(四)ロシア(ソ連)

目次

(四)ロシア(ソ連)

現在日本が抱えている領土問題は、韓国との間における竹島問題、中国との間における尖閣諸島問題、ロシアとの間における北方領土問題があります。
竹島問題は第二次大戦後、韓国の初代大統領であった李承晩が、日本をはじめとして国際的な合意も得ずして一方的に李承晩ラインを制定し、日本の漁船を拿捕するなどして力づくで日本を排除し、竹島を実効支配したことから始まった領土問題です。
尖閣諸島問題は、もともと関心も示さず、問題自体が存在しなかった尖閣諸島付近に、石油等豊富な地下資源があることが判明したことによって、中国が一方的に尖閣諸島を手に入れようと、横やりを入れてきたことによって発生した問題です。
そして北方領土問題は、第二次大戦終了間際の1945年の8月8日、中立条約を結んでいたソ連が、原爆投下によって衰弱していた日本に対して一方的に宣戦布告し、満州国、朝鮮、南樺太、千島列島に、総兵力147万人を動員して軍事侵攻を行うことによって、いわば火事場泥棒のようにして奪われた日本古来の領土です。さらに言えば千島列島全域は、日本が正式にロシアとの合意のもとに手に入れた本来日本の領土なのです。

このように日本の防衛を語るうえで欠かせないのが、ロシアによる脅威があります。
ロシアのウクライナ侵攻前までは、日本とロシアとの間では比較的良好な関係が築かれてきましたが、その良好な関係は果たして本物だったのか、はたまた単なる見せかけだったのかを知るうえで、注目すべき発言がロシアの元大統領メドベージェフによって、2022年3月22日に自身のSNSに投稿されました。
そこではロシア外務省が、日本との平和条約交渉を中断するなどと表明したことについて、「歴史的にみて理にかなっていて、公正な決定だ」「この問題で日本側と一致が見られないことは互いに分かっていた。交渉は常に儀礼的なものだった」と指摘し、ロシアの改正憲法には領土の割譲禁止が盛り込まれているとして、「この問題は終了した」と主張しています。

≪参考≫ 日ロの平和条約交渉中断は「理にかなっている」 メドベージェフ前大統領

つまり北方領土の返還も、4島返還の前に2島を返還する案も、全ては日本から経済的援助を引き出すためのポーズであり、端から北方領土を返還するつもりなどなかったという本音を投稿しているのです。
単純で人のいい日本人は、ここでもいいように振り回され、目の前にニンジンを吊るされた馬のごとくに、ロシアの策略にまんまと嵌り、いいように踊らされていたというわけです。
つまりロシア人も、私たち日本人と同じ感性を持つ、同じ価値観を持った人間と思ってしまったことが大きな間違いであり、ロシア人の感性、ロシア人の価値観を正しく理解せずして、正しくロシアとの付き合いなどできるはずがないということなのです。

私たちが直接知っているロシア人たちは、どんな性格の人なのかということを、個別に知ることも重要ですが、それ以上に重要なことは、歴史的に見てロシアは日本に対して、さらには周辺諸国に対して、どのような姿勢で対してきたのかを知らなければ、ロシアとの正しい付き合い方などできないということなのです。
例えばロシアのプーチン大統領と日本の安倍晋三首相は、長く良好な関係を築いてきました。個人的にはかなり親しく、お互いを尊重しあいながら接してきたことでしょうが、結局プーチン大統領は、偉大だったロシア帝国の再興の為、失われたソ連の栄光を取り戻すために、日本を利用しようとしていただけだったということが明らかになったわけです。
つまりどれだけ個人的に親しくなったとしても、歴史的な背景、思想的な背景を加味したうえで、ロシアが今までどのような歴史を綴ってきたのかを知らなければ、本音の部分を理解することなどできないということです。

ロシアを知るためにロシアが置かれた環境、そしてそこから来る歴史について、ここではそのポイントを見てみることにいたします。

(1)ロシア帝国の領土拡大(Wikipedia ロシア帝国の歴史より)

ロシアの歴史は1000年以上あり、6~7世紀のロシア平野における東スラブ人の再定住から始まります。
ロシアの歴史は大きく7つの時代に分けることができます。

・キエフ大公国   (9~12世紀)
・タタールのくびき (モンゴルによる支配、13~15世紀)
・モスクワ大公国  (1340~1547年)
・ロシア・ツァーリ国(1547~1721年)
・ロシア帝国    (1721~1917年)
・ソビエト社会主義共和国連邦(1917~1991年)
・ロシア連邦    (1991年以降)

キエフ大公国は今のウクライナ地域であり、モスクワ大公国は今のロシア連邦のモスクワ地域に過ぎませんでした。
モンゴルによる支配から脱したロシア帝国の源流は、モスクワ大公国にあります。イヴァン3世によって1480年にタタールのくびきから解放され、彼とその子のヴァシーリー3世の時代に周辺諸公国を併合して、北東ロシアの統一をほぼ完成させました。
その後ロシア・ツァーリ国において、イヴァン4世(雷帝)が初代ツァーリ(君主)の地位に就き、専制君主政治を始めることによって急速に領土の拡大が図られました。イヴァン4世は、行政・軍事の積極的な改革や、大貴族を排除した官僚による政治を試み、強引な圧政や大規模な粛清によって恐怖政治を強きました。
その後ロマノフ朝、そしてロシア帝国が成立しますが、この間もロシアは常に領土の拡大を図り、周辺諸国との間での戦争が絶えませんでした。
18世紀はじめの大北方戦争の勝利によって領土を大きく拡大し、18世紀後半にはポーランドを分割し、現在のリトアニア、ベラルーシ、ウクライナ西部に相当する地域を併合し、南部ではクリミア半島を版図に納めています。またウクライナを直接支配に置きました。
19世紀はじめのナポレオン戦争中に、ロシアはフィンランドを属国とし、オスマン帝国からベッサラビアを割譲させ、さらにペルシアとの抗争に勝利して南コーカサスに進出しています。
ナポレオン没落後のウィーン体制下ではポーランド王国を属国に加え、19世紀後半にポーランドの自治は失われて直接支配になり、東方では中央アジアを侵略して領土に加えています。
こうしてロシア帝国は、モスクワ周辺の一地域から始まり、現在のような世界一の広大な領土を誇る大国へと成長しましたが、その間常に周辺諸国に対する侵略を繰り返してきた侵略国家であり、ロシアの歴史もまた侵略の歴史そのものだったということが分かります。

1、南下政策(Wikipedia 南下政策より)

ロシアを理解するうえで欠かせないものが南下政策です。ロシアによる南下政策の最大の目的は、年間を通して凍結することのない「不凍港」の獲得でした。
ロシアは広大な面積を有するものの、国土の大部分は冬季には多くの港湾が結氷するため、政治経済上ないし軍事戦略上、不凍港の獲得が国家的な宿願の一つとなっており、歴史的に常に南下政策を推進してきました。
一方西欧諸国にとっては大国ロシアの南下政策は常に脅威となっており、19世紀以降の欧州史における大きな軸となってきました。

2、南下政策の諸相

・18世紀末以降、ロシアはインド、ペルシアに目を付けイギリスと衝突する様になる。
 最初の積極的な南下外征はオスマン帝国に支配されていた黒海沿岸のクリミア半島であった。
・1853年:クリミア戦争によりオスマン帝国と直接開戦。
・1854年:日本で千島列島、全樺太島やカムチャツカ半島までも明記した「改正蝦夷全図」が制作される。
・1855年:江戸幕府との間に樺太方面での国境を定めない日露和親条約締結。
・1858年:太平天国の乱とアロー戦争の同時進行で混乱していた大清帝国との間で、黒竜江北岸のロシアへの割譲と烏蘇里江以東の外満洲を清露共同管理地とするアイグン条約を締結。
・1860年:弱体化した大清帝国との間に、外満洲の割譲を決めた北京条約を締結、外満洲全土を獲得。不凍港のウラジオストクを得る。
・1867年:日露間樺太島仮規則を締結。
・1875年:樺太千島交換条約を締結。樺太全島がロシア領になり、千島列島全域は日本の領土となった。
・1877年:露土戦争によってオスマン帝国に勝利。サン・ステファノ条約により一時的にバルカン半島の覇権を握った。
・1891年:ウラジオストクから太平洋に進出するルートとなるシベリア鉄道が着工される。
・1895年:三国干渉により、東アジアにおける第2の不凍港となる旅順租借地を獲得。
・1902年:大韓帝国の支配権をロシアと争う日本と、ロシアの海洋進出を恐れるイギリスにより、日英同盟が締結される。
・1904年:日露戦争の結果、ポーツマス条約によって日本に旅順と東清鉄道南満州支線(後の南満州鉄道)と南樺太を奪われ、朝鮮進出も絶望的になると、中央アジア進出を積極的に行うようになる。
・第二次世界大戦を通じて東欧諸国を支配下におき衛星国家とする。
・1945年8月8日にソ連は対日参戦をし、南樺太と千島列島を占領。戦後に北方領土問題となる。さらに北海道の半分をソ連占領地とする要求も出されたがトルーマン大統領によって拒否された。

このようにロシア・ソ連の南下政策を見ると、ロシアは常に不凍港を求め、隙あらば他国を侵略してきたことが分かります。そんなロシアの侵略に対し、常に阻止しようとしてきたのが日本であり、イギリス、ドイツを中心とするヨーロッパ諸国でした。
つまり私たちが認識しておかなければいけないことは、ソ連であろうがロシアであろうが、ロシアは常に不凍港を求め、南下政策を進めるという名目で、他国を侵略し続けてきた侵略国家であったという事実です。

(2)社会主義国ソ連の誕生

1、ロシア革命 (ジャパンナレッジ『ロシア革命』より)

1905年の革命(第1次革命)と1917年の革命から成り、後者はさらに(二月革命)と(十月革命)に区分される。この(十月革命)は、マルクス主義にもとづく社会主義社会の実現を目ざす政権を、人類史上初めて誕生させた。

現在から見れば、元々モスクワ周辺の小さな地域から始まったモスクワ大公国を源流とするロシアは、常に周辺諸国に対する侵略を続け、領土を拡大することで、東ヨーロッパからシベリア、極東アジアに至る広大な領土を誇る侵略国家でした。
元々侵略を国是とするような国家・ロシアは、ロシア革命によって社会主義国家・ソ連となると、マルクスによる共産主義世界の実現を目指すようになり、第二次大戦後共産主義の輸出を積極的に行うことで世界の共産化が進み、1991年12月にソ連が崩壊するまで、世界の3分の2の人口と、3分の2の地域を共産圏とするほどに世界の共産化は進みました。

2、ソビエト連邦の衛星国

ソビエト社会主義共和国連邦建国の理念である共産主義思想は、世界の共産化を目指しているため、ロシアはソビエト時代、共産主義思想を周辺各国に伝播し、社会主義政権を次々と樹立していきました。その中心となるのが東欧諸国でした。第二次大戦後、東欧諸国が社会主義国家となり、ソ連の衛星国となっていった過程について見てみることにいたします。

① モンゴル人民共和国

モンゴルの独立運動家たちはモンゴル人民革命党を組織しソビエト連邦共産党と接触、その支援を受けて中国の軍隊と統治機関を一掃し、1922年立憲君主体制を樹立、1924年共和制へ移行「モンゴル人民共和国」が成立した。

② ドイツ民主共和国(東ドイツ)

東西ドイツ基本条約で西ドイツ(ドイツ連邦共和国)に東ドイツ(ドイツ民主共和国)の存在を認めさせたのは1972年の事であった。また、ドイツは東西冷戦の最前線であり、東ドイツには大量のソ連軍が、西ドイツにはアメリカ軍などの北大西洋条約機構(NATO)軍が駐留していた。
そのため、東ドイツは、国家存続のためにソ連に対して常に忠実である必要が生じ、1974年に改正された東ドイツ憲法第6条第2項では「ドイツ民主共和国はソビエト社会主義共和国連邦との恒久的で取り消しえない同盟関係にある。」と規定され、東ドイツは東欧革命の発生までソ連の衛星国であり続けた。

③ チェコスロバキア社会主義共和国

チェコスロバキアは第二次世界大戦前は議会制民主主義の国だった。1948年に非共産党系の閣僚が辞任したのに乗じて共産党が実権を掌握し、直後の総選挙で圧勝。ソ連の衛星国の一つとなった。
スターリン主義的手法で国内の社会主義化を進め、1960年に新憲法を採択して正式に社会主義共和国となった。
1968年に共産党による改革運動の「プラハの春」が起こると、ワルシャワ条約機構軍が侵入し、この動きを圧殺した。
その後はソ連の衛星国として存在し続けたが、1989年にビロード革命で共産党政権が崩壊した。

④ ハンガリー人民共和国

第二次世界大戦では枢軸国側だったハンガリーは、ソ連に全土を占領されて敗戦。以降ソ連の影響下に置かれた。
1956年に反ソ暴動となるハンガリー動乱が勃発したが、ワルシャワ条約機構軍の介入により圧殺された。
1968年頃から西側の経済を取り入れ、1980年代には、国民は保守派、改革派のどちらかを選択出来る様になり、衛星国という概念は薄れていった。ポーランドの変革に刺激を受け、改革派が実権を握り、独自に民主化への道を歩んでいった。

⑤ ポーランド人民共和国

ポーランドは戦前独立を遂げていたが、ナチス・ソ連の双方によって侵攻された。
戦後もソ連の傀儡政権を元にポーランド人民共和国となり衛星国化された。人民共和国の首相は、スターリン主義的な恐怖政治を敷いた。ソ連はポーランドに多大な影響力を持ち、自国の軍隊「赤軍」を駐在させた。
ポーランド政府は無計画な経済政策により急激なインフレ急騰を招き、食料・物資不足が長く続き、1956年、1970年、1980年と暴力的なストライキや暴動が各地で勃発、軍が出動し暴力的に暴動を鎮圧した。
1989年、ポーランド統一労働者党政権と他の民主化勢力との円卓会議が行なわれ、自由選挙の実施が合意された。

⑥ ブルガリア人民共和国

ブルガリアは歴史的にロシアとの親和性が強かったため、第二次世界大戦におけるソ連軍の侵攻も、ドイツからの解放と受け止める雰囲気が強かった。そのため、比較的素直にソ連による支配を受け入れ、「ソビエト連邦の第16番目の加盟共和国」とも揶揄されるほどの関係を築いた。
この緊密な状態は両国の指導者が交代しても続き、1989年の民主化運動で共産党政権が退場するまで変わらなかった。

⑦ ユーゴスラビア連邦人民共和国

ユーゴスラビアは東欧で唯一ナチスからの自力解放に成功し、パルチザンの指導者だったチトーが独自の社会主義路線の建設を行った。またアメリカによるヨーロッパ復興計画・マーシャル・プランも積極的に受け入れたため、ソ連との反目を引き起こし、1960年代まではソ連との間で断続的に国交断絶と回復を繰り返した。
その後もユーゴスラビアは、西側陣営にも東側陣営にも属さない非同盟運動を巧みにリードした結果、ソ連で脱スターリン化が意識され、西側との平和共存路線が主張された1960年代以降は、ソ連との関係が比較的安定した。

⑧ ルーマニア人民共和国

ルーマニアは第二次世界大戦で枢軸国に付いたが、ソ連軍の侵攻・全土占領により従来の立憲王国は崩壊し、ルーマニア共産党による独裁支配が完成した。他の東欧諸国と同様にソ連に対して忠実で、典型的な衛星国の一つであった。
しかし、1965年にチャウシェスク政権が登場すると、豊富な石油生産を背景にした経済建設に成功した事で、ソ連から一定の距離をおき、当時ソ連と対立していた中国へと接近し、ソ連との断交と復縁を繰り返した。またソ連共産党との確執のあった日本共産党にも接近した。

⑨ アルバニア人民共和国

アルバニアは第二次世界大戦中は、パルチザン闘争でイタリアやドイツと戦った。
戦後はホッジャによる独裁体制が成立し、社会主義国建設のためソ連への依存度を高めた。しかし、1956年にフルシチョフがスターリン批判を行うと、ホッジャは激しく反発しソ連との関係を断絶した。
1962年にはコメコン、1968年にはワルシャワ条約機構から脱退し、ソ連の衛星国からは完全に脱却した。
ヨーロッパの周辺国とは事実上の鎖国状態となり、ソ連を仮想敵国と見なして国内の兵力増強に努め、孤立無援な「バルカンの孤児」と呼ばれる状態が東欧革命まで続いた。

ワルシャワ条約機構(コトバンクより)

ソ連および東欧圏7か国(アルバニア、ブルガリア、ハンガリー、東ドイツ、ポーランド、ルーマニア、チェコスロバキア)が結成した安全保障機構。北大西洋条約機構(NATO)に対抗し、ソビエト連邦の主導で作られた。
加盟国中の1国に対する武力攻撃は、全加盟国に対する攻撃とみなして、集団的自衛権を行使することを規定し、その他軍縮、紛争の平和的処理、主権尊重、内政不干渉、経済・文化関係での協力なども目的とした。
ソ連の崩壊により、1991年7月に解体した。

3、慰安婦、強姦問題(Wikipedia 慰安婦より)

第二次世界大戦当時の戦地での性政策には、大別して自由恋愛型(私娼中心。イギリス、アメリカ)、慰安所型(日本、ドイツ、フランス)、レイプ型(ソ連)の3つの類型がありました。
ソ連では慰安所は設置されていないがレイプが黙認されていました。スターリンは敵国の女性を戦利品とする「戦地妻」を容認し、「わが軍兵士のふるまいは絶対に正しい」と兵士を鼓舞しました。ソ連軍は占領したドイツで集団強姦を広範囲に行い、レイプの被害者数はベルリンでは9万5000人~13万人、東プロイセン等では140万人、ドイツ全域で200万人にのぼります。
日本との間においては、ソ連軍によって監禁された約170名の日本人女性が強姦を受け、23人が集団自決した敦化事件も起きています。
また大古洞開拓団では、ソ連軍による慰安婦提供の要請を受けて、2名の志願慰安婦を提供した事例もあります。
満州開拓団にソ連軍が進駐した際には、兵士の妻でなく単身女性が慰安婦として提供された黒川開拓団や、郡上村開拓団の例があります。

4、ソ連の戦争犯罪(Wikipedia ソビエト連邦による戦争犯罪より)

ソ連はロシア帝国が批准したハーグ陸戦条約の継承を認めず、1955年まで批准しなかった。このことはソ連軍による戦争犯罪行為が合理化され得る状況を作り出していた。

・内務人民委員部(NKVD)
内務人民委員部(NKVD)の主たる機能は、ソ連各州の安全を保護することであり、これは「階級の敵」に対する大規模な政治的抑圧によって達成されていた。彼らはソビエト連邦が政策に敵対的であり、敵と協力する可能性があると見なした複数の民族集団の集団追放と強制移住を行った(チェチェン人、クリミア・タタール人、朝鮮民族等)。
第二次世界大戦中の1941年、ドイツ軍がソ連領内に侵入・撤退する際、ソビエト赤軍に解放・占領された地域において大量の検挙、追放、および処刑を行った。対象者は対独協力者や非共産主義レジスタンスであり、ウクライナにおけるUPA、リトアニアの「森の兄弟」、ポーランド国内軍などで、犠牲者は全体で約100,000人と推測されている。

① エストニア

1940年8月6日、エストニアはソ連に正式に併合され、エストニア・ソビエト社会主義共和国と名称が変更された。
1941年、エストニア人約34,000人がソビエト赤軍により強制的に徴集されたが、その内戦争を生きのびたのは30%以下であった。ドイツ軍が侵入している間に避難することができなかった政治犯はNKVDにより処刑された。当時のエストニア人口の三分の一近くにあたる300,000人以上の市民が逮捕、殺人、追放その他の弾圧を受けた。ソ連による統治の結果、エストニアは抑圧行為や移住、戦争により少なくとも200,000人、すなわちその人口の20%を失うこととなった。
ソ連による様々な抑圧行為は、エストニア人たちにゲリラ戦を決起させた「森の兄弟」により、1950年代後半まで続けられた。戦争による人的・経済的損失に加え、1950年代後半までに市民数千人が命を失い、数百人の政治犯および数万人の人々が追放された。

② ラトビア

1939年、ラトビアは独ソ不可侵条約の犠牲となり、1940年8月5日、正式にソ連により併合された。そして残忍な傀儡政権としてラトビア・ソビエト社会主義共和国が成立、大規模な恐怖政治が行われ、市民の自由剥奪、経済システムやラトビア文化の破壊がもたらされた。全体で200,000人を越える人々がソ連によるラトビア抑圧で苦しむこととなり、その内60%程度はシベリアおよび極東のグラグ(強制労働収容所)に送られ、260,000人以上のラトビア人が国から逃れることを強いられた。

③ リトアニア

リトアニアは他のバルト諸国と同様、独ソ不可侵条約の犠牲となり、1940年6月15日ソ連に併合された。ソ連による併合は大規模な恐怖政治に帰着し、市民の自由剥奪、経済システムやリトアニア文化の破壊をもたらした。1940年から1941年の間にリトアニア人数千人が逮捕され、何百人もの政治犯が任意に処刑された。6月には17,000人以上がシベリアに追放された。
その後、リトアニアはドイツの占領下となったが、1944年、ソビエト赤軍によって再占領された。
リトアニアにおける武力抵抗を制圧する間、ソ連当局は何千人もの抵抗者および彼らを支援したとされた民間人を処刑した。約300,000人のリトアニア人が追放、もしくは政治犯として強制収容所へ送致された。
ソ連統治の結果、リトアニアは780,000人近い市民を失ったと推測され、その内およそ440,000人は戦争難民であった。

④ ポーランド

≪1939~41年≫
ソ連は1939年にポーランドに侵攻し、旧ポーランド東部地域を侵略・併合。多数のポーランド人捕虜をソ連領内に連れ帰り、1940年4月頃、スモレンスク近郊に位置するカティンの森で、約22,000人のポーランド軍将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者を虐殺する「カティンの森事件」が発生した。
ソ連に占領された旧ポーランド東部において、1939年から41年の間に、約150万人の住民が追放され、戦争を生き延びることができたのは僅かである。
アメリカの大学教授、キャロル・キグリーによれば、1939年にソビエト赤軍の捕虜となったポーランド将兵320,000人の内、少なくとも三分の一が殺害された。

≪1944~45年≫
ポーランドにおけるナチスの極悪な統治は1944年後半、ソビエト赤軍の進撃により終了したが、新たにソ連による抑圧と交代しただけであった。ソビエト赤軍将兵はしばしば略奪や強姦などでポーランド人を襲ったため、住民たちはソ連体制を恐れ、憎んだ。
ソビエト赤軍部隊はポーランドパルチザンと民間人の行動に対抗する活動を行い、2,000人以上のポーランド人が拘留され、約600人が殺害された。
ポーランド側の資料では、ポーランドの都市でのソビエト赤軍による大規模な強姦行為が示されている。クラクフではソビエト赤軍進入の後、ソビエト将兵らは私有財産の略奪を行い、ポーランド人女性や少女に対して大規模な強姦行為を行った。この行為はあまりに大規模なものだったため、ソ連によって任命されたポーランドの共産主義者でさえスターリンへ抗議の手紙を送る事態となった。

⑤ フィンランド

1941年から1944年にかけて、フィンランド・ソ連間で継続して戦争が行われた。戦争の間ソ連パルチザンは、フィンランド領土へ侵入し村落などの民間目標を攻撃した。2006年11月、フィンランド当局は残虐行為を撮影した写真の機密扱いを解いたが、これらには女性、子供が殺害された写真も含まれている。

⑥ ハンガリー

≪1944~45年≫
ブダペスト占領の間、50,000人の女性、および少女が強姦されたと推測されている。ハンガリーの少女の大半はソビエト赤軍の宿舎に連行されて投獄、強姦され、時には殺害された。
ソビエト将兵がドイツ国内のスウェーデン大使館を攻撃したように、これらの残虐行為は中立国の大使館員にさえ及んだ。

⑦ ユーゴスラビア

1944年、ソビエト赤軍がユーゴスラビアの極小さな地域を通過したが、この時、ユーゴスラビア・パルチザンは、ソビエト赤軍が強姦や略奪を行うことにより、パルチザンへの支持が弱まることを大きく懸念していた。強姦事件の内、少なくとも121件が後に文書化、その中の111件が殺人を含んでいた。また、1,204件の略奪が文書化されている。ユーゴスラビア・パルチザンの指導者が赤軍の振る舞いへの強い不満を表明したことに対し、スターリンは「血と火と死の中を潜り抜けて数千Kmを進んだ兵士らが女性と楽しんだり、若干のつまらんものを奪いたくなるのがヤツには理解できていない」と応じている。

⑧ ドイツ

進撃するソビエト赤軍の到着前に逃亡したドイツ人の多くは、避難の途中でソビエト赤軍に遭遇し、寒さや飢えあるいは戦闘に巻き込まれ死亡した。民間人は戦車による轢殺、射殺その他の手段で殺害され、また女性や少女は強姦され、遺棄された。これに加え、ソビエト空軍の戦闘爆撃機が最前線後方へ深く侵入して避難者の列を襲撃した。
1945年春に占領された小都市デミーンでは降伏したにも関わらず、900人近い民間人が略奪、強姦、処刑の事例を知って自殺をした。
トロイエンブリーツェンの虐殺では1945年5月1日、少なくとも88人の男性が集められて射殺された。事件はソビエト赤軍による祝勝会において多数の少女が強姦された後、何者かによってソビエト赤軍大佐が撃たれた後に発生した。
1945年、ソビエト赤軍によってベルリンが占領されると、最大規模の強姦事件が発生した。犠牲者総数は数万人から200万人と推測されている。1947年から1948年にかけての冬まで強姦は続いた。

1989年、ドイツ政府によって発表された調査報告ではヨーロッパ東部でのドイツ民間人の犠牲者を635,000人と推測した。
ソビエト連邦による戦争犯罪の結果によるものが270,000人、終戦後のドイツ人追放の間に各国で死亡したものが160,000人、ソ連における強制労働で死亡したものが205,000人である。これにはベルリンの戦いで死亡した民間人、少なくとも125,000人は含まれていない。

5、社会主義国ソ連の崩壊(Wikipedia ソビエト連邦の崩壊より)

1917年11月7日のロシア革命(十月革命)からロシア内戦を経て、1922年12月30日に成立したソビエト連邦は、69年後の1991年12月25日に崩壊した。同日、ソビエト連邦に比して規模が小さいロシア連邦が成立した。かつてのソビエト連邦を構成した国々は、それぞれが独立国として別々の外交政策を採り始めた。

・エストニア共和国  1991年 8月20日
・リトアニア共和国  1990年 3月11日
・ラトビア共和国  1990年 5月 4日
・グルジア共和国  1991年 4月 9日
・ロシア連邦    1991年12月12日
・ウズベキスタン共和国1991年 8月31日
・モルドバ共和国  1991年 8月27日
・ウクライナ共和国  1991年 8月24日
・ベラルーシ共和国  1991年12月10日
・トルクメニスタン  1991年10月27日
・アルメニア共和国  1991年 9月21日
・ジキスタン共和国  1991年 9月 9日
・カザフスタン共和国 1991年12月16日
・キルギスタン共和国 1991年 8月31日

6、第二次戦後における主な紛争

社会主義国ソ連が崩壊し、ロシアは共産主義を放棄し民主化の道を歩み、それに伴いソ連の衛星国をはじめとして、ソ連邦を構成していた多くの国々が独立を果たしましたが、だからと言ってロシアの侵略性が無くなったわけではありませんでした。第二次大戦が終わり、ソ連が崩壊しても、ロシアを中心とした紛争は、ロシア周辺で断続的に続いたのです。
次にロシアを中心とした紛争を見てみることにいたします。

1994年:チェチェン紛争(コトバンク より)

ロシアからの分離独立を目指すチェチェン共和国とロシアとの間で、1994年から2度にわたり戦われた民族紛争。
チェチェンの主要民族であるチェチェン人は独立志向が強く、帝政ロシア時代から自治と独立を求め戦ってきた。
ソビエト連邦崩壊直前の1991年11月、チェチェンはロシア共和国からの分離独立を宣言。ロシアは独立を阻止しようとしたが果たせなかった。
1994年12月11日、ロシア軍がチェチェンに侵攻し、第1次チェチェン紛争が勃発した。
ロシア軍は1995年3月、首都グロズヌイを制圧したが、チェチェン側はゲリラ戦による抵抗を続けた。
1997年5月、チェチェンとロシアは暫定平和条約に調印し、ロシア軍はチェチェンから撤退した。
1999年8月、チェチェン武装勢力が隣国ダゲスタン共和国を攻撃したことから、ロシア軍が再びチェチェンに侵攻、第2次チェチェン紛争が始まった。チェチェン側は再びゲリラ戦で応じると同時に、ロシア国内で爆弾テロなどを行なった。
2度の紛争による死者は10万人を超えた。

南オセチア紛争(コトバンク より)

グルジア、南オセチヤ自治州の分離をめぐる紛争。
18世紀末に帝政ロシアに併合されたペルシア系のオセチヤ人は、スターリン時代に2つに分割され、北オセチヤはロシア、南オセチヤはグルジアにそれぞれ編入された。
ソ連の崩壊に伴い、1991年グルジアが独立を宣言すると、南オセチヤはロシア連邦内の北オセチヤとの民族的関係が切断されることを恐れ、グルジアから分離し、ロシアへの編入を求める動きを開始した。これに対しグルジア中央政府は南オセチヤに軍事介入、内戦状態に突入した。
92年グルジアとロシアとの間に和平合意が成立し事態は沈静化した。

南オセチア紛争 (2008年)(Wikipediaより)

1991~92年の南オセチア紛争は、グルジア人とオセチア人との間に起こったものであり、ジョージア国内の非政府支配地域である南オセチアを、ロシアに帰属させるかどうかが争われたものであった。

2008年8月7日、グルジア軍は南オセチア地区の首都ツヒンヴァリに、陸軍・空軍を投入して大規模な軍事攻撃を行った。
ロシアはグルジア軍の動きを受けて南オセチアに軍を差し向け、グルジア領内への爆撃を開始し、グルジア沿岸を封鎖し、グルジア西部に進入した。この後5日間は激しい戦闘が行われ、グルジア軍は南オセチア及びアブハジアから撤退した。
ロシア軍は追撃の手を緩めず、これまでグルジアが支配していたポティやゴリといった都市を占領した。
当時欧州連合議長国であったフランスの仲介で8月12日に休戦提案が行われ、ロシア側の停戦受け入れ後、ロシア軍はグルジア領内からの撤退を開始した。
8月26日、ロシアは国際的にはグルジア領とされている南オセチアとアブハジアの独立を承認した。
10月8日、ロシア軍は国際合意を受けてグルジア領内から完全に撤退した。

(3)ウクライナ問題 (Wikipedia ウクライナより)

中世ウクライナは東スラブ文化の中心地であり、キエフ大公国という強力な国家がウクライナのアイデンティティの基礎を形成した。しかし、13世紀以降、モンゴル帝国の侵攻により領土が破壊され、ポーランド・リトアニア共和国、オーストリア゠ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア・ツァーリ国など、さまざまな国によって支配され、分割された。
17世紀から18世紀にかけてコサック・ヘーチマン国家が誕生し繁栄したが、その領土は最終的にポーランドとロシア帝国の間で分割された。
ロシア革命後、ウクライナの民族自決運動が起こり、1917年6月23日、国際的に認められたウクライナ人民共和国が宣言された。
第二次世界大戦後、ウクライナ西部はウクライナ・ソビエト社会主義共和国に合併され、国全体がソビエト連邦の一部となった。その後ソビエト連邦の崩壊に伴い、1991年にウクライナは独立を果たした。
独立後、ウクライナは中立国を宣言し、ロシアや他のCIS諸国(ソ連邦を構成していた12か国)と限定的な軍事提携を結びつつ、1994年にはNATOとも提携を結んでいる。
2013年、ヤヌコビッチ政権がウクライナ・EU連合協定の停止と、ロシアとの経済関係の緊密化を決定した後、数か月にわたるデモや抗議運動が始まり、ヤヌコビッチの打倒と新政府の樹立につながった。これらの出来事が、2014年3月のロシアによるクリミアの併合、2014年4月のドンバス戦争の背景となった。
2016年1月1日、ウクライナは欧州連合との深層・包括的自由貿易圏の経済コンポーネントを申請した。
2021年3月からロシアとの間で緊張が高まり、2022年2月24日、ロシアのウクライナ侵攻が開始された。

1、ホロドモール (Wikipedia ホロドモールより)

1932年から1933年にかけてウクライナなど、ソビエト連邦各地でおきた大飢饉。特にウクライナでの被害が甚大で、かつウクライナを標的としたソビエトの政策が飢饉の原因であったことから、ホロドモールはソビエトの政策に抵抗したウクライナの農民に対するソビエト国家による攻撃の集大成であり、人工的・人為的な大飢饉であったとされている。
ソビエトにとって、ウクライナから収穫される小麦の輸出は貴重な外貨獲得手段であった。ソ連政府は、食糧独占令(1918年)により穀物徴発を開始するとともに、「クラーク(富農)」を「人民の敵」であるとして逮捕し、強制収容所に連行するクラーク撲滅運動も開始した。
クラークと認定されたウクライナ農民たちは、ソ連政府による強制移住により家畜や農地を奪われ、クラークと認定されなくとも、少ない食料や種子にいたるまで強制的に収奪された結果、大規模な飢饉が発生した。飢餓が発生してもウクライナの小麦は徴発され、輸出に回され続けたため、それが更なる食糧不足を招くことになった。
飢餓による餓死者と、強制収容所での犠牲者には諸説があるが、330万人から1450万人もの餓死者・犠牲者を出したという。

2、クリミア危機(Wikipedia クリミア自治共和国より)

① ソ連のクリミア支配まで

1921年、ソ連はクリミア自治ソビエト社会主義共和国を置いたが、第二次世界大戦中に自治共和国は廃止され、クリミアはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のクリミア州となった。
1954年クリミアは、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国へと移管された。
1991年のソ連崩壊に絡む12月1日のウクライナの住民投票で、住民はソ連から独立することを支持した。

② ウクライナ時代

1992年5月5日、ウクライナ共和国クリミア州議会は、ウクライナからの独立を決議しクリミア共和国を宣言したが、ウクライナ議会は5月15日に独立無効を決議した。
クリミア州議会は当初ロシアによる支援を受けていたが、ロシアに対する国際的批判が高まり、ロシアはクリミア独立運動への支援を取りやめたため、運動は急速に沈静化した。その結果クリミア議会もウクライナ共和国内の自治共和国であることを認めるようになり、1996年6月28日に初めてウクライナ憲法が成立した際に、ウクライナ国内でのクリミア自治共和国の地位が定められ、1998年10月21日にはクリミア自治共和国憲法が制定された。

③ 2014年クリミア危機

2013年から2014年にかけて、ウクライナ経済の低迷をきっかけに、ウクライナ国内で親露派と親欧米派の対立が激化し、2014年2月24日、ヤヌコーヴィチ政権が崩壊し暫定政権が発足するが、暫定政権への移行に反対する親ロシア派のデモが拡大し、反ロシア派住民との間に衝突が発生した。
2月27日、武装勢力が地方政府庁舎と議会を占拠。翌日には首都シンフェロポリの空港が占拠される。ロシア系武装勢力が占拠する中でクリミア議会は首相を解任し、親露派のセルゲイ・アクショーノフを新首相に任命した。
3月1日、ロシアが自国民保護を名目に本格的に軍事介入を開始し、以降ロシアが半島を支配している。

④ ロシアへの編入

2014年3月11日に、自治共和国議会とセヴァストポリ市議会はクリミア独立宣言を採択した上で、3月16日にはウクライナ内の自治共和国に留まって自治権を拡大するか、ロシアに編入されるかを決める住民投票を実施した。その結果、ロシアへの編入が賛成多数となり、翌17日にはクリミア共和国としてセヴァストポリとともに独立し、主権国家としてロシア連邦と権限分割条約を結び、ロシアの連邦構成主体として編入されることを求める決議を採択した。
ロシアのプーチン大統領は、同日中にクリミアの主権を承認する大統領令に署名し、翌3月18日、クリミアのアクショーノフ首相と編入に関する条約に調印した。
プーチン大統領、および「クリミア共和国」は条約署名をもってクリミア共和国およびセヴァストポリ市はロシアに編入され、ロシア連邦の構成主体になったとの見解を示しており、一方でクリミアの独立とロシアへの編入を認めないウクライナとの間で論争が続いている。

3、2022年:ウクライナ侵攻

2021年初頭からロシアは長期にわたり、ベラルーシ側を含むウクライナ国境周辺への軍事力の増強を行っていました。
同年12月3日、ワシントン・ポスト紙が、米情報機関からの報告書の内容として、「ロシアが2022年早々にも最大17万5000人を動員したウクライナ侵攻を計画している」とスクープ。
2022年2月10日、アメリカのバイデン大統領は、ロシアがウクライナに侵攻しても、アメリカ軍をウクライナに派遣すれば「世界大戦になる」として、アメリカ軍をウクライナ国内に派遣することはないと断言しました。
後にバイデン大統領は自らの発言は撤回したものの、プーチン大統領は、ロシアがウクライナに侵攻しても、アメリカが参戦することはないと確信し、2月24日ロシアによるウクライナ侵攻が始まりました。
当初ロシアは2日もあれば首都キエフは陥落し、ウクライナ侵攻に成功するだろうとの予測によってウクライナ侵攻を始めたのか、ロシアの国営メディア・ロシア通信が、ロシアによる軍事侵攻が始まってから2日後の2月26日に自社サイトに「(ソ連が崩壊した)1991年の悲劇は克服された」として、ロシア軍の「戦勝」を祝福。「反ロシアとしてのウクライナはもはや存在しない」と掲載しました。
記事は予定稿と見られすぐに削除されたものの、ベラルーシのメディアは「公開は事前に計画され、ロシアはウクライナを2日間で占領する予定だった」と伝えています。

ロシアのウクライナ侵攻は、ゼレンスキー大統領がアメリカ・イギリスの勧告を受け入れず、国外退避を拒否してウクライナに留まり、ウクライナ軍を率いて徹底抗戦を宣言することで、戦争の長期化を余儀なくされました。
世界中がウクライナの大統領と国民の勇気に同調し、ウクライナ支援に回ることでロシアは孤立化し、ロシアは民間人をも無差別に攻撃するようになり、その凄惨さは世界中の人々に知られるようになりました。
特にロシア軍が撤退した後に明らかになった事実は、ロシア軍は住民の虐殺の事実を隠ぺいするために、火葬用の移動式トレーラーを十数台用意していたこと、一般住民の女性たちはロシア軍によってレイプされ、住民たちに恐怖を植え付けていたこと、避難させるとの名目で住民たちを拉致し、強制移住させている事などがあります。
虐殺、レイプ、強制移住などはロシアの伝統とも言っていい手口であり、日本が第二次大戦に降伏した時にも、非武装だった日本人に対して満州、樺太、北方領土において犯した蛮行と全く同じ犯行を行っています。
しかしもう一方では、戦争が長期化することによって、世界の防衛戦略、エネルギー問題、食糧問題、経済制裁による経済体制等、第二次大戦以降の既存の体制は崩れ去り、新しい秩序が生まれようとしています。このロシア・ウクライナ問題を機に、世界の価値観が大きく刷新される時が来たことを感じさせます。

(4)日ロ関係史

ロシアと日本との直接的な関係は、明治維新の頃にまで遡ります。
当時は大航海時代の真っただ中であり、西洋列強が未開発国を力で制圧し、植民地とすることが当たり前の時代でした。
広大な領土を誇り、日本と唯一国境を接する国家・ロシアは、領土のほとんどが冬になると凍結していたため、政治経済上、軍事戦略上、不凍港の獲得が最も大きな課題でした。
西洋列強の植民地となった国々の悲惨な現状を知り、不凍港を求めて満州、朝鮮にまで迫ってくるロシアに対して、日本が脅威を感じるのは当然の成り行きでした。

1、日露戦争

1868年頃から始まる明治維新以来日本は、欧米文化を取り入れ、富国強兵を図ることで欧米の脅威に対抗しようとしますが、日本にとっての最も現実的な脅威は大国ロシアの南下政策でした。
このままでは日本も危ないという危機感から日本は大陸へと進出し、清・朝鮮と共に自衛のための協定を組もうと試みますが、当時近代化に遅れ、2度にわたるアヘン戦争に敗れ、イギリスをはじめとして列強によって半植民地状態とされていた清と、権力闘争に明け暮れる王室と、腐敗した官僚たちが支配する朝鮮は、自らの権力と利益を守ることしか考えず、ロシアの脅威など気に留めることもなかったため、日本のみが孤独にロシアの脅威に対抗するしか道はありませんでした。
一方ロシアを最大の敵としていた当時のイギリスは、1902年に日英同盟を結ぶことで、ロシアの脅威を日本と共有し、日本を前面に立ててロシアを撃退する作戦に打って出ました。
日本は朝鮮を守るために1894年に清との間で日清戦争を戦い、日英同盟によるイギリスの支援を受けて、1904年日露戦争を戦います。
戦力的にも圧倒的に優位にあったロシアとの戦いは、日本にとって無謀な戦いにも見えましたが、いざ戦いが始まると日本は各地の戦いでロシア軍を圧倒しました。劣勢に立たされたロシア軍は起死回生をはかり、当時世界最強とも言われていたバルチック艦隊を投入しましたが、日本海で迎え撃った日本の連合艦隊は、バルチック艦隊をことごとく撃破し、海戦史上類を見ないほどの完全勝利を収めました。
こうして日露戦争に日本が勝利することにより、日本は南下するロシアからアジアを守り抜き、列強の仲間入りを果たしたのでした。

詳細は日露戦争をご覧ください。

2、シベリア出兵(Wikipediaより)

1918年から1922年までの間に、第一次世界大戦の連合国(イギリス・日本・フランス・イタリア・アメリカ・カナダ・中華民国)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」ことを名目に、シベリアに共同出兵しました。
この時、ヨーロッパ戦線で手一杯になっているイギリス・フランス等は、日本とアメリカに対して、シベリア出兵の主力になるように打診し、日本もアメリカの呼びかけに応じる形でシベリアに共同出兵しました。
シベリア出兵の主な目的は、ロシア革命が勃発し、社会主義国家となったソ連・共産主義の封じ込めにありました。
1919年秋にはヨーロッパ情勢の変化もあり、イギリス・フランスは撤兵し、1920年にはアメリカも撤兵しましたが、日本は居留民保護と、ロシア過激派が朝鮮や満州に影響力を伸ばすことの防止を名目に駐兵を継続しましたが、1922年10月には日本軍も撤兵することになりました。

3、尼港事件(Wikipediaより)

ロシア内戦中の1920年3月から5月にかけて、アムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、トリャピーツィンが指揮した赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件。
冬期に港が氷結して交通が遮断され、孤立した状況のニコラエフスクを、パルチザン部隊4,300人(ロシア人3,000人、朝鮮人1,000人、中国人300人)が占領し、ニコラエフスク住民に対する略奪・処刑を行うとともに、日本軍守備隊に武器引渡を要求し、これに対して決起した日本軍守備隊を中国海軍と共同で殲滅すると、老若男女の別なく数千人の市民を虐殺した。
殺された住人は総人口のおよそ半分、6,000人を超えるともいわれ、日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊を含んでいた。日本人犠牲者の総数は判明しているだけで731人にのぼり、ほぼ皆殺しにされた。

『ニコラエフスクの破壊』の著者グートマンは次のように要約している。「赤軍が開城合意条項を裏切り、文化教養のある層を殺戮している中で、ロシア人はひそかに日本領事を頼り、日本人居留民も、次は自分たちではないかと不安を訴えた。日本軍は、毎日のように、合意遵守の必要を赤軍本部に訴え、略奪、殺人、拘束に抗議したが、無視され続け、パルチザンによって破棄された。日本軍将校が、トリャピーツィン本人に抗議したときには、『内政問題なのであなた方には関係がない』と言い捨てた。しかし、トリャピーツィンにとって日本軍は邪魔だったので、挑発して片付けてしまうことを目論み、武装解除と武器引渡しを求める最後通牒をつきつけた」。

① 中国海軍による艦砲射撃

中国軍砲艦による砲撃で、日本軍兵営は悽惨極まるほどに破壊された。
パルチザン部隊は、日本領事館を包囲すると火を放ち、中国軍から日本軍を砲撃するためとして貸与された艦載砲とガトリング砲で攻撃した。
グートマンによれば、「石田領事は、領事館前の階段に現れて、『領事館とここにいる人は、国際法によって保護されている。そして、領事館は、不可侵である』と説得をはじめたが、一斉射撃が浴びせられ、領事は血まみれで倒れた」。

② 朝鮮人パルチザン

朝鮮人パルチザンは、抗日独立運動の一環として、パルチザン部隊に加わる者が多数いた。ウラジオストクにいた朝鮮独立運動指導者李東輝が、レーニンから資金援助を受け、赤軍と協力する方針が示されていた。
トリャピーツィンが朝鮮独立への赤軍の援助を確約したことで、市内の韓人会100人ほどは、書記のワシリー朴を中心として第2中隊を組織し、パルチザンの傘下に入ると忠実な手先となり、監獄の監視、死刑執行などを確実に行ったが、軍規は厳格で、徴発、没収、略奪には参加しなかった。しかし外部から来た朴イリア率いる第1中隊は、横暴で士気が低かった。

③ パルチザンによる日本人虐殺

グートマンによれば、パルチザンが最初に襲った日本人居留民は、花街の娼妓たちだった。「残酷な獣の手で見つけ出された不幸な婦人は、誰も恐ろしい運命から救うことはできなかった。通りは、血の海と化し、婦人の死体が散乱した」「3月13日の夜の間に、12日の午前中に監禁された日本人の女性と子供が、アムール河岸に連れて行かれ、残酷に殺された。彼らの死体は、雪の穴の中に投げ込まれた。3歳までの特に幼い子供は、生きたまま穴に投げ込まれた。野獣化したパルチザンでさえ、子供を殺すためだけには、手を上げられなかった。まだ生きたまま、母親の死体の側で、雪で覆われた。死にきれていない婦人のうめき声や小さなか弱い体を雪で覆われた子供の悲鳴や泣き叫ぶ声が、地表を這い続けた。そして、突き出された小さな手や足が、人間の凶暴性と残酷性を示す気味悪い光景を与えていた」

④ パルチザンと生き残ったニコラエフスクの人々の宣誓証言。

・P.Ya.ウォロビエフ(パルチザン)、トリャピーツィンの裁判における副議長
「トリャピーツィンへの奉仕活動の中で、委員となるためには、少なくとも18人の人間を殺さなければならなかった。裁判で、トリャピーツィンが何故、そして何の罪で日本人居留民は殺されたのか、と尋ねられた時、彼は、『あなた達が殺人を行ったのだ』と、答えた。そして『あなたは命令を発しなかったか?』という質問に対して、『いいえ』と、答えた。しかし、例外なく全ての日本人居留民を殺すこととの命令の書かれた、ウスチ・アムグン連隊司令官宛てに出された、トリャピーツィンとニーナの署名のある文書が存在した」

・Ya.G.ドビソフ
「彼らは、平和的な日本人居留民の家に押入り、金目の物を要求した後、彼らを殺した。もし、日本軍司令部が居留民に、これから起こることを警告したり、武器を与えたりしていたら、後に起こったようなことは起こらなかったであろう。その場合には、おそらく、パルチザン達は持ちこたえられなかったであろう。監獄と民兵営舎に収容されていた800人を超える囚人が、解放されていたに違いないからである。しかしあいにく、女子供を含めて、日本人居留民はすでに全員殺されていた。私自身、多くの囚人がどこかに連れ去られるのを見た。その後、銃声と打撃音、悲鳴が聞こえてきた」

・I.R.ベルマント
「パルチザン達から聞いたのだが、朝鮮人と中国人パルチザンは女、子供もかまわず、狂ったように日本人を殺した。もっともロシア人の中にも、50歩100歩の輩もいたが、という。多くのパルチザンが、自分の戦果を自慢し合っていた。」

4、ノモンハン事件(コトバンク より)

1939年5~9月にノモンハンで起こった軍事衝突事件。満州国とモンゴル人民共和国の国境で勃発した両国警備隊の交戦をきっかけに、満州国を支配していた日本と、モンゴルと相互援助協定を結んでいたソ連がそれぞれ軍を投入。大規模な戦闘に発展しました。
日本の関東軍は大本営の方針に反し独断でソ連領内へ戦線を拡大しましたが、ソ連の充実した機甲部隊によって壊滅的な打撃を受けたとされました。しかしのちにソ連の発表は偽りであったことがわかり、日本の戦死・戦傷者は約17,700人近く、ソ連は25,655人であったことが分かっています。
さらに、日本と同盟関係にあったドイツがソ連との間で独ソ不可侵条約を締結し、ソ連の兵力増強が可能となったため、大本営は作戦中止を決め、9月16日にモスクワで停戦協定が結ばれました。

5、ソ連対日戦参戦

1941年 4月 6日、ソ連との衝突を回避するため、日ソ中立条約を締結。
1945年2月のヤルタ会談で、ルーズベルトがスターリンに対日参戦を依頼して、戦後の利権を約束。今日に至る北方領土問題の真の原因となる。
1945年 7月26日、ポツダム宣言。アメリカ・イギリス・中国の三国首脳名で日本に無条件降伏を勧告。
 日本は日ソ中立条約を締結しているソ連に対し、「和平の仲介を依頼する特使を近く派遣する予定」との趣旨を伝え、返事を待っていた。
・1945年 8月 8日、ソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄し、対日参戦。
1945年 8月 9日、宣戦布告の1時間後ソ連が満洲に侵攻。
1945年 8月14日、日本、ポツダム宣言受諾。
1945年 8月16日、ソ連が日本領南樺太へ侵攻。
 「日ソ中立条約」の有効期間中であり、既にポツダム宣言を受諾した日本に対し、ソ連は日露戦争の報復として一方的侵攻を続ける。
・1945年 8月18日、ソ連が千島列島へ侵攻。北方領土占領。
 オトポール事件において多数のユダヤ難民を避難させた樋口季一郎少将は、1945年8月18日以降、占守島、南樺太における日本の北方領土防衛部隊を指揮し、ソ連侵攻軍に抗戦し甚大な損害を与える。樋口季一郎少将による抵抗が無かったら、北海道までソ連が侵攻していた可能性もある。事実 8月16日にスターリンは、北方領土だけではなく、北海道の半分をソ連占領地とするよう、トルーマン大統領に求めていた。
・1945年 9月 5日 ソ連軍が停戦。
1946年12月19日に「ソ連地区引揚に関する米ソ暫定協定」が成立し、抑留者の帰国が始まった。

6、ソ連の北方領土侵攻の経緯 (ソ連の占拠 より)

① 日ソ中立条約の破棄

1945年4月5日、日ソ両国で批准した「日ソ中立条約」の不延長を通告してきたソ連のモロトフ外相は、同年8月8日クレムリンに佐藤駐ソ大使を呼び、8月9日から日本と戦争状態になることを通告し、宣戦布告しました。
佐藤駐ソ大使は、宣戦布告を直ちに東京に打電しましたが、この公電は日本に到着していませんでした。そのため、日本政府はソ連の宣戦布告をすぐに知ることができませんでした。

② ソ連軍の満州・樺太侵攻

宣戦布告がまだ日本政府に達していない8月9日未明、ワシレフスキー将軍の率いる160万のソ連極東軍は、ソ連と満州の国境、モンゴル、ウラジオストク、ハバロフスクの3方面から総攻撃を開始しました。
これは、「日ソ中立条約」の有効期限内(1946年4月25日失効)のことでした。
また、樺太では、バーツロフ大将の指揮する約35,000人が、8月11日に北緯50度の国境を越えて侵入したため、約20,000人の日本軍と戦闘になりました。
8月14日、日本は「ポツダム宣言」を受諾して無条件降伏しました。

③ ソ連軍の千島侵攻

8月16日にグネチコ将軍の指揮するソ連軍がカムチャツカ方面から行動を開始し、8月18日には占守島に上陸、約25,000人の日本守備隊と交戦しました。しかし、日本軍は北部方面軍司令部の命令により交戦を中止し、8月23日に日ソ両軍現地停戦協定を締結し、武器をソ連軍に引き渡しました。
その後も、ソ連軍は千島列島各地に駐屯する日本兵を武装解除しながら南下を続け、8月31日までに得撫島の占領を完了しました

④ ソ連軍の北方領土占領

ソ連軍は、8月28日に択捉島に上陸、9月1日には国後島、色丹島に達し、9月3日には歯舞群島にまでおよび、9月5日までにことごとく占領しました。
なお、9月2日には、東京湾上の戦艦「ミズーリ」甲板で、ソ連代表も参加して降伏文書の調印式が行われました。
翌1946年2月2日、ソ連は「南サハリン州の設置に関するソ連邦最高会議幹部会令」を発し、北方四島を自国領に編入してしまいました。

7、満州におけるソ連の戦争犯罪

① 葛根廟事件(Wikipedia 葛根廟事件より)

葛根廟事件は1945年8月14日、満州国の葛根廟付近において、日本人避難民約千数百人が攻撃され、1,000人以上が虐殺された事件。避難民の約9割以上が女性や子供であった。ソ連軍が去った後に生存者も自決したり、再び中国人暴民やソ連兵などの襲撃を受けたりした。

8月14日午前11時40分頃、行動隊が葛根廟丘陵付近まで到達したところで、ソ連軍中型戦車14両とトラック20台に搭乗した歩兵部隊に遭遇したため、浅野参事官は白旗を掲げたが機関銃で射殺された。ソ連軍は戦車が機関銃で攻撃を加えながら、避難民を轢き殺していった。戦車の後方からはひき殺された人々が、キャタピラに巻き込まれ宙に舞いだしたという。ソ連軍戦車は何度も避難民めがけて突入しながら攻撃を繰り返した。戦車による襲撃が止むとトラックから降りたソ連兵が生存者を見つけ次第次々と射殺し、銃剣で止めを刺していった。2時間余りの間に非武装の女性、子供を主体とした1,000人以上が殺害され、生存者は百数十名にすぎないとされている。殺害を免れた者も大勢が自決した。

生存者に対する襲撃も執拗を極め、中国人暴民によって下着にいたるまで身ぐるみ全てを剥がされるなどした。ある女性はソ連兵に子供を殺され、続いて襲ってきた暴民に衣服を全てはぎ取られた上に鎌で乳房を切り落とされている。暴民たちは、生き残った母子を見つけると母親を棒で殴りつけ、子供を奪っていった。当時は日本人の男児は300円、女児は500円で売買されるのが一般的であった。

8月15日の終戦後も、避難民に対する襲撃は続いた。事件後に10人余りの婦女子の一団に加わった12歳の少女の証言によると、少女が加わった女性たちの一団は、暴民に襲われて衣服を奪い取られ暴行を受けるなどしながら、鎮西駅にたどりついた。女性たちは畑の空き家に身を寄せることにしたが、夜になるとソ連兵に発見され、深夜まで暴行が行われた。暴行が終わるとソ連軍兵士たちは家に火を付け、女性たちを焼き殺そうとした。少女と妹は窓のそばにいたために助かったが、その後残留孤児として生きた。
一方、中国人、モンゴル人、朝鮮人のなかには生存者に食事を提供し、子供を手厚く育てる者もいた。

② 敦化事件(Wikipedia 敦化事件より)

1945年8月9日未明に、突如としてソビエト連邦が満洲国に侵攻し、敦化に近い東部国境付近では、関東軍・満洲国軍がソ連軍と交戦していたが、8月15日に敗戦を迎えると、満洲国吉林省敦化市内では満人や朝鮮人の一部による略奪・放火・日本人女性への暴行が行われるようになった。
8月19日、ソ連軍が敦化市内に進駐してきたため、2,000人いた敦化守備隊は降伏し武装解除され、8月22日、ソ連軍は日満パルプ製造敦化工場に進駐した。
敦化事件とは、8月26日からソ連軍によって工場の女性社員170人ほどが連日に渡り集団強姦され続け、28人の婦女子が隠し持っていた青酸カリで集団自決を図り、23人が死亡、5人が生き残った事件。

8、樺太におけるソ連の戦争犯罪(Wikipediaより)

終戦後の1945年8月16日早朝、ソ連軍が塔路港に上陸を開始、塔路の町は焼失。
上恵須取へ避難する民間人は、無差別な機銃掃射を受けて死傷者が続出。上恵須取の町も8月17日午後に空襲を受けて焼失。
8月20日、ソ連軍船団が真岡に上陸を開始。日本軍は8月16日に郊外へ兵を引き上げ武装解除待ちの状態であり、市街地で攻撃目標にされたのは民間人だった。
ソ連軍は町長以下町の重役たちを、占領当日海岸に連行し銃殺。日本軍が派遣した停戦軍使らも射殺される異常事態であった。また、真岡近郊では裸の若い女性の遺体が転がっているのも目撃されており、真岡郵便電信局事件も発生。

8月22日未明、知取町で停戦が成立していたにもかかわらず、豊原も白昼に空襲を受けた。豊原駅には白旗が掲げられ、避難民があふれる広場の救護所には赤十字の対空標示があったが、何度も攻撃され100人以上が死亡、400戸が焼失。全ての民家の屋根には大きな白旗が取り付けられたが、ソビエト軍は猛爆撃を行った。
同22日にはソ連太平洋艦隊の2隻の潜水艦が、避難民を乗せた引き揚げ船を雷撃し、1,700人以上が殺害された(三船殉難事件)。国籍を秘した潜水艦は沈没した船から海に投げ出された人々に機銃掃射でとどめを刺した。民間人の死者は三船殉難を含め3,500~3,700人と推定される 。

① 真岡郵便電信局事件

太平洋戦争後の樺太の戦いで、真岡郵便局の電話交換手が集団自決した事件。
当時日本領だった樺太では、一方的に条約破棄したソ連軍と日本軍の戦闘が、1945年8月15日の玉音放送後も続いていた。
真岡郵便局では、8月20日にソ連軍が上陸すると、最後まで職務を全うするとした女性電話交換手10人が、局内で青酸カリ、あるいはモルヒネで自決を図り、9人が死亡した。
自決した電話交換手以外に残留していた局員や、当日勤務に就いていなかった職員からも、ソ連兵による爆殺、射殺による死者が出ており、真岡局の殉職者は19人にのぼる。

② 三船殉難事件(Wikipedia 三船殉難事件より)

第二次世界大戦終戦後の1945年8月22日、北海道留萌沖の海上で、樺太からの疎開者を主体とする日本の緊急疎開船3隻(小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸)が、ソ連軍の潜水艦からの攻撃を受け、小笠原丸と泰東丸が沈没して1,708人以上が犠牲となった事件。

・小笠原丸沈没
1945年8月20日、疎開船の1隻である小笠原丸が、疎開者1,500人ほどを乗せて大泊から稚内に渡り、約600人の乗客と、約100人の船員・軍人を乗せて小樽に向った。その途中8月22日に増毛沖の海上で、ソ連潜水艦の雷撃により撃沈された。乗員乗客638人が死亡し、生存者は61人だった。

・第二号新興丸大破
1945年8月22日に、大泊からの疎開者約3,400人を乗せ小樽へ向っていた特設砲艦第二号新興丸が、留萌沖の海上でソ連の潜水艦からの魚雷を右舷船倉に受け、約5m~10mの穴が開いた。さらにこの直後に浮上した潜水艦により銃撃を受け応戦した。
この攻撃によって、船内で確認された遺体は229体。行方不明者も含めると400人近くが犠牲となった。

・泰東丸沈没
1945年8月22日、大泊からの疎開者を乗せて小樽へ向っていた貨物船の泰東丸が、北海道留萌小平町沖において、浮上したソ連の潜水艦の砲撃を受けた。同船には白旗が掲げられていたが砲撃は続けられ、約20分後に機関部への命中弾により「泰東丸」は沈没した。乗員乗客約780人中667人が死亡した。

9、シベリア抑留(Wikipediaより)

シベリア抑留は、第二次世界大戦の終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜や民間人らが、ソ連によって主にシベリアなどへ労働力として移送隔離され、長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により、多数の人的被害を生じたことに対する呼称。
ソ連によって戦後に抑留された日本人は約575,000人に上る。厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約58,000人が死亡した。
このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に反するものであった。

① 収容所での生活

シベリア抑留では、その過酷で劣悪な環境と強制労働が原因で、抑留者全体の1割にあたる約6万人の死亡者を出した。
一方、共産主義の教育が定期的に施され、もともと共産主義的だったり、隠れ共産党員だった捕虜が大手を振い、また「教育」によって感化された捕虜も多数いる。
「革命」や「階級闘争」の思想を育てるため、兵卒や下士官に元上官を殴らせることもしばしばあったため、兵卒や下士官が熱心な共産主義者になることが多かった。また志位正二(志位和夫日本共産党委員長の叔父)などソ連のスパイとなり、戦後日本で諜報活動を行った者もいる。
共産主義者の捕虜は「民主運動」を行い、革命思想を持たない捕虜を「反動」「前職者」と呼び、「反ソ分子」の執拗な吊し上げや露骨な暴行を行った。

② 犠牲者数

ソ連側(現ロシア政府)はこれまでに約41,000人分の死者名簿を作成し、日本側に引き渡している。
アメリカの研究者ウイリアム・ニンモによれば、確認済みの死者は254,000人、行方不明・推定死亡者は93,000名で、事実上、約340,000人の日本人が死亡したという。
シベリア抑留中にソ連の軍事法廷で日本人144人が銃殺刑の判決を受けたことが判明しており、うち33人への執行が確認されている。(79人のその後は不明)

「満洲・北朝鮮・(旧)樺太におけるソ連軍の日本人虐待は、口ではいい表せないほどひどいものだった。暴行と強奪は日常的だった。そして残虐な行為を犯した。とくに野獣のように女性を凌辱し、生きているものは全て片っぱしから殺した。ソ連軍の兵士たちが日本の女性にしたことは、いまでもぞっとするほど残虐なものだった」(『検証 シベリア抑留』ウィリアム・ニンモ)

(5)ロシア人の国民性

ここまで見てきてわかることは、ロシアはソ連時代を含め、常に周辺諸国を侵略し続ける、侵略国家だったという歴史的事実です。
しかしその背景には、ロシア自体が十字軍時代のドイツや、モンゴル帝国によって侵略を受けた歴史があり、その経験から、力をつけることによって国を守り、さらには周辺国に侵略を繰り返すことによって領土を広げ、南下政策を取ることによってさらに軍事的・経済的にも優位に立とうとする必要性が生まれた結果とも見ることができます。
目的達成のためになら嘘をつくことなど当たり前であり、占領地においてレイプや残虐行為を繰り返すことによって恐怖を植え付け、占領地や周辺国がロシアに対して戦いを挑むとどうなるのかを見せつけるために、敢えて残虐性を際立たせてきたともみられます。

1991年にソ連が崩壊し、ロシアとなることによって民主主義陣営の中に組み込まれ、私たちとも価値観を共有する国家に生まれ変わったと信じてきたのが、間違いであったと明らかになったのが、2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻です。
中国が市場経済を取り入れることによって西側陣営に組み込まれ、実質的に共産主義を放棄しただろうと思い込まされてきたのと同じように、ロシアもまた歴史が示すように結局は侵略国家でしかなく、民主主義陣営とは根本的には相容れない価値観を持つ国家だったということを露呈してしまったのです。
結局は歴史が証明してくれているように、侵略を繰り返してきた国家は、時代が移り変わっても、思想信条が変わっても、その侵略性は無くならないということなのです。

一般的なロシア国民は、私たちとも良好な関係を築き、平和を愛する人たちだったとしても、いざ国家という単位になると、自国の国益を守るために周辺国に侵略し、多くの民を犠牲にすることも厭わない国民性が出てしまうということなのでしょう。
日本がそのようなロシアと真の友好関係を築くためには、ロシアに侵略性を放棄させる必要があり、その証明は北方領土の無条件返還以外にはありません。
第二次大戦終了後、武装解除した日本に一方的に侵略して略奪し、不法占拠を続ける北方領土を、自らの過ちを認め、無条件返還したときに初めて、ロシアは信用できるパートナーとなれる、第一歩を踏み出せるのです。それまではどんな甘言をささやかれても信用してはいけなく、一切妥協することなく、断固たる態度で接すべき国なのです。
一見民主化が進み、私たちと同じ価値観を共有する民族のように見えても、北方領土の返還がなされない限り、違った価値観を有する侵略国家のままだと判断するしかないのです。歴史的に培われた国民性は、一朝一夕には変われないということなのです。

日本は元々侵略国家などではありません。日露の紛争は常にロシアの南下政策に脅威を感じた日本が、日本の本土防衛の為に大陸に出兵し戦ったものであり、日本からロシアを侵略しようとしたことはありませんでした。日本はいつでもロシアが侵略性を捨て、真の友好国家となることを願っているのです。
問題はロシアです。ロシア自らが侵略性を捨てない限り、日本が侵略性を持たない国だとは、信じることはできないことでしょう。日本人も結局はロシア人と考え方は一緒だと考えれば、いつか日本も北方領土の奪還をしかけてくるのではないかと、疑心暗鬼に陥ってしまうからです。ロシアが侵略性を捨てて初めて、日本をも信用できるようになるのです。
ロシアによるウクライナ侵攻の際、ロシアは北方領土周辺での軍事訓練を繰り返し、日本を威嚇し続けました。それはロシアがウクライナにくぎ付けになっている間に、その隙を狙って日本が北方領土を奪還しにやってくると疑心暗鬼に陥っていた証拠です。つまりロシアが日本の立場なら、力づくで北方領土の奪還に動くだろうと考えていたということを表しているのです。
しかし日本は元々侵略国家などではなかったため、こんな絶好の好機にも北方領土の奪還などを考える人はほとんどいませんでした。あくまでもロシアからの譲歩を待つしかできない民族なのです。
他国から侵略されていたロシアの歴史が、そんな疑心暗鬼を生み出してしまっているだろうことは、想像に難くはありませんが、他国が全て侵略性を持つという考え方は間違いです。
ロシアも日本人の国民性を知り、日本を信じれるようになることで、いつか真のパートナーシップが築かれる日が来ることを、我々日本人は信じて待つしかできないのではないでしょうか。
その試金石となるのは北方領土の無条件返還であり、それがなされない限り日本とロシアとの真のパートナーシップもあり得ず、それまではロシアはあくまでも侵略国家であるという大前提で接するしかないのではないでしょうか。

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