②日本国近代史

(ニ)日本国史

1、大航海時代におけるスペイン・ポルトガルの日本との接点

1-1 ポルトガル船種子島漂着と鉄砲伝来 レキシジン参照

ポルトガルの船が種子島に漂着して日本に鉄砲を伝えたのは1543年のことです。
さらにイエズス会のポルトガル人宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したのが1549年のことです。
一方、スペイン人は1584年に日本に現れ、マニラを拠点とした対日貿易を始めるとともに、宣教師による布教活動を活発化させました。宣教師によるカトリックの布教は、日本侵略のための足掛かりでした。スペインが日本を侵略する目的は明国の征服のためでした。
スペインやポルトガルが日本侵略を企てた1500年代後半は、日本の戦国時代にあたります。分裂国家だった日本が信長・秀吉・家康によって統一され、中央集権国家として再生した時期です。当時の日本は世界的に見ても、傑出した軍事大国でした。

当時日本の人口は、一説によると1,200万人ほどだったと言われています。一方スペインは650万人、ポルトガルは120万人、イギリスは500万人ほどだったと言います。
また日本の武士は総人口の7~10%を占めていました。一方、イギリスの騎士階級は1597年において総人口の0.6%に過ぎませんでした。当時日本はヨーロッパ諸国に比べて人口もはるかに多く、軍人も圧倒的に多い軍事国家だったのです。
1569年、イギリス全体の兵隊は24,000人、そのうち約6,000人が銃を所持していると報告されています。
一方日本では1584年、戦国大名の一人、竜造寺隆信の軍勢は25,000人、そのうち約9,000人が銃砲隊であったと記録されています。
当時の日本は、ヨーロッパの国すべての銃を合わせたよりも、多くの銃を持っていた可能性が高いのです。

日本よりも早く銃が伝わったアラビア・インド・中国は、銃を自国で作ろうと試みましたが、ことごとく失敗に終わっています。
日本には1543年に初めて鉄砲は伝来しましたが、わずか1年ほどで複製に成功し、さらに大量生産まで成し遂げるほどの工業技術を日本の職人は持っていたのです。しかも日本は独自の工夫により銃の命中精度を高め、雨の中でも火縄銃を撃てる雨よけ付属装置の開発にまで成功しています。

さらに鉄砲を効果的に用いた戦術においても、信長軍が武田の騎馬隊を打ち破った三段構えの鉄砲の陣容は、それから350年後の第1次世界大戦において、ドイツ軍が見せた当時最新の戦法と同じでした。
こうして日本全土にわたり大量の鉄砲を蓄えたこと、その質においても戦術においてもヨーロッパを上回っていたことで、戦国期の日本は世界最大の軍事大国にのし上がっていたのです。
これこそが、アジアの大半が欧米列強の植民地となるなか、日本が独立を守れた最大の理由です。

1-2 キリスト教による日本侵略

1549年に宣教師のザビエルが来日して以来、わずか40年のうちに日本のキリシタン人口は約20万人から30万に達したとされています。
軍事的に日本と対決しても敵わないとみたスペインは、布教活動を通して大名を切り崩し、秀吉に敵対する勢力を育てようと画策しました。有馬晴信や小西行長などのキリシタン大名に、反秀吉連合の結成を呼びかけたのです。
また、ポルトガル人の渡来とともに、日本もまた奴隷市場へと組み込まれ、まだ幼い日本人の子供たちも売買されていました。日本人奴隷の売買を行っていたのは、主にポルトガルの奴隷商人たちですが、日本人が合法的に奴隷の身分となるように、奴隷交易許可状を発給していたのは宣教師たちでした。

日本人が奴隷として売買されていることを知った秀吉は心底立腹し、これまでに連れ去った日本人奴隷はすべて自分が代金を払うから日本に連れ戻すようにと宣教師たちに命じるとともに、1587年にはバテレン追放令を出しています。その内容は「神国日本にキリシタン国より悪魔の教えを説くために宣教師たちが渡来し、神社仏閣を破壊することは許せない、20日以内に日本を立ち去れ、ただし貿易に来るのは差し支えない」というものです。
この秀吉の決断により、日本からキリスト教が締め出されることになったのです。

秀吉のバテレン追放令は家康のキリスト教禁止へとつながり、日本にキリスト教が入ってくることを防ぎました。
キリスト教の布教禁止もまた、日本が欧米の植民地になることを避けられた大きな理由のひとつです。
スペインがキリスト教の布教から侵略の手を伸ばすことを、家康もオランダ人とイギリス人から聞いて知っていました。そこで家康は1612年にキリシタン禁止令を出し、国内でのキリスト教の布教を全面的に禁止しました。
それでも布教にこだわるスペインとポルトガルに対し、1624年にスペイン船の来航を禁止し、1639年にはポルトガル船の来航を禁止し、日本から永久追放としたのです。

1-3 秀吉の野望

秀吉は日本全国を平定したあと朝鮮に二度出兵しました。朝鮮出兵は明国を征服するために行われたものです。
秀吉にはアジアを支配下におくという野望がありました。そのために邪魔なのは、すでにアジアを侵略して植民地化しているポルトガルやスペインの存在でした。
1592年、秀吉はスペイン支配下にあるマニラのフィリピン総督に対し、秀吉に服従しフィリピンを明け渡せという書簡を送りつけました。当時の力関係から見て、秀吉がフィリピンに出兵したらスペインは駆逐され、日本の支配下に入っただろうと後世の歴史家は口を揃えています。

1593年には、さらに過激な書簡をフィリピン総督に送り、今度はスペイン国王にまで脅しをかけています。スペインは当時の覇権国であり、世界一の強国です。後世から振り返ると、当時の日本の軍事力はスペインを十分に上回っていました。
秀吉の度重なる脅しに対してマニラは震え上がり、スペインは日本の侵攻に備えて戦々恐々としました。
アジアのほとんどを手中に収めた西欧列強は、日本征服も当然のごとく狙っていました。ところが、朝鮮出兵で見せた日本の軍事力の凄まじさに、逆に震え上がることになりました。軍事的に日本を征服しようと企む国は、もはや地上から消え去ったのです。

1-4 日本の軍縮と鎖国政策

1639年にポルトガル船の来航を禁止することで徳川幕府は鎖国政策に入りました。
スペインとポルトガルはこれに逆らえず、イギリスも立ち去ったため、残ったのはキリスト教の布教にこだわらず、貿易だけを希望するオランダだけでした。
オランダも長崎の出島だけに封じ込められました。
オランダ商館長は、将軍への服属を誓う儀式である江戸への参勤も命じられこれに従います。ジャワを侵略して植民地とし、スペインに代わって大航海時代の覇権国となったオランダですが、この屈辱を甘んじて受け入れたのです。

日本が鎖国に踏み切り、200年以上にわたる平和を維持できたのは、日本が傑出した軍事力と政治力を持っていたからです。圧倒的な軍事力を備えていたがゆえに、アジアを侵略したスペインもポルトガルもオランダもイギリスも、日本の鎖国に逆らうことができなかったのです。
当時の日本は、世界一の軍事力を持ちながらも、西欧列強のようにアジアに侵略の手を伸ばし、植民地化する道を選びませんでした。鎖国によって国を閉鎖することで、他国からの侵入も許さなければ、他国を侵略することもありませんでした。江戸時代の平和な時代に、当時最先端の武器であった鉄砲の生産を徐々に規制し、その流通量を減らし、自ら軍縮を為したのです。

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