③アフリカ・北米・豪大陸

2、欧州に繁栄をもたらした奴隷貿易(三角貿易)とキリスト教

征服者たちは南米で金銀の鉱山を発掘し、砂糖やコーヒー、タバコなどの嗜好品の農園経営に没頭しました。
しかし、先住民族をあまりにも大量に殺したことに加えて伝染病や飢餓の発生によって働き手を失ったため、鉱山も農園経営もままなりません。
そこで征服者たちはアフリカから労働力として黒人奴隷を大量に動員し、南米に送り込んだのです。

2-1 アフリカ人奴隷

アフリカから黒人奴隷を連れ出すために拉致・誘拐もありましたが、もっとも多かったのは白人奴隷商人とアフリカ人首長の間で交わされる物々交換でした。
奴隷商人はアフリカ人首長が他部族と戦争して捕まえた捕虜を、安い酒やタバコ、ガラス玉などと交換して奴隷船に乗せました。

奴隷船には複数の奴隷商人の商品として奴隷が積まれるため、所有者の見分けがつくように腕や腹に焼印が押されました。奴隷は人間とは見なされませんでした。牛馬と同じく家畜として扱われたのです。

奴隷たちは二人ずつ鎖につながれたまま、暗い船倉に放り込まれました。たくさんの奴隷を運べるように天井が低く造られているなかに大勢の奴隷が積み込まれるため、立つことはもちろん横になることもできません。
ギュウギュウ詰めのために移動もままならず、垂れ流し状態だったと記録されています。

過酷な環境の中で航海中に半分の奴隷が息絶えました。
ようやく生き残った黒人奴隷たちは鎖で数珠つながりにされたまま奴隷市場に引き立てられ、家畜のように売り出されました。

学者による推計では、16世紀に90万人、17世紀に300万人、18世紀に700万人、19世紀に400万人の黒人が奴隷として売買されたとしています。全部足すと1500万人ほどです。

しかし、これはあくまで売買された数です。一人の黒人を新大陸に連れて行くまでに、およそ5人が死んだとする推計があります。その推計が正しければ1500万人の黒人奴隷が売買されたということは、実際には7500万人の黒人が連れ出されたことになります。

ただし、これらの数字は征服した側から記録されている数字に過ぎません。実際にはもっと多くの黒人奴隷が故郷から連れ出されたことでしょう。

【黒人奴隷貿易の実態】人間に値札がつけられた最悪のビジネス

2-2 アフリカ大陸

ヨーロッパ人によるアフリカ人奴隷貿易は、1441年にポルトガル人が拉致したアフリカ人男女をポルトガルのエンリケ航海王子に献上したことに始まります。

初期の奴隷貿易は、ヨーロッパ人商人、冒険家、航海者などが、自己の利益のために自己負担で行った私的なもので、小規模なものでありました。

1450年代に入ると、奴隷狩りから奴隷貿易へとシフトし、相互に部族闘争を繰り返していたアフリカの黒人諸王国は、戦争捕虜や奴隷狩りで得た他部族の黒人をポルトガル商人に売却するようになりました。
ポルトガル人はこの購入奴隷を西インド諸島に運び、カリブ海全域で展開しつつあった砂糖生産のためのプランテーションに必要な労働力として売却しました。

1452年、ローマ教皇ニコラウス5世はポルトガル人に異教徒を永遠の奴隷にする許可を与えて、非キリスト教圏の侵略を正当化しました。

1480年代には、ポルトガルとスペインで独占的な奴隷貿易会社が設立されるにいたりました。
この時代、奴隷を売ってもらえないイギリスの冒険商人による奴隷狩りが散発的に行われました。

その後、奴隷貿易の主導権がオランダ、フランス、イギリスなどに移り変わっても、特許会社が拠点を置き、現地勢力が集めた奴隷を買い取って売り渡すという形式のみとなりました。

18世紀になると、イギリスのリヴァプールやフランスのボルドーから積み出された銃器その他をアフリカにもたらし、原住民と交換。さらにこうして得た黒人を西インド諸島に売却し、砂糖などをヨーロッパに持ち帰る三角貿易が発展しました。

2-3 三角貿易

16世紀から18世紀にかけては奴隷貿易を中心とする三角貿易によって、ヨーロッパに莫大な富がもたらされました。

三角貿易とは次のような流れです。
ヨーロッパで安物のビー玉や銃器、木綿の工業製品などを持って商人たちはアフリカ・ギニア湾岸に行き、黒人奴隷と交換します。
そのあと南米ブラジルや西インド諸島に向かい、奴隷をほしがる鉱山や農園の経営者に運んできた黒人奴隷を売り飛ばします。
次に、奴隷を売って得た金で砂糖や綿花・タバコ・コーヒーなどの亜熱帯作物を大量に積み込み、ヨーロッパに戻ってからそれを売却します。

欧州・アフリカ・新大陸の三大陸にまたがる三角貿易によってヨーロッパの国々は栄え、その一方でアフリカの黒人や新大陸の黄色い肌をした有色人種たちは、平和と愛に満ちた日常を奪われ、奴隷として白人に隷従させられたのです。

新大陸からは奴隷によって採掘された大量の金銀がヨーロッパに運ばれました。
それらの金銀は西欧列強の資本の蓄積につながり、産業革命の原資となりました。
そのなかには非白人たちが何世紀にもわたって貯めてきた金銀も含まれています。非白人たちからの収奪と犠牲の上に、ヨーロッパの富と繁栄が築かれました。

産業革命が起きたことで、産業に必要な物産資源の獲得と市場の拡大こそが、欧州列強の欲するところとなりました。そのため、植民地争奪競争はますます過熱することになり、その牙はアジアに向けられることになります。

2-4 有色人種の奴隷化を支えたキリスト教

旧約聖書では造物主である神が、自分に似せて人間を造ったと記されています。
さらに神は人間の下に動物を造り、その下に万物を造ったとされています。
人間は神の代理人としての役割を与えられているため、動物を家畜として支配し、殺し、食べてもよいとされました。

当時のヨーロッパ社会では、神が自分の姿に似せて造ったのは白人のみ、という解釈が一般的でした。
つまり「人間」とは白人のみに与えられた呼び方であり、黒人や黄色人種は人間の下に造られた動物に過ぎないと解釈されたのです。
それゆえに、非白人を家畜にすることは神が白人に許したことであり、神の法に適うことと考えられました。

ヨーロッパ社会ではキリスト教のみが正義であり、善であると信じていました。キリスト教以外の神はすべて未開野蛮な信仰と見なされ、キリスト教徒によって征服されるべき邪教と考えられました。
ローマ法王庁からは「教皇勅書」がスペインとポルトガルの国王に授けられ、征服地の領有はローマ教皇によって正式に認められました。そのことは間接的に、貿易の独占権や原住民の奴隷化をも教会が認めたことを意味します。

2-5 非白人を虐げるための科学的根拠

「人種」という言葉をはじめて使ったのは、スウェーデンの博物学者リンネとされています。
リンネは白・赤・蒼・黒に人間を分け、創意に富むヨーロッパの白色人種、高慢・貪欲なアジアの蒼色人種、狡猾・怠け者の黒色人種という選別を行いました。リンネは人類分類表を作り、アフリカ人を奇形として位置づけ、人間の最下位においています。

ドイツの生理学者ヨハン・フリードリッヒ・ブルメンバッハは著書「人類の自然変種について」のなかで、黒色人種・黄色人種・褐色人種はすべて本来の白色人種が退化したものだと結論づけています。

イギリスの自然科学者ロバート・ノックスは「人類の種族」において、イングランド系アングロサクソンが最も優れているとし、すべての有色人種よりも白人が優位にあるのは科学的根拠があると主張しました。

人種差別を正当化する科学の先頭に立ったのはロンドン人類学協会です。
協会創設者のジェームス・ハントは、白人のみが人類学的に見てホモ・サピエンス(=ヒト)であり、黒人をはじめとする有色人種は猿のように太古にヒトの系統から分岐した種に過ぎず、ヒトとは異なる系統にあると主張しました。
それゆえに、黒人は奴隷として白人に仕えることによってのみ生存の意義を見出せると言い切ったのです。

このように19世紀までは、「白人と非白人は同じ人間同士ではない、有色人種は白人とは異なる先祖をもつ別の生物なのだ」とする極端な人種差別が、当時の西欧社会に漂っていました。

科学者ばかりではありません。哲学者として高名なデイヴィッド・ヒュームも「黒人等の白人以外の人間種のすべてが、生まれながらに白人より劣っている」と述べています。

3、北米大陸

ヨーロッパの人々による北米の征服は、中南米より一世紀遅れて始まりました。

西欧の人々が新天地を求めて北米にたどり着いた頃は、白人とインディアンの交流が友好的に進められた例もあります。
インディアンたちは食べるものさえ尽きて困っている白人たちを助け、それまで西欧には知られていなかったトウモロコシ・タバコ・ピーナツ・ココア・ジャガイモ・かぼちゃ・メロン等々の作物の育て方などを教えました。

しかし白人とインディアンの友好関係は長くは続きませんでした。
白人の移民者はインディアンたちが先祖から受け継いだ土地を奪っていったからです。

立ち退きを求められたインディアンたちは、自分たちの生存をかけて抵抗しましたが、南米で起きたことと同様に、白人の征服者たちはインディアンを次々に虐殺していきました。
イギリスの植民地時代だけでも、インディアンによる4つの大きな抵抗戦争が起きています(インディアン戦争)。

清教徒たちはインディアンを改宗させ、キリスト教の恩恵を与えることこそが自分たちの崇高たる使命だと考えました。
1620年にプリマスに上陸したピルグリム・ファーザーズは、自分たち清教徒を神の選民と捉え、野蛮なインディアンをサタンの弟子とみなしました。サタンを打ち破ることは神の摂理にかなう善行だったのです。

一方インディアンにとっては、昨日まで平和と愛に満ちた暮らしをしていた土地に武器を携えて現れ、仲間や家族を有無を言わさず見つけ次第撃ち殺していく白人たちは、悪魔そのものでした。

西部劇ではインディアンとの戦いを正義の戦いとして描いていますが、実際はには自己正当化の論理があるだけで、正義は微塵もありませんでした。

1776年、イギリスの植民地から独立してアメリカ合衆国が誕生しました。
アメリカ政府は、平和を求めるインディアンとの間に370もの条約を締結しましたが、そのなかでアメリカ政府が最後まで守った条約はひとつもなかったと、歴史家は綴っています。

インディアンのなかには武力抵抗をやめて、文化的にアメリカ政府と対等になろうと努めた部族もありました。
チェロキー族はアメリカ文明を学び実践することで、短期間のうちに独自の政府を設立し、憲法を制定し、チェロキー国を宣言し、大統領も選んで自分たちの生存の権利をアメリカ政府に認めてもらおうとしました。

しかし、1829年に彼らの土地で新たな金鉱が発見されたことで、アメリカ政府は翌年インディアン移住法を無理やり成立させ、当時は荒野が広がるだけの西部へとインディアンを強制移住させることを決めました。

これによってチェロキー族とクリーク族1万5千人がはるか西、1300キロ先のオクラホマへと追いやられました。
移動の過程で4千人(1984年調査では8千人)のインディアンが倒れています。
インディアンは家族や仲間の死体が連なるこの進路を「涙の道」と呼びました。(wikipedia:涙の道の経路)

ところが、なにもない荒野が広がっているだけと思われていた西部各地で、金や銀の鉱脈が新たに発見されると、欲に目がくらんだ白人たちは、インディアンの土地を再び力尽くで奪っていきました。
一時的な休戦協定を結ぶことで油断したインディアンの村を襲撃し、老人から子供まで情け容赦なく殺しまくっては女たちに暴行を加えるという残酷なインディアン狩りが、広範囲で行われたのです。

この民兵隊がデンヴァーに帰還すると、輝かしい勝利を祝う住民の歓呼の声に迎えられたと記録されています。

度重なる白人側の約束違反と卑劣な虐殺の横行を受け、ついにインディアンたちは複数の部族を結集させ、武装蜂起しました。
1876年、モンタナ南部の高原においてカスター隊長率いる第七騎兵隊がインディアン連合軍に包囲され、全滅したことです。この事件はインディアンの残酷さ、野蛮さをアピールするための宣伝に大いに利用されました。

この事件をきっかけに、合衆国内にわずかに残っていたインディアンに対する同情の声もかき消され、「良いインディアンは死んだインディアンだけだ」とばかりに、軍によるインディアンの虐殺はますます過熱していきました。

インディアン最後の武力抵抗となったのは、1890年、サウス・ダコタのウンデッド・ニーのスー族の戦いです。
食糧を受け取るために移動していただけの350人ほどの集団が、軍の要求に従って武装解除をしている最中に発砲事故が起きました。白人兵の一人が射殺されると、米軍はスー族に対して無差別攻撃を始めました。

そのときの様子を、兵士の一人は次のように回想しています。
「ホッチキス山砲は1分間で50発の弾を吐き、2ポンド分の弾丸の雨を降らせた。命あるものなら何でも手当たりしだいになぎ倒した。この(子供に対する3キロ余りの)追跡行は、虐殺以外何ものでもない。幼子を抱いて逃げ惑う者まで撃ち倒された。動くものがなくなってようやく銃声が止んだ」

後日、埋葬が行われましたが、そのなかには多くの乳飲み子が混じっていました。埋葬隊の一人も証言しています。
「この幼子達が身体中に弾を受けてばらばらになって、穴の中に裸で投げ込まれるのを見たのでは、どんなに石のように冷たい心を持った人間でも、心を動かさないではいられなかった」

この戦いで300人近いスー族が命を落としました。この戦いこそ、アメリカによるインディアン征服の実態をまさに象徴するものでした。なお、虐殺を実行した第7騎兵隊には、のちに名誉勲章が送られています。
(wikipedia:ウーンデッド・ニーの虐殺)

コロンブスが到達したとき、北米には200万から500万のインディアンがいました。
しかし、白人による殺戮と伝染病のために1890年頃にはわずか35万人に減っています。
天然痘などの免疫をもたなかったインディアンは、白人のもたらした伝染病に対する抵抗力がまったくありませんでした。

しかし、伝染病が広がった背景にも、白人の悪意が介在しています。
物々交換の際に、白人たちは天然痘患者が使用して汚染されている毛布等の物品をインディアンに贈り、意図的に発病を誘発したことがわかっています。

アメリカは建国にあたり「すべての人間は平等に造られている」と唱え、誰もが「生命・自由・幸福の追求」の権利を有すると高らかにうたいあげました。
しかし、ここでも「人間」が意味するものは白人のみであり、先住民であるインディアンや黒人奴隷にそれらの権利が認めることはありませんでした。

インディアンがようやく人間と認められるようになったのは、1924年のことでした。

イギリス植民地時代はキリスト教の教義に基づき、インディアンへの迫害が正当化されました。
アメリカ合衆国時代に迫害の拠り所となったのはマニフェスト・デスティニー(明白な天命)です。
マニフェスト・デスティニーとは、アメリカの西部開拓を、神から与えられた使命であるとして正当化したものでした。

同時期に進められたメキシコへの侵略も、インディアンの虐殺も、神から選ばれたアメリカ人に与えられた明白な天命だとしたのです。

マニフェスト・デスティニーの精神は、西部開拓が終わると太平洋の島々にも及び、やがてアジアに飛び火することになります。

4、オーストラリア大陸

オーストラリアにイギリス人のキャプテン・クックが到来したのは1770年のことでした。
当時はオーストラリア全土にアボリジニが30万人から100万人ほどが平和に暮らしていました。

しかし、先占の権限に基づき、キャプテン・クックによってイギリス領であると宣言されると、オーストラリア大陸は本国で重犯罪を犯した者たちの流刑地として、植民地にされました。

アボリジニの暮らしぶりは石器時代に近いものでしたが、争いを好まず、極めて平和で善良な民族であったと伝えられています。

移民たちは現地のアボリジニを人間とは認めず野獣と同様にみなし、アボリジニ狩りに興じました。
射殺のほかにも数千のアボリジニを離島に送り餓死させたり、水場に毒を流して虐殺することも行われました。
30万人から100万人ほどいたアボリジニは、1920年には約7万人にまで減少しています。
ここでも白人による無慈悲な虐殺と、白人がもたらした伝染病が人口の急激な減少へとつながりました。

白人とアボリジニの闘争が起こった際に、それをいさめたデーヴィー総督の言葉が残されています。
「すこぶる野蛮にして非道な行為、すなわち英人が原住民の子供を拉致することによって、これらあわれむべき未開の黒人の怒りが爆発したのは当然である。誰でも胸に手を置いて、原住民の両親から子供を拉致した英人と、この無情な迫害を憤り、その盗まれた子供を取り返さんと勇敢に英人に向かった黒人と、いずれが野蛮人であるかを、自問して見よ」
(「GHQ焚書図書開封1: 米占領軍に消された戦前の日本」西尾幹二著、徳間書店

四国と九州を合わせたような広さのタスマニア島においても、上陸した征服者たちによってタスマニア・アボリジニはハンティングの標的にされ、その多くが射殺されました。
原住民の捕獲に際し懸賞金もかけられました。子供一人につき2ポンド、大人一人につき5ポンドの賞金がかかると、原住民狩りの団体がいくつも組織され、大がかりな「人間狩り」が催されたのです。

初期イギリス移民の多くを占めた流刑囚はスポーツハンティングとして多くのアボリジニを虐殺しました。「今日はアボリジニ狩りにいって17匹をやった」と記された日記がサウスウエールズ州の図書館に実際に残されています。(wikipedia:アボリジニ)

島に3万7千人(諸説あり)はいた先住民族は、1847年にはわずか44人しか生き残っていませんでした。
こうして欧州から来た征服者たちは北米大陸も豪州も、太古から住み着き平和に暮らしていた有色人種である先住民族を抹殺することで、白人だけの占有地とすることに成功したのです。

【オーストラリア】人間狩りが合法だった闇の歴史

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