●日本人
日本に生まれ日本で育つと、当然自分たち日本人に対しても贔屓目に見てしまうため、客観的に見ることも難しいのですが、日本人の特徴としては、一般的には次のように見られる傾向があります。
○日本人の特徴
・勤勉、まじめ、温厚、我慢強く謙遜である。
・行儀がいい、礼儀正しい、気遣いができる。
・協調性がある、集団行動に長けている。
・約束や決め事を守る。
・器用で芸術性も高く、技術に長けている。
・本音と建前がある。
・自己主張、自己表現が下手。
・堅苦しく、融通が利かない。
総じて日本人は民度が高く、犯罪も諸外国に比較して少なく、安全であり、信頼に足る民族であると考えられます。
日本に来た外国人は、日本人の親切さに感動し、何処に行っても綺麗でゴミも少ないことに驚き、またサッカー観戦後には日本人サポーターは掃除までもして、ゴミを残さず帰ることに驚いている様子がよく伝えられます。
また東日本大震災時の救援物資の配給の際にも、我先にと争うこともなく、列を作って順番に、秩序を保ちながら供給を待つ日本人の姿に、世界中が驚いたというニュースも流れていました。
しかし一方では、特に政治の世界では言うべきことも言えずに、他国の顔色を窺うばかりで自分では何も決められない、優柔不断な国家というイメージも強いのです。
日本は国家戦略も持たない、信念も何もない国家、誰とでも仲良くできると思い込んでいる、八方美人で節操のない国家というイメージにもなっています。
ここでは私たちがイメージする日本人の姿をまずは歴史的に検証し、昔の日本人はどのように見えたのかを探り、そしてどのようなことを学ぶことによって、今日の日本人の精神が形作られたのかを考察してみたいと思います。
○アメリカ最高裁判所顧問アーロン・パーマーの「日本開国計画」クレートン国務長官への手紙より(1849年4月)
アーロン・パーマーは、日本は東洋のイギリスとなる、東洋の一等国に変貌できるとして、具体的には次のようなことを書いていました。
・大和民族はエネルギッシュな民族で、新しいものを同化する能力は、アジア的というよりもむしろヨーロッパ的といえる。
・西洋諸国の芸術や新技術に対する好奇心は極めて高い。
・名誉を重んじる騎士道のセンスを持っていて、他のアジア諸国(特に支那)と全く異なる。
・アジア諸国(特に支那)に見られる意地悪いへつらいの傾向とは一線を画し、行動規範が男らしい名誉と信義を基本としている。
・盗難や経済犯罪は極めて少ない。
○イサベラ・バード『日本奥地紀行』(1878年6月)
「上陸して最初に私の受けた印象は、浮浪者がひとりもいないことであった。街頭には、小柄で、醜くしなびて、がにまたで、猫背で、胸は凹み、貧相だが優しそうな顔をした連中がいたが、いずれもみな自分の仕事をもっていた。」(6-7頁)
「私はそれから奥地や北海道を1200マイルにわたって旅をしたが、まったく安全で、しかも心配もなかった。世界中で日本ほど、婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと私は信じている。」(48頁)
「ヨーロッパの多くの国々や、わがイギリスでも地方によっては、外国の服装をした女性の一人旅は、実際の危害を受けるまではゆかなくとも、無礼や侮辱の仕打ちにあったり、お金をゆすりとられるのであるが、ここでは私は、一度も失礼な目にあったこともなければ、真に過当な料金をとられた例もない。群集にとり囲まれても、失礼なことをされることはない。」(117頁)
「ほんの昨日のことであったが、革帯が一つ紛失していた。もう暗くなっていたが、その馬子はそれを探しに一里も戻った。彼にその骨折賃として何銭かあげようとしたが、彼は、旅の終りまで無事届けるのが当然の責任だ、と言って、どうしてもお金を受けとらなかった。」(117頁)
「私はどこでも見られる人びとの親切さについて話したい。二人の馬子は特に親切であった。馬から下りるときには私をていねいに持ち上げてくれたり、馬に乗るときは背中を踏み台にしてくれた。」(207頁)
「しばらくの間馬をひいて行くと、鹿皮を積んだ駄馬の列を連れて来る二人の日本人に会った。彼らは鞍を元通りに上げてくれたばかりでなく、私がまた馬に乗るとき鐙をおさえてくれ、そして私が立ち去るとき丁寧におじぎをした。」(249頁)
「家の女たちは、私が暑くて困っているのを見て、うやうやしく団扇をもってきて、まる一時間も私をあおいでくれた。料金をたずねると、少しもいらない、と言い、どうしても受けとらなかった。彼らは今まで外国人を見たこともなく、少しでも取るようなことがあったら恥ずべきことだ、と言った。」(148頁)
「どこの宿でも、私が気持ちよく泊れるようにと、心から願っている。日本人でさえも大きな街道筋を旅するのに、そこから離れた小さな粗末な部落にしばしば宿泊したことを考慮すると、宿泊の設備は、蚤と悪臭を除けば、驚くべきほど優秀であった。世界中どこへ行っても、同じような田舎では、日本の宿屋に比較できるようなものはあるまいと思われる。」(211頁)
「日本の大衆は一般に礼儀正しいのだが、例外の子どもが一人いて、私に向かって、中国語の「蕃鬼」(鬼のような外国人)という外国人を侮辱する言葉に似た日本語の悪口を言った。この子はひどく叱られ、警官がやってきて私に謝罪した。」(125頁)
「どこでも警察は人びとに対して非常に親切である。抵抗するようなことがなければ、警官は、静かに言葉少なく話すか、あるいは手を振るだけで充分である。」(183頁)
「彼らは礼儀正しく、やさしくて勤勉で、ひどい罪悪を犯すようなことは全くない。しかし、私が日本人と話をかわしたり、いろいろ多くのものを見た結果として、彼らの基本道徳の水準は非常に低いものであり、生活は誠実でもなければ清純でもない、と判断せざるをえない。」(124頁)
私たちは、昔の日本人は今の私たちよりも好戦的で、戦争に明け暮れていたというイメージが強いのではないでしょうか。
私たちが好んで見る時代劇の多くは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に代表される、戦国時代の物語が多く、日本全体が戦乱に明け暮れていた印象が強いからです。
同じようによく見る幕末、明治維新の物語でも、混沌の時代、戦乱の世が取り上げられるために、いつも日本人は戦争に明け暮れていた印象が強いのです。
また明治に入ってからも、日本は文明の進んだ西洋に追いつこうと近代化を図り、富国強兵に努めた結果、日清・日露の戦争を戦い、その延長線上でアジアの侵略を図り、第二次世界大戦を引き起こしたと信じられているため、現代の日本人とは違い、昔の日本人は好戦的であったという印象が強いのです。
一方現代の日本人は、戦争から最も遠い民族のような印象があります。
他国からどんなに喧嘩を売られても、どんなに利用されようと、言いたいことも言えずにただ我慢するばかりで、一生懸命他国と仲良くしようと努力を続ける、気弱な民族という印象が強いからです。
とても昔のように他国に対し宣戦布告をし、戦争を行う勇気など到底持ち合わせていない民族としか考えられないのです。
ですから昔の日本人はアメリカに宣戦布告をし、第二次世界大戦を引き起こし、アジア諸国を侵略したなどと聞くと、昔の日本人は今の日本人とは違い、好戦的だったというイメージが強くなるのです。
ここに紹介した話は、江戸末期から明治にかけての日本人の姿です。今から150年ほど前に日本人と接した欧米人の日本人に対する印象を見ると、今とほとんど変わらないような印象があります。
それどころか今よりも昔の日本人の方が、道徳心に厚く、礼儀正しく、温厚で、誠実な印象さえあります。
このような今と変わらない、いや今以上に民度が高く、道徳心が厚い日本人が、果たして本当に好戦的だったのでしょうか。
歴史的に日本人の精神を作り上げてきたと思われる「聖徳太子十七条憲法」、戦国時代に培われた「武士道の精神」、明治時代の教育方針「教育勅書」を見ることで、まずは日本人精神の根源について考察してみたいと思います。
・聖徳太子十七条憲法
≪参考≫に掲載した『聖徳太子十七条憲法』の現代語訳要旨を是非読んでいただきたいのですが、全部読むのも結構大変なので、できるだけ各条項を完結にまとめてみたいと思います。
1、上の者も和やかに、下の者も睦まじく、和を尊重し争わない。
2、万国にとっての究極の宗教である仏教を篤く敬え。
3、君主は天、臣下は地である。君主の命令は必ず謹んで承れ。
4、人民を治める基本は必ず礼にある。諸役人は、礼を基本としろ。
5、財物への欲望を棄てて賄賂を絶ち、公明に訴訟を処理しろ。
6、悪を懲らしめ善を勧めること(勧善懲悪)。
7、賢人・哲人を官職に任じる。悪人が官職を有すれば災禍・戦乱が頻繁になる。
8、諸役人は、朝早く出勤し遅く退勤しろ。
9、信(誠実・信頼)は義の基本である。
10、自分に過失が無いか常に振り返り、人々の意見を聞き入れて協調して振る舞え。
11、政務を執行する役人は、賞罰を適正明確に与えなければならない。
12、地方官吏は、独自に庶民に徴税してはならない。
13、諸々の官職に任じられた者たちは、任務を把握しろ。
14、諸役人は嫉妬心を持って、優れた人材を排除してはいけない。
15、私心を棄てて公益に努めるのが、臣下の道である。
16、時宜に沿って民に賦役を課す。
17、物事は独断で行ってはならない。皆で議論する必要がある。
以上『聖徳太子十七条憲法』の要旨を見ると、主に役人に対する規範を説く内容となっていることがわかります。
しかしその内容は、「和を尊重し争わない」「礼を基本としろ」「公明性」「勧善懲悪」「勤勉性」「誠実・信頼」「自分に過失が無いか常に振り返る」「協調性」「私心を棄てて公益に努める」「皆で議論する」というような規範を重要視し、その反面「財物への欲望を棄てて賄賂を絶つ」「独自の徴税禁止」「嫉妬心を持って、優れた人材を排除してはいけない」などと己を戒めるような、一般人にも教訓となるような内容から成り立っているのです。
日本人とは言っても、「聖徳太子十七条憲法」を直接読んだことのある人は少ないと思いますが、改めて上記要旨を読んでみても、当たり前のことを言っているだけで、今まで聞いたこともない、新鮮な教えという感覚を持つ人も少ないことと思います。
つまり『聖徳太子十七条憲法』は、直接読んだことはなかったとしても、日本人の道徳として、自然と身に付いた徳目でもあり、今日の日本人を形成した、一つの規範となっているということは間違いないといえるのです。
≪参考≫ 『聖徳太子十七条憲法』
第一条、和を尊重し、争わないことを宗旨(主義)としろ。人は皆、党派を作るし、(物事の)熟達者は(常に)少ない。そのため君主や父親に従わなかったり、近隣と考えが相違したりもする。しかし、上の者も和やかに、下の者も睦まじく、物事を議論して内容を整えていけば、自然と物事の道理に適うようになるし、何事も成し遂げられるようになる。【和/議論】儒教
第ニ条、仏教の三宝(仏・法・僧)を篤く敬え。仏法は四生(生物)が最終的に帰する処であり、万国にとっての究極の宗教である。いつの時代の誰であろうと仏法を尊べないような者はいない。世の中、極悪人は少なく、大抵は教えによって従えることができるが、三宝(仏教)に依らなければ、曲がった心を直すことはできない。【仏教(三宝)】仏教
第三条、詔(君主の命令)は必ず謹んで承れ。君主は天、臣下は地である。万物は天に覆われ、地に載せられることで、四季が巡り、気が行き渡るようにうまくいくのであり、地が天を覆うこと(反乱・謀反・革命)を欲すれば、破滅に到るだけである。このように君主が言えば臣下は承り、上が行えば下が従うようにしなくてはならない。したがって、詔は必ず謹んで承なくてはならないし、そうしなければ自ら滅亡をまねくことになる。【詔/従】 儒教
第四条、群臣・百寮(上級・下級の諸役人)は、礼を基本としろ。人民を治める基本は必ず礼にある。上の者に礼がなければ下の者はまとまらないし、下の者に礼がなければ必ず犯罪者が出てくる。このように群臣たちに礼があれば秩序は乱れず、庶民に礼があれば国家は自然と治まる。【礼】儒教
第五条、饗応を絶ち、財物への欲望を棄てて、公明に訴訟を処理しろ。庶民の訴えは1日に千件あり、歳月を過ぎる毎のその数の増え方は言うまでもない。近頃、訴訟管理者は賄賂を貰うことが当たり前となり、賄賂を見てから審査する。したがって財産家の訴えは石を水の中に投げ入れるように容易に聞き入れられ、貧者の訴えは水を石に投げ入れるように拒絶される。このように貧民はどうしていいか分からずにいるのであり、これは役人としての道理も欠いている。【清廉/訴訟管理】
第六条、悪を懲らしめ善を勧めること(勧善懲悪)は、古来の良い規範である。このように人の善行は匿(かく)さず、悪行は匡(ただ)せ。諂(へつら)い詐(いつわ)る者は、国家を転覆させる鋭利な武器、人民を滅ぼす尖った剣となる。また佞(おもね)り媚びる者は、好んで上の者に下の者の過失を訴えるし、下の者に逢えば上の者の過失を誹謗する。このような人間は皆、君主に対する忠誠が無く、人民に対する仁愛も無いので、大乱の原因となる。【勧善懲悪】儒教
第七条、人には各々に任務があるのであり、それを適切に担い、濫用してはいけない。賢人・哲人を官職に任じれば讃える声が起こるし、奸者(悪人)が官職を有すれば災禍・戦乱が頻繁になる。世の中には生まれながらの知者は少ないのであり、努力によって聖人となる。事柄の大小に関わらず、適切な人材を得れば必ず治まるし、時代情勢の急緩に関わらず、賢人が現れれば自ずとのびやかな環境になる。このようにすれば、国家には永久に危険が無くなる。したがって古の聖王は、官職のために人を求めたのであって、人のために官職を求めたりはしなかった。【任務遂行/適材適所】儒教
第八条、群臣・百寮(上級・下級の諸役人)は、朝早く出勤し遅く退勤しろ。公事はゆるがせにできないし、終日費やしても全部終わらせるのが難しい(ほど多い)。このように、朝遅く出勤しては急用に対処できないし、早く退勤しては仕事を処理し切れない。【早出遅退】儒教
第九条、信(誠実・信頼)は義の基本である。何事にも信がなくてはならないし、物事の善悪や成否は信の有無に掛かっている。群臣の間に信があれば何事も成し遂げられるし、信が無ければ何事もことごとく失敗する。【信】儒教
第十条、忿怒を絶ち、瞋恚を棄て、人と考えが違うことを怒るな。人には皆心があり、各々のこだわり(執着)があるのだから、相手はよくても自分はよくないこともあれば、自分はよくても相手はよくないこともある。自分が必ず優れているわけでも、相手が必ず愚かなわけでもない。どちらも凡夫(凡人)なのであり、是非を決定できる優越性など無い。共に賢さと愚かさを併せ持っている(一体的である)のは、鐶(環)に端が無いのと同様である。このように、相手が怒ったとしても、かえって自分に過失が無かったか振り返り、また自分一人の考えがあったとしても人々の意見を聞き入れて協調して振る舞え。【不怒/相対性】 仏教
第十一条、(官職の)功績と過失を明確に調べて、必ず賞と罰を与えなければならない。近頃は、賞が功績に基づいて、罰が罪に基づいて(適正に)与えられていない。政務を執行する群卿(高位役人)は、賞罰を適正明確に与えなければならない。【信賞必罰】法家
第十ニ条、国司・国造(地方官吏)は、(独自に)庶民に徴税してはならない。国にも民にも二人の君主はいない。国内の全ての民は王(天皇)を主とするのであり、任命された官吏は皆、王(天皇)の臣下である。どうして無理に公と並んで庶民から徴税するのか。【私的徴税禁止】
第十三条、諸々の官職に任じられた者たちは、任務を把握しろ。病気や使役で業務が行えないことがあっても、復帰したら全て把握して協働できるようにし、聞いていないなどと公務を妨害しないようにしろ。【任務把握】
第十四条、群臣・百寮(上級・下級の諸役人)は、嫉妬心を持ってはいけない。自分が他者を嫉妬するなら、他者もまた自分に嫉妬するようになる。嫉妬の患いには限度が無いので、自分より智や才が優れた者を悦ばずに嫉妬しさえする。そのような環境下では、五百年経っても賢人は現れないし、千年経っても聖人は現れないが、そうした賢人・聖人と呼べるような優れた人材が出てこなければ、国家は治めていくことができない。【不嫉妬】
第十五条、私心を棄てて公益に努めるのが、臣下の道である。私心があれば必ず怨恨が生じ、共同しなくなり、公務を妨害し、制度に違反し、法律を侵害するようになる。それ故に初章(第一条)で上下が和諧する精神(の重要性)を説いたのだ。【滅私】
第十六条、時宜に沿って民に賦役を課すことは、古来の良い規範である。冬季は間暇なので、民に賦役を課してもいいが、春から秋にかけては農業と養蚕の時期なので、賦役を課してはならない。そうでなければ、食料・衣服が尽きてしまう。【時宜賦役】儒教
第十七条、物事は独断で行ってはならない。必ず皆で適切に議論しなくてはならない。(とはいえ)些細な案件に関しては必ずしも皆で議論する必要は無いが、重大な案件については判断に過失・誤りが無いか疑い、慎重にならなくてはいけないので、皆で議論する必要があるし、そうしていれば(自ずと)道理に適った結論を得ることができる。【議論】
・武士道の精神
武士道の歴史を紐解くと、1642年の江戸時代に、山形藩最上家の元家臣・斎藤親盛によって著されたとされる『可笑記(かしょうき)』の武士道論にまで遡ることができます。
可笑記では武士道のことを次のように書いています。
「武士道の吟味と云(いう)は、嘘をつかず、軽薄をせず、佞人(ねいじん、こびへつらう人)ならず、表裏を言はず、胴欲ならず、不礼ならず、物毎自慢せず、驕らず、人を譏(そし)らず、不奉公ならず、朋輩の中よく、大かたの事をば気にかけず、互ひに念比(ねんごろ)にして人を取たて、慈悲ふかく、義理つよきを肝要と心得べし、命をしまぬ計をよき侍とはいはず」
つまり武士道とは、「嘘をつかず、軽薄なことはせず、媚びへつらったりせず、表裏が無く、貪欲ではなく、無礼なことはせず、自慢せず、驕らず、人を攻撃せず、無奉公なことはせず、同僚とは仲良くし、小さなことにはいちいち気に留めず、お互いよく尽くし、人を褒め、慈悲深く、義理堅くあり、侍だからといって無暗に命を懸けることは良くない。」というように書かれてあります。
可笑記における武士道は、武士に限らず、一般的な人としての在り方を説いていることがわかります。
武士道に関して最も有名な言葉は、「武士道とは死ぬことことと見つけたり」という言葉です。
これは1716年に佐賀藩鍋島家の元家臣・山本常朝によって著された『葉隠』にある言葉です。
この言葉をもってして、武士としての死の美学を持って特攻隊に志願し、戦場に散った若者も多くいたと言われています。
しかしこの言葉の持つ真意としては、死を強要することではなく、「いつどんな時でも死ぬつもりで行動すれば、一生落度なく武士としての職分をまっとうすることができる」ということなのです。
日本人、特に近現代の武士ともいえる軍人には、義・勇・仁・礼・名誉・誠・忠義の7つの言葉で代表される、武士道の精神が宿り、第二次大戦中の軍人は、武士道の精神をもって戦いに臨んでいました。
彼らは天皇陛下の為、日本を守るため、愛する両親や故郷の人々を守るため、アジアの解放のために、自らの命をも捧げた、紛れも無き英雄たちでした。
その精神はもちろん、今日の自衛隊員にも引き継がれています。
日本は軍事力を持つことは、戦争につながるという発想が強いため、防衛予算をGDP比1%以内に抑えなければいけないという不文律に縛られ、国防予算が極端に削られてきました。
その結果今の自衛隊員は、国を守るという命がけの職務を全うするために、日夜肉体の限界近くまで実践的訓練に励み、厳しい生活を強いられながらも、いざとなったら戦場に赴き、命を捧げる覚悟が必要であるにもかかわらず、その報酬は国家公務員並みと、命の代価としては考えられないほど低くおさえられています。日本は自分たちが命がけで守るんだという使命感がなければ、誰も自衛官などには、志願できないような状況となっているのです。
まさしく彼ら自衛官こそが、愛する者を守るためになら、自分の命までも捧げる覚悟ができている、武士道の精神を体現した、現代の武士そのものなのではないでしょうか。
日本人は歴史的に武士道の精神を宿した多くの義人がいたとは言っても、そうではない日本人のほうが多かったことも事実です。それどころか日本人の中にも悪い人間も多く、とても褒められる人間ばかりではなかったことも間違いありません。
しかし日本社会の中では、悪い人間の代表格のように考えられているヤクザであったとしても、特に清水の次郎長に代表される昔のヤクザは任侠道を重んじ、「仁義を重んじ、困っていたり苦しんでいたりする人を見ると放っておけず、彼らを助けるために体を張る自己犠牲的精神」がヤクザの美学の中にもありました。
このように日本人には古来、たとえヤクザであったとしても、「弱きを助け強きを挫く」精神を持ち合わせる日本人は多くいましたし、武士道の精神も日本人の根底には、今なお根強く生きているものと信じたいところです。
現代の日本では若者は昔のように、成功を夢見て、自分で起業しようとする人も少なくなったと言います。
ここ30年間の景気停滞の時代に生きる若者は、バブル時代のような派手な人生を望むよりは、公務員のような堅実で、地味な人生を望むようになったと言われているのです。
そのように誰よりもお金を稼いで、豊かな生活をしたいというような価値観は廃れる一方、社会貢献をしながら起業したいと、社会起業家を志す若者は増えているといいます。
つまり自分自身の成功よりも、社会を豊かにしたい、弱者に寄り添いたいとして、どうせ起業するなら、社会に貢献できる事業を起こしたいと考える若者が増えているということです。
このような傾向をそのまま武士道の精神と言ってもいいものなのかどうかは分かりませんが、日本人は総じて、自分を鍛え強くなることによって、弱きものを助けたいと考える傾向が強いように思われます。
日本を守るために厳しい訓練に耐えて自分を鍛え、いざという時には命をも捧げる覚悟が必要であるにもかかわらず、薄給しかもらえない自衛官。
任侠道にある「男の面目を立て、信義を重んじる。弱きを助け強きを挫く。義のためには命も惜しまない」精神。
社会的弱者に手を差し伸べるために起業する社会起業家。
彼らは総じて、愛する者を守るために、どんな苦難にも立ち向かい、自分を鍛えることができる人であり、喜んで自分を犠牲にできる人たちです。
このような武士道の精神は、今も確実に日本人の国民性を構成する重要な要素であり、日本の若者の中にも確実に受け継がれている伝統精神と言ってもいいものなのではないでしょうか。
≪参考≫ 【武士道とは】成立と変遷の歴史と学術的議論をわかりやすく解説
≪参考≫ 武士道:日本人の精神を支える倫理的な礎
・教育勅語
戦前の日本では、教育勅語をもって日本人の精神が養われました。つまり教育勅語は国民教育の基本として、学生に対しては教育勅語の全文を暗誦することが強く求められていました。
しかし教育勅語は天皇を神聖化し、日本の軍事教育や軍国主義につながるものとして、戦後は批判され廃止されましたが、その精神は日本国軍人の心に深く根を下ろし、戦時下にあっても日本人としての誇りの原点ともなっていた精神でした。
教育勅語では、「汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦(むつ)び合い、朋友互に信義を以って交り、へりくだって気随気儘(きずいきまま)の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すやうにし、学問を修め業務を習つて知識才能を養ひ、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし」と詠われています。
戦後日本を支配したGHQにとっては、脅威となった日本人の精神の根源は教育勅語にあるとして、教育勅語を廃止にしましたが、その精神は今の私たちにとっても必要なものであり、日本人のみならず、世界中の人々が修めるべき、道徳の基本とも言うべき精神です。
教育勅語では、「父母には孝を尽くし、兄弟姉妹、夫婦、友達は、お互いを尊重し合い、傲慢になることなく謙遜であり、人々に対しては慈愛を施し、公共の利益の為に学問を修め、自らを善良ならしめよ」と言っているのであり、そのような精神が宿った人が集まった世界は、戦争のない、平和な世界になるのではないでしょうか。
戦前は日本人は全員教育勅語を暗唱させられましたので、この教育勅語の精神が、日本人一人一人に宿っていたことは間違いありません。
今日に至る日本人の民度の高さの一因であることも、間違いないのではないでしょうか。
≪参考≫ 教育勅語 現代語訳
朕がおもふに、我が御祖先の方々が国をお肇(はじ)めになったことは極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられ、又、我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげて来た。これは我が国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にこゝにある。汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦(むつ)び合い、朋友互に信義を以って交り、へりくだって気随気儘(きずいきまま)の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すやうにし、学問を修め業務を習つて知識才能を養ひ、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起つたならば、大義に基づいて勇気をふるひ一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまに々々天地と共に窮りなき宝祚(あまつひつぎ)の御栄をたすけ奉れ。かやうにすることは、たゝに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなほさず、汝らの祖先ののこした美風をはつきりあらはすことになる。
ここに示した道は、実に我が御祖先のおのこしになった御訓であって、皇祖皇宗の子孫たる者及び臣民たる者が共々にしたがひ守るべきところである。この道は古今を貫ぬいて永久に間違がなく、又我が国はもとより外国でとり用ひても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む。
明治23年10月30日
以上『聖徳太子十七条憲法』、『武士道の精神』、『教育勅語』をみてわかることは、日本人は長い歴史を通じ、日本人としての精神をこれらに習い、それが今日に至るまで確実に受け継がれてきているということです。
これらの精神をまとめてみると大体次のようになります。
・父母に孝を尽くせ。
・兄弟姉妹、夫婦、友達は、お互いを尊重し、義理を重んじ、和を尊ぶ。
・常に自分を振り返り、礼儀正しく誠実であり、公明正大であり、約束を守り、信頼に足るものとなれ。
・嘘をつかず、貪欲にならず、傲慢になることなく、謙遜であれ。
・勧善懲悪に努める。
・私心を棄てて公益に努め、人々に対しては慈愛を施せ。
・公共の利益の為に学問を修め、自らを善良ならしめる。
これらの精神は、国民の民度を高めるためにも、非常に大切なものではありますが、日本人にとっては当たり前といってもいい精神ではないでしょうか。
つまり改めて強調しなくても、日本人ならば自然と身についている精神といっても過言ではないのではないでしょうか。
当然頭では分かっていても、実際その如くに生きているかといえばそうではありませんが、常に意識しなければいけない精神でもあります。
このように日本人にとっては、『聖徳太子十七条憲法』、『武士道の精神』、『教育勅語』で語られている精神は、確実に受け継がれており、基本的に私たち日本人の精神を形作っている要素の一つと言えるのではないでしょうか。
第二次大戦時、日本は中国、朝鮮をはじめとして、アジアを侵略した侵略国家だった、日本はアメリカに宣戦布告することもなく、真珠湾攻撃を行った卑怯な国だったとする東京裁判史観、自虐史観を信じれば、昔の日本は好戦的な国であり、昔の日本人は好戦的な民族だったという印象が強くなります。
しかしこの【Japan First 通信】歴史編にある日本の歴史を見ると、日本はアジアにおいても、アメリカに対しても、戦争を仕掛けようとして戦争をしたわけではなく、欧米諸国の謀略によって戦争へと引きづり込まれた事実が分かります。
また当時の日本人の対応を見ても、できるだけ戦争は避け、何とか外交交渉によって平和裏に問題を解決しようと、最後の最後まで努力を続けたこともわかります。
つまり第二次大戦当時の日本人も、今の日本人と変わらず、決して好戦的ではなかったし、それどころか今の日本人以上に民度が高く、道徳心も高い、まさしく『聖徳太子十七条憲法』、『武士道の精神』、『教育勅語』で語られている精神が宿っていた日本民族であったことが分かります。
今後とも日本人の精神を忘れることなく、日本人としての誇りを持ちながら、日々の生活で実践していったとき、今よりも世界がより良いものとなっていくのではないでしょうか。
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