⑪李承晩大統領
李承晩博士は、大韓民国臨時政府と、大韓民国の初代大統領。
李承晩大統領は1919年4月10日、上海で結成された「大韓民国臨時政府」の初代大統領に就任。独立建国運動の中心人物となりました。
また1948年8月15日には、アメリカ合衆国後援の下、大韓民国政府樹立を宣言し、初代大統領に就任しました。
李承晩大統領は日本統治時代から独立運動の中心人物だっただけに日本を激しく嫌い、アメリカ滞在中には『日本=野蛮国論』に影響を与え、アメリカが東アジアに政治介入する政策の根拠となりました。
独島(竹島)問題の発端となった李承晩ラインをはじめとして、今日まで日本と韓国間に横たわる問題の多くが、李承晩時代に端を発しています。
李承晩大統領は失脚の瞬間まで独裁的に振る舞い、韓国国内は政治的対立で揺れ続けました。
李承晩大統領時代に朝鮮戦争が勃発し、共産主義者の粛清のため保導連盟事件をおこしました。
また済州島四・三事件、国民防衛軍事件のような失政から国民の目をそらすべく、反日政策をいたずらに煽ることにつながったとも指摘されています。
摂理的に見た場合、1945年当時李承晩大統領は、2000年かけて神が準備したキリスト教の基盤の上に立つカイン側の中心人物でしたので、真のお父様をお迎えし、神のみ旨をなす重要な役割を担っていました。
「私の従祖父(祖父の弟)であるおじいさんは、李承晩博士と友達でした。
李承晩博士が帰ってきて国を立てたのですが、私のおじいさんを必要とし、旌善にヘリコプターで三度も迎えに来たのです。
そのようにしても「あー、私は政治はしないよ。信仰する人が政治をすることは……」こう言いました。
もし李博士と一つになっていれば、私が理論を中心として私の従祖父を説得しさえすれば、李博士一族と環境与件、キリスト教幹部のすべてのことを消化するのは問題なかったでしょう。
もし、李承晩博士と三人から十二人だけでも結束していたならば、その時必ず民主世界の主導国家であるアメリカが、この国に連結されて動くことができました。」 『真の御父母様の生涯路程2』より
また真のお父様とはカインとアベル、洗礼ヨハネとイエス様のような立場にあった金百文牧師も、李承晩大統領と近い立場にありましたから、金百文牧師の集団がお父様と一つになっていたら、それが完成段階の集団となり、既成教会の牧師を連結し、政府と連結できました。
さらには梨花女子大事件当時、梨花女子大の副総長朴瑪利亜は李承晩大統領の夫人フランチェスカと繋がっていました。
また朴瑪利亜の夫李起鵬は、李承晩大統領の遠縁にあたる側近で、副大統領候補でもありました。
さらに李承晩大統領は、フランチェスカ夫人との間に実子がいなかったため、李起鵬の長男・李康石を養子に迎えていました。
そこで朴瑪利亜と李起鵬を中心として、総長金活蘭と統一教会が完全に一つになり、米国宣教師を屈服していたら、李承晩大統領、政府と一つとなり、一気にキリスト教文化圏であるアメリカに渡っていくことができました。
しかしこれらの摂理はことごとく失敗し、真のお父様と李承晩大統領は直接繋がることはできず、2000年かけて神が用意したキリスト教のすべての基盤は失われてしまいました。
それどころか最終的には梨花女子大事件を通じ、李承晩政権によって統一教会は、国を挙げての迫害を受けることとなりました。
★保導連盟事件
1948年12月1日、国家保安法を制定。
1949年6月5日、要監視対象者の教化と統制をおこなう思想保護観察団体「国民保導連盟」を組織。
この組織には転向した党員が登録されたほか、抵抗を続ける党員の家族や単なる同調者に対しても登録すれば共産主義者として処罰しないとして加盟が勧められました。保導連盟に登録すると食料配給がスムーズに行われたため、食料目当てに登録した人々も多かったといわれ、民間団体が左翼取り締まりの成績を上げるために無関係な人物を登録することもあったともいいます。
1950年6月25日朝鮮戦争が勃発、27日に李承晩大統領は保導連盟員や南朝鮮労働党関係者を処刑するよう命令。
韓国軍、警察は釜山にまで後退する一方、保導連盟に登録していた人民を危険分子と見なして大虐殺を行う。
・被害者は公式に確認されているもので4934人。
・「朝鮮戦争前後民間人虐殺真相糾明と名誉回復のための汎国民委員会」:虐殺された人数 60万人~120万人
・1960年4月、全国血虐殺者遺族会が遺族の申告をもとに作成した報告書:虐殺された人数 114万人。
・韓国政府の「真実・和解のための過去史整理委員会(ko)」:子供を含む少なくとも10万人以上の人々を殺害、遺棄。
★ 済州島四・三事件 (Wikipedia)
済州島四・三事件は、1948年4月3日から1954年9月21日までの期間に、アメリカ陸軍支配下にある済州島で起こった島民の蜂起に伴う一連の島民虐殺事件を指す。島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された。また、済州島の村々の70%が焼き尽くされた
★ 国民防衛軍事件 (Wikipedia)
国民防衛軍事件は、朝鮮戦争中の1951年1月に、韓国の国民防衛軍司令部の幹部らが、国民防衛軍に供給された軍事物資や兵糧米などを横領した事件。横領により9万名余りの韓国軍兵士が餓死したとされる。
≪参考≫
「私の従祖父(祖父の弟)であるおじいさんは、李承晩博士と友達でした。」
「私の三番目のおじいさんに、政治的な風土があれば良かったのですが、純真なキリスト教の牧師でした。李承晩博士が帰ってきて国を立てたのですが、私のおじいさんを必要としたのです。旧学問に精通し、新学問に精通しているので、旌善にいる時、ヘリコプターで三度も迎えに来たのです。そのようにしても「あー、私は政治はしないよ。信仰する人が政治をすることは……」こう言ったのです。こうして李博士と一つになれなかったのです。もし李博士と一つになっていれば、どんなに素晴らしかったでしょうか。私が理論を中心として私の従祖父を説得しさえすれば、李博士一族と環境与件、キリスト教幹部のすべてのことを消化するのは問題なかったでしょう。」
「先生はその時、二十五、六歳の若者でしたが、この国の高位層の人々と手を結んで出発しようとしたのです。皆さんが知っているように、その時の国防長官であった申性模を中心として、全般的な基盤をもって出発しようとしたことが外れたのです。最高の基準で出発し、世界的な舞台に行こうとしたことが外れたのです。もし、李承晩博士とその一派の何人かだけが、すなわち三人から十二人だけでも結束していたならば、その時必ず民主世界の主導国家であるアメリカが、この国に連結されて動くことができました。
最高の立場で出発することが神様から許された位置でしたが、二名の牧師ゆえに、すべてふさがれてしまったのです。そして最高の牧師から切られてしまうことにより、最下位の道から復帰しなければならなくなりました。
その時、先生と因縁を結んで、先頭に立って仕事をした人が既成教会の有名な牧師でしたが、彼は自分が、将来権力を握ろうという考えをもったために、先生を裏切りました。」
李承晩初代大統領 (Wikipedia)
李承晩自身は李氏朝鮮の王族の分家出身であることを誇りにしていた。
1919年4月10日、上海で結成された「大韓民国臨時政府」の初代大総理に就任し、9月11日からは臨時政府大統領となった。
朝鮮独立から2ヵ月後の1945年10月に李承晩は在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁直接統治下の朝鮮半島に戻り、独立建国運動の中心人物となった。
1948年8月15日に、アメリカ合衆国の後援の下、朝鮮半島南部のみを実効支配する大韓民国政府樹立を宣言した。李は議会多数の支持を得て初代大統領に就任した。李政権は地主・資本家および大日本帝国統治下の朝鮮人官僚を勢力基盤としていた。
李承晩は失脚の瞬間まで独裁的に振る舞った。韓国国内は政治的対立で揺れ続けた。対立は多くの場合、「体制派と反体制派」「与党と野党」の論争というよりもむしろ「李と議会政治家たち」の軋轢であった。
李は25歳年下のフランチェスカ夫人との間に実子がいなかったため、遠縁にあたる側近で副大統領候補でもあった李起鵬の長男・李康石(イ・ガンソク)を子に迎えた。康石は1957年にソウル大学校に入学をするが、その入学が特恵措置によるものであったことから騒動となった。しかし承晩の独裁下では批判が出来ようもなく、案の定「独裁者の息子」はたびたび問題を起こし、朝鮮日報社『韓国現代史119事件』ではこう記されている。
「1957年8月、9月は李承晩政権の絶頂期。李康石は街の無法者となり、警察官を殴ったり、派出所の器物を壊して歩いても、誰も告発したり、処罰するものはいなかった。」
対日政策
朝鮮の独立運動に併合前後から関わっていた経歴から、李承晩は日本を激しく嫌った。アメリカ滞在中には併合以前の李朝を「東洋の理想国家」であったと積極的に言論活動を展開し、これがハースト系新聞によって宣伝された『日本=野蛮国論』の一部となり、アメリカが東アジアに政治介入する政策の根拠となった。
また、李承晩は朝鮮が日本統治下にあった時期の殆どを海外で過ごしていたため、日本や日本人というものをステレオタイプとして抽象的にしか理解できず、反日政策をいたずらに煽ることにつながったとも指摘されている。加えて権威主義政権として基盤の脆弱であったことや、保導連盟事件、済州島四・三事件、国民防衛軍事件の様な失政から国民の目をそらすべく、今日でも李承晩の民族主義的政策による影響は根強く残っており、日本と韓国間に横たわる問題の多くが、李承晩時代に端を発している。
保導連盟事件 (Wikipedia)
保導連盟事件とは、朝鮮戦争の最中である1950年6月25日、韓国国軍、韓国警察、李承晩大統領支持者らが共産主義からの転向者やその家族を再教育するためとして設立されていた統制組織である「国民保導連盟」の加盟者や収監中の政治犯や民間人などを大量虐殺した事件。韓国では保導協会員虐殺事件とも呼ばれる。
・被害者は公式に確認されているもので4934人。
・「朝鮮戦争前後民間人虐殺真相糾明と名誉回復のための汎国民委員会」:虐殺された人数 60万人~120万人
・1960年4月、全国血虐殺者遺族会が遺族の申告をもとに作成した報告書:虐殺された人数 114万人。
・韓国政府の「真実・和解のための過去史整理委員会(ko)」:子供を含む少なくとも10万人以上の人々を殺害、遺棄。
国民保導連盟による共産主義者への弾圧
李承晩率いる大韓民国政府は、ストライキや武装闘争を挑む南朝鮮労働党(南労党)を中心とする共産勢力に対して弾圧を行い、1948年12月1日、国家保安法を制定。1949年6月5日、要監視対象者の教化と統制をおこなう思想保護観察団体「国民保導連盟」を組織し、翌年にかけて末端組織を全国に拡大した。
この組織には、転向した党員が登録されたほか、抵抗を続ける党員の家族や単なる同調者に対しても登録すれば共産主義者として処罰しないとして加盟が勧められた。保導連盟に登録すると食料配給がスムーズに行われたため、食料目当てに登録した人々も多かったといわれ、警察や体制に協力する民間団体が左翼取り締まりの成績を上げるために無関係な人物を登録することもあったともいう。
朝鮮戦争から処刑へ
1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発。朝鮮人民軍が南進しソウルに迫った。6月27日、李承晩大統領は保導連盟員や南朝鮮労働党関係者を処刑するよう命令を発し、同日中にソウルを脱出した。韓国軍、警察は釜山にまで後退する一方、保導連盟に登録していた人民を危険分子と見なして大田刑務所などで大虐殺を行った。
済州島四・三事件 (Wikipedia)
済州島四・三事件は、1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮の済州島で起こった島民の蜂起に伴い、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島の李承晩支持者などが1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す。
南朝鮮当局側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察による大粛清をおこない、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された。また、済州島の村々の70%が焼き尽くされた
国民防衛軍事件 (Wikipedia)
国民防衛軍事件は、朝鮮戦争中の1951年1月に、韓国の国民防衛軍司令部の幹部らが、国民防衛軍に供給された軍事物資や兵糧米などを横領した事件。横領により9万名余りの韓国軍兵士が餓死したとされる。
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このブログ記事は、このサイト『驕りし選民 繰り返される摂理の失敗』の一部を掲載したものです。
『驕りし選民 繰り返される摂理の失敗』は、今まで罪深いサタン国家と教育され、献金の無間地獄へと追いやられていた日本人を解放するためのサイトです。
実際は罪深いどころか、日本無くして1920年に真のお父様を韓半島へとお迎えすることはできませんでした。
日本が朝鮮半島に進出することにより、朝鮮にキリスト教が復興し、ロシアの侵略による共産化を防ぐことができました。
このサイトではこのような歴史的真実を明らかにすることにより、神と真のお父様の真の願いを追い求めたいと思います。
同時にこのサイトでは、本当に罪深く、自ら滅びの道を歩んでいるのは誰なのかを明らかにしていきます。 ここで明らかにされることにより、自ら悔い改め、滅びの運命から逃れることを期待するものです。
今回の記事は、 日本の韓国統治40年 の一部です。
ご興味を持っていただけましたら、本文をお読みいただければ幸いです。
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