今日に至る尖閣問題の火種を作りました。
⑤天安門事件の教訓から始まる中国の反日政策(Wikipeda 中国の反日教育より)
天安門事件後に鄧小平は、「この10年で最大の失敗は教育であった」と語り、それを受けた江沢民総書記は、国民を制御するため今まで活用してきたマルクス主義、階級闘争、社会主義などのイデオロギーが通用しなくなったことを悟り、国内政治の不満を逸らすべく、反日教育を利用して愛国主義教育を強化することにしました。
こうして1990年代以降は、「1840年のアヘン戦争以降の百年にわたり、中国人民が列強から陵辱を受けた」、「日本政府は明治維新から終戦まで一貫して中国を侵略する計画を持ち、戦争は周到に計画されていた」とする立場を取るようになり、反日的観点からの近現代史教育が強化されました。
特に江沢民総書記は、自分の父親がかつての大日本帝国の傀儡政権である汪兆銘政権の官吏だったことを隠すために、「自分がいかに反日か」を示すため、「日本に対しては歴史問題を永遠に言い続けなければならない」「日本の軍国主義者は極めて残忍で、(戦時中の)中国の死傷者は3,500万人にも上った。戦後も日本の軍国主義はまだ徹底的に清算されていない。我々はずっと警戒しなければならない」と述べ反日色をことさら強く出しています。
ちなみに日中戦争における日本軍の犠牲者数は総計44万6500人となっていますが、中国側の犠牲者数の発表は年代によって変化しており、1946年には132万8501人と発表していたものが、1947年には13倍の1,700万人、1985年には2,100万人、1995年には当初の26倍となる3,500万人と発表するようになり、今日でも日中戦争による犠牲者数は3,500万人と信じられています。
⑥百年国恥(Wikipeda 百年国恥より)
「百年国恥」とは、清や中華民国に対し、欧米列強・ロシア・日本が介入し、服従させられた恥辱の期間を表します。
「百年国恥」の始まりは通常、阿片戦争の前夜の19世紀半ば、清の政治が崩壊する時期までさかのぼるとされており、列強から受けた「国恥」には、以下のようなものがあるとされています。
・阿片戦争(1839年~1842年)での大英帝国に対する敗北と、各種不平等条約。
・アロー戦争(1856年~1860年)での敗北と、英仏軍による円明園での略奪。
・日清戦争(1894年~1895年)での大日本帝国に対する敗北。
・8ヶ国連合軍による義和団の乱(1899年~1901年)の鎮圧。
・イギリスのチベット遠征(1903年~1904年)。
・日本による対華21ヶ条要求(1915年)。
・満州事変(1931年~1932年)と満州国建国。
・日中戦争(1937年~1945年)。
この時期中国は、戦った戦争のほぼ全てで敗北し、その後の条約では大きな譲歩を迫られ、多額の賠償金を支払い、領土を租借または割譲することを余儀なくされました。
このような阿片戦争の頃から始まる「百年国恥」は、1949年の中華人民共和国の建国時に、毛沢東が「百年国恥」の終焉を宣言することによって終了しました。
しかし再び中国の「百年国恥」を語る指導者が現れました。それが習近平国家主席です。
習近平は2021年7月23日の中国共産党結党100周年までには、『中国100年の恥』を払拭したいとして、香港の民主化を阻止するなど強硬な手段に出ましたが、本来習近平にとっての「百年国恥」の対象は日本なのです。
「国恥」という言葉が生まれたのも、日本によって「対華21ヶ条要求」が突き付けられたことがきっかけでした。
当時の国民党・蔣介石政権は、「支那事変」では日本と戦っていましたから、「百年国恥」とは中華思想によって野蛮国として蔑んでいた日本から辱めを受けたということなのです。
さらに1990年代以降、反日を国家の中心理念に据えて中国人民の教育を行ってきた中国共産党ですから、中国にとっての「百年国恥」の対象はあくまでも日本であり、その「百年国恥」を晴らすことを国家目標に掲げているのが習近平政権なのです。
中国がどんなに友好を叫んで、笑顔で握手を求めてきたとしても、その背後にはこの「百年国恥」の精神があることを、私たちは決して忘れてはいけなのです。
⑦国恥地図
中国では、日本による「対華21ヶ条要求」が突き付けられた1915年頃から「国恥」という言葉が生まれ、1928年頃からは国民教育の一環として、蔣介石政権によって「国恥キャンペーン」が行われました。その際に用いられたのが「国恥地図」です。
当時文字も読めない民衆でも一目でわかるようにと「国恥地図」が使われ、小中学校の教科書にも取り入れられ、「国恥記念日」までも制定されました。
この「国恥地図」による教育は、1930年代から本格的に行われたとされますが、これは過去の話ではなく、今現在に至るまで連綿と続けられており、日本に暮らしている中国人の留学生や研究者らに尋ねても、子供の頃に受けた教育のままに、本来の中国の領土は「国恥地図」にある領土だと信じられているとのことです。
この「国恥地図」には、「現在」と「古い時代」の二つの国境線が示されており、「古い時代」の国境線を見ると、沖縄、台湾をはじめ、東南アジアのほとんどは中国の領土ということになっています。さらにネパール、タジキスタン、アフガニスタン、ウズベキスタン、カザフスタン、そしてモンゴルから樺太、朝鮮半島に至るまでが、中国の領土であったということになります。
そのため今なおくすぶっている南シナ海の領海問題でも、この「国恥地図」が中国が主張している九段線の根拠ともなっているのです。
つまりこの「現在」と「古い時代」の二つの国境線に囲まれた地域が、中国にとっては失われた領土ということになり、本来の領土を失ったことが、中国にとっての国の恥ということになるのです。
4、中国の歴史と思想からくる対日姿勢
ここまで見てきてわかることは、中国には元々存在した中華思想の上に共産主義思想が重なることによって、中国の皇帝が世界の中心であり、中華(漢民族)を中心とした共産主義世界を作ることこそが、歴史の究極的な目的であり、理想世界の姿であると考えているということです。
そんな理想世界では、冊封体制を敷くことによって、周辺諸国を隷属させるのであり、漢民族以外の民族、その他の国々は、中国に隷属すべき国でしかないと考えているということです。
そのような中華民族にとっての理想世界を作るためには、まずは中国人に愛国精神を植え付けなければいけなく、そのために中国に対し拭い去れない恥辱を与えた日本人に対しては、必ずやその恥辱を晴らさなければいけないと教えているということです。
つまり中国人にとっては、「日本に対しては歴史問題を永遠に言い続けなければならない」と言っているように、日本は恨みを晴らすべき対象でしかなく、永遠に中国と日本との友好などということはあり得ないということです。
日本で日中友好と叫んでいる日本人は、まずこのような中国人の本音を知らなければいけません。
つまり日本がどれだけODAで中国の復興に協力したとしても、経済的にどれだけ多くの資金を投入し、中国経済の活性化に協力したとしても、天安門事件や新疆ウイグルにおける中国の人権侵害を容認したとしても、中国人にとっては日本はあくまでも中国の属国のような存在でしかないため、日本が中国の為に尽くすことは当たり前のことでしかないということです。それどころか日本から受けた恥辱は、永遠に忘れてはいけないということなのです。
つまり中国共産党が、その方針を根本から変えない限り、日本と中国が対等な立場に立って、日中友好の日を迎えるなどということは永遠にあり得ないのです。
中国にとって日本人は、利用するだけ利用して、最後には隷属すべき存在でしかないのです。
これまでのように表では日中友好を唱えながら、裏では軍備の拡張に励み、世界中に親中・媚中の人材を作っては、各種工作活動に励むような、ダブルスタンダードを使い分ける中国などは、決して信用してはいけないということなのです。
5、中国人の国民性
中国人を理解するためにはまず、中国の歴史を知らなければいけません。
中国は広大な領土を有し、そこに住む民族も多種多様にわたっています。
そのため中国人と一括りにしても、いろいろな民族があり、中国大陸を統治した王朝も、いろんな民族による王朝がありました。
例えば元は、チンギス・ハンの孫フビライによる、モンゴル人の帝国ですし、元の後の明は漢民族としての最後の王朝でした。明の後の清は、満州にいた女真族による王朝ですので、中国大陸の支配者もこのように時代によって移り変わってきたのです。
ですから一口に中国人といっても、いろんな民族から成り立っており、時代によっては征服する側とされる側に分かれていますから、中国人にとっては国家と言うよりは、自分たちの民族という範囲でのみ身内意識が強いものになっているのです。
中国人にとっては血族でつながった集団、利益を分け合う一団を『圏子(チェンズ)』と呼び、圏子こそが身内であるため、圏子だけが信じられる存在なのです。それ故道徳的価値観や規範も、圏子の中でのみ成り立つものなのです。
自分が賄賂を配って出世することも、結局は圏子の繁栄の為であるため、それは善なる行為と見做されます。
一方圏子以外の者に対しては、嘘をついて騙すことも当たり前であり、騙される方が悪いと考えます。
このように圏子に対する身内意識が強い分、圏子以外の者には冷淡であり、彼らがどうなろうと自分たちには一切関係が無いため、彼らに慈悲をかけることもないばかりか、彼らを騙し富を奪うことも、決して中国人にとっては悪なる行為ではないのです。
つまり中国人における善悪の基準は、根本的に日本人とは違うのです。
まして日本人は中華思想で言うところの蛮族に過ぎませんから、最初から対等ではありません。中華の国に隷属し、朝貢を捧げるべき卑しい国家でしかないのです。
まして日本は宗主国である中国に対し、忘れることのできない「百年国恥」を与えた国ですから、日本は騙せるだけ騙し、利用するだけ利用して切り捨てるべき国家であり、罰を与えるべき国家なのです。
日本は中国に対し1979年からODAを開始し、2016年度までに有償資金協力(円借款)を約3兆3,165億円、無償資金協力を1,576億円、技術協力を1,845億円、総額約3.6兆円以上のODAを実施し、道路や空港、発電所といった大型経済インフラや医療・環境分野のインフラ整備のための大きなプロジェクトを実施し、現在の中国の経済成長が実現する上で大きな役割を果たしてきました。
しかし中国にとって、日本が中国のために尽くすことは当たり前のことで、何ら特別感謝すべきことではないのです。
実際この間中国は、日本から受けた経済援助を基に経済発展を遂げ、その世界第二位となった経済力で軍事力を増強し、日本と世界を脅威に貶めているのです。
6、日本への核攻撃
2021年7月に中国の民間軍事評論グループ「六軍韜略」が、「日本が台湾有事に軍事介入すれば、中国は即座に日本への核攻撃に踏み切る」という戦略をまとめた動画を公開しました。動画は2日間で削除されましたが、その間中国で合計219万人からのアクセスがあったとされています。
その動画の骨子は以下の通りです。
・中国は、日本が台湾有事に1人の兵士でも1機の軍用機でも送って参戦した場合、ただちに日本に核攻撃を行う。この戦いは全面戦争であり、日本が完全に降伏するまで核攻撃を続ける。
・中国は1964年に核兵器を開発して以来、たとえ有事でも核兵器は戦争の相手国より先には使わないという「核先制不使用」の政策を明示してきた。だが日本だけは例外とする。日本は日清戦争、日中戦争と中国を2回も侵略し、日中戦争では3,500万人の無辜の中国人民を殺し、今また中国を侵略しようとしているからだ。
・中国は日本への核攻撃の際には、尖閣諸島(中国名・釣魚島)と沖縄(中国側は琉球と呼称)を奪回する。
この日本核攻撃論は民間のグループが作成したものであり、中国政府の公式方針ではありませんが、たとえ民間であるとは言っても、中国政府の公式方針に逆らってこのような動画を作成することはできません。中国政府が暗に認めているとみなすべき内容なのです。
このように日本人は中国人と対するとき、中国の歴史と中華思想、共産主義思想を理解し、さらに中国人の民族性、中国人の本音を理解したうえでなければ、中国との正しい付き合い方ができないのです。
中国と国交を回復して以来50年、私たちは既に中国との間で十分に中国人の本質を見てきているのです。
その本質に目を瞑って、ノー天気に日中友好と叫ぶ親中派・媚中派の皆さんは、ハニートラップ、マネートラップに引っかかってしまっているのかもしれませんが、日本の国益に反する行為は売国的行為であり、歴史によって売国奴のレッテルを貼られてしまうかもしれません。
中国が自国民に対し、反日的教育を続ける限り、本当の日中友好はあり得ないのです。
その試金石となるのが尖閣諸島の領有権問題となるでしょう。
中国が尖閣諸島の領有権を主張しなくなり、チベット、新疆ウイグル、モンゴルの独立を容認し、香港の一国二制度を回復し、軍拡を放棄し、共産主義を放棄して、世界の為に生きるようになった時、初めて日中の友好も実現するのです。
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