1、真のお父様 6度の受難
真のお父様は、生涯6度の監獄生活を経験されました。
もちろんそのすべてが、無実の罪で投獄されたものであり、文先生を良く思わなかった人たちによって受けた迫害でした。
しかし真のお父様の監獄生活にも、個人として受けられた迫害と、メシヤとして、再臨主として受けられた迫害がありました。
そのような観点でここではもう一度、6度の監獄生活を具体的にみて行こうと思います。
①京畿道警察部での受難(1944.10.~1945.2.)
★韓国人留学生会地下活動
早稲田大学の政経科に通っている友達がいましたが、その友達は共産主義を勉強していました。
日本の帝国主義を打倒するために、共同戦線を広げていきました。
先生も日帝時代に地下工作をし、留学生を管理していた責任者でした。そこで「何か問題があれば、全部私に罪を押しつけなさい」と言いました。
★京畿道警察部に連行
1944年10月、新婚の家に突然日本の警察がやってきて、「早稲田大学の経済学部に通っていた誰それを知っているか」と尋ねるなり、先生を京畿道警察部に連行しました。共産主義者として引っ張られていった友人の口から、先生の名前が出たことが理由でした。(自叙伝92P)
★日警の苛酷な拷問
日本の高等刑事や特課刑事たちにむち打たれて、水を飲まされ、ありとあらゆることをされました。
先生は血を吐いて、生死の境を何度も行き来しました。
しかし監獄では、共に仕事をした同志たちに対する責任と義理のために、命を懸けて「私一人で戦った」と言いました。 殺すと威嚇されても口を割らなかったのです。百余名の命が私一人にかかり、生死の問題がかかっているので、話すことができますか。話さないのです。
②解放直後の定州郭山支署収監事件(1945.10、一週間ほど)
北側に行って、監獄に入って出てくるのが3度です。3度まで監獄暮らしをしましたが、その時は、お金のために引っ掛かって入ったのです。貨幣問題のために引っ掛かったのです。それはお金に対する未練を、全部切るためなのです。一切を否定させるための神様の作戦でした。
③平壌大同保安署の受難と腹中教(1946.8.11~11.21)
★大同保安署に拘束(1946.8.11)
1946年6月、共産党は北韓全域において新しい宗教団体に対する弾圧を始め、許孝彬氏の集団が摘発されました。
そして1946年8月11日、その神霊集団の許孝彬氏ゆえに、文先生が引っ張られて入ったのです。
★腹中教徒釈放のための獄中措置
監獄に入ると、その教団全体に責任をもっていた黄元信という人がいました。
それで私は「このようにして、許孝彬氏に早く出るように言いなさい」と言ったのです。しかし、信徒たちはいくら勧告しても聞こうとはしませんでした。
許夫人の夫が先生の部屋に来たので同じ話をしましたが「自分は妻に従うつもりだ」と言い受け入れませんでした。
9月18日の朝、最後に先生自身が一通の手紙を書きました。
彼女は、その手紙を読んでから破いてしまおうとしたが、共産党の監視員に見つかってしまい、先生は拷問を受けました。
★釈放(1946.11.21)と腹中教の結末
その時、先生は韓国にいる米軍のスパイとして告発されて、ソ連の調査官によって尋問を受けましたが、無罪だということが判明し、11月21日に門の外に放り出されて釈放されました。
そのころ、大同保安署の回りをエリコ城のように7回まわれば先生に会えるという啓示を受けた弟子たちが、祈りながら回っていると、先生が放り出されてきました。その時の先生は、口も利けず、血を吐き、全身を殴られたため思うように動けず、とても生きた人間の姿ではありませんでした。
弟子たちは先生を教会まで連れて帰り、いろいろ治療を施し、漢方薬を飲ませ、手を尽くしましたが、ついに先生は意識を失ってしまわれました。
そのような姿を見ながら弟子たちは、「これでは先生は死んでしまう。もうおしまいだ」と叫びながら泣いていました。
しばらくして、奇跡的に先生は意識を回復されたのです。先生が再び生き返ったことは、一つの奇跡でした。
★腹中教の結末
許孝彬集団の失敗のゆえに、1950年に韓国戦争が起きた時、彼らはすべて虐殺されました。
許孝彬氏以下、すべての監獄にいた人々を、共産党たちが全部虐殺してしまったのです。
④興南監獄の受難 (1948.2.22~1950.10.14)
★平壌での三ヵ月受難と興南移送(1948.2.22~5.20)
・「平壌内務署」拘束(1948.2.22、日曜日午前10時)
その当時、北韓政府の政策は、すべての宗教を抹殺することでした。また、既成教会の牧師たちは、彼らの教会の多くの信徒たちが先生の所に来たために、先生を告発しました。それで先生は、(北韓で)三度目の投獄をされました。
★興南肥料工場での強制労働
・興南徳里特別労務者収容所に投獄(1948.6.21~1950.10.14)
先生は北韓の共産党の監獄に入っていき、2年8ヵ月の間、重労働をしました。肥料工場の仕事でした。
金日成はソ連の経験を見本にして、すべての囚人を三年の間、困難な労働に動員し、彼らを死ぬまでそのままにしておきました。
★韓国動乱勃発と興南監獄出監(1950.10.14)
・韓国動乱勃発(950.5.25)
メシヤが生まれる場所は祖国なのです。韓国動乱は、神様の摂理から見るとき、祖国の主権回復に血を流すための世界的な動員であったという結論が出るのです。イエス様の顕現とともに、韓国動乱は、神様の聖殿を取り戻すための神聖な戦争なのです。
・国連軍の興南上陸と劇的な出獄(1950.10.14、深夜2時ごろ)
国連軍は、ここ興南を北韓地域の中で一番先に奪還しました。それは、神様が急いで救わなければならない一人の息子が、そこにいるためでした。
10月12日、刑期が7年以上である囚人、およそ70名ほどを、山の中で全部殺してしまいました。
その当時、先生の刑期は5年であったために、その次の次の日が私が引っ張られていく番でした。
13日、マッカーサー元帥の国連軍が興南に上陸し、総攻撃があって、10月14日、共産軍が退いて、夜中の2時ごろから先生たちは監獄から抜け出てきました。それは全く神様の恩寵でした。
⑤西大門刑務所の受難 七・四事件、1955.7.4~10.4
★キリスト教二世の集結地である梨花女子大と延世大
延世大学と梨花女子大学は、一つは長老派の協助を受け、もう一つはメソジスト教団の協助を受けていました。
当時、梨花女子大は副総長の朴マリヤを中心として、李承晩大統領の夫人と連結していました。それゆえその時政府と完全に一つとなることができるようになっていたのです。
その時、金活蘭と白南柱の二人が一つとなって、統一教会を完全に迎えていたなら、先生が一気にキリスト教文化圏であるアメリカに渡っていくのです。李承晩を通し、国を中心としていくらでもできるというのです。
★梨花女子大、延世大退職退学事件(1955.3~7)
・梨花女子大、延世大事件の主導勢力
金活蘭と朴マリヤが主導となって、景武台(大統領官邸)に行って偽りの証言をし、五つの部署の長官を動かして、統一教会をなくしてしまい、先生を完全に埋葬してしまおうとしました。
韓国において、梨花女子大学、延世大学が統一教会を除去するように、宣教師らが背後で操って、金活蘭を動かしてきたのです。
・一方的な退職退学処分(梨花女子大教授5名、学生14名、延世大教授1名、学生2名)
梨花女子大は緊急措置として、学校を取るのか、統一教会と文先生を取るのか、二者択一を迫ったのです。
五大科長たちを全部追放し、統一教会の主謀者となった学生たちを何の相談もなく、一方的に退学処分にしたのです。その時、5人の教授と学生14人が退学になり、歴史にない事件が起きたのです。
★梨花女子大、延世大事件の結果と影響
・再出発基盤の瓦解
1955年度までに最初の摂理から10年がたっていましたが、遅くはなかったのです。
ところがその時、退学事件が起きたことにより、先生は監獄に行くことになり、完全に排除されるようになったのでした。
イエス様の時代にユダヤ教が反対したのと同じようになったのです。4000年の間、天が準備したすべてのことを失ってしまいました。
国家と既成教会が一つになって、李承晩主権下の五大長官が、統一教会をなくすために挙国的に総動員されたのです。
・事件の主導者たちの結末
朴マリヤと李起鵬を中心として、大韓民国大統領の李博士、フランチェスカ、金活蘭が国を滅ぼす元祖となったのです。
李起鵬と朴マリヤは、息子によって天罰を受けました。
李博士も朴マリヤも、一家は、全部死んだのです。
天に反対した者たちの行く末は、悲惨なものです。李博士の末路が哀れでしょう。
金活蘭がどうなりましたか。雷に打たれるようになったのです。どうして天国に行けるでしょうか。
※ウィキペディアより
李起鵬は1960年に、不正選挙を通じて副大統領に当選したが、四月革命で失脚し、景武台(現青瓦台)に身を避けたが、長男の李康石(陸軍将校で、李承晩の養子だった)の手によって、朴瑪利亜夫人や次男(李康旭)とともに射殺された(長男も自決した)。
★ソウル中部警察署(治安局特殊情報課)連行
・7・4事件(1955.7.4午後5時、奨忠洞教会)
1954年に韓国は国家的な反対をしました。それで1955年7月4日に監獄に入っていったのです。
彼らは一つになって「文鮮明を捕まえて殺せ」と言ったのです。
神様が数千年間準備した国と民主世界のすべての基台が崩壊してしまったのです。
★西大門刑務所出監(1955.10.4)
・無罪の言い渡しと釈放
公判廷で無罪釈放となることにより、新しい統一教会の歴史は始まったのです。
あらゆる調査をしても何も出てこないので、10月4日に無罪釈放となりました。
⑥ダンベリー収監(1984.7.20~1985.8.20)
★文先生に対する裁判
アメリカでは、宗教団体の財産は最高責任者の名義で管理されるのが普通で、このことはアメリカの憲法によって保証されています。そのため、統一教会も、その資金を文鮮明先生の名義で銀行に預金していました。
ところが、1981年10月に、1973年から75年の3年間、文先生名義の銀行預金の利息について納税申告を怠っていたという脱税容疑で、ニューヨーク州連邦地方裁判所に起訴されたのでした。
また、その預金を担当していたアメリカの伝道責任者の神山威氏も起訴されました。
1982年7月16日に第一審の連邦地方裁で、懲役10か月、罰金2万5000ドルの有罪判決が下されました。
★ダンベリー収監
1984年5月14日、アメリカの連邦最高裁は文先生の上告申請を却下しました。
7月20日の午後11時、文先生と神山威氏は、コネチカット州にあるダンベリー連邦刑務所に収監されました。
★荒野40年路程終結のための摂理
文先生は、第一次の摂理の失敗以後、それを蕩減復帰するため、キリスト教とアメリカを中心とする民主世界の失敗を蕩減復帰しようとしてこられました。
そのために、全米の30万の牧師たちに原理のビデオテープと文先生の説教集などを配布され、原理の研修ゼミに参加するよう呼びかけました。その結果、4万名の人々がゼミに参加し、7000名以上の牧師たちが日本と韓国の統一教会を訪問するに至りました。
先生を中心としたご家庭と、祝福家庭の二世と、一世と、教会員とが一つとなり、統一教会とキリスト教会、アメリカを中心とする民主世界が一体化した荒野路程終結のための条件が立てられました。そして、8月15日を超えた16日に一勝日が宣布されたのでした。
文先生は、1985年8月20日に釈放されました。その日の夜、「神と自由のバンケット」が開催され、全米から60以上の教派から2000名の牧師と聖職者が参加しました。
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このブログ記事は、このサイト『驕りし選民 繰り返される摂理の失敗』の一部を掲載したものです。
『驕りし選民 繰り返される摂理の失敗』は、今まで罪深いサタン国家と教育され、献金の無間地獄へと追いやられていた日本人を解放するためのサイトです。
実際は罪深いどころか、日本無くして1920年に真のお父様を韓半島へとお迎えすることはできませんでした。
日本が朝鮮半島に進出することにより、朝鮮にキリスト教が復興し、ロシアの侵略による共産化を防ぐことができました。
このサイトではこのような歴史的真実を明らかにすることにより、神と真のお父様の真の願いを追い求めたいと思います。
同時にこのサイトでは、本当に罪深く、自ら滅びの道を歩んでいるのは誰なのかを明らかにしていきます。 ここで明らかにされることにより、自ら悔い改め、滅びの運命から逃れることを期待するものです。
今回の記事は、 真のお父様 の監獄生活 の一部です。
ご興味を持っていただけましたら、本文をお読みいただければ幸いです。
※テーマ一覧
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真のお父様 の監獄生活
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