原理講論
「西暦1910年、日本が強制的に韓国を合併した後には、韓国民族の自由を完全に剥奪し、数多くの愛国者を投獄、虐殺し、甚だしくは、皇宮に侵入して王妃を虐殺するなど、残虐無道な行為をほしいままにし」
⇒1895年10月8日に起こった「閔妃暗殺事件(乙未事変(いつびじへん))」のことを指すと思われる。
閔妃暗殺事件は、日本陸軍軍人三浦梧楼らの計画に基づいて、王宮に乱入した日本軍守備隊らによって王妃閔妃が暗殺された事件。
しかしこの事件は、王妃閔妃の政敵であった高宗の父興宣大院君(こうせんだいいんくん)が三浦公使と共謀して起こしたクーデターとの説も多く、複数の学説が存在している。
この事件は、日本による朝鮮統治期間以前の事件であり、日本人単独による蛮行でもなく、当時の李氏朝鮮内の政治闘争の一環であるにも関わらず、原理講論には全ては日本による残虐無道な行為のごとくに書いてある。
≪参考≫
★乙未事変(いつびじへん)(Wikipedia)
★朝鮮王朝末期の混乱
・1875年日本軍艦を攻撃した江華島事件が発生、翌1876年に日朝修好条規を締結して日本側に謝罪。
それ以降閔氏政権は開国政策に切り替え、米・仏・露などとも通商条約を結んだ。
・1882年に大院君は閔妃暗殺を狙い、クーデターに動いた(壬午事変)。
この軍乱で日本も標的とされ日本公使館が焼き討ちにされ日本人が多数殺害された。
事変後には済物浦条約が締結され、日本に謝罪を行うとともに日本人保護のために日本軍の朝鮮駐留が認められた。
清によって復権した閔氏政権は、親日開明政策から開明に消極的な親清政策へ大きく転換する事になる。
・1884年12月、清国軍と朝鮮人によって日本公使館は焼き払われ日本人数十人が殺害された(甲申政変)。
事件後には守旧派によって開化派への処刑が徹底的に行われ、開化勢力は消滅し、清国の影響力が増大した。
・1894年には東学党の乱(甲午農民戦争)が勃発すると閔氏勢力は清に援軍を求めた。
一方日本も条約と居留民保護、列強の支持を盾に介入し、乱は官軍と農民の和議という形で終結するが、清軍と日本は朝鮮に駐屯し続けた。日本は閔氏勢力を追放し、大院君に政権を担当させて日本の意に沿った内政改革を進めさせた。
・1894年日清戦争が勃発し日本軍が勝利すると、朝鮮は清への服属関係を廃棄し独立国となった。
しかしその後、朝鮮は宗主国をロシアに変える動きを見せ、閔妃はロシアに近づき、親露政策を取る事になる。
・1895年10月に閔妃が惨殺される(乙未事変)。
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このブログ記事は、このサイト『驕りし選民 繰り返される摂理の失敗』の一部を掲載したものです。
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実際は罪深いどころか、日本無くして1920年に真のお父様を韓半島へとお迎えすることはできませんでした。
日本が朝鮮半島に進出することにより、朝鮮にキリスト教が復興し、ロシアの侵略による共産化を防ぐことができました。
このサイトではこのような歴史的真実を明らかにすることにより、神と真のお父様の真の願いを追い求めたいと思います。
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